HISTORY & STORY

9.23.2013

毛無山(天子山塊大方山)

毛無山(天子山塊大方山)
2013年9月22日 日曜日

天候  晴れ
member Taro itokisya
地蔵峠
五合目

天子山塊南方面

毛無山、大方山と呼びたいと冠さん

 中島牧場2階テラスで朝日を浴びて朝食。
 前から行ってみたかった毛無山へと思いつく。天子連山の最高峰のはず。パラグライダーでは何度か訪れているが登るのは初めて。道路地図で見ると標高差は1100mほどありそうだ。
 Kマートでジュースとパンを購入して麓へ。村の名前が麓というのも面白い。初めての道。登山者用の富士宮市営?駐車場があってもう数台がとまっている。正面に大きな山塊があるがどこが山頂か道はどこについているのかよくわからない。登山者もそこそこいるので人気のある山なのだろう。
 8時ころスタート。太郎は久しぶりの山歩きで喜んでいる。
 それにしても駐車場から登山口まで舗装道路を2km以上歩かせるというのはどういうことなんだろう。
 麓の村の先に登山口があってそこに1日500円のパーキングがあった。キャンプ場とおなじ経営。とはいえ舗装道路を歩いたおかげで麓っパラのキャンプ場の大賑わいがわかったし、もとは金山奉行だったという竹川家も見ることができた。道端の航空兵竹川大尉の巨大な墓は珍しい。

 このあいだ読んだ冠松次郎の「富士山の旅」によればこのあたり一帯はもともと竹川一族の采配下だったという。冠のおじさんは昭和15年に毛無山こと大方山に須山の渡辺徳逸と登っていて、一夜の宿を竹川家に乞うている。そのときに大尉の墓もあったと書かれている。いまはどうなんだろう。広大なキャンプ場や農大の実習地のあたりは。
 登山口の先に神社と金鉱石を破砕した鉄製の機械の残骸があった。精錬所の跡らしい。麓金山は江戸時代まで採掘していた、と先ほど道脇の解説版にあった。戦後まで細い流れはあったとも。どこに金山があったのか、そのあたりを知りたいものだ。

 登山道は明瞭でこないだ通過した台風の狼藉のあとが見られるもののしっかりしている。駐車場で挨拶した数人の登山者と前後して登る。すぐに地蔵峠への分岐があって地図看板が建てられていた。直登ルートを行き山頂からは地蔵峠経由で下山する周遊路がよいと分かる。
 ひと汗かいてけっこうな登りだったな、というところに1合目の表示がでてくる。あと9合もあるのかとがっかりするところではある。とにかく急である。ところどころに岩場があってロープが垂れている。森の中を登る山道にあまり変化はなく、急で単調なジグザグの登りが延々と続く。太郎も疲れが見えるほど。
地蔵峠からの下山路が金山沢、1596mが金山、別名ヒカゲ山。
ちなみに1605mの通称養毛は雪見山、1574の通称西富士は熊森山。
地蔵峠よりももう少し南の猪の頭湯の奥林道の通る峠が猪の頭峠、別名下部峠または湯の奥峠で
かつては通行量も多く需要な峠だったという(末尾参照)

比丘尼の滝、下山路にあり

 途中に二段の大滝で有名は不動滝を望む展望台があり、8合目のあたりで富士山や天子岳方面を見渡す展望台があるのが救い。登るに連れて樹木の背丈が低くなりアセビやツツジの咲く明るい山肌に変わってくる。9合目を過ぎてすぐに主稜線に出ることができた。
 しっかりした道があって、右が毛無山山頂。左が地蔵峠から雪見岳、西富士、天子岳へと続く縦走路。稜線の向こう側は山梨県。登ってきた道は静岡県に属する。

