HISTORY & STORY

4.01.2015

生藤山と陣馬山

生藤山と陣馬山

都県境の山並み。峠が多い
2015年3月31日 

鎌沢の春。佐野川エリアは日本の里100選

三国山から荒川、赤石、聖

楽しい尾根歩き

修験の道らしい

甘草水から

member 太郎 伊藤フミヒロ記 

天候 晴れ

前回、石老山から北の奥を見たとき、低いが形のいい山があった。山という字に似た凸凹の山で生藤山だという。地図で見ると藤野の北にあって周回ルートがありそう。有名な陣馬山もそのルート上にある。都県境の山並みは高尾山まで続いていることがわかった。名前だけはよく聞くからハイキング山としてはブランドものなのだろう。
早起きして出かける。町田街道から浅川トンネルを抜けて20号。大垂水峠を越えて藤野から未知の山里へ。鎌沢の神奈川県営駐車場はキャパが10台だというが2台だけ先行がいた。鎌沢の村は沢のどんつまりにあって、茶畑が目立つ。農家が山の中腹まで点在していて人が住める限界に見える。取り囲む山なみは今日辿るルートだろう。陣馬山らしきピークも見える。
8時半スタート。

村中の急坂を登山口まで辿る。村はずれの一軒家から山道へ。
生藤山はサクラで有名だという。その昔、村の青年団が植林したそう。里は今が盛りだったが、山のサクラはまだポチポチ。スギ林に挟まれて枯れ木も多い。
富士山がよく見える。甘草水で太郎が水を補給、昔話が案内されていて、ほかにも路傍には小さな社や石仏など古いものが散見する。わずかな登りで三国山山頂。赤石岳まで見えて見晴しがよい。三国境いの山で東京、神奈川、山梨の境。数人のハイカーが登ってきた。三国山は三国峠だという。このあたりいくつもの峠があるが三国境いの峠には言い伝えも多い。
三国山のすぐ先に生藤山があり、ここからは尾根の起伏を辿る楽しい縦走路となる。生藤山が有名だが、最高峰は茅丸で1000mを越えている。その次が連行峰。この三つ四つのピークが石老山から見たときの凸凹なのだろうと納得。
いくつもの起伏があるので縦走路は長く感じる。トレラン二人と2~3人のハイカーとすれ違った。醍醐丸を越えると和田峠までは下る一方。
陣馬山からは」今日の行程が全部見える

見晴しはいいが残念な陣馬山頂

沢井川沿いの甲州裏街道



和田峠には800円の有料駐車場があって都側から車で上がれるようだ。和田側からはどこかで通行止めになっているよう。甲州裏街道と言われる道筋で表道は小仏峠を越えている。
陣馬山までは木製階段の急坂を30分ほど。人工的な芝草の広い山頂で見晴しは最高にいい。穢ならしい茶屋が何軒もあってこれが写真撮影の邪魔になっている。ここからも赤石、荒川が見えるというが春霞み。尾根筋の先には高尾山も見え、石老山、道志、丹沢などがわかる。平日の山頂はハイカーが三々五々。風もなくのんびりした雰囲気が漂っている。

一の尾尾根からみた生藤山あたり



和田に下る尾根道を選びのんびり歩く。数人のハイカーが上がってきた。和田も鎌沢と同じに限界の村で沢井川沿いの山村風景は悪くない。右岸の旧道を辿って駐車場に戻る。3時終了。
 マイカー利用ハイキングに向いているルートだった。今日通過した峠は、佐野川峠、登里峠、三国峠、醍醐峠、和田峠など。

 鎌沢や登里、下岩、上岩、御霊、先祖、軍刀利神社などは旧佐野川村内で、佐野川地区は日本の里100選のひとつだという。和田を流れる川は沢井川だが、やはり旧佐野川村に属していた。佐野川西部地区と東部地区を分ける峠が倉子峠。くらご峠、と地図にある。佐野川は地名で佐野川という川は地形図では見当たらないのだが、由来は生藤山の甘草水にあるという。大和尊が見つけたというこの湧き水の下流を狭野尊にちなんで佐野川と名づけたんだとか。佐野川が相模川になまって変わったという説もあるそう。
ちなみに神武天皇の幼名は狭野尊(サノノミコト)。

峠のむこうへさんのレポ1
http://homepage3.nifty.com/tougepal/kayamaru.htm



参考
峠のむこうへさんのレポ2
甲州裏街道と鎌沢、登里、くらご峠などのことがわかる。以下。
http://homepage3.nifty.com/tougepal/kayamaru3.htm

倉子峠。
明治期の旧版地形図を見ると、峠には二棟の大型建物が描かれています。
これがここにかつてあったという役場と小学校なのでしょうか?
そのような公共建物が建つ広いスペースが峠にあるとは思えませんが・・・・  「ここが佐野川村の中心とみなされ、当初の小学校はここに建てられ、
  後に共育、共励の二校に分れるが、役場もここに設置されたことがあるという。
  今は佐野川浄水道の分岐点になっている。」
                  (『ふじ乃町の古道』 藤野町教育委員会 昭和61年
  「明治10年頃までに峠の上に役場、小学校、茶店があった。
  この小学校は学区制が出来たとき和田と下岩で争い、結局和田に小学校、
  下岩に中学校にし、そばに小学校の分校を置いた。」
                  (『神奈川県史民俗調査報告書4』 県史編纂室 昭和49年
昔はこの峠道を小学生、中学生が通学のために越えていたのでしょう。
現在、佐野川西部地区から東部地区にある佐野川小学校へ通うためには、
鷹取山の北側鞍部である野沢峠(矢沢峠)が通学路として利用されているようです。

