1.15.2022

近藤和美さん。高本信子さんのことも

ヒマラヤの写真をみていたらなんだか二人の名前が浮かんだ

1990年代ですが、ヤマケイ社に真面目に務めていたころ、私のデスクの前あたりによくすわっていた人がいました。近藤和美さんと高本信子さんでした。

二人とも登山家で編集のしごともできる人だったので、「岩と雪」や特別号「山岳年鑑」のフリーランス編集者として毎年定期的にやってきていたのです。二人とも楽しい人で私もよく雑談やムダ話をしていました。

直接の仕事のやりとりはありません。山にいっしょに行くわけでももなく飲み屋に行くこともなく、毎日顔をあわせるのでいちおう同僚のような雰囲気だったかもしれません。

近藤さんは日本勤労者山岳連盟の遠征隊でそのころすでにソ連だかロシア、中国方面の高山によく登っていた気鋭だったようです。そのごますますエスカレートして日本を代表する高名なヒマラヤ登山家・遠征隊隊長になりましたが、そのころは活躍始動のころだったのでしょう。

登山歴をみるとまるで鬼のようですが、ふだんは穏やかな方で品のいい紳士でした。あるころから近藤さんの記録と実力がまわりにも知られるようになって「近藤さん凄いですね」と話がおよぶと「いやいや、まそんなもんですよ」と謙遜なのか自慢なのかわからないようなニコニコ顔でこたえてくれたとおもいます。

下の記事にもありますが、小柄で、すでに中高年の域に入っているのに、めっぽう山に強かったという奇跡の人だったようです。そんなセレブ登山家が目の前にいるのに気が付かなかったわたしはぼんくらでした。今80歳だそうですがまだまだ元気に山に登っているようですね。


高本さんは女流登山家としてたくさん記録をもっていて交友も広かった人です。日本山岳会の主要メンバーだったのかな。やさしくて親切な人という印象が一番強いのですが、最後の記事にあるようにインドの山旅で事故にあいなくなりました。青山の自宅の葬儀に参列しましたが、たいへんなお嬢さんだったことをしりました。たくさんの人が訪れていておどろきました。

ちょっとヒマラヤのことを考えていたところ二人の名前が浮かんできましたのでネットで調べてみたというわけです。なつかしい。

しかしそれにしても近藤さんの記録は人間離れしていて恐ろしいくらいですね。8000m峰登頂数では日本で2番めとか。遅咲きの登山家としても有名らしい。世界でも珍しいのではないでしょうか。

