6.25.2016

河村城址

河村城址
山北の城跡公園

2016年6月23日 金曜日
けっこう大きな工事のあと。畝堀は北条の城の特徴

堀切を渡る木橋、当時は素朴な引橋だったか

かなり大きい。右側は捨て石で本丸は左のエリアか


天候 くもりはれ
member 太郎 伊藤記

富士山からの帰り道、神奈川県山北町にある城址公園へ。中世城の様子がよくわかる整備された公園で、駐車場を探すのに苦労したが早朝とあってだれにも会うことなくあちこち見ることができた。数年前きたときは整備のさなかだった記憶がある。それも完成してきれいな城跡になっていた。というか散策路があってまるで園地のようにきれいになっていて古城を攻城する雰囲気とは遠い。

山北三山と勝手に呼んでるミカン山の西端にあって散策するには手ごろなとこ。
平安時代にその始めができてその後オーナーはめまぐるしくかわり、戦国時代は北条と武田の争いが繰り広げられたそう。城も時代とともに改造され大型化したのはほかと同じ。

このあたりは甲斐と相模、駿河などの三国の堺に近く古城が多いところ。河村新城はすぐ向うにあるし、地名にも惣領とか庶子とかが残っていて246号の交差点名としても知られている。戦国の世では北条方の勢いが強かったのか防御のための土木工事の跡にも畝堀とかの北条の城造りの特徴がよく出ている、と案内にあった。
畝堀は横堀の中に凸凹をつけて攻城を難しくしているとか

本丸。囲いがあって門があって館があったんでしょう

記念碑となんかお堂

南には小田原、鎌倉があって、北には丹沢の山中にいくつか砦があって、道志の山を越えて甲府までのあいだ城跡はたくさんあるようだ。もちろん越後までには諏訪、上田、川中島など合戦の跡がありそれぞれに古城がたくさん点在している。

寺社仏閣なとと違って抹香臭や霊域感がなくて、遊具などの置かれた遊園地ともことなるので犬と散策を楽しむことができるのは城跡のよいところ。中世城跡は近世城のような派手な天主閣や石垣などがなく地味なのも大人の雰囲気だ。
河村城についてはウイキによれば以下。

案内はあまりない、考古学だから推理ば多いのかも



河村城は平安時代末期に藤原秀郷の流れをくむ河村秀高によって築かれたとされる。
建武の新政・南北朝時代に入ると、河村氏は新田氏に協力し南朝方につき、北朝方の足利尊氏と対峙したといわれ、1352年(南朝:正平7年、北朝:文和元年)から2年間、河村秀国・河村秀経らは新田義興・脇屋義治とともこの城に立てこもり、畠山国清を主将とする足利尊氏軍の攻撃をしのいだとされる。しかし、南原の戦いで敗れ落城し河村一族の多くは討死し、新田義興・脇屋義治は中川城を経て甲州に逃れたとされる。
その後は、この城は畠山国清や関東管領上杉憲実を経て、足利持氏の属将、大森憲頼(氏頼の弟)の支配するところとなる。
戦国時代に入ると後北条氏の支配を受けるようになった。元亀年間(1570年(元亀元年) - 1573年(天正元年))には甲斐国の武田信玄の侵攻の際に補強され、その後、周辺の諸城とともに後北条氏と武田氏の間で争奪合戦があったとされる。
1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原征伐で、この城は落城し廃城となった。


本栖城跡と烏帽子岳

本栖城跡と烏帽子岳
青木が原樹海から尾根伝いに

2016年6月23日 木曜日
樹海の中の謎の石垣

本丸にある案内

烏帽子岳山頂と雲中富士

本栖湖畔から城山、烏帽子岳、パノラマ台


天候 はれ
member 太郎 伊藤記

甲斐と駿河を結ぶ古道がいくつかあって、富士山西麓を抜ける道を中道往還というそう。本栖湖畔から青木が原樹海を縫って精進湖、さらに女坂峠、右左口峠を抜けて甲府に至る。駿河湾で採れた魚を徹夜で運んで翌朝に甲府の市に間に合わせたとか。商いの道でもあり軍道でもあったようだ。精進の村は間の宿場でそんな様子が見える。

