カテゴリ:2009の記録
1月24日
朝いちで篭坂峠の杉崎ガラス訪問。奥様からコーヒーをいただく。新着のアウディクアトロがすごい。杉崎さん(57歳)は人生最後のなんですよ、と謙遜。古い話を聞いて古いアルバムも見せていただく。古い峠の茶屋の写真が懐かしい感じ。進駐軍が大勢山中湖村にやってきたころの写真も面白かった。杉崎さんのお父さんはキャンプの大型トラックの運転をやっていたという。杉崎家裏の峠のスキー場は県営だったとのこと。今のスバルラインの2合目あたりにも県営の同様のスキー場があったという。峠のスキー場にはリフトがかかることはなかったが、昭和の40年ころ?までやっていたという。静岡側からの客が多かったとか。保育園の園児が自作のそりを持って団体で雪遊びによく来たという。峠のスキーハウス(貸しスキー貸しそりの事務所)は富士急のものではなく、地元のボートやスケート、スキー貸し業の人がやっていたものという。林の中にある建物はそのままになっていて、中をのぞくと古いスキーなどがそのまま残されているようだった。このとなりにはドライブインもあったという。このころ峠の茶屋杉崎家はうどんなどをスキー客に食べさせていたという。
富士急のリフトのあるスキー場は、数百mほど離れたところにあったという。人工雪を作る設備もあって当時は斬新だったらしい。営業は数年ほどで、富士急が富士南山麓の十里木方面に日本ランドスキー場を開業するころに閉鎖されたらしい。日本ランドのスキー場はこないだまであったような気がするが、いまイエティスキー場と名前をかえている。
富士急のリフトのあったスキー場の位置をおよそ聞いて行ってみる。峠から5分ほど行くとスキー場トップのリフト支柱の土台があった。近くには人工雪を作るための貯水槽?のようなものと配管やバルブなどが残っていた。
ゲレンデは緩いもので、今は込んだ林となっていてスキーなどできるわけもない。スキー場はとっくに自然に返っていた。
伊藤フミヒロ
変形四角のあたりがリフトのない峠スキー場。今もあまり変ることなく滑降できる。001が富士急のスキー場トップのリフト跡土台
峠の茶屋、今杉崎ガラス。建物は2代前という。今は豪邸とサッシ工場。右奥に富士山がのぞく
峠スキー場での写真。杉崎さんは5人姉妹弟の末っ子で長男、上の二人は双子姉妹、もひとりは蔵王坊平の野口ペンションの奥様。往年の名クライマー野口久義さんはペンション界の草分けでもある。おんぶされているのがいまの杉崎主人。55年ほど前の写真。背後の山は高いのが忍野の杓子山。手前右の山並みが大出山、大平山の連なり。オープンスペースがあって雪が多かったのだろう。これなら山スキーが十分楽しめたはずだ。
そうそう、杉崎さんはゲレンデの横で育ったからスキーが得意だったそうで、いつだったか山梨県のスキーの国体選手に選ばれたという。競技スキーでの成績も残っているらしい。
※後日、このページを見て野口ペンション奥様は「私だけ写っていないけどどこにいたんでしょう」とメールをいただいた。
進駐軍のころ。今の忍野の自衛隊のあたり。終戦後、軍事基地のメッカ富士山麓は進駐軍であふれかえったという。今も滝が原には米軍富士キャンプが活躍中
今も残るスキーハウス
リフトのあった富士急篭坂スキー場あと。上の地図がないと発見は困難。地図上の細道どおりに下部から上がる林道があるようだ。赤線はGピーエスのトラック