伊藤文博記 2022年3月記


https://blog.goo.ne.jp/repu/e/855c0f930a0ab4d3b2ca07e533699b16

より拝借


高所登山家、近藤和美さん

2009年11月30日 | 山のいろいろ


11月28~29日に千葉市で開かれた労山全国登山集会で、登山家近藤和美(かずよし)さんにお会いしました。

近藤さんは日本を代表する高所登山家で、世界の8000m峰に挑戦を続けています。


登頂を果たしたのは次の8座です

 シシャパンマ中央峰(8027m) 1994年 無酸素登頂

 ダウラギリ(8167m) 1995年 無酸素登頂

 チョモランマ(8848m) 1998年 登頂

 ナンガパルバット(8126m) 1999年 無酸素登頂

 ブロードピーク(8047m) 2000年 無酸素登頂

 K2(8611m) 2000年 無酸素登頂

 ガッシャーブルム2峰(8035m)  2003年 無酸素登頂

 マナスル(8163m) 2009年 登頂


山頂まで至らなかったものとしても、以下のものに挑戦していらっしゃいます。

 ローツェ(8516m) 1997年

 ガッシャーブルム1峰(8068m) 2005年

 マカルー(8463m) 2008年


他にも6000m以上の山に60回以上登った経験(アコンカグアなど)をお持ちです。

「ヤマケイ登山学校:冬山」(山と渓谷社)や「谷川岳」(昭文社)などの著者でもあります。


私は実際にお会いするまで、「鉄の男」というイメージを持っていました。

しかし実際の近藤さんは、小柄で優しい笑顔が似合う方


驚いたのは、手と足の指20本は完璧にそろっています! 高所登山ではしばしば凍傷で指を失くしてしまうので、これはオドロキでした。

実際に指に触らせていただきましたが、柔らかい指でしたよ~


どうして高所に強いのかお尋ねしたところ、「自分でも理由はわからないけど強い」とのことでした。


http://blog.livedoor.jp/buntak2/archives/51620733.html


より拝借


20080827近藤和美マカルー登頂報告会


タイトル20080827マカルー報告02近藤


 今春、マカルー峰(8463m)に登頂した労山隊の報告があるという近藤さんからの連絡を受け、登頂者:橋本久さんに久しぶり(1998年のマカルー以来)に会えるのではないか?と僅かばかりの期待を持って、東京飯田橋の労山事務所へ出かけてみた。

 仕事を早めに終え、上野・秋葉原まわりで飯田橋へ。そこから徒歩10分ほどで事務所に到着。早めに集まっていた人たちへ、アンデスのフォルクローレの楽器演奏をしていた。

 近藤さんに挨拶したが、「盛岡からは来ないよ!?」の一言で、橋本さんは現れないことを確認。頂上へのルート取りが一番の関心事になる。


 今日は、正式には 労山全国連盟メディア局:主催の「登山時報第1回文化講演会」-新しい読者を増やすための交流と講演の集い-で、

講師:近藤和美さん(2008全国連盟八千m峰登山隊・隊長)

演目:「世界第5位の難峰マカルーに登頂」

と言うものであった。


 よって、東京近郊の「登山時報」購読者が集まったもので、期待していた隊員や現役のクライマーが集まるというものではなかった。

 しかし、98年に埼玉と同時期に登山していた岩手の山童子隊の橋本さんが登頂したというので、関心大であった。


 まず、近藤隊長から今回の遠征の経緯が話され、スライドを上映しながら遠征隊の様子を話された。只、アタックに関しては「橋本・波多野2氏」が登頂者の為、二人の話を聞いた隊長の報告だった。


1.労山8000m挑戦からマカルーまで

 94年、労山隊として初めて8000m峰に挑戦した。最初は、シシャパンマに挑戦し中央峰(8008m)に登頂。

 以来、08年まで15年間、計12回の遠征があり、8000m峰11座に登頂。

 今年08年は、チベットのチョーオユーとシシャパンマの2座連続登頂を目指した。メンバーは橋本氏以外は、シシャパンマ、チョーオユーなら大丈夫と見て参加。

 しかし、北京オリンピックの聖火リレーの関係から、チョモランマは入山禁止。(それもチベット側のみならずネパール側も一時禁止となった。)チョモランマ近くのチョーオユーは、シシャパンマ登頂後にすれば登れるのでは?、と取り敢えず3/18と3/24に出発。

 まずは予定通り、ランタン谷のヤラピーク(5520m)で高度順応登山。折角だからとゴザインクンドへも立ち寄ったという。ヤラピークの下4700mのヤラカルカにBCを設置し、3日間滞在し2回登頂して順応終了。

 4/8カトマンズに返って来るもチベット情勢は好転せず、転進を考える。

 ①前回、7500mまで行っているマナスル、

 ②今春、15隊入るという情報のあるマカルー

のどちらか?という選択肢。

 ①は、隊長も記憶が鮮明で登頂を逃したピークなので再挑戦しやすい。

 ②は、隊員の橋本氏が10年前に登頂を試み、目前で断念した山。事前に資料を持ってくるように指示してあった。また、めったに15隊も入山しない山なので、登頂のチャンス。橋本氏の雪辱戦ともなる。

 他の隊員にとっては厳しいかも知れないが・・・「隊長の判断にまかせる」という橋本隊員以下の隊員の言葉で、「マカルー」に転進することに決定。


 幸い今回利用している「ボチボチトレック」(福岡の渡刈氏?が出資、グルン族の○○がオーナー)では、今春3つの8000m峰を扱っている。

①マナスルの倉岡隊、②マカルーのスペイン隊、③同じくマカルーになった労山隊で、スペイン隊の隊長:エマニエル?氏は、何度かBCで一緒になっていて友好的。隊員の河合氏がスペイン語が話せ、好条件。


