8.03.2004

ラダックの夏休み


   
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http://briefcase.yahoo.co.jp/chimi1952
写真はここ。
8/3~12、チミと夏休みを使って北インド、カシミール地方のラダックへ行ってきた。
かつて今西(錦司)さんが「北インド辺境には旅のついでに登るのに恰好な山がいっぱいある」と何かに書いていた。
じつは20代から気になっている山がラダックからそう遠くない地点にあるんだ。
もったいぶる訳じゃないんだけど、なんとなく名前は云いたくない。こういうのって分かる?
無論、未踏じゃないけど2登の話はない。初登は1933年。2回目の試みは遭難に終わり、その後はインド側の主張する
国境上(つまり中国の主張する中国領内)、ってこともあって近づくのも大変になったんだと思う。他に記録は見たことな
いし。南峰は、岩峰なのでたぶん未踏だと思う。
この山は、82年にチョメ、吉冨さんと初登したCB14という6000ちょぼちょぼのセントラルラホールの山から指呼
できた。でも、それは思い込みかもしれない。じつは同じ方向にもう一つ伝説の山があるんだ。しかし、そのとき目にした
それは、スピティ方向で尖頂が他を圧して抜きん出ていた。そのとき僕は33だったけど、それからも気になって仕方がなかった。
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しかし、今回はこっちにくるにしてはかなり短かい旅なんだよなあ~シクシク(笑)。レー(ラダックの中心の街)に滞在
できたのはわずか5日間だもん。急いで歩けば息は切れるしで、少ない時間を最大限に使いたくてジープ型のタクシーをフ
ルに使って、目標へのヒントを得ようと動いた。タクシー代はドライバー込みで1日30ドル程度。アメリカでレンタカー
借りるより安いかも~。
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・ラダック山脈
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レーはデリーの北、凡そ800K。インダス川本流右岸に佇む砂漠のオアシスといった趣の街だ。ボーイング737でデリーを
早朝飛び立ち1時間強のフライト。標高が3,400~3,500ある。容易にこれより低い土地への移動ができないから、こ
の高さまでの順応は十分にやっておかないと、ヤバイよ~。
僕らのフライトは超ラッキーなことにモンスーンの雲を突き抜けて、東にナンダデビ、西にナンガパルバットがばっちり見え
た。ナンダデビは僕の憧れのジャイアントだ。飛行機の窓に顔を押し付けているうちに、大昔、カトマンズで1ケ月ほどともに過
ごしたナンダデビ・アンソールドを思い出した。エベレスト西稜の覇者、故ウィリーの娘さんだ。彼女は当時ピースコ(平和部隊)
の仕事でカトマンズに滞在していて、僕の友人の家で僕と同様に居候していたんだ。図らずも名付け親になったその山で、彼女は亡
くなった。それは確かインド政府によってナンダデビサンクチュアリが閉鎖される直前のシーズンだったと思う。
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レーのさらに北、カラコラム山脈にはさまれたヌブラバレーにもまだ未踏の無名峰がちらばっている。車は5600m!!もあるひ
ぇ~って高さの峠を越えた。この先、カラコラムの東端を掠めるまでの100k程度の間、西側に展開するのがラダック山脈だ。
氷河の後退は著しく、雪線は6000m前後に見える。ドライバーのトゥンダップは、一帯は、この15年、ほとんど降雪がなか
ったと云った。ヒマチャル・プラデシュの北部はモンスーンの影響をほとんど受けない乾燥地帯なんだ。
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インナーライン越えのパーミッションは一人80Rs、毎日簡単に取得可能だ。しかも休日もOKでこれにはびっくりした。82年
にはインナーラインに接近することさえ不可能だったんだ。
デリーでもすでに気付いたことだが、インドは結構変わったよなあ。なにしろ70年代の”名物”小賢しいアンダーテーブルに頭を
悩まされることは一度もなかったし。さらになによりも、時間さえ置き去りにしてしまう伝説の”お役所仕事”は一体どこへ行って
しまったのか。(ちょっとノスタルジック~)
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ヌブラバレーのさらに東が、いつの間にか中国が占領してしまったアクサイ・チンだ。レーがものものしい軍事施設に囲まれている
のは、直接的にはこのせいだと云われている。しかし、ここは、雲南同様、花崗岩の未登峰が多い興味深いエリアだ。だけどカメラ
に納まったのは遥かかなたに連なる砂漠のような山塊のみ。
なお、ヌブラバレーはトレッキングも盛んで、レーの街中にはそれを募集するエージェントのポスターがあちこちで見られた。
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※なぞの山
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・ザンスカル山脈
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ザンスカル山脈は、北端がレーの100kほど西から始まって南東のスピティ北部につながる、地図で見て右下がりの山脈だ。概ね
、6000mを越えるいくつものピークを連ねていて、一部を除いて、探検の要素の濃いエリアだ。ストック・カンリは例外的にポピ
