HISTORY & STORY

3.19.2023

高宕山と福岡伸一記事

たかごやま、けっこう面白いですが崖多いです

date 2023年3月17−18日 金土 

member kei itokisya

三辻の展望台から。あれが高宕山かなあ

4時間のハイキング

ひとまわり220kmほどのドライブ


2023年3月17日 金曜日

暗いうちに家を出て、アクアライン経由君津IC、カーナビの言うとおりに県道から山道、石射太郎山登山口。標高100mくらい。

ここは君津市の外れで高宕山の登山口とおなじです。房総アルプスの山並みからは北にはなれたエリアです。3台ほどクルマが止まっています。


8時半にスタート。

南国風の広葉樹や照葉樹の森、急坂を登ります。石切場のあとがあります。30分ほどで開けた稜線にでて石射太郎山はすぐそこでした。山頂は標高258m、断崖の上にあり数人しか立てません。眺望はよいのですが危ないところです。向こうに行く道はないので引き返します。


明るい尾根道を気分よく進みます。左右が切り立っているところもあります。くもりの予報でしたが日がさしています。ここの難はジェット機の音がうるさいこと。羽田便だと思います。



気持ちのよい尾根歩き

ヤマサクラ

観音堂

登山道が素掘りトンネルをくぐります

少しくだったところが三辻の広場になっています。向こうに見えるのは高宕山かな。ここから1時間ほど登り下りはほとんどありません。山サクラやツバキがところどころ、足元はスミレなど、早春のようす。


大滝ルートの分岐の先に長い石階段が現れました。この先は神域だとおもいます。石の仁王像や宝塔、イノシシ?の狛犬などが現れすぐ高宕観音堂にでました。岩壁にへばりついたお堂で岩窟の回廊やトンネルがあります。ここの庭先も崖。

ハシゴや鎖のある急坂を登り、大岩のすきまをぬけると高宕山山頂、標高330m。10時45分。

眼下には房総の山並がジャングルのようです。どこがどこだか、向こうに海が見えるはずですがかすんでいて。町が見えないのが不思議でめずらしい。山頂は狭くて数人がせいいっぱい、断崖の上でかなり危ないところです。伊予ヶ岳ににているかも。



あれが高宕山らしい



1月に高宕山ハイキングのつもりでしたが、行方不明の人がでて
捜索中とかで敬遠しました。ハイキングとはいえ奥深いところです


来た道をもどりました。林道経由の大滝ルートを利用して周回できるのですが、道が荒れているとかで避けました。

12時半にクルマに戻りました。山中では数人のハイカーと会いました。空いているほうでしょう。


変化のある山道で歴史を感じさせる古道、すばらしい眺望。房総の山ではさんぼん指に入る名山ではないでしょうか。


まだ早いので、鹿野山とマザー牧場を見にいきました。展望公園では、九十九谷の向こうに高宕山が見えると案内ありましたがどれがどれだかわかりません。

勝浦御宿方面に移動、今回は趣向をかえてキャメルリゾートでグランピングを体験しました。

大きなテントはパオそのもの、お客様なのでお気楽なキャンプでした。夜中に雨になりました。

グランピングってこんなか
鹿野山と高宕山の間は九十九の谷、朝夕雲湧く景色は魁夷の画にもあるそう、
大町けいげつの讃も。
野猿の生息地。昔は修験道の人もいたらしい

翌土曜日は1日中雨。大多喜街道経由、うまくた道駅からアクラライン。おみやげクーポンで野菜など大量仕入れしました。ありがとう千葉県。



上のレポートとは関係なく、以下覚えとして。

福岡伸一氏の本をいくつか読んだ、面白かった

雑談 ネットから拝借

https://www.foresight.ext.hitachi.co.jp/_tags/%E6%9C%AC%E8%B3%AA%E3%81%AF%E3%80%8C%E3%81%82%E3%81%84%E3%81%A0%E3%80%8D%E3%81%AB%E3%81%82%E3%82%8B_%E3%80%9C%E5%8B%95%E7%9A%84%E5%B9%B3%E8%A1%A1%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E7%94%9F%E5%91%BD%E3%81%AE%E3%81%82%E3%82%8A%E6%96%B9%E3%81%AB%E5%AD%A6%E3%81%B6%E3%80%9C?r=1

本質は「あいだ」にある 〜動的平衡という生命のあり方に学ぶ〜

【第1回】sense of wonderを取り戻す

2021-03-17

本質は「あいだ」にある 〜動的平衡という生命のあり方に学ぶ〜経営有識者リベラルアーツ

生物と無生物のあいだに漂う不思議な微粒子、ウイルス。この1年と数か月、世界はその小さなウイルスに翻弄され続けてきた。新型ウイルスのパンデミックという現象をどのようにとらえ、向き合っていくべきか、さまざまな言説が飛び交う中で、生物学者の福岡伸一氏は「正しく畏れる」ことが大切であると説く。

分解と合成を常に繰り返し、分子レベルで絶え間なく入れ替わりながら秩序を保つ「動的平衡」という生命のあり方を提示した福岡氏。滞在中のニューヨークと結んだオンライン対談では、動的平衡、西田幾多郎の絶対矛盾的自己同一、ピュシス対ロゴス、そしてフェルメールをキーワードに、生命の本質、物事の本質とは何かに迫る。

