チェジュ島ハンラ山のんびりした山旅であった
。。。date2/27-3/3
member :kisya seisuke kawasakikam
2/27
前夜、尼ガ崎に泊まり、関西空港0900発の大韓航空機利用。往復4万円。瀬戸内
海、長崎あたりをぬけて2時間ほどでチェジュ島に入った。機窓からみるハンラ
(漢拏)山は雲の中に隠れているようだった。アスピーテの火山で山体は大きい。利尻島を数倍大きくしたようなものだろうか。税関でそれは釣りざおかと、布袋にくるんだスキーは聞かれるのだが、それはこれから何度も尋ねられる質問でもあった。この島は釣りでこそ知られているが、スキーを持ち込む人はまずいない。ハンラ山の雪景色の写真をみて、スキーもできるのでは、とわれわれ3人は愛用のスキーも持ち込んだのだ。いきあたりばったりで、済州市のビーチホテルにチェックイン。オンドルのある韓式ルームが3人で一日36000ウオン、3600円。
地図を探しに街にでる。陽気は東京よりは暖かく、街はのんびりとしている。ホテルの並びは海鮮食堂がなん十軒とならび店先のプールにはあわびやアマダイ、いか、えびが泳いでいる。韓国のハワイも今はオフ、静かなものだ。ひらめの刺身やチゲで舌鼓をうつ3人であった。2/28
夜半からの雨が小雨にかわっている。ホテル下のドトールコーヒーで作戦会議。3人の意気はあがらない。雨があがってきたようなので街を散策。ハンラ山は姿をあらわさない。古い朝鮮の田舎がところどころに残ているようだ。なつかしい風景にであう。茅葺の古い民家は中世の日本の田舎とそんなにも変わらないだろう。沖縄にも似ているかもしれない。チェジュの美風に三無というのがあって、それは泥棒無し、乞食無し、門無し、というのだそうだ。ここの名物は、溶岩を彫刻した石爺いと海の幸。市場の活気はここも例外ではない。うまそうな野菜や魚、キムチが山と積まれている。KALホテルで堂々と等高線入りの地図をただで入手、博物館で全般知識を仕入れ、
そこにあった観光課の分室で登山情報を入手。最後の情報はうれしいものではなかった。ハンラ山には周囲の裾野から4本の登山ルートがあるが、そのうちの2本は200
2年の2月末まで頂上部分への立ち入り禁止となっていて1700メートルまで。こ
れは分かっていたのだが。さらに残りの2本のルートは、なんと、明日から2003
年の2月末まで立ち入り禁止となるというのだ。自然保護が理由だが、1950メー
トルの頂上岩頭部にはどこからもたどり着けないということらしい。1日違いでわ
れわれは頂上には立てないということらしいのだ。まいったなあ。ま、しょうがないか。聞かなかったことにしてもいいし、ま、成り行きということにしましょう、と慰めあうわれわれだった。3/1
雲の多い空模様。タクシーで南西口の霊室(ヨンシル)へ。20キロが1500円
くらいで物価安。上り口でトックを食べ、のり巻きを買って0900発。整備された登山道がつけられている。
森の中はアイゼンがほしいような雪氷の道。谷から尾根にあがる。柱状摂理の岩場がみえる。アイスフォールも。それにしても、家族連れやカップル、兵隊さんなど、やけにハイカーが多い。平日だというのに。スキーをザックにつけたわれわれは、この状況のなかでは浮き上がった存在のようだ。日がさしてきてポカポカ陽気,雪はどこにも見えないが、振り返れば春霞に煙る大海原がひろがっている。1時間半で上部平原にでる。背の低いトドマツの林をぬけると、なだらかな平原と
そのむこうに山高帽子のような頂上岩頭部が現れる。1950メートルのハンラ山頂
上だ。しばらく進むと大きな雪田が広がっている。ここで滑らなければどこで、、とスキーをパックから外し何本か滑る。滑りにくい雪ではない。ハイカーが珍しそうにみている。実際珍しい光景なのである。ウイオセルムの避難小屋には数十人のハイカーが休んでいた。頂上への道にはロープが張られていて進入できない。レインジャーもいるようだ。オリモク(御理牧)ルートを下る。霊室とこのルートが2002年まで制限されてい
るわけで日本で仕入れた情報のとおり。下りでも一部スキーを使うがすぐにザックに戻される。凍った道を1時間ほど汗を流しながら下る。こちらからも小学生
や中学生などが行列状態で登ってくる。登山口に0130着。スキーが珍し子供た
ちがよってきてはスキーに手を触れる。一休みしてからタクシーでホテルにもどる。カレンダーをみたら三一節と書かれていた。今日は祭日だった。3月1日はこの国の人にとって、80数年前、植民地解放運動がはじまった歴史的な日なのであっ
た。知らぬは日本人ばかり。この日、街角には国旗が並び、みんなが山にでも登ろうかとハンラ山に押しかけたということのようなのだ。3/2
快晴。別ルートからも頂上にいくことはできないのか、この目で確かめようと、観音寺ルートをめざす。昨日の経験から学習して、本日はとても軽装である。昨夜スキーを再び持ち上げるかどうかが、海鮮チゲをつつきながらの話題になったが、北斜面の観音寺ルートならけっこうイケルのではという観測が支配して小パックにスキーをつけることになった。タクシーで登山口にのりつけ、レインジャーに尋ねる。筆談も交えての談判だった。このあいだタクシーは待機。不便な登山口ゆえ、登れないとなるとバス停まで何キロも歩いてもどらなければならない。かんたんにタクシーを解放するわけにはいかないのだ。レンジャーのいうには、一昨日まではここから頂上に登れた由、昨日から再来年までは1400メートルまでしか登れませんという答えだった。すごすごと引き返す
3人。ビーコンもいらなかったし、アイゼンとピッケルも必要なかったね、と笑う3人でもあった。街に戻ると潮の香りのするあたたかい南風が吹いているようだった。
来てみれば韓国最高峰は小学生でも登れるような遠足山だったわけだが、現場でこそ事実が分かるという実例のような経験だった。事前の情報収集もいいかげんだからこうなるのだが、それはそれで少しも構わないのである。旅はそのようなものなのだから。われわれは厳冬期登山完全装備を身に付けて穂高にでも登る心意気でこの山にチャレンジしたのであった。いきあたりばったりも山旅の興趣のひとつかもしれない。朝鮮半島とはひとあじ異なるこのタンラ国のノンビリ旅は意外と記憶の残るものであるかもしれない。おまけに付け加えれば、くろちゃんの親戚は戦前この山に冬登山して遭難死している。冬のハンラ山を見てみたいという密かな願いが彼にはあったのかもしれない。たしかに、遠足山ではあるが、冬季にひとたび吹雪けば、だだ広い頂上平原は絶悪の様相を見せるのは間違いない。そのためでもあるのか登山道は完全にロープで柵が作られているのだった。今回は雪解けが早く春めき始めたハンラ山だったけれど、1月2月にはやはり完全装備は必要なのだ。
パンフレットには見事な樹氷と膝までの雪をかきわけて進む登山者の写真が乗っていた。その頃だろう。地元の人は雪が降ったと聞くと雪見を楽しみに山麓まで足を伸ばすのだという。3/3
4泊もしたオンドル部屋を朝いちで辞去。男3人、布団のうえで川の字になってマッカリを飲みながら、あーでもない、こーでもない、と過ごした生活もおわり。ソウル経由、関西空港、さらに伊丹から羽田、10時間の長旅。
「いやはや…、山登りっていうのは旅だね」川崎カメは空港から出たとたんハイライトをおもいっきり吸い込でから言うのだった。
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