本栖湖畔の本栖隧道バス停から烏帽子岳裾の青木が原樹海を行く。11時半スタート。樹海の岸辺を行くのでくねくねしているが平坦な道だ。東海自然歩道なので整備されている、が人通りはない。国道にぶつかる手前に城山経由烏帽子岳に続くハイキング道があって城山への案内がある。

いきなり急坂を登るようになって、右に精進湖左には本栖湖を見下ろす。細尾根をしばらく行くと本栖城跡にでる。雑木のきれいな森の中、堀切や郭などが分かる。そういえば樹海の中にも人工的な石積みが続いているところがあった。あれは街道伝いにあった軍事用の石がきなのか。
城山登り口

防御のための堀切

本丸の平

本栖湖の向うに竜ヶ岳

3、2の郭のあと比較的広い敷地が1の郭で本丸らしい。いずれもそれほどの広さではない。溶岩石で作られた当時の石積みも見られる。武田軍が中道往還を見張るための山城というか砦だったという。狼煙台もあった。このあたり地形図には城山と記されている。

本丸でのんびりしてから、狼煙台の裏からさらに縦走路を行く。小さな岩場や細尾根もあってハイキング道としてはグレードが高い。けっこうな登りが続いた後、ひょいと烏帽子岳の山頂に出た。この先はパノラマ台から三方分山へ続く稜線で女坂峠に立つことができる。

パノラマ台は富士展望で知られているが烏帽子岳も似たような立地で悪くない。富士山は雲に隠れているが樹海や御坂や天子の山がよくわかる。少しの時間だが富士山頂も顔を出した。

本栖湖へ下る道は急斜面だがジグザグが上手に作られていてストレスなし。あっという間にスタート地点に戻ることができた。本栖トンネルを抜けてクルマをピックアップ。3時前終了。かなり登ったり下ったりした気分だったが湖畔と烏帽子岳山頂の標高差は350mしかない。今日はだれにも会わなかった。

浩庵荘前から本栖湖畔をひとまわりして、湖西岸の山の様子を眺める。いくつか峠があるがあまりヒトが歩かないエリアらしい。
朝霧高原から天母の湯に寄って小山の道駅へ。ひとやすみしたらすっかり暗くなっていた。

烏帽子高から青木が原樹海、西湖が見える

赤矢印が城山とパノラマ台

ちょうどいいハイキングルート






富士山北口5合目まで

富士山北口5合目まで
昔は大賑わいの古い道

2016年6月22日 水曜日

にぎやかだったころ

御室浅間の跡

五合目から山頂部を見る

天候 くもりはれ
member 太郎 伊藤記

吉田口登山道の馬返しにクルマを置いて11時スタート。太郎と山歩のつもり。このあたり以前にも来ているが5合目まで登るのは初めて。

1合目の鈴原神社までは新道で、古道は直線で延びていたという。大昔、馬返しスキー場とか吉田口スキー場というのがあったと聞いたがどこあたりのことだろう。2合目に御室浅間神社があって崩れかけていた。本体は河口湖畔に移築されている。3合目には2軒の茶屋があったらしい。お堂はいまも建っている。案内に絵葉書の写真があって、戦前まではにぎやかだったようすがわかる。平削された敷地があってお堂と背景のスギの大木など写真と対応することができる。
馬返し

石畳のところも多い

トレランのヒトに二人ほど会う。
4合目から5合目はわずかな距離で、5合目井上小屋はまだ使えそうなほどしっかり建っていた。このあたり中宮というらしい。この先に何軒もの山小屋があったという。跡地が続く。お堂の類は辛うじて立っているが小屋は跡形もない。小屋の前を抜ける登山道は右に左に大きく曲がっている。滝沢林道を越えて少し登ると佐藤小屋に着く。平日とあってクローズ。ここまで2時間半ほど。

馬返しのあたりでは霧雨模様だったが雲を抜けたのか、日が射してきて山頂部がのぞく。ガスが湧き雲が流れなかなかけっこうな景色。佐藤小屋から小御岳神社(スバルライン終点)へ続く緩い坂路は古道だったことが案内でわかった。ちなみにスバルラインから泉ヶ滝、6合目、下山道の一部はお中道です。
案内によると、このあたりにあった山小屋は戦後、六合目以上に移転したものが多いという。以前は五合目の上に小屋を作ることはご法度だったとも書かれていた。
吉田の役場が案内板をあちこちに立てている