2.カトマンズからマカルー登頂まで

 4/18隊荷2.4tと共にツムリンタールへ移動。隊員は飛行機。隊荷は陸路。ここから荷物をジープに積み替えて、ボーテパスまで運び、そこからキャラバン開始。2回の大きな上り下りを経て、

 4/27、チャゴ氷河末端のBC(5700m)に到着。前回山童子隊のABCだったところ(現在のBCになっている)。統計によると計23パーティが集結していたという。


<<行動日誌>>

 4/30 仮C1(6350m:98のC1)往復。

 5/7 C1(6650m:98のC2)泊

 5/8-9 全員が7100m-7300mへ往復。

 5/13 C2(7550m:マカルー・ラの上部)到着。

 5/18 橋本・波多野アタック開始のためBC出発。

 5/20 最終C3(7850m)に入り、21:30アタック開始。

 5/21 5:40登頂成功。後BC帰着。2次隊はC2入りを目指したが断念。その後天気が崩れる。

 5/26 BC撤収。ヤンレ・カルカ(3500m)まで降りる。

 5/29 ヤンレカルカよりヘリにてカトマンズ到着。(天候待ち1日)

 6/2 帰国

 

<<ルート等の状況など>>

・最終キャンプ(C3=通常のC4)は、北西稜上の7850m。テント3張りがやっと張れる広さ。張り捨てられていたテントを借用。

・夜9:30(21:30)スタートは早すぎたが、この時期の天気が不安定で、昼前から崩れていたので、崩れる前に安全圏に下山したかった為、早い出発を選ぶ。幸い、ルートを知っているサーダーが先行したため、難しいガリー入口も素早く発見。最後は夜明けを待って山頂を踏む。


・C3から雪壁のユマーリング。酸素流量毎分2.5L。最初の1時間は、5-6ピッチのユマーリング。

・FIXが無くなってからは、クレバス帯を避けるために雪田を大きく右に回り込みながら登る。モナカ雪。

・頂上へ抜けるルンゼは、頂上直下のルンゼ(98年失敗)ではなく、はるか下方の、頂上の岩稜帯から発生している左上方のルンゼを目指す。

・クレバス帯を3時間程かけて登り、ルンゼ末端にあるFIXロープを見つけて、それを登る。

・FIXは5-6ピッチ。上部稜線に近づくと無くなる。

・上部ほど岩の露出が多く、雪も不安定。

・やっと岩場を登りきると、目前に頂上が確認出来る。1時間ほど待つ。

・最後の登攀=狭い雪稜をFIXを頼りに3ピッチ、100mほどトラバースして到着。

・C1~C2間は、20ピッチ以上のFIX。(98年とはルートが違う。)

                 <<以上橋本氏の報告より>>


3.他

・隊員7人中、登頂者2名はどうだったか?

・5700mのBCは、50歳代には疲れが取れない。(世界一高いBC)

・労山の8000m登頂峰は11座。残るは、チョーオユー(2009年春)、カンチェンジュンガ、アンナプルナのみだが、難しいところが残っている。



◆久しぶりの報告会に参加。それもマカルーだったので興味しんしんであったが、残念ながら登頂者の話が聞けず残念。写真も数枚しかなく、詳しく確認できなかった。

 今年はチョモランマやエベレストからの転進組が大挙してマカルーに押しかけたようで、計23隊(パーティ)がマカルーをねらったという。それも殆どが北西稜。

 報告にもあるように、頂上まで殆どFIXロープが張り巡らされたようだ。

 10年前のマカルーを思い出すと、隔世の感がする。



ウイキペディアより


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%97%A4%E5%92%8C%E7%BE%8E_(%E7%99%BB%E5%B1%B1%E5%AE%B6)


近藤 和美

(こんどう かずよし)

生誕 1941年11月22日(80歳)

愛知県名古屋市

国籍 日本の旗 日本

職業 山岳ガイド

著名な実績 8000メートル峰9座登頂

受賞 スノーレオパード賞(1989)[1]


概要

1941年11月22日、愛知県名古屋市に生まれる。17歳で上京就職、1976年に17年間勤めた会社を退職。日本勤労者山岳連盟で「山と仲間」編集長を務めたのち、1984年よりフリーランサーとなり、山岳雑誌、山岳書籍の編集に従事、1987年登山ガイドとして独立。山と高原地図(昭文社)「谷川岳」の調査執筆を長年請け負った。