「第1回:sense of wonderを取り戻す」

「第2回:生命現象は要素と要素の相互作用である」はこちら>

「第3回:『動的平衡』と『絶対矛盾的自己同一』」はこちら>

「第4回:ピュシスとロゴスという矛盾を含む人間」はこちら>

「第5回:『芸術と科学のあいだ』には何があるか」はこちら>


生物と無生物のあいだにあるウイルス

山口

福岡先生、ご無沙汰しております。前回お目にかかったのは2年半ほど前だったでしょうか。あの頃には想像もできなかった状況に世界は陥っています。新型コロナウイルスに関しては、これまで多方面からコメントを求められていらっしゃるとは思いますが、あらためて生物学者としての見解を伺えますか。


福岡

人類史のような長いレンジで見ると、これまで人類は常に感染症というものに脅かされながら存続してきました。人間と病原体は、せめぎ合いつつもある種の動的平衡状態を保ってきたと言えます。


ただ、今回のように急速かつ広範囲に感染が広がった原因は、ウイルスよりも人間の側にあります。ウイルスは生物と無生物のあいだに位置する不思議な微粒子で、自分では動くことができません。それを運んでいるのは人間を含めた生物であり、パンデミックはグローバリゼーションの一つの帰結なのだということを再認識する必要があります。新型ウイルスと言っても何もないところから突然生まれたわけではなく、もともとは自然宿主とうまく共存していたものです。自然開発や国境を越えた人とモノの往来といった人間の行動によって、そのウイルスと人間の距離が近づき、「新型」として発見され拡散したのです。


今回の問題は、自然の一部としてのウイルスに、われわれがどう対応すべきなのかということを、あらためて問いかけているのだと思います。それは一言で言えば、「正しく畏れる」ということ。「恐れ」や「怖れ」ではなく「畏れ」をもって、つまり自然に対する畏敬の念をもってウイルスに接するべきではないかと、私は思っています。


「畏れる」は、英語で言うところの「sense of wonder」に近い感覚だと思います。山口さんはアメリカの海洋生物学者レイチェル・カーソンの遺作、『Sense of Wonder』をご存知かと思いますが、翻訳者の上遠恵子さんは、文中にも登場するこの言葉に「美しいもの、未知なもの、神秘的なものに目を見はる感性」という名訳をあてられました。レイチェル・カーソンは、すべての子どもが生まれながらに持つ自然に対する好奇心と、美しいものや未知のもの、神秘的なものに目を見張る感性のことをsense of wonderと呼んだのですね。その根底にあるのは自然や生命に対する畏敬の心です。そうした感性を大人になるにつれて失っていく人が多い中で、できることならば忘れずに持ち続けてほしいというメッセージがこの本には込められています。


私は現代社会に生きるすべての人がこの言葉を思い出し、自然への畏敬の念を取り戻さなければならないと思います。本来、自然はアンコントローラブルです。最も身近な自然である自分自身の体さえ、人間は自分でコントロールできないことのほうが多いものです。近現代の社会では、あらゆるものが機械論的な考え方や手法によってコントロールできると考えられるようになり、特に現代はAI(Artificial Intelligence)とビッグデータであらゆる問題を解決できるという幻想にとらわれています。しかし、生命体としての人間を含めた自然、ウイルスも細菌も、地殻や大気の動きも含めた自然というものは、データサイエンスだけで予測や制御できるものではありませんよね。そうした大きな自然観を持って今回のウイルスの問題も考えなければなりません。


画像: 生物と無生物のあいだにあるウイルス

新型ウイルスとの共生には人文知も必要

山口

レイチェル・カーソンが著書『沈黙の春(Silent Spring)』でDDTの問題を取り上げていますね。DDTは元来、マラリアの撲滅をめざして病原となる原虫を媒介する蚊を駆除するために散布された、まさに感染症対策に用いられたわけですね。そして、確かに劇的な効果を挙げたわけですが、DDTの散布地域では生態系が破壊された結果、ネズミが大量に発生してペストが蔓延する事態を引き起こしてしまった。生態系や生体システムの複雑さに、人間の認知能力の限界と心性としての傲慢さが組み合わされたときに、「想定外」の結果につながることが示されたのだと言えます。


今の新型コロナウイルスへの対応も、ウイルスを違う世界から来た敵のように見なし、科学の力でこれを抑え込んで勝つのだというメンタリティでは本質的な解決にならないのですね。


福岡

おっしゃるように、ウイルスに打ち勝つ、撲滅する、アンダーコントロールに置くというようなことは、そもそも無理なのです。それは、このパンデミックの最大の共犯者が人間だからです。


人間が考える因果性や決定論というのは、DDTとマラリアの例のように局所的な関係性しか見ていない場合がほとんどです。そのため人間に害をなすものは敵で、その活動をブロックするような介入操作を行えば問題は解決すると考えがちです。でも実は、自然には無数のファクターがあり、それらの複雑な相互作用で成り立っています。しかも自然の選択は偶然に左右されることも多く、初期条件が同じなら同じ結果が得られるというものではありません。仮にこの新型ウイルスに対する特効薬が開発されたとしても、耐性獲得や次の新たなウイルスの出現という問題が生じるはずです。


ですから今回のようなパンデミックに対しては、われわれ自身が持つ免疫システムの力を信じ、ウイルスとの共存関係、平衡関係が生み出されるのを待つしかありません。それにはある程度の年月がかかると思いますし、人間の行動変容も求められます。感染症対策は科学や技術、医療の範疇と思われがちですが、そうしたことのためには「人文知」のアプローチも必要になってくるでしょう。(第2回へつづく)


