5.27.1999

マッキンリーからペルーアンデスへ

CLIMBING TRIP FROM DENALI TO ANDES

マッキンリーからペルーアンデスへ
花谷泰広 

99年5月から8月、ぼくのクライミングトリップ 花谷泰広 信州大学山岳会

 1996年秋、ぼくは信州大学山岳会のヒマラヤ登山隊の一員として、未踏峰ラ
トナチュリに登らせてもらった。まだ大学2年生だった当時、冬山もたったワンシー
ズンしか経験していなかった。そんな未熟者がヒマラヤに通用するわけがなく、登頂
はさせてもらったが、ルート工作はおろか荷揚げも満足にできず、喜びよりも悔しさ
が残った遠征だった。だからつぎは自分の力で、できれば現役の部員だけでどこか海
外の山に登ろうと思っていた。そういう思いを抱いていたときに会に入ってきたのが
今回のパートナーの大木君だった。彼は入会当時からモチベーションが高く、ぼくと
同じように海外の山にあこがれを抱いていた。そして99年に海外の山に登ろうと意気
投合し、その目標をアラスカのマッキンリーとペルーアンデスにした。 
  けじめ
の山 
 マッキンリー(6194m)は日本人によく名前が通っている山の1つでは
ないだろうか。ぼくのなかでマッキンリーという山は、北米大陸最高峰としてではな
く、あの植村直己を飲みこんだ山として存在している。中学1年のとき、長尾三郎氏
の著書である『マッキンリーに死す』という本を読んだ。その読書感想文に「いつか
ぼくがマッキンリーに登って、植村さんの遺体を見つける」と書いた。ぼくも植村直
己にあこがれ、山にのめりこんでしまったひとりなのだ。だからマッキンリーはぼく
にとってけじめのような山なのだ。 
 5月24日、ついにわれわれの旅が始まった。
ロス経由でアラスカ入りをしたので、ずいぶん遠く感じた。 
 25・26日は、アンカ
レッジで買い物をしたり、隊荷の整理などに追われた。アンカレッジには登山用品店
がいくつかあり、品揃えがよく安い。スーパーマーケットもたくさんあるので日本か
ら大量に食料を持ちこむ必要もない。やや高いが、日本食も手に入る。大量の荷物を
前にうんざりする。でも、26日中になんとか準備を整えることができた。 
 5月27
日、いよいよマッキンリーの登山基地タルキートナに向かう。入山手続きをして、レ
ンジャーから細かい注意事項を聞く。われわれの入山日は翌日だったので、航空会社
(ダグ・ギーティング)のバンクハウスで最後の準備をしていた。するとなんだか今
日飛び立てるような雰囲気があったので、期待していたら本当に飛び立ってしまった
。不意打ちをくらった入山だったが、とにかく早く登りたかったのでうれしかった。 
 翌5月28日から行動を開始する。スキーをはきそりをつけて出発。最近はスキー
よりもスノーシューが主流のようだ。5月は天気がよくなかったらしく、下山してく
