HISTORY & STORY

1.18.2014

梅の木尾根

丹沢大山梅の木尾根
2014年1月18日 土曜日
天気 くもりはれ

member 太郎 kei 伊藤フミヒロ記
778mピーク。支尾根の踏み跡が立派なので間違えやすい


大沢分岐、要注意

梅の木尾根から見る大山と登りの支尾根ルート



 天気予報はよくないが運動のつもり。
 日向薬師に近づくと雪が舞っている。日向キャンプ場から9時前スタート、梅の木尾根778mピークを目ざす。徐々に青空がでてきて大山が現れ、相模湾が光る。江ノ島も見える。778mに立って、前回下降時に支尾根を外し沢に下った理由がわかった。梅の木尾根の分岐を見落としたため支尾根の支尾根に入り込んだようだ。
 大沢分岐も間違えやすそうだ。690mのピークも支尾根に入りやすい。
 古刹、浄発願寺岩窟と奥の院に寄る。大層な古蹟で驚く。昭和の始めに山津波で壊滅したという。一ノ沢の沢中に土木と大工の英知を尽くして作られた大伽藍だが僧侶とともに?流されたそう。今でいう土石流ではないか。基礎や、石塔、階段が発掘されて往時の面影がわかる。
 1時下山。リトルインディアでランチして帰京。
690m分岐


旧浄発願寺山門跡



参考
浄発願寺奥ノ院
浄発願寺奥ノ院の写真
よみ
じょうほつがんじおくのいん
指定
市指定文化財
種別
史跡
指定日
昭和44年2月27日
案内図
解説
現在日向1816番地にある浄発願寺(じょうほつがんじ)の旧跡です。昭和13年、山津波に襲われ、本堂は倒壊し、庫裡(くり)には土砂が流入し多くの文化財を失いました。その後寺はこの地に再建されず、現在地に移転しました。この旧跡を現在の寺に対して「奥ノ院」と呼んでいます。
木食僧の寺として有名な浄発願寺は、尾張(おわり・愛知県)出身の弾誓(たんせい、慶長18年・1613入寂)を第1世としますが、秋田の大名佐竹氏出身の4世の空誉(くうよ)により、天和(てんな)3年(1683)に建立されました。
弾誓は徳川家康から165,000坪(約544,500平方メートル)もの境内地を与えられ、その境界には一定間隔で塚が築かれていたといいます。
日向薬師行きバスの終点から日向川の谷をさかのぼること1.8キロメートル、奥ノ院の入口に着きます。日向川に架かる橋を渡ると閻魔堂(まがいどう)跡になりますが、橋の手前右側に第12世天阿(てんあ)が念仏修行した「念仏岩」があります。「延享元(1744)甲天七月 此石居□亮台上人代」と彫られています。
閻魔堂跡には尾張徳川家三代綱誠(つななり)の正室・瑩珠院(けいしゅいん)の遺髪を納めた大きな宝篋印塔(ほうきょういんとう)があります。また、卵を立てたような住職たちの墓である無縫塔(むほうとう)が並んでいますが、第22世(中興18世)速阿(そくあ)の墓の台座には三猿が彫られ庚申塔でもあるようです。
閻魔堂から200メートルほどで本堂下に着きます。途中にはいくつかの供養塔などがありますが、まだまだ右手の沢に埋まっているようです。以前は厚木市荻野出身の浮世絵師歌川国経(うたがわくにつね)の供養塔がありましたが、現在は寺に移されています。
 本堂へ登る石段は53段あり、空誉が幕府から罪人53人をもらい受けて一人に一段ずつ築かせたものといいます。これ以降、放火と殺人を犯したもの以外は、ここに駆け込めば助けられたといいます。
本堂跡は東西の沢の合流部の平坦地にあります。明治15年頃の見取り図では、向かって左から本堂・茶の間・居間・庫裡と建物が連なっていました。東西の沢には岩盤を切り開き、沢水を流す工夫がされています。
西側の沢を越え100メートルあまり登ると、弾誓が修行したという岩屋があります。岩屋の左右には数多くの無縫塔が立ち並び、岩屋内部には瑩珠院や佐竹氏・藤堂氏といった大名の女性の墓石や仏像・仏塔があります。箱根・塔之沢にある阿弥陀寺にも弾誓修行の岩屋があり、また弾誓は京都・古知谷の阿弥陀寺にある岩屋に眠っています。