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9.15.2026

立場山と古い写真(八ヶ岳阿弥陀岳)

 立場山(八ヶ岳阿弥陀岳)

なつかしの青薙の写真

2026年9月14日 (月曜日)

member itokisya(記)

今日だけいい天気。一ヶ月も長雨つづいてます

立つ場山山頂は苔の森



青薙ヨコの崩壊地、権現、南アルプス

だれもが押さえる青薙の写真

青薙から権現岳

立場川の河原、旭小屋がこの奥にあった



前日午後出で富士見嶌宿道の駅、車泊。

朝、八ツ鉢巻道路に上がり、船山十字路Pに7時。なんと満車、外れに無理やり置きました。平日なのに。

久しぶりの好天予報。地元車が多いかんじ。

みんな御小屋尾根か南稜へとっくにスタートした模様。

林道を行き、広河原を石つたいに渡渉、向かいの急坂を登って立場山末端の尾根にあがります。

あとは600mの急登りで立場山、好天ですが尾根では展望はありません。

シャクナゲの林から北八つのような苔の森にかわります。西岳がたまに見えます。


アルプスのガイドのような山ウエアの壮年に抜かれました。南稜だからいいかな。

道脇にロープが張られています。きのこ山の見張り人がいました。境界争いがあるのか標識がやたらに目立ちます。赤ペンキがうるさいです。

会ったのはこのふたりなので、ま、静かな山です。


立場山を越えた少し先が青薙(あおなぎ)、素晴らしい景色です。のんびりしました。

何十年前に撮った写真と同じ位置でセルフィーとりました。

急速に雲が張ってきました。

11時ころ。往路を下ります。

尾根の末端で旧旭小屋へ下ってみます。廃道でした。小屋は地下室のあとがあるだけ。

ここは長大な堰堤ができて広い河原に変わってしまったようです。

堰堤からは古い林道を下って渡渉2回で車に戻りました。この廃道は危ないので歩かないほうがいいです。

2時終了。ちょうど雨がふってきました。好天は半日だったよう。

63年前か

同じところ





旭小屋の古い標識

ヤマケイネットの昔の南稜への道


おもひで

60年以上まえの記念写真の場所わかりました。ヤマップでほかの人の写真を見ておおよそわかっていたのですが、

今回、1m以内ピンポイントで確認できました。青薙の西南端です。だれでも1枚とるところです。


八ヶ岳は地元、高校山岳部にいましたので阿弥陀岳あたりはよく登りました。

旭小屋を通って南稜。となりの広河原沢、立場川本谷、ガマ滝沢など。

当時旭小屋はなぜか開放されていて1,2度泊まったことがあります。

30歳を越えたころですが、阿弥陀南稜はクライミングに自信があったのでしょう。p3からp1までソロでダイレクトで登ったと自慢してた覚えがあります。


ガマ滝沢を再登したのはやはり30台、ガマ滝沢を登って地獄谷を下るという企画を作り星くんと行きました。ちょと危ないことがあったかもしれません

確か稜線のキレット小屋に泊まったはず。皇太子が南アルプスのどこか登った日です。

みんな若いころですね。


なぜか学生時代のゼミの仲間と青薙で撮った写真があります。山好きの明治の加藤くんもうつってます。まだ20台のころかもしれません。青薙から戻った覚えはないので南稜を登って山頂まで行ったはず。

原村に移住してた池学さんファミリーと南稜にいちご摘にみいったこともありました。そのあと山で逝ったので40台かな(最近2026年、このときときの写真発見しました。頂上まで行って中央稜を下ったとありました。この文末にある清陵小屋の残骸はそのときのことでしょう)。

それが最後の阿弥陀岳あたりのおもひでです。

中央稜の末端、広河原沢の谷底に捨てられた小屋があってそれを見つけてきた仲間が、勝手に清陵小屋と名つけてしばらく使ったこともあります。

広河原沢左股を登っていて大滝で滑落したのもそのときでしょう。おおごとにはなりませんでしたがしばらく不自由でした。右股は難しそうでいきませんでした左股はたしか2回登っている。