「第2回:生命現象は要素と要素の相互作用である」はこちら>


画像1: 本質は「あいだ」にある 〜動的平衡という生命のあり方に学ぶ〜

【第1回】sense of wonderを取り戻す

福岡 伸一(ふくおか・しんいち)


1959年東京生まれ。京都大学卒。ハーバード大学医学部博士研究員、京都大学助教授などを経て、2004年青山学院大学理工学部化学・生命科学科教授、2011年総合文化政策学部教授。米国ロックフェラー大学客員研究者兼任。農学博士。

サントリー学芸賞を受賞し、85万部を超えるベストセラーとなった『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書)、『動的平衡』(木楽舎)など、“生命とは何か”を動的平衡論から問い直した著作を数多く発表。ほかに『世界は分けてもわからない』(講談社現代新書)、『できそこないの男たち』(光文社新書)、『生命の逆襲』(朝日新聞出版)、『せいめいのはなし』(新潮社)、『変わらないために変わり続ける』(文藝春秋)、『福岡ハカセの本棚』(メディアファクトリー)、『生命科学の静かなる革命』(インターナショナル新書)、『新版 動的平衡』(小学館新書)など。対談集に『動的平衡ダイアローグ』(木楽舎)、翻訳に『ドリトル先生航海記』(新潮社)などがある。


【第2回】生命現象は要素と要素の相互作用である

2021-03-19

本質は「あいだ」にある 〜動的平衡という生命のあり方に学ぶ〜経営有識者リベラルアーツ

複雑な生命現象を構成要素から解き明かそうとする分子生物学の道に入った福岡氏は、研究が進んだことで深まった謎をきっかけに、「動的平衡」という生命観にたどり着いた。生命の本質は要素そのものではなく、要素と要素の「あいだ」で起きる相互作用にあるという。

「第1回:sense of wonderを取り戻す」はこちら>

「第2回:生命現象は要素と要素の相互作用である」

「第3回:『動的平衡』と『絶対矛盾的自己同一』」はこちら>

「第4回:ピュシスとロゴスという矛盾を含む人間」はこちら>

「第5回:『芸術と科学のあいだ』には何があるか」はこちら>


部品がわかっても本質はわからない

山口

先生は昆虫少年から生物学者となられ、生物、特にノックアウトマウスの研究から機械的な生命観に疑問を感じて「動的平衡」という生命のあり方を示されたのですね。これは生命のあり方に留まらず、世界の成り立ちに対する洞察にもつながる大きな世界観だと思います。


福岡

私が生まれたのは昭和のど真ん中、ネットもゲームも何もない少年時代でしたし、あまり社交的な性格でもなかったので身近な自然に目が向いたのです。たまたま俯いて下ばかり見ていたからカミキリムシやチョウに目を奪われましたが、上を向いて歩いていたら星や空に関心を持ったかもしれません。


昆虫に魅せられたことの原点は、やはりsense of wonderでした。鮮やかな色や貴金属のような輝き、フォルムの美しさや精妙さに心を動かされました。とりわけ不思議で目を見張ったのは、チョウが幼虫からさなぎになり、いったんバラバラに溶けてから成虫に変身するというメタモルフォーシスです。「自然とは、生命とはいったい何なのか」と驚嘆と畏敬の念を抱かずにいられませんでした。


そして新種の虫を見つけることを夢みながらも、果たせないまま生物学者を志して大学に入りました。当時、細胞や遺伝子レベルで生命を統一的に捉えようとする分子生物学が世界的に注目されていた時代で、今度は新種の遺伝子を見つけることをめざしてその世界に進みました。研究では多くのことを学び、いくつかの新種の遺伝子を発見することもできましたが、ヒトゲノム計画によって2003年にヒトゲノムの全塩基配列の解析が完了してしまうと、それはその中のほんの1行にすぎないものでした。


ところが、すべての遺伝子が明らかになったからといって、生命の謎がすべて解明できたわけではありません。出演者がわかっても映画のストーリーはわからないように、部品がすべてリストアップされても、「生命の本質」は何もわからなかったのです。


そのことを示しているのがノックアウトマウスです。ノックアウトマウスとは人為的に特定の遺伝子を無効化したマウスで、遺伝子の働きや疾患の解明などの実験系に用いられます。例えば、糖尿病のメカニズム解明や治療法の開発には、糖代謝と関連する遺伝子を無効化することで糖尿病を発症したノックアウトマウスが利用されます。ただ、インスリンをつくる遺伝子を無効化すると糖尿病になるというふうに、遺伝子と機能が一対一の因果関係として見られるケースは多くありません。大半の遺伝子は大きなシステムの一員として働いているため、遺伝子を一つ取り除いたからといってすぐに重大な異常が起きるわけではない。一つが足りなければバックアップシステムや相補的な仕組みが働き、その中で新たな平衡が立ち上がるのです。


機械の場合は一つの部品が故障するだけで影響が全体に及ぶ場合がありますが、生命体は機械とは違うのですね。そのことをノックアウトマウスに教えられた私は、機械論的な生命観で生物を見ていたことを大いに反省させられました。そして、個々の部品に分解してその機能を追うというよりも、動的な仕組みとして統合的に生物を捉えたいと考えるようになり、シュレーディンガーの著作やシェーンハイマーの研究に着想を得て再発見したのが「動的平衡」という生命観です。