1972年31歳より海外登山をはじめ、42歳で7000m峰初登頂、1989年旧ソ連邦に属する7,000m峰5峰(イスモイルソモニ,ポベーダ,レーニン,ハンテングリ,コルジェネフスカ)を完登した者に贈られるスノーレオパード賞を獲得した[1]。


1992年50歳で8000m峰初登頂(ダウラギリ)、その後も8000m峰に挑戦し続け、2011年69歳でローツェに登頂し、8000m峰9座に登頂(うち5座無酸素登頂)した。たいへん遅咲きの登山家である。8000メートル峰9座登頂は、名塚秀二、田辺治、山田昇と共に、全14座達成の竹内洋岳に次ぐ日本人2位の記録[2][3]。


日本勤労者山岳連盟海外委員、日本ヒマラヤ協会会員、日本山岳協会国際部海外常任委員、パミール中央アジア研究会理事。


エピソード

1989年8月、近藤和美を含む日本勤労者山岳連盟隊はハン・テングリへ遠征を行っていた。この遠征は高所登山の経験者養成の目的も兼ねていた。参加者の1人の北沢真一は講師役として、ハン・テングリを数度登頂していたが、8月14日、下山中に滑落死してしまう。翌年、ハン・テングリの6,400m付近に慰霊碑が設置された。『世界の名峰グレートサミッツ』「ハン・テングリ」の回の制作に携わっていた貫田宗男がこの慰霊碑を知り、近藤和美に取材を行った。この慰霊碑は平出和也によって撮影され、北沢真一のエピソードと共に、2013年1月に放映された番組において取り上げられた[4]。


経歴

1941年11月22日 - 愛知県名古屋市に生まれる。

1986年8月3日 - イスモイル・ソモニ峰(7,495m/タジキスタン)登頂。

1986年8月 - コルジェネフスカ峰(7,105m/タジキスタン)登頂。

1986年 - レーニン峰(7,134m/タジキスタン)登頂。

1989年 - ハン・テングリ(7,010m/キルギス)登頂。

1989年 - ポベーダ山(7,439m/キルギス)登頂。

1989年 - スノーレオパード賞獲得(同年に日本人として初獲得した小西浩文に引き続き日本人2人目)。

1992年9月20日 - チョ・オユー(8,201m/チベット)無酸素登頂。(木本哲,八橋秀樹等11名)

1995年10月6日 - ダウラギリ(8,167m/ネパール)無酸素登頂。(林孝治,桑原巌,成崎公生,澤田実,武田澄人等8名)

1997年5月10日 - リスム(未踏峰/7,050m/チベット)初登頂。

1998年5月22日 - エベレスト(8,848m/ネパール)登頂。(倉橋秀都,佐藤賢,永田幸一,坂本正治,橋本久,矢野利明,川原慶紀8名)

1999年7月29日 - ナンガ・パルバット(8,126m/パキスタン)無酸素登頂。(倉橋秀都,清野嘉樹等5名)

2000年7月30日 - ブロードピーク(8,051m/パキスタン)無酸素登頂。(倉橋秀都,矢野利明,松本政英4名)

2003年8月1日 - ガッシャーブルムII峰(8,034m/パキスタン)無酸素登頂。(橋本久,飯塚公知,上野幸人4名)

2006年10月26日 - ナンパイゴスム[南峰](未踏峰/7,240m/ネパール)初登頂[5]

2009年5月19日 - マナスル(8,163m/ネパール)登頂[6]。

2010年5月17日 - シシャパンマ(8,027m/チベット)登頂。シシャパンマ最年長登頂更新(68歳176日)[7]。

2010年11月3日 - チュルー最東峰(6,038m/ネパール)登頂。

2010年11月8日 - チュルー南東峰(6,429m/ネパール)登頂。

2011年5月20日 - ローツェ(8,516m/ネパール)登頂[8]。

著書

雨宮節・宮下正次・近藤和美著「記録 魅惑の氷壁」(1979/8,ユニ出版)

小宮昌平・近藤和美編「山 生きる・学ぶ・探る」(1986/2,大月書店) ISBN 978-4272610051

近藤和美調査執筆「谷川岳・苗場山・武尊岳 1994 山と高原地図28」(1994/1,昭文社)