る人はみんな「地獄だった」と言っていた。このルートのじつに3分の2の距離に当
たるえんえんと続く氷河歩き。ときには吹雪かれ寒い日もあれば、昼間の太陽の暑さ
にうんざりする日もあった。底なしのクレバスも恐ろしい。途中高所順応の失敗もあ
り、ベースキャンプ(4300m)に着いたのは6月3日だった。 
 ベースにはい
ろいろな国からの遠征隊のテントがたくさんあり、まるでゴールデンウイークの涸沢
のようだ。フォーレイカーやハンターをはじめとする山々も見ることができてとても
美しい。みんなとてもフレンドリーで思い思いのスタイルで登山を楽しんでいた。下
山する人から、食料や燃料も分けてもらえる。雰囲気は申し分ないのだが、とにかく
寒かった。着いた翌朝、いきなりマイナス30度Cまで下がった。でも日が当たるよう
になるとどんどん気温が上がり、そのうちテントのなかにいられなくなる。この気温
差にはずいぶんと苦しめられた。一度高所順応で失敗をしているので、ベースから上
はとても慎重に時間をかけて順応に取り組んだ。悪天のため、予定より2日遅れの6
月8日、アタック態勢が整った。 
 6月9日、いよいよハイキャンプ(5200m
)に向けての登高が始まった。天気はそれほどよくなかったが、われわれのように停
滞をしていた人たちがいっせいに登り始めた。デポしておいた荷物が加わると、急に
重さを感じた。ゆっくり、しかし確実に高度をかせぐ。空中散歩道を5時間くらいで
ハイキャンプ着。お茶をガブ飲みする。やはり空気が薄くしんどい。「ここでおれが
あこがれた偉大な冒険家の言葉をそのまま用いて、今日の日記を短いながら終える。
何が何でもマッキンリー登るぞ!」(6月9日の日記より) 
 6月10日、9時45分
出発。快調なペースで歩き始めた。デナリパスまでは日が当たらず風も強かったので
寒かった。アーチディアコンズタワーを越えると眼前にマッキンリー南峰がそびえて
いた。フットボールフィールドと呼ばれる広い雪原を越え急な登りを登りきると頂上
に続く稜線に出る。右側は南壁がはるか下まで落ちている。だんだん顔がゆるんでく
る。15時10分、ふたり並んでついにマッキンリーの頂上に立つ。天気がよく、360
度の大パノラマが広がっていた。交互に写真を撮り、会の歌「春寂寥」を肩を組んで
歌う。植村さんが歩んだ道をついに歩むことができたんだ。疲れた身体に鞭を打って
、ハイキャンプに戻ったのが17時20分。くたくたになった。 
 翌日まだだるかった
が下りなければならない。テントを撤収して下山準備をする。天気が下り坂だったの
で、早く下りなければならなかった。ベースキャンプに戻り、デポしていたものを回
収する。われわれも下山に不用な食料をだれかにあげようとしたが、貧弱な食料しか
なかったので、だれももらってくれなかった。仕方がないのですべて担ぎおろす。荷
が重すぎて登るよりもつらい下りだった。6月12日に無事タルキートナに戻った。 