そのころ高校山岳部は冬山もふつうにやってましたから、阿弥陀の北稜とか北西量は正月合宿のメニューに入っていました。

広河原沢や立場川本谷はガイドブックにもでていたはず。アルペンガイドなどのガイドブックは親切で八ヶ岳の沢は網羅していたはず。独標登高会の八ヶ岳研究は愛読書でした。


思い出しました。立場川をつめて中岳に登り、ハイマツの中でビバークしたことがあります。

夜中にこのあたりの怪談が頭をよぎり不眠の夜でした。明け方に赤岳を越えて肩の小屋今の展望荘に入ってご飯と味噌汁をもらって生き返ったのを覚えています。親切な親父でした。







旧旭小屋のこと

立場本谷の旭小屋へはヤマケイのネット地図にまだ道があります。建物記号もあります。いつの地理院地図なのか。立場山から南稜への登路は旭小屋経由になっています。今の道はなし。

そのころスタートはどこだったか覚えていませんが、やはり美濃戸口でしょう。そのころでもバスが入っていたか。それ以前は茅野駅からバス、八ヶ岳農場の馬鈴薯農場が終点でそこからみんな歩き始めたものです。高校一年のときはそうでした。

そんな距離はなんとも思わないほど若いころですね。

美濃戸口からうまくトラバースして船山十字路あたりを通って旭小屋までいい道があったはず。今そのあたりは別荘地になっています。

広河原沢と立場川本谷の渡渉があるし、旭小屋裏からの道はもう消えているし、で、今はだれも使ってないでしょう。沢登りの人があるいているかもしれません。

いやはや、戦後っ子がこんな昔話をする、そんなご時勢になってしまったんですね。


写真の場所

高校1年の私と5つ上の兄です。何回か行ったのでほかのところか、とも思ってました。

中央稜末端の清陵小屋

清陵小屋になぜか一人で泊まっていてそのころ新式のフランス製ブタンコンロが火を吹いて外に投げ出したことがあります。髪の毛まゆ毛が燃えた。誤操作でした。そのころの写真かも。

八ヶ岳の西面は家や学校からいちばん近い高山でしたから私もみんなもよく行ったんですね。その後もけっこう。

いつだったか中央稜を下って広河原沢に降りたとき小屋がまったく潰れていたのを発見した覚えがあります。あれはいつの山行か、あれは夢だったのか。もうわかりませぬ。









7.09.2026

倉見山(富士吉田・西桂町) 

富士急三つ峠駅が最寄り

2026年7月8日 水曜日、くもり晴れ

member sam itokisya(記) 

堂尾山公園で。桜の名所らしい

都留の三つ峠駅が見えます

今日はだれにも会いませんでした


Samさん5時ピックアップして中央道都留IC。富士みちを走って西桂町競技場。

8時前にスタート。沢沿いの道から北尾根に上がって、急坂道をジグザグ登ります。最近嵐があったのか倒木や折れた枝が目立ちます。目の下に富士急の電車が小さく見えました

600mほど登って昼に山頂。富士山が頭を雲の上に出していました。

富士吉田明見と西桂町の境界尾根を下って、堂尾山公園経由で戻りました。2時前終了。駐車場・登山口間のアプローチがわかりにくいです。

山名も初耳でしたがSamさんのプラン、杓子山とは尾根続きです。涼しい北風が入っていて快適でした。


北斎の明見の富士

ヤマップ使ってみました

パノラグラムにのせたAi画像、cgptで生成しました

◉追加
羽根田治さんの新刊で東洋経済社からでています。
ちょうどいまの私(高齢、低山愛好)に向いた内容で、役にたちます。
年寄りは足が弱ってつまずいたり転んだりすることが多い気がします。
その辺の低山でもころんだ勢いで谷や崖に落ちてしまうところはたくさんあります。こわいですね。
ほかにもあれこれ低山遭難の事例があります。読んでおくといいかもしれません。