近藤和美調査執筆「谷川岳・苗場山・武尊山 1996 山と高原地図28」(1996/1,昭文社) ISBN 978-4398750280

近藤和美著「冬山」(1996/12,山と渓谷社) ISBN 978-4635041805

近藤和美調査執筆「谷川岳・苗場山・武尊山 2001 山と高原地図16」(2001/1,昭文社) ISBN 978-4398752284

近藤和美調査執筆「谷川岳・苗場山・武尊山 2004 山と高原地図16」(2004/9,昭文社) ISBN 978-4398754165

近藤和美・高橋修調査執筆「谷川岳・苗場山・武尊山 2006 山と高原地図16」(2006/1,昭文社) ISBN 978-4398754165


高本信子さんのこと

以下 日本山岳会のページから拝借


https://jac1.or.jp/images/media/rokusoukai/ryokuso-No161.pdf


~《寄稿/投稿》~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

私が敬愛する長老(その5)

関塚 貞亨

敬愛する長老たちは、ある方から『山岳』に投稿して広く会員に読んでもらうように提案があっ

て、33人を書いたのだが、長すぎるという指摘もあり5人を削り、28人を『山岳』に投稿した。

採用されれば『山岳』に載るので、削減した5人を緑爽会の会報に掲載してもらうことにしまし(村

山雅美氏は160号に掲載済みにつき今号では4人)


山岳会の佳人

◎高本信子(1941年~1992年)

私が入会したときの推薦者は折井健一さんで、山研委員長をしていたので私も委員になった。そ

の時の担当理事が高本さんだった。山岳会に入って初めて晩餐会に出たときに山姥のような人は一

人もいなくて、友禅の訪問着やサリー姿の婦人方がみな優雅な人たちだったのには驚いた記憶があ

るが、初めて身近に接した高本さんも優雅な佳人で雑誌「岩と雪」の編集をしている方だと他の人

から聞いた。

山研の理事を二年で務められた後は婦人懇談会の担当理事になり、印度ケダルナートのドーム登

頂計画の隊長なった。女子の登攀隊の中にはサミッターがサポートした隊員への感謝を忘れて反感

を買い、ばらばらになって解散する隊の例も知っているが、高本さんの隊は皆仲良しで帰国後も交

際が続いた。不幸にもインドに旅行中、乗用車に大きな岩が直撃して亡くなられた。『山岳』第8

8年に追悼記を書いた大久保晴美さんも2018年に亡くなられた。

ドームに遠征する前に私の描いた霞沢岳の絵を気に入って所望され、高本さんからは、これから

登るドームの額入りの写真を頂いた。亡くなられた後、私は音痴だが琵琶湖周航の歌の一節「仏の

み手に抱かれて…」を歌いご冥福を祈った。

1.09.2022

北八ヶ岳縞枯山 初めて登った

 諏訪のスキートリップ 3


2022年1月5日
member 伊藤フミヒロ記


instagramに載せたパナグラム作品4点

1月5日 水曜日 晴れ
この日は寒いです。ホテル前の朝の気温はマイナス12度ほど。ビーナスラインでスズラン峠を越えて蓼科方面に下ります。雪道ですが凍結はありません。
9時半のピラタスロープウエーで山頂駅(坪庭2232m)に上がります。
ロープウエー山頂駅から横岳
         

これが縞枯れ山
         
好天で樹氷がきれい。スキーを担いで少し登った先から縞枯山荘前まで滑り込みます。そこからシールをつけて雨池峠は10分ほど。
ここが北八ツの主稜線上で、縞枯山へは一直線の上りになります。後半はモーレツな急登。ですが、しっかり踏み跡があってたどるのはラクラクです。途中でスキーはデポ。


山頂(2403m)は細く長く平らで、10分ほど進むと展望台にでます。素晴らしい景色が開けます。
向かいに茶臼山が間近か、麦草ヒュッテが見えます。その向こうは八ヶ岳南部の山。縞枯れ山に登ったので八ヶ岳のピークはほとんど立ったことになると思います。