ュラーで、IMFの許可が不要だと聞いた。この山は、ピラミダルで美しい。レーの街からよく見えて、旧王宮とともにレーのシンボル
的な存在か。
さらにラダック最大のゴンパ、Hemisゴンパ裏手(南)の巨大な堆積岩の壁の奥に、カン・ユセ(約6400m)が、ストック・カン
リからまるで大天井~槍といったたおやかながらぴりっとした稜線を描いて連なっている。この山は少し前までは目立たない良い山だった
が、いまではストック・カンリ同様に、大変ポピュラーになった。しかし、やはりその山容はなかなかシブイ。
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スリナガルからレーに連絡している舗装路はさらにインダス川に沿って上流(東)へ向かい、Hemisを過ぎたあたりからインダスを離
れて南へ向きを変える。この道はバララチャラを越え、CB山群を掠めてロータンパスから、やがてマナリへ抜ける。CB14の遠征後、
余力があれば、この道をたどって、レーへ出てみたいと当時チョメと話した憶えがある。しかし、これは許可が出なかった。
現在では、政治的な状況ではなくて、純粋に道路事情から、7、8、9月(降雪のない時季)に限ってマナリ~レー間を定期バスが走ってい
る!! こりゃすごいぜ、まじで・・5000以上の峠を、少なく見積もっても3回は越えるんだ。
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ザンスカル山脈を全山縦走して、チャンバやスピティに至るトレッキングも行われているようだ。しかし、途中には集落どころかバッティも
わずかで、かなりハードだろうなあ~。
なお、ストック・カンリとカン・ユセの登山も、夏の間、レーのエージェントが参加者を募っている。概ね往復10日ほどの日程で組まれてい
た。だけど、高所順応トレを事前にちゃんとやっておかないと、この日程じゃアブナイね、きっと。両峰とも、ノーマルルートを採る限りは、
高い技術は不要と、トポにコメントされている。(そうは見えないんだけどなあ)
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※Tiksayにマニ車から、カンユセを遠望
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・その他の山々
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もちろん今回はここまでは動けなったけど、知ってる範囲をちょっとメモっておく。
ザンスカルの北側の起点の南がキシュトワールで、ここには7000m峰のヌン、クンや、D.スコット、C.ボニントンが登ったブラマー、
シックルムーンなど、目を引く山が連なっている。
また、スピティはラダックから凡そ150k南に位置する渓谷で、ここはモンスーンの影響を少し受ける。ゴンパが点在していて、ここもまた
チベット文化の影響が濃い。
スピティへの遠征の起点はマナリだ。ラダックと違って、夏はときどき雨も降り変化がある。標高が2000mで、緑と花とリンゴに埋まった
美しい街だ。日本人女性が初めてヒマラヤのピークに足を印したことで有名なデオティバは、マナリからわずか3日のキャラバンで取り付ける
。高さの割りに(6001m)山容は立派な良い山だ。CB14への遠征のとき、高所順応トレの仕上げをこの山のBC周辺でやった。スピテ
ィの山はここを西端にしてさらに東へ、ガンゴトリを分ける分水嶺までいくつかの印象的なピークを連ねている。79年に豊田山岳会が登った
バラシグリ氷河のホワイトセールは名前の通り際立って美しい。だが、CB14から見えていた北壁は真っ黒で、これは未踏だろう。
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・レーのひとたち
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ダライラマがかつて平和公園なる理想郷を提唱したことがあったが、そのミニチュア・モデルがここだったのではないか。ふとそう思った。
それは例えば、ヘレナ・ノーバーグ・ホッジがその著書”懐かしい未来”であげた西洋世界が経験した唯一の”モデル”に立ち向かうものとし
て。
レーの現在の人口は35000と聞いた。手持ちの本は98年版で15000とある。ラダックは、カシミールに括られているが、カシミール
は回教徒が集中している州でパキスタンへの併合を望むひとが多いという。ここはチベット文化圏とはいっても、もともとは回教徒の国だった
。人々は11世紀以来熱心な仏教徒にはなったが、チベットの仏教徒とは厳密には異なっていて、ラダッキーはラダッキー。で、やはり独立を望
んでいる、なんて、マクロな本の聞き?かじりだが、そんな複雑な気配は街のあちこちで感じた。
だって、おもしろいんだ。タクシーの運ちゃんでも、こんな話をしだすと止まらない。顔はチベッタンなんだけど、それをいうと、バカ云っちゃ
いけねえ!、って勢いで否定すんだよね。
ラダッキーとチベットを追われたチベッタン、それに、インドからの独立を望むモスリム、さらにヒンドゥスタニが、それぞれの民族衣装で同じ
学校に通い、同じ会社で働いている。道路工事のおっさんたちの顔立ち、服装をみても、このかき混ぜたみたいな感じが、ものすごく象徴的だ。
さまざまな問題は、当然あるんだろうけど、それでもそれなりにお互いの”違い”を尊重して、ともに平和に暮らしている。
ストック・ゴンパに飾られていたガンジーの写真はなかなか良かった。僕たちは、混沌としてはいても様々な”違い”を受け入れるこの国の懐
の大きさ深さを思った。隣の大国はそうではなかったし。僕らの国はさらに救いようがないけど。褪せた写真の中で、やせ細ったガンジーがラ
ダッキーの帽子を被りラダッキーに囲まれて屈託なく笑っていた。シビレたなあ~、これ。