4.29.2026

旧正丸峠と伊豆ヶ岳(奥武蔵)geminiでの作成文も追加

ハイカーの聖地だといいます

2026年4月28日 (火曜日、はれ)

member sam55 itokisya(記)

高麗郷高麗神社


こんにちは、チャットGPTで作成


正丸駅

旧正丸峠

ふれあいの道というのも昭和のものらしい

新緑の奥武蔵

こんちわ


5時にsamさんが迎えにきてくれてそのまま環八から関越道、圏央道で狭山日高IC。

セメント積みトラックが行き交う国道299号で正丸駅西武鉄道、7時前。駅のパーキング1日500円。


好天の朝で10度くらい。国道から外れて村の道へ。旧正丸峠へ向かいます。2時間ほど歩いて沢沿いから尾根に上がったところが峠。

秩父側が見えます。尾根伝いにさらに登って正丸山、旧国道正丸峠を横切り   山。武甲山が見えます。ここまで出会ったのは数人。

いったんコルに下って急坂の登り返しで伊豆ヶ岳。山頂には数人、蝶々とりの人もいました。

samさんの案内がなければ登ることのない有名な山です。60年代のハイキングブームのころは山頂に茶屋があったとのこと。

日帰りハイカーの聖地ともいうべき山だそうです。

下って大倉山に戻り高差400mほどで村の道にでました。1時過ぎに正丸駅着。

帰路、高麗郷に寄りました。高麗神社と巾着田、日和田山を見て昔のことをおもいました。


高麗川支流


高麗神社


おまけ

geminiで作ってもらった。

ご提示いただいた原稿には、臨場感あふれる当日の様子が記されており、大変参考になりました。


元の原稿にある具体的な行程(狭山日高ICからのルート、国道299号のトラック、旧正丸峠から武甲山、そして後半の高麗郷への立ち寄り)を活かしつつ、前回ご提案した歴史的背景や現状の描写を自然な形で織り込みました。


ご指定通り原稿用紙3枚(約1200字)程度の紀行文に仕上げています。


紀行文:奥武蔵の風に吹かれて――正丸駅から伊豆ヶ岳、そして高麗郷へ

二〇二六年四月二十八日、火曜日。雲一つない快晴の朝、午前五時にSamさんの車に迎えられ、都心を出発した。環状八号線から関越自動車道、圏央道を継ぎ、狭山日高インターチェンジを下りる。セメント積みのトラックが頻繁に行き交う国道二百九十九号線を走り、西武鉄道の正丸駅に到着したのは、まだ七時前だった。


駅のパーキングに車を停める。料金は一日五百円。車外に出ると、好天の朝の空気はひんやりとして、気温は十度ほど。都心の喧騒が遠い過去のように感じられる。身支度を整え、国道から外れて静かな村の道へと歩みを進めた。今回の目指すは、奥武蔵の古典的な縦走コース、旧正丸峠から「日帰りハイカーの聖地」と称される伊豆ヶ岳(いずがたけ)である。


しばらくは沢沿いの緩やかな道を歩く。やがて登山道へ入り、二時間ほどかけて尾根に上がったところが旧正丸峠である。ここはかつて「秩父往還」の一部であり、秩父絹を運ぶ馬や巡礼者が越えた古い歴史を持つ。峠からは、新緑の間に秩父側の山並みが望めた。古人たちも同じようにここで汗を拭い、景色を眺めたのであろうか。


峠を後にし、さらに尾根伝いに高度を上げる。途中でドライブインのある旧国道の正丸峠を横切り、いくつかの小さなピークを越えていく。出会ったのは数人のハイカーのみで、静かな山歩きが続く。木々の隙間から武甲山(ぶこうさん)の石灰岩で削られた山容が見えた。