下りは早い、往路を戻って、スキー場を滑って下り、13時終了。縞枯山方面で出会ったのは数人でした、
中央道は空いていて夕方に東京に戻りました。

雨池峠

縞枯山荘

冷えてますが無風快晴



1.08.2022

霧ヶ峰周回スキー

諏訪のスキートリップ 2

2022年1月4日
member 伊藤フミヒロ記

1月4日 火曜日 晴れくもり
インスタグラム掲載のパノラグラム作品2点

なつかしい沢渡スキー場

車山乗越目ざして帰る



諏訪湖畔、朝の気温は0度と暖かすぎます。上川沿いの通勤バイパスを走り、茅野からビーナスラインで車山スキー場へ。白樺湖から上は雪道です。

リフト3回分の券を買って、1本あしならし。もう一度スキー場トップ(車山山頂1925m)に上がります。11時半、車山北面を車山肩へトラバース。ここは雪崩もあるところ、小さな谷も入っているので下り過ぎはだめ。あたりにだれもいません。

ルートを選べば車山肩までらくらく滑り込めます。廃屋のような肩の小屋があって陰でひとやすみ(NAS肩の小屋とあっていっときはスポーツクラブが持っていたらしい、写真撮影のポイントです)。
車山北面を滑る

車山の肩から八島湿原方面

肩の小ピークは旧沢渡スキー場のトップで好斜面が広がりますが、だれもいません。シュプールもなし。快適なパウダースキーイングでゲレンデ食堂(1650m)まで滑ることができました。あたり人気はありませんが、以前はリフトがあってそれなりににぎやかなところでした。

12時、近くのヒュッテジャベルにトラバース。建物は昔のままですがやっていないよう。でも人は住んでいる模様です。
ここからシールをつけて車山乗越(1830m)まで登り返します。ムダに登らないように斜に進みますが、ラッセルもあって疲れました。

1時間以上かかって車山乗越、車山スキー場のサイドを滑って14時30分に終了。スキー場サイドにもパウダーラインがあり楽しめました。

毎度の白樺湖畔パイプのけむりにイン。このホテルは快適です。

車山肩にある山小屋

旧沢渡スキー場

ヒュッテジャベル

車山乗越に戻ってきた
omake 
このあたり3つの宿の因縁

●車山の肩の小屋のこと

蓼科の「カフェ 午後の森」blogから

Unknown (@てっけん)
2020-07-03 14:06:48
霧ケ峰のNAS肩の小屋、今から30年ちょっと前だと思いますが宿泊しました。
当時私は小学生で、スポーツクラブNASのスイミング教室に通っており、そのキャンプイベントでした。
基本は麓にあったシャレーNASというペンション風宿舎に泊まり、数組に分かれて夜にNAS肩の小屋に泊まりに行きました。
中略
懐かしいです。

2020-07-03 21:34:45
@てっけんさん、すごいコメントをいただきましてありがとうございます。今でも写真のモデルのように霧ヶ峰の草原に貴婦人のように立つNAS肩の小屋。時空を超えたような彼女の物語を聞かせていただいて感激です。昨日もコバイケイソウ咲く草原に立つ彼女の写真を撮ってきたところです。内幸町の銀行の所有になった話は、ころぼっくるひゅって創設者の手塚宗求さんから聞きました。
肩の小屋

●それから、ヒュッテジャベルはまだ営業している!

いまはコロナで休業らしい。風雪に耐えた建物は紀念物かも、、、。
ここは高橋達郎さんというおじさんが有名でした。霧ヶ峰や入笠山にある古いロマンチックな山小屋はここの後輩にあたるとか。文章を書いたり絵を描いたり、音楽好きの人でもあって…。30年くらいまえに泊まったことがありました。部屋はいまでも狭い和室みたい。そのころ沢渡スキー場も健在だった。
ホームページおもしろい。酒飲みには不向きみたい、残念。(いときしゃのコメント)。
http://www.javelle-kirigamine.com/



●それから、ホテルハイジ休館について。

蓼科の「カフェ 午後の森」blogから

蓼科湖近くの東伏見宮家経営のホテルハイジが取り壊され、
別のホテルができることを知り、
ロビーの暖炉の重厚なたたずまいと
夜の食事にご当主が、「あるじです」とご挨拶に来られたのを懐かしく思い出す。