遺跡と考えればこのままでよいか
北口登拝道とお中道があり、小御岳道もあった

佐藤小屋の上に星観莊という小屋があって初めて見た。六角堂まで行けばよかったが砂礫が太郎の足裏にはきつそうなんで止め。

下りは往路どうりで、トレラン男女3、4人ほどに抜かれた。五合目まではトレランには向いている勾配かもしれない。登山マラソンも近いので練習組なのだろう。トレラン組以外には下り始めに平日ハイキンググループ10数名とすれ違った。ほかにハイカーはいなかった。
馬返しに3時半ころ帰着。紅富士湯に寄ってちょうどいい頃合いに吉田道駅に到着。
戦前の富士山のスキー場。「富士みずほ通信」から拝借


6.12.2016

石垣山一夜城

石垣山一夜城
縄張がよく分かる城跡公園

本丸から丹沢

城壁のコーナー部

城道と崩れた石ガキ。虎口があって屈曲が多い

2016年6月11日 土曜日
天候 はれ
member 太郎 伊藤記

小田原にあって山頂の天主台や本丸からの展望は絶景である。城跡がよく残されていて当時の様子がわかる。整備されていて歩きやすいが要所は古いものが残されている。
土曜日なんで9時ころになるとファミリーハイカーが多くなってきた。秀吉の小田原城攻めの城ということで人気もたかい。
縄張りのとおりに見学できる

スケール大きい井戸曲輪

本丸から小田原城が見える


相模湾や小田原の町、西湘の様子、丹沢や箱根の山がよく見えて気持ちのいいところ。駐車場も完備されていてレストランや観光牧場もあってだれにもおすすめできる城跡公園といえるだろう。

家来のすみかがあったのか、南曲輪

広い本丸

展望台から相模の海



御正体山3

御正体山
大きな山、地味
2016年6月10日 金曜日
道坂トンネルの駐車場は数台おける

きれいな雑木の森

山頂はほんとに展望がない


天候 はれ
member 太郎 伊藤記

梅雨の晴れ間らしい。御正体山は3度目になる。道志一の大きくて高い山だが展望も少ない地味な山である。山梨の森林100に選ばれているのはここの広葉樹の森だという。
道坂峠からピストンするルートを選ぶ。8時半スタート。

トンネル脇のへんてこな登山口から登る。旧道坂隧道につながる旧バス道のあとがわかる。道坂峠はそのトンネルのできる前まで使われていたはずで、古い踏み跡がまだ残っていた。
少し前に道志登山マラソンがあって1000人以上のランナーが走ったようだが、その跡が生々しい。
ところどころで道志の谷と菰釣山など丹沢の山が見える。北側には笹尾根とか三頭山の山がかすんでる。
3つほどのコブを越えて、白井平からの道をあわせて山頂への急坂を登る。12時山頂。3時間半もかかった。
山頂に二人組がいた。
旧道坂峠。堀のような深い道。天神様は下の下ろしたらしい

たろう

往路を戻って2時過ぎに終了。帰路でひとり抜かれたがあったのはその3人だけ。
地味過ぎる山だが太郎と行くには静かでいい。
道志道で山伏峠をこえて石割湯に寄って吉田道駅。顔なじみおいさんがいた。

海外の山旅メモ

海外の山旅メモ 伊藤フミヒロ



1974年1月12日ー1月26日 
フランス、スイスへ。ラプラーニュ、ツェルマット、シャモニなどのスキー場をまわる。skier誌の取材。小野勝カメラマンと。初めての海外出張、初めての飛行機でエールフランスの新鋭ジャンボ機だった。

1974年12月28日~1975年1月11日 
フランス、イタリア、スペイン。カワセツーリストに頼んで新婚旅行。

1975年2月23日~3月13日 
カナダ。バンフとリトルヨッホ国立公園へスキーの取材。末広明カメラマンと。CMHのツアーで山小屋に泊まって山スキーを楽しんだ。スイス出のコビ・ウイスがガイドだった。CPエアーとタイアップしている。skier誌に掲載。