 下山後われわれはそれぞれの旅をして楽しんだ。そして6月26日にアンカレッジで
合流して、つぎの目的地である南米ペルーアンデスに向かった。 
 
アンデスへ 

 アラスカからロスを経由してペルーに入国した。英語がほとんど通じず、スペイン
語ができないわれわれは途方に暮れた。いきあたりばったりという感じでバス会社に
行きなんとかその日のうちにブランカ山群の登山基地ワラスに着いた。 
 ワラスに
はわれわれのほかにも日本人クライマーが何人か来ていて、いろいろ教えてもらうこ
とができた。ほとんど何の情報もなしで乗りこんでしまったため、しばらくは情報収
集に時間を費やす。今年は例年にない異常気象らしく、乾期なのに雨が降る日もあっ
た。 
 マッキンリー登頂からすでに1カ月以上たっていたので、まずゆっくりと順
応することにして、最初の目的をイシンカ谷にあるウルス(5495m)、イシンカ
(5530m)、トクヤラフ(6032m)とした。 
 7月4日、ワラス出発。イ
シンカ谷のいちばん奥にあるコリィオンという村でブーロ(ロバ)とアリエロ(ロバ
使い)を雇い、その日のうちにベース(4300m)入りする。どうも天気がすっき
りせず、夕方には雨が降ってきた。翌日ウルスに登った。6日間の予定で入山したが
、ぼくの調子がイマイチで、おまけにひどい下痢になってしまい、たった3日で下山
した。天気がよくなかったのも事実だが、情けないデビュー登山だった。 
 しかし
、われわれはついていた。下山した日から天気が急によくなってきたのだ。ワラスで
体調を戻しながら、つぎの山を考えた。その結果、天気が落ち着いているうちに当初
最後に登る予定だったアルパマヨ(5947m)に向かうことにした。アルパマヨは
北面の整った三角錐、そして南西面のアイスフルートの美しさから世界最美の山と呼
ばれている。日本にいるときからその姿を一度は目に焼きつけたいと思っていた。そ
してもちろん登りたいと思っていた。 
 7月11日、ワラスを出る。コレクティーボ
(乗合バス)でカラスという町を経てサンタクルス谷の入り口の村カシャパンパまで
行く。サンタクルス谷は、トレッキングルートとしても有名で、われわれのほかにも
たくさんの人がいた。カシャパンパでブーロとアリエロを雇いいざ出発。さまざまな
花が咲いていてとても美しい。サボテンの多さにも驚いた。谷は奥に行けば行くほど
開けてきて、神秘的な風景を見せてくれる。この日はイチコーチャというところで1
泊して、翌日ベースキャンプ入りした。ベースはアルパマヨをはじめとする秀峰をた
くさん望むことができる天国だ。早い時間に着いたので、少し荷揚げをしたかったの
だが、泥棒が多いらしくあきらめた。山の美しさとは対照的な現実だ。 
 7月13日
、ハイキャンプに向けて登る。ケルンをたよりにモレーンを進んで氷河に乗り、アル
パマヨとキタラフの間のコルをめざす。氷河の上部は今にも崩れそうなセラック帯の
なかを進む。傾斜は大したことないが、荷物が重いので緊張した。のちにこのセラッ
クは崩壊し、1人が死亡した。しかし、そこを通過してコルに出るとまさにそこにア
ルパマヨの南西壁を望むことができた。やはり本物は迫力が違う。夕方には壁が真っ
赤に染まった。ぼくはその美しさを忘れることはないだろう。 
 7月14日、4時30
分に起きたが、すでに1パーティーが取付にいた。完全に出遅れてしまった。あわて
て準備をして6時20分に出発。取付に着いたがやはりわれわれが最後のようだ。取付
では、不安と緊張でいっぱいだった。なぜなら、このようなダブルアックスで長い雪
壁を登るのは初めてだったからだ。しかし、アックスを一度振るとそのような気持ち
はどこかにいってしまい、喜びがこみ上げてきた。こういう登攀をずっとやりたいと
思っていた。それがやっとできたという喜びだ。先行パーティーがたくさんいたので
、落氷がすさまじくなかなか前進できなかったが、ゆっくりと確実に進んでいった。1
2時55分終了。頂上をめざしたが、雪の状態が悪く断念した。不思議だが悔しくなかっ
た。どちらかというと満ち足りていた。でも、いつまでもそんな気持ちでいるわけに
はいかない。これから下降しなければならないのだ。不安定な支点で懸垂下降をする
。胃が痛い。取付に戻ってきたとき、急に疲れが押し寄せてきた。フラフラしながら
ハイキャンプに向かう。ハイキャンプでわれわれを迎えてくれたのはアルパインクラ
ブFOSのふたりだった。飲み物とかをいただきようやく落ち着くことができた。 

 翌日、下山の途につく。2日かけてワラスに戻った。このあとぼくは激しい下痢に
襲われ、医者に1週間安静にするよう言い渡された。登りたいのに登れない悶々とし
た日々を過ごした。この休養の間に大きな変化があった。旅好きの大木君がボリビア
に旅することになったのだ。しかし、ぼくには山しか見えていなかった。不安はあっ
たが自分の力を試したくなり、単独で登山を続けることにした。 
 
 ひとりで山
へ向かう 
 はっきりいって不安だった。日本でも数えるほどしかやったことがない
単独登山。それをいきなり海外でやってしまってもいいのだろうか。しかし、こうす
ることで今までの殻を破り、成長できると信じていた。 
 アルパマヨからしばらく
時間がたっていたので、まずはリハビリをかねて、ピスコ(5752m)とチョピカ
ルキ(6345m)に登ることにした。 
 7月25日、ヤンガヌコ谷にあるピスコの
ベースに向かう。コレクティーボでユンガイを経由してベースの入り口まで行くこと
ができる。ヤンガヌコ湖のブルーが美しい。大木君が前日ボリビアに旅立ったので、
今日からはすべてひとりでやらなくてはならない。気が張っているせいか重いはずの
荷が軽く感じる。昼過ぎにベース着。明日のルートの確認をして早めに寝る。
 