いったん峠に下り、そこから最後のアリ地獄のような急坂を登り返すと、標高八百五十一メートルの伊豆ヶ岳山頂に到着した。山頂には先客が数人。その中には、蝶々を追いかけている人の姿もあった。


この伊豆ヶ岳は、六十年代のハイキングブームの頃には山頂に茶屋があったという。今はその面影もなく静かだが、その当時から多くのハイカーを引き寄せてきた、まさに奥武蔵の象徴的な山である。Samさんの案内がなければ、私一人では登る機会もなかったであろう。山頂は木々に囲まれ視界は限られるが、木陰で休憩をとり、かつて栄えた聖地の賑わいに思いを馳せた。


下山は峠に戻り、高低差約四百メートルを一気に下って村の道に出た。午後一時過ぎに正丸駅に到着。心地よい疲労感が残る。


これで終わりではない。車で日高市へ移動し、高麗郷へと向かった。渡来人の歴史を今に伝える高麗神社に参拝し、秋には曼珠沙華が咲き乱れる巾着田を訪れた。そして最後に日和田山の山容を見上げてから、帰路についた。奥武蔵の自然と、古い歴史に触れた、充実の一日であった。


(約1,190字)

シダレザクラと高麗家住宅

チャットGPTで満開に改造しました


追加

正丸峠と旧峠、正丸トンネルの歴史と伊豆ヶ岳を書いた古い紀

行文などを盛り込んで400字8枚くらいで作れますか

原稿用紙5枚に縮める。ですます調、英数字を使います。

承知いたしました。ご提示いただいた内容を元に、ですます調、英数字を使用し、原稿用紙5枚(約2000字)程度にまとめた紀行文です。


紀行文:奥武蔵、峠と峰の記憶――正丸峠・伊豆ヶ岳・高麗郷を巡る

2026年4月28日、火曜日。午前5時の都心は、まだ眠りの中にあります。雲一つない快晴の朝、Samさんの車に迎えられ、私たちは奥武蔵を目指しました。環状8号線から関越自動車道、圏央道を継ぎ、狭山日高インターチェンジを下ります。国道299号線に入ると、セメントを積んだトラックが頻繁に行き交います。西武鉄道の正丸駅に到着したのは、7時前でした。駅のパーキングは1日500円。車外に出ると、空気はひんやりとし、気温は10度ほどでした。身支度を整え、国道から外れて静かな村の道へと歩みを進めました。

今日の目的地は伊豆ヶ岳です。昭和のハイキングブームの頃より「日帰りハイカーの聖地」と称される山です。しかし、今回の旅は、単なる頂への登頂ではありません。この地に刻まれた、交通の変遷という歴史の層を、足で確かめる旅でもありました。私たちはまず、その古い記憶が眠る「旧正丸峠」を目指しました。

一、旧正丸峠と秩父往還の記憶

沢沿いの、苔むした岩が点在する緩やかな道を歩きます。二時間ほどかけて沢を離れ、ジグザグの急坂を登りきると、そこが標高636メートルの旧正丸峠です。今は杉の植林に囲まれ、静寂だけがありますが、この峠こそ、かつての「秩父往還」の重要な拠点でした。

秩父地方と江戸を結ぶ、最も険しく、かつ最も重要な物流の動脈であったこの道は、秩父絹を背負った馬子や、札所巡礼の旅人が絶えることはありませんでした。当時の秩父にとって、絹は「秩父銘仙」として江戸で珍重された、地域の命運を握る物産でした。その絹を江戸へ運ぶため、馬たちはこの険しい峠を越えたのです。峠に立ち、木々の隙間から秩父側の山並みを眺めていると、遠くから馬の鈴の音が聞こえてくるような気がします。