画像: 部品がわかっても本質はわからない

生命は分子の淀みにすぎない

福岡

ですから、そこには最初からすんなりたどり着いたわけではありません。ひたすら山を登ったことで初めて見える景色があるように、機械論的な生物学を行き着くところまで追求した結果、見えてきたものなのです。生命の本質は遺伝子や細胞といった要素にあるのではなく、要素と要素の関係性、それらの「あいだ」で起きる相互作用にこそある、そこに生命が宿っているのだと気づいたことが、自分自身のパラダイムの転換点でした。


そうした観点から見ると、物事の本質というものは、要素としてのモノ自体ではなく、モノとモノのあいだで織りなすコトにある。そのことはおっしゃるように生命現象だけではなく、人間社会、世界全体の成り立ちにも当てはまると思っています。


山口

宮沢賢治の詩集『春と修羅』は「わたくしといふ現象は」という一節から始まるのですが、その洞察力には感服します。農業との関わりや仏教信仰というバックグラウンドが影響しているのかもしれませんが、福岡先生のコンセプトと同じことを見抜いていたわけですから。


福岡

『春と修羅』は私も好きな作品で、「わたくしといふ現象は」の続きは「仮定された有機交流電燈のひとつの青い照明です」というものですね。つまり自分という生き物は「現象」であって、しかもそれは電灯のように明滅しながら、光だけが保たれ続けているのだという。まさにモノではなく現象=コトが本質だという世界観を示していると思います。


山口

宮沢賢治と同じく、福岡先生のご著書も読むたびに「これこそがリベラルアーツだ」と感じます。私が先生の表現で特に好きなのは、「生命とは流れゆく分子の淀みにすぎない」というものです。分解と合成を繰り返しながら、ダイナミックな分子の流れの中で、たまたま密度が高まっている現象、一時的にエントロピーが低い状態が現象として出現しているのが私であるということですよね。これはとても詩的なイメージを喚起される表現であり、世界認識を一変させる力を持っています。


今、「分断」ということがいろいろな意味で問題になっています。政治的な分断もそうですが、経済的格差、都市と地方、ウイルスを敵とみなして排除しようとする考え方もそうでしょう。その基底にはデカルトの二元論的な世界観があるのだと思いますが、実際の世界や生命は二元論や機械論では捉えられないものですね。分子の流れという視点からは、世界と私は不可分である、あなたと私は不可分である、あなたの一部は私の一部である。これはある意味でとても仏教的な考え方でもありますが、そうした世界観を持たなければ分断は解消されないのではないかと思います。(第3回へつづく)


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【第3回】「動的平衡」と「絶対矛盾的自己同一」

2021-03-22

本質は「あいだ」にある 〜動的平衡という生命のあり方に学ぶ〜経営有識者リベラルアーツ

哲学者、池田善昭氏との交流などをきっかけに、西田幾多郎の哲学に取り組んだ福岡氏は、西田哲学の核となる生命観「絶対矛盾的自己同一」と、動的平衡との共通点に気づくことで西田哲学がわかってきたと語る。それを受けて山口氏は、「解る」とはどういうことか、歴史学者、上原専禄の言葉を示す。

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「第3回:『動的平衡』と『絶対矛盾的自己同一』」

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西田哲学を読む

山口

先生の著作はどれも示唆に富んでいて愛読しておりますが、特に驚きだったのが哲学者の池田善昭先生との共著『福岡伸一、西田哲学を読む』です。西田哲学は学部時代に学んだものの、率直に言って難解でした。それが動的平衡という先生の世界観を突破口とすると、簡単ではないけれど、「絶対矛盾的自己同一」という西田哲学のコア概念を読み解く手がかりができるのですから。


福岡

私も一応、京都大学で学びましたから、京都学派の始祖である西田幾多郎の名前は存じ上げていましたが、学生時代に西田の著作をきちんと読んだことはありませんでした。それがたまたま数年前に、近代日本の思想史をたどるテレビ番組に参加して、西田の足跡を訪ね、文献を学ぶ機会を得られました。他方で、「統合学(※)」という新しい思考の枠組みをめざす学者の集まりで、京都大学の哲学科ご出身の池田善昭先生とお近づきになり、「福岡さんの動的平衡は西田幾多郎の絶対矛盾的自己同一と同じ世界観だ」というふうに言われたのです。私も驚いたのですが、それらのことをきっかけに、池田先生のご指導の下、西田哲学の広大な思想の森に踏み込んで世界観をおぼろげながらつかんだ記録をまとめたのがその本です。


西田の著作はまず言葉が難解なうえ、「何々は何々でなければならない」という命令口調にも最初は馴染めないのですが、何度も、何度も読んでいくうちに、少しずつですがわかってきます。例えば、西田哲学を読み解くうえでの主題になる「絶対」という言葉の使い方。哲学科を出られた山口さんには釈迦に説法だと思いますけれど。


山口

いや、僕は劣等生でしたから(笑)。


福岡

哲学も含めて、科学というものはすでに自分たちが感得していることを言葉で言い直す作業にすぎないと思います。その言葉の解像度を上げていくことで、この世界をよりきれいに整理して、読み解くことができるようになるのです。私が提唱した動的平衡も、シュレーディンガーやシェーンハイマー、宮沢賢治や西田幾多郎がすでに感得していたことの解像度を上げただけとも言えます。


例えば西田の「絶対」という言葉、これを普通に絶対と解釈するとそれ以上理解が進まなくなってしまいます。そこで、池田先生のお力を借りながら、その言葉の解像度を高めることをめざしました。