1975年10月21日~24日
バリ島へ。コンチネンタルエアーがバリへ初就航するというご祝儀料金で行った。2回目の新婚旅行。

1976年3月10日~4月16日
アメリカ、コロラド、ユタのスキートリップ。デンバーにいた山岸行輝カメラマンと。後半はキャンピングカーで回った。アメリカ人スキーヤーを連れての撮影旅。たしかヤマハのスキーとタイアップ。skier誌に掲載。なぜか長期取材になっている。最終週はLA在の加藤幸雄とカリフォルニアの観光をしたのかもしれない。カーメルやヨセミテに行ったはず。

1979年4月25日~4月29日
サイパン島。会社の先輩市川泰雄さんなどと。リンホフなど4x5大型カメラを持って撮影旅行。ジャングルの道をドライブした。

1979年7月1日~7月28日
Outdoor誌の取材でアメリカへ。芦沢一洋、佐藤盛男、望月久カメとワシントン州、ワイオミング、コロラドなどフライフィッシングなどの取材。アイダホサンバレーではジャックヘミングウエイなどインタビュー。夏のアスペンも再訪した。このころskier誌からOutodor誌に移籍している。それにしても長期の取材だ。

1981年3月18日~4月25日
カナダ。skier誌に再移籍しての取材。末広明カメ、裏磐梯の安藤さんと。ウイスラーなど西海岸で取材したあとレベルストークでヘリコプタースキーの取材。さらに東に移動ケベックのスキー場などを取材。CPエアーとタイアップしてバンフやケベックのCPホテルに泊まった。航空会社とのタイアップなのでファーストクラスに載せてくれることが多かった。最終週はカリフォルニアへ旅行したはず。スペースシャトルコロンビアが地球初帰還するのをテレビで見た。

1982年3月3日~3月24日
イタリアへ。在欧の青木紘二カメとベニスで合流してドロミテ、コルチナなど北イタリアのスキー場巡り。チェルビニアではガイドといっしょにブライトホルンにスキー登山した。視界が悪く雪庇から落ちそうになった。skier誌に掲載。青木カメはその後写真通信社アフロを立ち上げた。

1983年3月16日~4月9日
山と渓谷誌に移籍してネパールへ。近藤辰郎カメとアンナプルナ街道とエベレスト街道のトレッキングの取材。アトラストレックとのタイアップで前半は添乗の前谷さん、玉川学園の女生徒などに同行。後半はシェルパとタンボチェまで行った。前谷さんは近頃はパラグライダーのツアー会社アドベンチャーロードをやっている。
このあと山と渓谷誌の編集長おおせつかって、海外取材はなんとなく自粛、若手にまかせて国内の山ばかり行くようになった。

1989年7月12日~7月15日
桑子登さんと香港とマカオへ観光旅行。痛風を発症して山歩きが辛く近隣諸国へ。その1回目。

1989年9月22日~9月28日
香港と広州、海南島へ。桑子さんと。中国は面白い。

1989年10月21日~11月12日
ネパールへ。中村みつをさん、中村正之さんとエベレスト街道トレッキングの取材。カラパタールまで登る。このころ書籍編集部に移籍、山岳コミックシリーズを立ち上げてあちこち出かけるがその海外版の最初。痛風は治っていたが杖を突きながら。

1989年12月8日~12月11日
韓国ソウルへ。桑子さんと。初めての韓国、なんとなく後進な古くさいところが気に入った。

1990年6月28~7月1日
台湾台北へ。桑子さんと。初めての台湾。暑い、おいしい。

1990年7月6~20日
シャモニとグリンデルワルトへ。中村みつをさん、中村正之さんと。コミック本アルプスハイキングの取材。前半はグリンデルワルトあたり。アトラストレック社長の磯野剛太さんが添乗。ツェルマットで白馬の降旗義道さんとブライトホルンに登る。

1990年9月21~25日
上海へ。桑子さんといっしょだったような気がする。平和飯店泊。蘇州にも行く。中国史に興味が湧く。陳舜臣先生など愛読。

1991年1月6~9日
香港へ。会社の忘年会で香港旅行が当たったので、ファミリーで。

1991年9月26~30日
香港へ。一人だったか忘れた。南y島などへクルーズ。写真は残っている。

1992年4月8~12日
アメリカユタ州へ。北田啓郎さんなどカリブースキークラブと。これが1回目でこのあと毎年アメリカツアーが続く。10回ほど。ユタ州のワサッチ山脈のスキー場と山スキー。ワサッチのテレマーカーの洗礼を受ける。取材というよりも遊びだが、記事は山と渓谷誌などに掲載。
メンバーはカリブークラブとそのとりまき。北田敬郎、伊藤裕之、野口俊一郎、真壁静子、竹内利春、真下
薫之、ベンジャミン・バーディ。ブログ