ハイジのツイッターから

@Hotel_Heidi
ホテルハイジは閉館いたしました。
長年お見守りくださった皆様に心より感謝申し上げます。
この度、ホテルハイジは『Hotel de L'Alpage』として生まれ変わる運びとなりましたのでご報告させていただきます。
FacebookやInstagramにて最新の情報を発信しておりますので宜しければチェックしてみて下さ
長野県茅野市蓼科高原1-1

はー、宮家の末裔とは知らなかった。たしか洋食夕飯のとき、オーナーが挨拶にいらして、あるじでございます、と言ったかとおもう。もともと敷地は宮家の別荘だったよう。(いときしゃコメント)







入笠山のスキー

 諏訪のスキートリップ 1

2022年1月3日
member 伊藤フミヒロ記

上 入笠山頂 下 入笠湿原
上 諏訪湖畔の片倉館 下 入笠山頂から南アルプスなど



1月3日 月曜日 晴れ

今回は入笠山、霧ヶ峰、北八ヶ岳を3日間で滑るプランです。天気もよさそう。インスタグラムに載せるパノラグラム写真の撮影もテーマです。
 朝まだくらいうちに家をでて中央道で富士見パノラマスキー場へ。
正月なんでゲレンデは人が多いです。

リフト1本滑って足ならししてからゴンドラでスキー場トップ(1770m)へ上がります。11時にスタート。

入笠山湿原に滑りこんで、シールスキーで入笠山へ。暮れに大雪があったそうで不足はありません。人気の雪山で、スノーシューでハイキングする人が目立ちます。12時半に山頂(1955m)着。好展望です。
赤はのぼり、青は下り

入笠山頂にぎやか

樹林の中を滑る

旧入笠山スキー場

入笠湿原の斜面

山頂直下を快適に滑り、下り過ぎたのでシールをつけてトラバースします。旧入笠山スキー場を快調に滑り、パノラマスキー場に戻ります。このパノラマスキー場の固いバーンと急斜面はいつも苦手ですね。
14時半に終了。

諏訪湖畔に移動して片倉館でのんびりします。毎度の湖畔公園で車泊。







1.01.2022

遠くまででかけてパラグライダー、覚え。

伊藤フミヒロ


パラグライダー旅行でなんどか遠くへ、とくに南の方へいったはずなので、ちょと、以前の記録をたしかめたく調べてみました。別種目ですがまた四国とか九州にハイキングに行ってみたいとおもっていますので。

アイガーをバックに飛ぶ。グリンデルワルトで、スカイ朝霧斎藤校長撮影

2003年2月 広島王子が岳、香川五色台 まだノービスパイロットだけどいけいけで飛んだ。

http://itokisya.blogspot.com/2003/01/2003.html


2003年6月 沖縄連勝  まだビギナーのうちだったけど強風ものともせずとんだ。

https://www.youtube.com/watch?v=1gCVRHrvf2s

http://itokisya.blogspot.com/2004/01/13itokisya.html

http://itokisya.blogspot.com/2004/04/46by-itokisya.html


2007年2月 石垣島  

風つよくとべず。ひとりハイキングした。

https://plaza.rakuten.co.jp/arcchronicle/diary/200702160000/


2008年7月 インドネシアバリ島 パラのメッカ。シーサイドとんだ。パラトリップは毎日とべることは少ないので観光するのもたのしみのうち。

https://plaza.rakuten.co.jp/arcchronicle/diary/200807010001/

http://www.youtube.com/watch?v=IqrbxjzlbxU
http://www.youtube.com/watch?v=IsV7QvcpYog