それによっておぼろげながらわかったのは、西田が「絶対矛盾」や「絶対無」と言うときの「絶対」とは、「相反する二つのこと、逆方向の力の作用が、同時に存在している」という意味なのです。つまり「絶対矛盾」とは、矛盾する二つのベクトルが同時に存在しているということです。「絶対無」とは存在と無が同時にある場所、二元論では割り切れない、有るようで無いという概念を意味します。西田は、そうした相反する二つのことの「あいだ」を思考したのです。そのように解像度を高めることで、西田哲学の全容に少しだけ迫ることができました。


西田が「生命とは絶対矛盾的自己同一である」と言っているのは、相反する作用を同時に含むものが生命であるということ。つまり合成と分解、あるいは酸化と還元という逆方向の反応を絶え間なく繰り返しながら平衡状態を保っているという動的平衡の生命観とつながったわけです。


※統合学:理系と文系、東洋と西洋、サイエンス(自然科学)とヒューマニティーズ(人文科学)など、分断されてしまった人類の知恵をもう一度統合しようとする試み。


画像: 西田哲学を読む

「解る」と「変わる」

山口

私の好きな歴史学者の1人、阿部謹也は、高名な歴史学者であった上原専禄に師事していました。当時、上原専禄はゼミ生が何か報告をすると、「それでいったい何が解ったことになるのですか」と問うていたそうです。何度もそう尋ねられているうちに阿部謹也は「そもそも解るということはどういうことなのか?」がよくわからなくなってきて上原専禄に尋ねたそうです。「先生、解るとはどういうことでしょうか?」と。


福岡

それはぜひ知りたいです。


山口

上原専禄は「解るということはそれによって自分が変わるということでしょう」と言ったそうです。阿部謹也は、それも大きな言葉だったと記しています。


福岡先生のケースで言えば、マウスのGP2遺伝子を無効化しても何も起こらなかったことをきっかけに、世界観を書き換えられた。それはおそらく福岡先生にとっては「解ることで変わる」ことだったと思います。西田哲学も、自分のフレームの中で理解しようとするとわからないわけですね。なぜなら自分が変わっていないから。だから、「解る」と「変わる」が同時に起こらないと、本当にわかったことにはならないということだと思います。


これは、ウイルスとの向き合い方にも分断という問題にも言えることですが、相手を理解しようとするだけでなく、それによって自分の認識や行動を変えなければ、本当の意味で解決はしないということです。そうした意味で、上原専禄の言葉は今日の社会においても重みを持っていると感じます。


福岡

それはとてもいいエピソードですね。阿部謹也先生がどこかに書いておられるのですか。


山口

『自分のなかに歴史をよむ』の第1章に書かれています。


福岡

読んでみます。おっしゃるとおり、事実そのものは変わらないのです。私は私という現象としてあるし、GP2ノックアウトマウスは何事も起こらないという現象としてある。だからそれを見て自分がどうパラダイムを変えていくかということが、まさに「解る」ということなんだなと、今わかりました。(第4回へつづく)


「第4回:ピュシスとロゴスという矛盾を含む人間」はこちら>




福岡 伸一氏 分子生物学者・青山学院大学教授/山口 周氏 独立研究者・著作家・パブリックスピーカー


本質は「あいだ」にある 〜動的平衡という生命のあり方に学ぶ〜

【第4回】ピュシスとロゴスという矛盾を含む人間

2021-03-24

本質は「あいだ」にある 〜動的平衡という生命のあり方に学ぶ〜経営有識者リベラルアーツ

生物には死が決定づけられているのに対し、企業や貨幣などの人間がつくり出した社会の仕組みには死がプログラムされていない、そのことが歪みを生み出しているのではないかと山口氏は問いかける。福岡氏はそのことをピュシス対ロゴスの問題であると位置づけ、生命に倣うことを解決のヒントとして示す。

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「第3回:『動的平衡』と『絶対矛盾的自己同一』」はこちら>

「第4回:ピュシスとロゴスという矛盾を含む人間」

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エントロピー増大に先回りして壊す

山口

ここで「死」ということについて伺いたいのですが、先生は、生命の全体の流れから見ると、死というのは最大の利他的な行為だと書いておられました。だから、死は生命にとってあらかじめ準備されたものではないかと。


一方で、人間がつくり出したもの、例えば企業は、「法人」と呼ばれて法律上は人格が認められているものですが、必然的な死がプログラムされているわけではありません。都市や貨幣も増殖はするけれどもみずからは消えません。それらが自然になくならないということが、社会の歪みを生み出しているようにも思えるのですが。


福岡

とても深い問いかけで、そこにはピュシス(physis:自然)対ロゴス(logos:理性)というギリシャ哲学以来続く問題が横たわっていると思います。


生命とは本来的にはピュシスそのものです。だから不安定でコントロールできませんし、「すべての秩序あるものは、その秩序が崩壊する方向にしか動かない」という宇宙の大原則、「エントロピー増大の法則」に支配されています。どんなに壮大なピラミッドも数千年も経てば砂塵に帰してしまいますし、整理整頓した机もいずれ乱雑になるというふうに、この世界はエントロピー増大の法則に勝つことはできません。しかし生物は自然崩壊に先回りしてみずからを壊し、環境から取り込んだ分子を使って自分をつくり直すことによって、エントロピーを系の外に捨てながら分子の淀みとしての形を保っています。「先回り」というのは西田哲学でも生命を記述する重要な概念の一つですが、壊しながらつくり続けるという動的平衡状態を保つことで、エントロピー増大の法則に対抗しているわけです。