1992年11月10~12月2日
ネパールへ。ポカラからバラポカリなどマイナーなトレッキングルートへ中村正之さんと。「ネパールトレッキングガイド」の取材。シェルパと仲良くなる。
ジョムソムに飛んでムクチナートまで行ったのはこのときだと思う。ジョムソムで飛行機がオーバーランして川に半分落ちていたのも目撃。ちなみにムクチナートまで自動車道があるようだ。

1993年3月30~4月11日
コロラドへスキー。テンスマウンテンツアーの1回目。小屋から小屋への縦走スキー。パラゴンガイドのダンさんと知り合う。

1993年10月23~11月12日
ネパールへ。ムスタンへのトレッキング。ローマンタンで王様にインタビュー。中村正之さんと。「ネパールトレッキングガイド」の取材2。記事は山と渓谷誌などに掲載。
googlemapを見ていたら、ムスタンの村にジープのような車があった。オートバイでムスタンに向かう白人グループの写真も発見。25年で大きく変わったようだ。
チトワンやルンビニに遊びにいったのはこのときだと思う。

1994年3月30~4月日11日
コロラドへスキー。テンスマウンテンツアーの2回目。指名でパラゴンガイドのダンさんとローラ。記事は山と渓谷誌などにも掲載。

1994年8月6~24日
チベットへ。クライミングチームKIM同人がカトマンズで集合。ヒマラヤを飛びこえてラサへ。チベットを観光。このころ開放ムードがあって外人が入れるようになっていた。ラサ,ギャンツェ、シガツエなど。

1994年10月6~11日
カリフォルニア州ジョシュアツリーへクライミング。Rock &Snow誌の立ち上げ準備でその取材。徳地さんがガイド役。砂漠のクライミングは楽しい。

1995年1月3~11日
タイのプラナンへクライミング。森光、モモ、ケイと。南国のクライミングは楽しい。ブログ

1995年3月25~4月9日
コロラドへスキー。テンスマウンテンツアーの3回目。小屋から小屋への縦走スキーでこれで全ルートを踏破。翌年だったかダンさんとローラを日本へ招聘した。

1995年10月13~11月11日
ネパールヒマラヤクンブーのメラピーク登山。6500mの山頂からテレマーク、スノーボードで滑降。忠さんはパラグライダーで飛んだ。KIM同人の遠征。Rock &Snow誌に掲載。ブログ

1996年4月10~24日
アルプスオートルート縦走。渡辺賢二、黒川春水とシャモニガイド協会のツアーに参加。好天に恵まれ全ルート走破。モンブラン登山はならず。Rock &Snow誌に掲載。ブログ

1996年8月24~9月5日
ニュージーランドスキー。
ワナカにいた黒川晴介、春水と合流してエンジョイスキー。クック村に移動してスキープレーンでクック氷河へ山中2泊でスキーを楽しんだ。
Rock &Snow誌に掲載。
メンバー ヒロユキ 真壁さん、静子様、ゆみさん、KISYA、現地・黒川、春水
ブログ

1996年11月14~20日
カリフォルニアのジョシュアツリーでクライミング。現地集合でARK山岳会が集まった。ARK山岳会はKIM同人が発展したお仲間クラブ。
このころRock &Snow誌の取材が忙しくなり海外クライミング行が増える。メンバー 光、桃、徳池、チュー、ケイ、丸山夫妻、ペンバ、テンジン、KISYA。

1997年4月27~5月6日
カリフォルニアのシエラ山塊のスキー。コロラド10スマウンテンを終えてシエラへ。ロッククリークキャニオンなででテント山行。来年のシエラハイルートの予行など。タイオガパスでもスキーして3大峠スキーを達成のはず。メンバー 北田、真壁、溝部、裕之(以上カリブークラブ)、西原、糸尾(以上DCCC)  現地、モンベル渡辺、ベン・バーディ。ブログブログ2