2010年4月 奄美大島笠利 サンパラ中村校長のふるさと。好天でがんがんとんだ。奄美にいくなんてパラトリップならでは。

https://plaza.rakuten.co.jp/arcchronicle/diary/201004300000/

https://plaza.rakuten.co.jp/arcchronicle/diary/201004290000/


2011年1月 台湾サイチャ パラのメッカ。日本人と韓国人が多く日本のよう。けっこう飛んだ。台湾最高。

http://itokisya.blogspot.com/2011/01/blog-post_6177.html


2013年1月 台湾サイチャ 2度め、けっこう飛んだ。台湾はいいね。

http://itokisya.blogspot.com/2013/01/blog-post_28.html


2013年7−8月 アルプス、イタリア、スイス、フランス グループツアーのあとひとりレンタカーであちこち旅して飛んだ。これがやりたかった。

http://itokisya.blogspot.com/2013/06/italy.html

http://itokisya.blogspot.com/2013/06/blog-post_29.html

http://itokisya.blogspot.com/2013/07/blog-post.html

http://itokisya.blogspot.com/2013/07/blog-post_5.html

http://itokisya.blogspot.com/2013/07/blog-post_7.html

https://www.youtube.com/watch?v=T-2XYoRKbb0


2013年8月 九州 鏡山、阿蘇 河口湖でお世話になった末吉さんのふるさとで案内してもらった。 九州はパラのメッカだね。

http://itokisya.blogspot.com/2013/08/blog-post_16.html


2013年9月 ニセコ、カムイ 河口湖の宮本さんの案内で念願のニセコ飛べた。いちおうやりたいことがいちおう済んだ気分。

http://itokisya.blogspot.com/2013/10/blog-post.html


こんなところでした。以下おまけ。



◎パラグライダー個人ヒストリー

2002年7月 山中湖大平山で初体験、山中湖コアパラスクール入校、コア閉校で河口湖パラスクール移籍。

2003年4月 河口湖でノービスパイロット証取得

2003年10月 河口湖でパイロット証取得

2004年5月 富士サンデーパラスクール参加

2004年7月24日 富士山頂フライト 

http://itokisya.blogspot.com/2004/07/blog-post.html

http://itokisya.blogspot.com/2004/07/7itokisya.html

http://itokisya.blogspot.com/2004/08/812itokisya.html

2005年4月 スカイ朝霧スクールでクロカンパイロット証取得

http://itokisya.blogspot.com/2005/01/2005.html

2008年1月 木島平パラスクールでスピードパラ開始

2008年8月 木崎湖セイフティ教室入校

2005−2010年ころ 川地塾入校参加

2005ー2006ころ、シリーズレースに参加

2008年5月18日 スピードパラで富士山頂フライト

http://itokisya.blogspot.com/2008/05/blog-post.html

2009年2月 丹沢スカイクラブ入いる。数年飛んだ。

2016年5月最終フライト 通算1017本、総フライトタイム519時間5分

スピードパラの機体は現役です。気分がのればでかけるかもしれません。

上のメモをみると、いろんなスクール、先生、クラスに参加していたのに自分ながら驚きます。

記録を見ると、50歳こえてから、13年ほど空を飛んでいたんですね。歳なのでやめましたが、歳のわりに熱中したものだとおもいます。おカネと時間をずいぶんつかったけど空飛ぶ気分は代えがたいものがあったのかな、とおもいます。それにしても一度もケガしなかった自分はラッキー。

四国、九州などへでかけたのは日本100名山登山とパラグライダー旅行のおかげ、といえるでしょう。クライミングと山スキーだけでは限られるところがありますが、別種目に参加してみると、行動範囲が広がりますね。会う人種もちがいます。パラグライダーのおかげで国内もあちこちくわしくなりました。

★ひとりごとのようなもの

運動能力もアタマも並のわたくしが、ケガなくこれまでやってきたのはなんでだろう、と思いますが、なんでだろう?鉄は熱いうちにたたけ、タイミングかな、燃えてるときに集中するのがよいのかもしれません。

クライミングは60歳近くまでやったかな。高校山岳部からだから長い。ディンギーは若い頃レーザー数年と50歳過ぎに再開してレーザー2年ほど、なにかと面倒くさくなってやめました。パラもそうだけれど道具の多いスポーツはめんどうです。サップはごく最近はじめましたが2シーズンで終わりました。

今つづいているのはスキーと山登り、ハイキングくらいでしょうか。山(ロッククライミング)がいちばん長い。50年。ジョギングは30歳から初めて30年ほど。10年ちかくフランクがあって2年まえに再開。2kmほどですが走ります。コロナでスポーツクラブが休館になったとき再開しました。山と同じでひとりでもできるのがいい。道具もあまりいらない。いつまでやるかわかりません。

2022年1月 伊藤文博 itokisya