ただ、そのシーシュポスの石積みの如く繰り返される営みも、完全にエントロピー増大の法則に打ち勝つことはできません。徐々に酸化物や老廃物が溜まり、捨てきれないエントロピーが増大して最後には崩壊し、また自然の中に還っていきます。


その代わり、生命は死ぬことによって自分が占有していた空間や食べ物を別の生物に手渡すことができます。そこでまた新たな生物がエントロピー増大の法則と戦い始める。それは必ずしも子孫を残すという意味ではなくて、流れの中である個体として淀んでいた分子が、ほかの淀みへと向かうということです。そうした利他的な相補性が絶えず成り立つことによって生物は生かされている。これがピュシスの現実です。


その中にあって人間という生物は、ロゴスを生み出したことで他の生物と一線を画するようになりました。ロゴスというのは理性、言葉、論理、それらによってつくり出されるものすべてですが、ピュシスの掟の外側にロゴスの世界をつくることによって、人間はピュシスの現実から完全に逃れられないまでも、相対化することはできるようになりました。


例えば、ピュシスの現実では、生物にとって重要なのは個体よりも種全体の存続です。人間は、それではあまりにも残酷すぎると考え、個体の生命にも価値を置くという、基本的人権のような共通の約束をロゴスの世界につくりました。


画像: エントロピー増大に先回りして壊す

ピュシスから逃れることはできない

福岡

このように、人間は理性や論理や言葉によってピュシスの掟から一定の自由を得た、唯一の生物です。とはいえピュシスから完全には逃れることはできないので、死、性、排泄など、ロゴスでどうしてもコントロールできないものをタブー視してきました。本来なら死は忌むべきものでなく、究極の利他的な行為なのですが、それを遠ざけようとするのは、ロゴスの力が強力になりすぎたせいかもしれません。現代社会において、あらゆることがコントロールできるという慢心が広がっているのも、ピュシスとしての生命のあり方が忘れ去られているからではないかと思います。


そのロゴスの肥大化を明示しているのが、おっしゃるような企業、経済、あるいは都市のような人間がつくり出したシステムですね。ピュシスの世界では、食物などの余分があれば他の生物と分け合うことで無駄なく活かします。一方、人間は貨幣というものを生み出すことで余分な財産も腐らせずに貯め込めるようになり、さらには個体の死を超えて財産や企業のような仕組みを継承することも可能にしました。でも、それらはロゴスが勝手につくり出した、いわばある種の幻想です。それゆえにピュシスと相容れずに問題が生じたりします。人間は、ピュシスとロゴスという矛盾を含む存在であることを、念頭に置くべきだと思います。


山口

先生は、タンパク質を合成する方法は1通りしかないのに、壊す方法は何十通りもあり、バックアップシステムもあるとおっしゃっていましたね。とにかく壊すことで存続していくというあり方は、逆説的で示唆に富んでいると感じます。生物学の知見を単純化して他の領域に当てはめることは危険だとは思うのですが、その生物のあり方をロゴスの世界に取り込むことが、何らかの課題解決につながるかもしれません。


福岡

そうですね。システムとしての生命、あるいは社会的なシステムもそうですが、それらの存続を脅かす問題として重要なのは、外部からの脅威よりもむしろ内部にたまるエントロピーなのだと思います。それをいかに外に捨てるかに、システムの存続がかかっています。


タンパク質は遺伝情報により合成され続けますが、つくったそばからエントロピーの矢が降り注いできますから、進化のプロセスで何通りもの壊す方法を編み出してきました。酸素がなくても壊す。エネルギーがなくても壊す。まだ使えるものも壊す。エントロピー増大に先回りするために、生命は最初からゆるゆる、やわやわの構造でみずからを恒常的に壊し続けるという選択をしたわけです。


人間がつくり出す建築物などは、堅牢に、頑丈につくることでエントロピー増大の法則から逃れようとしています。でも、どんな建物でも10年、20年経てば修繕する必要があり、メンテナンスをしないままではいられません。やはり宇宙の大原則には勝てないのですね。


ですから、もし本当の意味で生命的な建築、生命的な都市、あるいは生命的な組織というものが成り立つとすれば、生命に倣って、中身を少しずつ壊しては入れ替えていくことを前提としてつくるものでなければならないと思います。そんなことを考えている人は、あまりいないかもしれませんが(笑)。(第5回へつづく)。


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【第5回】「芸術と科学のあいだ」には何があるか

2021-03-26

本質は「あいだ」にある 〜動的平衡という生命のあり方に学ぶ〜経営有識者リベラルアーツ

最後に山口氏は人類の進化、さらに科学と芸術の関係について問う。人類は一億年後には滅び去っているだろうと予想する福岡氏。そして科学と芸術とは同根であり、大切なことは両者のあいだに共通してあることだと説く。

「第1回:sense of wonderを取り戻す」はこちら>

「第2回:生命現象は要素と要素の相互作用である」はこちら>

「第3回:『動的平衡』と『絶対矛盾的自己同一』」はこちら>

「第4回:ピュシスとロゴスという矛盾を含む人間」はこちら>

「第5回:『芸術と科学のあいだ』には何があるか」


1億年後の人類は

山口

今回ぜひ伺っておきたかったことが、あと二つあります。一つは人間の進化についてです。200万年ほど前の原人から人類はあまり変わっていないと言われていますけれど、例えば1億年という長いフレームで見ると、人類はどうなっていくと先生は思われますか。


福岡

人類の進化は今もなお続き、これから先もどんどん変転していくと思いますが、1億年後という遠い未来を考えると、私は間違いなく人間は滅び去っていると思います。人類が進化の頂点に立っていて、このままずっと地球の支配者であり続けるというのは、傲慢な人間中心視点です。