 のんびり稜線歩きして山頂。11時半。標高1945mで一等三角点がある。15人くらいの登山者がいてにぎやか。稜線は展望がないが、この山頂には唯一切り開きがあって富士山を望むことができる。昼とあって富士山頂は雲に包まれている。頭の上にも厚い雲があってこの山頂もまた日照はない。毛無山はこのあたりでいちばん高いピークなので雲に包まれることが多い。パラグライダーが飛んできてもよさそうだとカメラを構えているがちっともやってこない。

 12時前に下山。来た道を戻るようにして分岐からは地蔵峠へと下る。大回りする分だけ勾配も緩いはずだがところどころ歩きにくい急坂が待っている。地蔵峠に下りつくが、看板をよく見るとここは第二地蔵峠だという。少し先のコブを越えてさらに下ったところが地蔵峠だった。ヒトひとりが通れるほどのこじんまりした峠。クッションくらいの大きさの石に2体の地蔵様が彫られていた。それとも道祖神か。 時間がたっていて細部はよくわからないが笑顔のように思える。甲斐の下部と麓をつなぐ山道。下部側にも同じ鉱脈の金山があったというからそのころは用事のある道だったのだろう。往時は千軒もの家が麓集落にあったという。
 地蔵峠から急勾配を下り金山沢沿いの道に入る。いくつか小沢を横断しながら下り道がつけられている。沢底を渡渉すること数回。急崖が多く金山沢には見事な滝がいくつか懸けられている。朝の登り道に比べると危険な道に見える。渡渉地点もわかりにくい。下りはとくに道迷いしそうだ。大雨のときなどは入り込まないのが賢明だろう。太郎はときどき好きなだけ水を飲んで幸せそうだ。
 勾配が緩んできたあたりで金山遺跡の表示。金鉱石を焼いた窯だという。3つほど炭焼き窯ほどの遺跡が見られる。近くに祠の跡のようなものも。このあたりに金鉱山はあったのか。
 右手に深い渓谷を見ながらのんびり下ると砂防ダムが現れ朝方別れた分岐に出ることができた。
 登山口のすぐ下が竹川家、茅葺きの門を持つ旧家をもういちど眺めてから2km余の舗装路を車までクールダウンの気分で歩く。3時終了。

 天母の湯経由帰路に。十里木峠で渋滞、越前岳駐車場で仮泊、さらに東名大渋滞で大井パーキングで2度目の仮泊。未明に帰京。
先祖は金山奉行、竹川家


パーキングから毛無山
参考 
「峠のむこうへ」より

峠道は林道の開通以前、身延線の開通直後から廃れていったのかもしれません。
『山への思慕』(田部重治著・第一書房・昭和10年)の「富士裾野の井ノ頭」という湯ノ奥峠を訪れた
古い紀行文の一節には次のように記されています。

  「恐らくは汽車や電車のなかった時分には、富士川の畔から東海道地方へ出るにも、
  富士登山をやるにも、又、東海道地方から身延参詣をするにも、ここから峠を越え湯ノ奥を通り、
  下部温泉に通ずるものが、最も近い便利な道であったろうと思われる。
  しかし富士身延鉄道が出来てから、この道は殆んど用のないものになって仕舞った。
  嘗ては人通りのはげしかった、そして幾百年の間、交通の衝となっていた峠も、
  新しく出来た汽車路によりその運命が左右され、それを頼りにしていた人里もそれにより多大の
  影響を受けなければならないのが、最近の交通の一般的情勢である。」

古くは下部温泉への湯治道として、また身延参詣路や富士講の巡礼道として利用されてきた峠は、
鉄道開通によって越える人が激減し、さらに林道が開通するに至っては笹による埋没を許し、
寂静たる状態になっていったのでしょう。

峠に立つ標識には「猪之頭峠」と書かれていますが、猪之頭峠は「下部峠」とも呼ばれているようです。
また、『あしなか第13号』の中では、「大ヒナタから降りきった鞍部は峠となって、
猪ノ頭で謂う湯ノ奥峠であり、湯ノ奥では猪ノ頭峠と呼んでいる」と書かれています。