1997年6月7~15日
カリフォルニア州ヨセミテ公園のクライミング。初見参。黒川晴介がガイド役であちこち登った。7人のクライマー。なべちゃんもいたな。http://www.pguide.jp/chronicle2/yosemite.html

1997年8月25~29日
韓国インスボン初見参。黒川晴介と登った。ブログ

1997年10月24~30日
カリフォルニアジョシュアツリーでクライミング。3回目。メンバー HIKARI, HANEDA OSAMU,UNEZU,TOKUCHI,JERMI AND FRIENDS。ブログ

1997年6月27~7月11日
いまはなきシャモニのロジェルキャンプ場に滞在。黒川晴介がガイド役でアルペンクライミング。ダンデデュアン、グランドジョラスなど数峰に登る。ブログ

1998年4月22~5月6日
カリフォルニア州、シエラ山脈を横断するハイシエラルートを走破。天候に恵まれた5泊のテント山行。チャーター飛行機2台で移動するなど大掛かり。ベンがガイド役。御兄さんもやってきた。メンバー 北田、溝部、真壁、渡辺、西原、ひろゆき、ベン、マット、汽車。ブログ

1998.6.6-15
ヨセミテクライミングmember kurokawa haneda osamu itokisya ブログ

1999年4月28日~5月11日
ワイオミング州ティトンクレストツアー。シエラハイルートの次はティトンだ、とメンバーがジャクソンに集合。ダンとベンちゃんもやってきた。
帰りはとくちさんのトラックでくろちゃんといっしょにアイダホ、オレゴンの旅をしながらロスアンゼルスに戻った。楽しいロングドライブだった。
メンバー 松倉一夫、黒川晴介、徳地保彦、汽車、北田啓郎、溝部克実、真壁章一、真壁静子、DON SHEFCHEK,BENJAMIN BURDE
ブログ

1999年6月9日~12日
韓国インスボンクライミング3回目。川崎博カメもやってきた。ブログ

1999年6月22日~7月8日
グリンデルワルトのキャンプ場に滞在。毎日キャンプ飯で楽しい。ユングフラウ、メンヒなどに登る。黒川晴介がガイド役でモンベル金森さんもやってきた。ツエルマットに移動してブライトホルンなどでスキー。ブライトホルンは3回目の登頂。ブログ

1999年8月30日~9月11日
コロラドクライミングツアー。徳地さんがガイド役でコロラドの岩を登りまくった。ボルダーベースにあちこち。ロッキー国立公園に入ってロングスピークにベースを持ち上げたが天候悪く下山。ブログ

2000年3月4日~16日
コロラド、ワイオミングスキーツアー。真壁夫妻とまっちゃんと出かける。昨年に続きでワイオミングジャクソンに移動。遅れてやってきた北田御大チームと合流。ティトンクレストに挑戦。とりあえず抜ける。member:真壁夫妻、松倉、北だ、みぞーべ、ひろゆき、汽車。ブログ
昨年末で山と渓谷社を退社して自由になったが、パウダーガイド社を立ち上げで忙しくなった。

2000年6月3日~6月11日
カリフォルニアクライミング。Rock &Snow誌の仕事が続いていてその取材。徳地さんがガイド役で南カリフォルニアの岩場をいくつも巡る。羽根田オサムさんも常連の取材だ。ハワイに移動してオアフ島のクライミングも取材。シュノーケルもやった。ブログ

2001年2月27日~3月3日
パウダーガイド誌の取材や編集に忙しい。が韓国済州島へスキー。黒川晴介と川崎カメラマンと。異色エリアだがいちおうスキーもできた。ハンラ山は規制があって山頂に立つことができなかった。このあと相棒黒川晴介は山で死んだ。ブログ

2001年4月17日~26日
オレゴンとワシントンのスキー
真壁さん、松倉さん、川崎カメラと出かける。レニアのキャンプミュアからスキー。オレゴンサワッチ山系でバックカントリースキー。カナダに出張してウイスラーでもスキーした。ブログ

2001年7月3日~16日
中国新疆へ。ウルムチから天山山脈を横断、クチャまでの旅。ボゴダを見上げるアンテナ山などにハイキング。まっちゃんとの楽しい辺境旅だった。ブログ