山口

その頃に繁栄を極めているのはどのような種でしょうか。


福岡

それは予測できませんが、地球上の生物の長い歴史を振り返ると、ある一時期、急速に繁栄した種は急速に衰退してしまうものです。例えば三葉虫、アンモナイト、恐竜も、あるときは地球全体にあふれ返っていたのに、今は化石で見ることしかできません。そして進化のプロセスでは、そのとき繁栄している生物タイプの中から次のステップとなる生物が出てきています。そう考えると、今の哺乳動物から違うタイプの生物が現れてくるのかもしれません。人類が滅びる原因は気候変動なのか、環境汚染なのか、感染症なのかわかりませんけれど、1億年先の生物にとっては、われわれホモサピエンスは示準化石の一つとして、地球史に刻まれているだけでしょう。


山口

地質年代の区分で、現代を「人新世」と呼ぶことが提案されているようですが。


福岡

人新世は本当に薄い1ページでしかないと思います。人類の原型が現れて400万年以上、ホモサピエンスが現れて20万年ぐらい。これは地質年代からみるとほんの一瞬でしかありません。


画像: 1億年後の人類は

フェルメールの絵に見えた「世界を記述したい」という希求

山口

最後に、福岡先生はフェルメールへの造詣が深いことで知られ、エッセイ集の『芸術と科学のあいだ』を出されるなど、一般的には科学の対極にあると考えられている芸術にも通じておられます。そのことが人生、あるいは学者としてのパフォーマンスにどのような影響を与えていると思われますか。


福岡

私の原点はsense of wonder、チョウやカミキリムシの美しさ、精巧さに驚いたことだという話をしましたね。そして、この世界がなぜこんなに精妙にできているのか、何とか解き明かしたい、記述したいと考えて、科学の1分野である生物学の道に入りました。


フェルメールが生きた時代は17世紀、彼と顕微鏡を開発したレーウェンフックは近所に住んでいたそうです。2人はおそらく友人関係で、光の科学やレンズの作用について夢中で語り合っていたのではないかと想像しています。今日の世界には科学と芸術、理系と文系といった区分がありますが、当時の彼らにそうした分け隔てはなく、同じ夢を見ていたのだと思います。それは、「この世界の美しさや精妙さを捉えたい、記述したい」ということです。


そうした希求は、私もそうであったように、誰もが変わらず持っているはずです。ただ、その手段が時代とともに分化していき、ロゴス的な言語や論理の力による科学なのか、ロゴスでは語りきれない非言語の力による芸術なのかという違いができただけです。だから科学の営みと芸術の営みは、結局のところ同じことを希求する相互補完的なものであると思います。


山口

先生の中では対極ではなくむしろ同根だと。


福岡

そうですね。同じものですね。私の場合は、とりわけフェルメールの絵に「世界をありのままに記述したい」という、科学者としての自分と通底するマインドを感じて魅了されました。逆に、科学の中にもあの「フェルメール・ブルー」と呼ばれる印象的な青のような美しさが潜んでいると思うこともよくあります。そうしたことはフェルメールに限らず、あらゆる芸術と科学に言えることだと思います。


山口

フェルメールとレーウェンフックのお話を聞いて、ガリレオ・ガリレイと画家のルドヴィコ・チーゴリの関係を思い出しました。ガリレオは望遠鏡で天体を観察し、月の表面にクレーターを見つけてスケッチした。彼と交流のあったルドヴィコ・チーゴリは、それを参考にして自分の絵画にクレーターに覆われた月を描いたそうです。ガリレオの天体のスケッチにも、詩情と言いますか絵画的要素が感じられ、彼らが互いに影響し合っていたのではないかという想像がふくらみます。いわゆる「科学革命」の起きた17世紀だからこその、豊かな知の交流だったのかもしれませんが。


福岡

同じ17世紀で、ガリレオたちは最初の頃、フェルメールたちは終わりのほうですね。


山口

おっしゃるようにsense of wonderや人間の根源的な「世界を知りたい」という心の発露が科学であり芸術であると考えると、今のわれわれが勝手にその二つを分断して見ているだけなのでしょうね。


福岡

ええ、そのとおりです。理系と文系を分けるのも、科学と芸術を分けるのも愚かな考え方だと思います。科学と芸術の「あいだ」に共通してあること、世界の精妙さに驚きと美しさを感じる心は、昔も今も変わらないものであり、それこそが本当に大切なことなのですから。


画像1: 本質は「あいだ」にある 〜動的平衡という生命のあり方に学ぶ〜



【第5回】「芸術と科学のあいだ」には何があるか

2021-03-26

本質は「あいだ」にある 〜動的平衡という生命のあり方に学ぶ〜経営有識者リベラルアーツ

最後に山口氏は人類の進化、さらに科学と芸術の関係について問う。人類は一億年後には滅び去っているだろうと予想する福岡氏。そして科学と芸術とは同根であり、大切なことは両者のあいだに共通してあることだと説く。

「第1回:sense of wonderを取り戻す」はこちら>

「第2回:生命現象は要素と要素の相互作用である」はこちら>

「第3回:『動的平衡』と『絶対矛盾的自己同一』」はこちら>

「第4回:ピュシスとロゴスという矛盾を含む人間」はこちら>

「第5回:『芸術と科学のあいだ』には何があるか」


1億年後の人類は

山口

今回ぜひ伺っておきたかったことが、あと二つあります。一つは人間の進化についてです。200万年ほど前の原人から人類はあまり変わっていないと言われていますけれど、例えば1億年という長いフレームで見ると、人類はどうなっていくと先生は思われますか。