二、正丸峠とトンネルの時代

旧正丸峠を後にし、私たちは尾根伝いに南へ向かいました。しばらく歩くと、突然、視界が開け、立派な舗装路に出ます。ドライブインが建ち、多くの車やオートバイが休憩する、現在の「正丸峠」です。昭和9年(1934年)、この峠道が開通したことで、自動車による物流が主役となりました。かつての旧峠の茶屋は、こちらの新しい峠へと移り、ドライブインとして繁栄を極めました。

しかし、昭和47年(1972年)、峠の真下を貫く「正丸トンネル」が完成したことで、交通量は激減します。長さ3900メートルを超えるこのトンネルは、国道299号線のメインルートとなりました。さらに西武秩父線の正丸トンネルも開通しており、物流も旅客も、すべてが山を貫くこととなったのです。

現在の正丸峠は静かですが、ここから望む奥武蔵の山並みと、遠く霞む東京方面の景色は、今も変わらず美しいものでした。かつての旧峠、自動車時代の峠、そしてトンネル。この三つの交通の層が、わずか数百メートルの範囲に集約されているこの場所は、まさに日本の近代化の縮図といえます。

三、伊豆ヶ岳、「聖地」の威容

私たちは、現在の正丸峠から再び登山道へと入り、いくつかの小さなピークを越えていきました。Samさんの案内で、静かな山歩きが続きます。

いったん下って登り返す、最後の急坂を登りきると、標高851メートルの伊豆ヶ岳山頂に到着しました。山頂には数人の先客がおり、長閑な雰囲気に包まれていました。

この伊豆ヶ岳こそ、1960年代のハイキングブームの頃、その頂に茶屋があり、週末にはハイカーの長い行列ができたという、「日帰りハイカーの聖地」です。当時のハイキングガイドには、リュックサックを背負った人々で駅のホームが溢れ、山道は数珠つなぎの列となる熱狂ぶりが描写されています。

Samさんの案内がなければ、私一人では登る機会もなかったでしょう。山頂は木々に囲まれ、視界は全方位ではありませんが、北側に武甲山の雄姿、東側にはさいたま新都心のビル群や西武ドームがはっきりと望めました。名物の男坂の鎖場は現在、通行禁止となっていたため、平易な「女坂」を経由してきましたが、それもまた、今の山のあり方でしょう。

四、高麗郷への帰還、記憶の円環

下山は峠に戻り、高低差約400メートルを一気に下りました。村の道へ出た時には、足には確かな疲労感が残っていましたが、心は軽やかでした。午後1時過ぎに正丸駅に到着。

車で日高市へ移動し、高麗郷へと向かいました。渡来人の歴史を今に伝える高麗神社に参拝し、秋には曼珠沙華が咲き乱れる巾着田を訪れました。そして最後に日和田山の山容を見上げてから、帰路につきました。

今回の旅で、私は、いくつもの峠を越え、いくつもの記憶をなぞりました。秩父絹を運んだ馬たちの旧正丸峠。自動車で賑わった昭和の正丸峠。そして、多くのハイカーに愛された聖地、伊豆ヶ岳。

それは、以前お話ししたアキ・ホフマンのように、その瞬間のインスピレーションで音楽を創造する「Hear the Now」のような旅でもあったし、ミケランジェリのように、完璧な制御と構造の中に、深い抒情を込めた、緻密な「美」の追求のような旅でもありました。古人が歩いた道へのロマンと、今の山が持つ静かな息吹。それらが交錯する奥武蔵は、これからも、私のような旅人を、異なる時代への旅へと誘い続けるのであろう。車窓から、夕日に染まる武甲山のシルエットが遠ざかっていく。それは、この地に刻まれた、交通と人間の記憶の、変わらぬ象徴のように見えました。



4.03.2026

三浦アルプス2 島原大変

二子山から仙元山(三浦アルプス2)

JR東伊豆駅から葉山森戸海岸まで

2026年4月3日 (金曜日、はれ)

member sam55 itokisya(記)


歩きやすい道ですが雨上がりなので

         