2008年7月1日~6日
バリ島へパラグライダートリップ。2001年からパラグライダーにはまった。海外トリップの初め。サンパラのハブ中村校長たちと行った。佐野さん松本さん、いまなきトウショウさんなど。佐野、高橋、羽衣、東松、為国、松本、藤本、サンパラハブ校長、ハブ父、イク王子、ケビン
ブログ

2011年1月7日~11日
台湾パラグライダー
河口湖スクールの水野校長となみきさんと台北で待ち合わせて桑原、佐野と行った。ピントンへ移動、サイチャの航空公園。校長は翌年急死。
メンバー 水野校長、並木デレクター、桑原、佐野、伊藤フミヒロ ブログ

2013年1月21日~27日
台湾パラグライダー
村越隊長、島袋さんなどとスカイ朝霧チームに入れてもらった。サイチャの航空公園。
member 島袋、村越、小野、さのさ、宮田大ちゃん、榊枝、中の、中村、甲斐、伊藤文博記。永井、阿倉(スカイ朝霧)リーさん(ガイド)
パラグライダーの旅行では海外のほか、スキーや登山ではあまり行くことのなかった四国や九州、沖縄などを訪ねることが多く新鮮だった。ディンギーのレザー界もそうだったけれど(小型ヨットも2回買ってずいぶん熱中した)登山界とは異なる人種を知ることができたのもよかったですね。
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2013年2月13日~17日
バリ島バツール山登山。バリ在の兄とケイと3人で登った。
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2013年6月25日~7月9日
アルプスパラグライダー
前半はスカイ朝霧のツアに入れてもらった。ドロミテあたりとグリンデルワルトをフライト。後半はツアーと別れてレンタカーでフランスへ。シャモニ、アネシーなどでフライト。
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2016年2月21日~26日
バリ島アグン山登山
現地ガイドといっしょに夜行登山で日の出に山頂に立つ。南国の山も面白い。ロンボク島のリンジャニが見えた。次はあれだな。 ブログ

●おまけ

野外に出て日に当たることが多かったので顔だけ見れば色黒の人とおもわれているかもしれない。が地はすごく色白である。
閑話休題。
梅雨空で犬との山歩きにもでかけられない。そんな日が続くので古いことを調べる気分になった。使いきったパスポートがたまっていたので出国と帰国のスタンプを見て海外に出かけた記録を書き出すことにした。旅券のことなので漏れはないはずだが、どこに行ったのか不明のものもあったがおおむね間違いはないと思う。

こうしてみると案の定ほとんどが山かクライミングかスキーの旅だった(古い海外旅のレポ一部。50歳で始めたパラグライダーの旅もあって、あちこち行ったもんだな、というただのおもひ出メモになってしまった。まったく個人的なものだがたまには昔を振り返るのもいいだろう。正確な日程がわかってなんだかよかった。

これを見ると仕事や友人があっての人生だなという感想。つくづくまわりには感謝しなければならない。
それから、けっこう危ないことをやってきたのにケガひとつしなかったという幸運にも気がついた。飛行機やクルマの事故に遭うこともなかった。神サマありがとう、ということだろう。

国内の旅となるとあまりにも膨大になるので、はなからあきらめているが、ここ20年ほどの山旅などはまずいブログになってインターネットにさらされている。がこれもいずれサイバー空間を漂うゴミとなるのだろう。
古い写真やアルバムなどと同様に捨てさることになるこのメモだがいっときの手すさびと思ってせっかくだからアップしよう。

蛇足。
信州の山ざるだったので町は苦手だった。それでも東京の学校を出て運よく雑誌社に就職することができた。山やスキーなどアウトドア系の出版社だったので山好きの自分にはぴったり来たことだった。
1971年から1999年までずーと編集畑で仕事がら内外の山に取材で出かけることが多かった。産めよ増やせよの時代で、雑誌100冊以上、単行本100部以上は作ったのではないだろうか。数えたこともないが粗製乱造ではなかったと思いたい。

2000年以降は独立して小さな出版社を作った。で、あいかわらず山にかかわる本を作り続けた。
が、この頃は細かい仕事が面倒に感じてきた。もうあとは好きにしてもよいかもしれない。
体力は変わらず、近頃は体重もベストで、今クライミングすればかなりいいところまで行けるかもしれない。
これからだ人生は、の気分だが、これからは目立たず出しゃばらずで行こうのココロなのだ。

2016年6月 伊藤フミヒロ記