峠の石仏群

木製の山神(?)の祠
峠の高みには、峠を往来する人々を見守ってきたであろう馬頭観音が祀られています。
さらにその上部には山神様を祀ると思しき木製の祠、天神様を祀る石祠が安置されています。
倉子峠は昔の甲州裏街道(八王子道)の峠で、人馬の往来が頻繁にあったといいます。
峠は重要な交易路であったのです。 

 「【甲州裏街道】 八王子宿追分で甲州街道より分れ、北西恩方道より和田峠に至る。
  峠の頂上が相武の境である。峠を下り和田集落を抜けると倉子峠、この峠の頂上が
  佐野川村東西の境で西は岩村といった。
  此処を下ると下岩でこの集落は宿場状になっている。下岩西の小川が甲斐との境である。
  甲斐国に入り大越路峠を越え、上野原西方で甲州街道と合流する相武境より甲州境の間
  約二里半(10キロメートル)である。」
                      (『ふじ乃町の古道』 藤野町教育委員会 昭和61年
  「和田―橋詰―クラモ峠(クラゴ峠)―下岩―上野原という道程は
  八王子から鶴川(上野原町)へ通ずる甲州街道の裏街道だったという。
  八王子からは案下、和田峠を経て和田に入るわけで、
  和田の小池氏(明治39年生)や清水氏(明治41年生)によれば、八王子から甲府行きの
  荷が通り、駄馬の往来がかなりあったとのことである。1日に百頭もの駄馬が通ったこともあり、
  馬の餌にアワ・ヒエ・モロコシなどのカラ(稈)をくれていたという。」 【*1】
地元に伝わる馬子唄からは、往時、甲州裏街道を行き来した馬方の心情を汲み取ることができます。
  案下通いの 染め分け手綱
  つけた荷物は 米と酒
  唄もはずむよ 鈴も鳴る
  通いなれても 夕焼け雲を
  見ればさびしい 和田峠
  青(黒毛馬)とおいらと お月さま    (『上野原町誌』 上野原町誌編纂委員会 昭和30年)
佐野川地域は経済的には上野原と深いつながりを持っていて、
生産物の出荷や消費財の調達は上野原で行われることが多く、頻繁に行き来がありました。
上野原がひらける以前は八王子へ炭を出荷していたこともありましたが、
明治34年中央本線上野原駅が開設されると、八王子へ向けて山を越える人馬の流れは
大幅に減少していったといいます。それでも「ノウウマ(農馬)」の貸し借りは後年まで続き、
普段は山間地での運搬に使われている馬が、田植え時期になると和田峠を越えて多摩方面の
水田地帯へと借り出されていったといいます。
山梨方面の馬も峠を越えて働きに行ったといいますから、八王子道である倉子峠を越えた
農馬も多かったに違いありません。
こんな話を聞くと、四国阿讃山脈の峠を越えた「借耕牛(カリコウシ)」のことを思い出します。
佐野川地域から上野原へ出荷された生産物の主たるものは、木炭、繭、甲斐絹であり、
木炭はいい馬だと4貫500匁の炭俵が12俵程もつけられ、
さらに自分でも背負子で2~5俵くらい背負って運んだといいます。
繭はマユカゴに木綿の油箪を敷いて繭を入れ、上野原まで人の背に負われ運ばれました。
また、繭のままではなく、ザクリでとった糸を上野原の一六の市へ出す人もあったといいます。
佐野川では甲斐絹も織られ、一六の市日には家主が一反風呂敷に包んで担いで持って行き、
帰りには縦糸、横糸を買ってきたといいます。
甲斐絹は一反が2丈8尺で、2反で1疋となり、1疋単位で取り引きが行われました。 【*2】
一時はデバタといって上野原の問屋からの請負で織ることも行われ、
腕のいい人はヒバタといい、1日に1反ずつ織ったといわれています。 【*1】
食料や消費財の調達は、暮れになると上野原で米1俵と醤油1斗を買い入れ駄馬で運び、
魚、豆腐、小間物、菓子、反物、などは上野原から担いで売りに来る行商人がいたといいます。
農作業に使う鍬も上野原の鍛冶屋に頼み、肥料、山林、養蚕関係の道具から日用雑貨の
ほとんどは上野原で購入、調達され、村へと運び入れられました。
佐野川東部地域の和田、鎌沢、橋詰からは倉子峠、大越路峠と二つの峠を越えて、
上岩、御霊、下岩の西部地域からは大越路峠を越えることで村の生活は成り立っていたのです。
上岩からは能岳峠(向風峠)も利用されていたことでしょう。
山峡での暮らしは閉塞感に満ちたものだと思いがちですが、山越えの道である峠を介して、
想像以上に豊かな生活であったようです。
山峡の村には峠を越えて来る品物の搬入ばかりではなく、
遠方からの様々な人の流入もあり、豊かな文化を醸成していったといえます。
瞽女、祭文、六部、山伏、越後獅子、万歳、神楽、御嶽講など人の流れが頻繁にありましたし、
薬売りやザル売り、箕売りなどの歩き商人は商品ばかりではなく各地の情報も運んできたことでしょう。
倉子峠のような村と村を結ぶ素朴な峠に立つと、その麓で暮らしてみたいなどと思ってしまいます。
峠マニアの偏った妄想が肥大化し、現実を忘れさせ、日常からの逃走を試みるのです。
昔は甲州ぶどうの時期になると、竹篭にぶどうを入れて積んだ馬が峠道を越えたといいます。
今では香るはずもないのに、甘酸っぱいぶどうの香り漂う峠の様子を妄想してしまいます。