阿部倉山。桜テラスからのながめ

森戸川と阿部倉山、新緑

仙元山山頂




sam55さんの案内で、車も。このごろ菜種梅雨中ですがで今日だけは快晴。

JR東伊豆駅前のパーキング1日800円にとめて6時半スタート。

小学校の先からいきなり山に入ります。雨上がりの森、緩い尾根道を行きます。

小さな峠で折り返すようにして上二子山へ。看板は1時間との案内でしたが1時間半はかかった。剥げた山頂には展望台。

鷹取山から金沢八景、横浜、房総の山が見えます。

小さな窪地があって火口かな。

下二子山へすすみます。ここにもちいさな穴凹があって、この山は古い火山なのかもしれない。注 調べたところこのあたりの山は房総と同じような堆積岩で火山ではないそうです。


尾根道を西へ。阿部倉山にはさくらテラスがあってヤマザクラが満開。オオシマザクラに似ているが山桜はずっと長生きらしい。逗子葉山の海と江の島、富士山が見えました、山頂はここがいちばんいいかも。

急降下していったん住宅街まで下ります。

森戸川を渡り、保育園のところで大山入口の標識があり、かなりの登り30分以上。戸根山まで。ソッカと言われているところ。

小さな起伏があって仙元山ルートに入ります。ここまで数人しか会いませんでしたが、けっこう人に会います。

以前、木下口から往復したコブに到着、ジオグラフィカ上の赤線がつながりました。

すぐに仙元山山頂。眼下に海と街、富士山は隠れてしまいました。

ちょっと下って葉山教会、急な坂道を下って海岸通り、西山さんのブログのマネで森戸海岸で写真を取りました。1時終了。

京急バスでJR逗子駅へ、250円。横須賀線160円でとなりの東逗子駅に戻りました。2時前終了。横横道路、第三京浜で3時前帰宅。

けっこうなお天気、花見もできすばらしいハイキングでした。






 雑談1

阿部倉山麓のの石仏や石碑

畠山重忠(はたけやま しげただ)公のことですね。
阿部倉山に隣接する「畠山(はたけやま)」という山は、まさにこの畠山重忠公に深くゆかりのある場所です。
阿部倉山・畠山と畠山重忠の関連
1180年(治承4年)、源頼朝が挙兵した直後の衣笠城合戦において、当時平氏方だった畠山重忠が三浦一族の拠点を攻める際、この山に陣を敷いたと伝えられています。
  • 畠山(標高205m):
    • 別名「畠山城跡」とも呼ばれます。
    • 重忠がこの地に陣を構えたことから、その名がついたという説が有力です。
    • 山頂付近には、重忠公の功績を称える碑が立てられています。
  • 阿部倉山(標高161m):
    • 畠山と尾根続きになっており、ハイキングコースの要所です。
    • 麓の長徳寺跡の入口付近には、重忠公の守護本尊とされる「畠山地蔵尊」が祀られています。
畠山重忠公について
重忠公は「武士の鑑(かがみ)」と称えられた鎌倉時代の有力御家人です。
  • 武勇と誠実さ: 平氏討伐の「一ノ谷の戦い」で馬を背負って崖を降りた「鵯越(ひよどりごえ)」の伝説や、静御前の舞の伴奏を務めた教養の高さでも知られます。
  • 非業の最期: 後に北条時政の謀略に巻き込まれ、武蔵国二俣川(現在の横浜市旭区)で討ち死にしました。

阿部倉山麓の石仏群


雑談2

白石一郎先生の本おもしろい

島原大変肥後迷惑は知らなかった。雲仙岳(温泉岳)の前山大崩暑団れは有明海上から見たことがあります。すごい。

岡藩主入山公のお墓は久重の大船山登山道途中にあり見たことがありますが、その由来は知らなかった。山好きの殿様。

横浜異人街事件帳は娯楽小説ですがそれなりに面白い。幕末の大騒動。