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・アクセスとか
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今回の旅は時間がなかったので、難しそうな手配を、予めインド人の友だち、Sinha(セナと発音する)さんに頼んだ。特に、デリー~レー間の
エアチケットは、現地でなければまずブッキングできないと聞いていたので、これは正解だった。(無論、旅行社のツアーだって問題ないと思
う)彼は、CB14遠征のときに現地での手配を頼んだJyant(ジャンタ)さんの大学の後輩で、この15年ほど、個人で観光ガイドをやって
いた。日本語は読み書きも含めてバッチリ。(因みにジャンタさんは元気でムンバイにいる)
最近、デリーに立派なオフィスを構えて、旅行社をスタートしたばかりだ。気さくで、かつ巧みな距離を置く細心さが持ち味かな。
ツアーではなくて、アドバイスやちょっとした手伝いがあれば、基本的には自力でインドを旅できる、といった風なひとに、自信を持って薦
められるね。
インドはそうやって旅をしないとダメでしょう~!、っていうのが彼の口癖だし。因みに彼へ支払うお手伝い料は一覧表になっていて、まあ
、わずかだ。
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デリーでの滞在は、彼が最近始めた民宿スマイル・イン(B&B)を使った。
インドとしてはちょっと高いが(一人一泊2500円)、清潔で、奥さんの作ってくれる朝ごはんもおいしい。
みなさんも機会があったら使ってみてください。
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セナさんのサイト → http://www.cwo.zaq.ne.jp/sinha/
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なお、伝統的な?スリナガル経由レー行の定期バスは、カシミール独立運動の影響で運行停止中だった。ただし、ミニバスのチャータ便はある。
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・寄り道
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帰りに数時間だが、カトマンズに寄った。
ニマ・ファミリィの近況です。
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ペンバとテンジン・ドマの正式な結婚式が、ナムチェで6/3~6までの4日間、壮大に延々と行われた。
ソルトレークの友人、リチャードは、フルに付き合ったとか(かわいそぉ~)。
DVDで見ると、彼はバテタア~って顔とうなだれた姿勢で、健気にシェルパダンスやってたよ。
内輪だけど・・笑える。
僕らはペンバの知らせから7/3~6と勘違い。お陰でこの苦行を免れた。
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2月に米国永住権を受けたニマとフルマヤ。二人はシアトルに住むツェリン(娘)の家にいて、フルマヤはベビーシッター、ニマは大工・
・・になっちゃった。驚き!
ナムチェのダンフェは、ザンブ(相変わらず100k超級!らしい)がやってる。
ルクラのダンフェは誰かに貸しているそうだ。インターナショナルフットレストも同様。
ニマは、僕が寄る、というので、帰米を待っていてくれた。
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因みにソルゥの無線基地局がマオイストに破壊され、従って、ナムチェの電話、インターネットは現在使えなくなっているとのこと。
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ギャルは、ニューヨーク在住のネワール人と昨年10月に結婚、本格的?な大工で生計を立てている。クィーンズに住む。
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末っ子のテンジンはタメル入口の洒落たコーヒーshop(夜はバーになる)で働いている(名称失念)。一時期のギャルみたいなすごい体
になっていた。
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ペンバは4月にトータルフライトが2000Hを越えた。
現在、エア・ダイナスティ専属のヘリ・パイロット。
病院関係(レスキュ、薬品、医師、遺体等の搬送)、観光客のレスキュ関係がほとんどとのこと。
娘のツェリンは、ラジンパットのBoardingSchole生。(超かわいい~)
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※ペンバとテンジン・ドマ、アン・ツエリン(娘)
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下の写真は、パサン・ラムー記念財団が作ったカトマンズ初の本格的なクライミングジム。
ナトラパット(リングロード北、シオプリ山側)にある。屋外だがちゃんと屋根がついている。
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使用料はギヤレンタル込み込みで800Rs。ギヤ持込で200Rs。
ビレイはスタッフに頼める。
��※2004/8/12現在、1Rs=¥2くらい

なお、ペンバの話では、ドゥリケルにナガルジュン(バラジュ)より良い岩場が開拓されたとのこと。(未見)
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おしまい