福岡

人類の進化は今もなお続き、これから先もどんどん変転していくと思いますが、1億年後という遠い未来を考えると、私は間違いなく人間は滅び去っていると思います。人類が進化の頂点に立っていて、このままずっと地球の支配者であり続けるというのは、傲慢な人間中心視点です。


山口

その頃に繁栄を極めているのはどのような種でしょうか。


福岡

それは予測できませんが、地球上の生物の長い歴史を振り返ると、ある一時期、急速に繁栄した種は急速に衰退してしまうものです。例えば三葉虫、アンモナイト、恐竜も、あるときは地球全体にあふれ返っていたのに、今は化石で見ることしかできません。そして進化のプロセスでは、そのとき繁栄している生物タイプの中から次のステップとなる生物が出てきています。そう考えると、今の哺乳動物から違うタイプの生物が現れてくるのかもしれません。人類が滅びる原因は気候変動なのか、環境汚染なのか、感染症なのかわかりませんけれど、1億年先の生物にとっては、われわれホモサピエンスは示準化石の一つとして、地球史に刻まれているだけでしょう。


山口

地質年代の区分で、現代を「人新世」と呼ぶことが提案されているようですが。


福岡

人新世は本当に薄い1ページでしかないと思います。人類の原型が現れて400万年以上、ホモサピエンスが現れて20万年ぐらい。これは地質年代からみるとほんの一瞬でしかありません。


画像: 1億年後の人類は

フェルメールの絵に見えた「世界を記述したい」という希求

山口

最後に、福岡先生はフェルメールへの造詣が深いことで知られ、エッセイ集の『芸術と科学のあいだ』を出されるなど、一般的には科学の対極にあると考えられている芸術にも通じておられます。そのことが人生、あるいは学者としてのパフォーマンスにどのような影響を与えていると思われますか。


福岡

私の原点はsense of wonder、チョウやカミキリムシの美しさ、精巧さに驚いたことだという話をしましたね。そして、この世界がなぜこんなに精妙にできているのか、何とか解き明かしたい、記述したいと考えて、科学の1分野である生物学の道に入りました。


フェルメールが生きた時代は17世紀、彼と顕微鏡を開発したレーウェンフックは近所に住んでいたそうです。2人はおそらく友人関係で、光の科学やレンズの作用について夢中で語り合っていたのではないかと想像しています。今日の世界には科学と芸術、理系と文系といった区分がありますが、当時の彼らにそうした分け隔てはなく、同じ夢を見ていたのだと思います。それは、「この世界の美しさや精妙さを捉えたい、記述したい」ということです。


そうした希求は、私もそうであったように、誰もが変わらず持っているはずです。ただ、その手段が時代とともに分化していき、ロゴス的な言語や論理の力による科学なのか、ロゴスでは語りきれない非言語の力による芸術なのかという違いができただけです。だから科学の営みと芸術の営みは、結局のところ同じことを希求する相互補完的なものであると思います。


山口

先生の中では対極ではなくむしろ同根だと。


福岡

そうですね。同じものですね。私の場合は、とりわけフェルメールの絵に「世界をありのままに記述したい」という、科学者としての自分と通底するマインドを感じて魅了されました。逆に、科学の中にもあの「フェルメール・ブルー」と呼ばれる印象的な青のような美しさが潜んでいると思うこともよくあります。そうしたことはフェルメールに限らず、あらゆる芸術と科学に言えることだと思います。


山口

フェルメールとレーウェンフックのお話を聞いて、ガリレオ・ガリレイと画家のルドヴィコ・チーゴリの関係を思い出しました。ガリレオは望遠鏡で天体を観察し、月の表面にクレーターを見つけてスケッチした。彼と交流のあったルドヴィコ・チーゴリは、それを参考にして自分の絵画にクレーターに覆われた月を描いたそうです。ガリレオの天体のスケッチにも、詩情と言いますか絵画的要素が感じられ、彼らが互いに影響し合っていたのではないかという想像がふくらみます。いわゆる「科学革命」の起きた17世紀だからこその、豊かな知の交流だったのかもしれませんが。


福岡

同じ17世紀で、ガリレオたちは最初の頃、フェルメールたちは終わりのほうですね。


山口

おっしゃるようにsense of wonderや人間の根源的な「世界を知りたい」という心の発露が科学であり芸術であると考えると、今のわれわれが勝手にその二つを分断して見ているだけなのでしょうね。


福岡

ええ、そのとおりです。理系と文系を分けるのも、科学と芸術を分けるのも愚かな考え方だと思います。科学と芸術の「あいだ」に共通してあること、世界の精妙さに驚きと美しさを感じる心は、昔も今も変わらないものであり、それこそが本当に大切なことなのですから。

https://www.foresight.ext.hitachi.co.jp/_tags/%E6%9C%AC%E8%B3%AA%E3%81%AF%E3%80%8C%E3%81%82%E3%81%84%E3%81%A0%E3%80%8D%E3%81%AB%E3%81%82%E3%82%8B_%E3%80%9C%E5%8B%95%E7%9A%84%E5%B9%B3%E8%A1%A1%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E7%94%9F%E5%91%BD%E3%81%AE%E3%81%82%E3%82%8A%E6%96%B9%E3%81%AB%E5%AD%A6%E3%81%B6%E3%80%9C?r=1