 7月26日、緊張しているせいか、ほとんど眠れなかった。1時起床。アルパマヨの反省
もあり、早めに出発することにした。2時30分出発。月明かりのおかげで、ヘッドラ
ンプなしでも行動できた。モレーンのトラバースで少し迷ったが、なんとかハイキャ
ンプに着いた。ハイキャンプには数パーティーがいて、すでに出発している人もいた
。雪が出てきたのでアイゼンをつけるとさらに気が引き締まった。トレースをはずさ
ないよう慎重に歩くがところどころにクレバスが開いていたので緊張した。夜明け前
の寒さはきびしかった。最後に雪壁を越えて6時50分山頂に立つ。正面にはチャクラ
ラフの南壁がそびえ立ち、振り返るとワンドイの大きさに圧倒された。まさに展望の
山だった。 
 ベースに戻って時間を見るとまだ9時30分だったので、今日のうちに
チョピカルキのベースまで行くことにした。荷物をまとめて下山する。道路に出たが
コレクティーボがなかなか来なかった。そこで、冗談半分でヒッチハイクを試みたら
なんと止まってくれた。登山口のすぐ手前まで乗せてもらい、ずいぶん助かった。こ
の日はベースで泊まり、翌日モレーンキャンプに上がった。 
 7月28日1時起床。
起きてテントから顔を出すと雲が多くて山が見えない。おまけにひどく身体がだるい
。あきらめてもう一度眠りかけたが、今日を逃すともう登れないような気がしたので
意を決して起きる。2時30分出発。歩きだしてはみたが、やはり身体が重い。しかし
、月の明かりをたよりに氷河を登っていく。ときどき現われるクレバスはだいぶん広
がっていて怖かった。ハイキャンプにはいくつかのテントがあり、十数人のパーティ
ーが出発したところだった。彼らを抜いてどんどん登る。ハイキャンプの上にある急
な雪壁を越えると稜線に出た。そこで初めて休憩をとった。しばらくはただ歩くだけ
だったが、6000mを過ぎたあたりから急な雪壁が連続して出てくるようになった
。頂上直下でウルタ谷側に出るが、そこから急に風が強くなり、気温もぐっと下がっ
てきた。手足の感覚がなくなっていく。ダミーの頂上をいくつか越えて6時50分、よ
うやく本当の頂上に着いた。思わず叫んでしまった。写真を撮って風の弱いところに
行き、腹に物を入れ水分をとってさっさと下山を始めた。滑落しないよう慎重に下っ
ていった。つらい下りだったが、9時40分、無事にキャンプに戻った。登頂の勢いも
あって今日中にワラスに戻ってしまおうと思い、荷をまとめて下山することにした。
この日はペルーの独立記念日でワラスの町も人が多くとてもにぎやかだった。 
 この2つの山でスピードに自信をもつことができた。そこでつぎはペルー最高峰のワス
カラン(6768m)を、1日目にモレーンキャンプに上がり、2日目に頂上を往復
し、3日目にワラスに戻るという計画で登ることにした。同じ日程で単独行の榎本さ
んが入山するので、2日目以外はいっしょに行動することにした。 
 8月1日、
ワラスを出る。コレクティーボでワスカランの登山口ムーショという村に行く。ふたり
で1頭のブーロと1人のアリエロを雇う。チェックポストで入山の手続きをして出発
。前の山の疲れが残っているせいか調子が悪い。3時間ほどでベースキャンプ(42
00m)に着いた。シーズンはもうすぐ終わりなのだが、やはりこの山は人気が高く
、まだたくさんの人がいた。われわれは4600mのモレーンキャンプにテントを張
り、早々に眠りにつき明日に備えた。 
 翌日零時にテントを出る。やけに暖かい。
氷河に達するまでに少し道に迷ったが、そんなに時間のロスはなかった。トレースを
はずさないように登る。1時30分、キャンプ1通過。ここから先はどんどん傾斜が強
くなる。また、上部のセラックが崩壊したときにそれをまともにくらうやばい場所を
通らなければならない。ガルガンタ(6000m)で初めて休憩をとった。ガルガン
タから上が今回の核心だ。事前の情報ではクレバスがかなり広がっているらしいが、
行ってみなければわからない。頂上がはるか遠くにあるように感じた。どんどん気温
が下がってきた。問題のクレバスの下にはセラックが立ちはだかっていて、底の見え
ないクレバスがすぐ下にあった。セラックをダブルアックスで越えクレバスの縁に立
つ。飛び越えたかったが反対側は壁になっていたのでそれもできそうになかった。こ
こを越えたら頂上に立てるが、はたして無事下山できるだろうか。急に怖くなってき
た。5分くらい考えた。そして、両手にアックスを握って倒れるようにして反対側に
アックスを決めてつぎに両足を移してそこを越えた。息が上がり苦しかった。でもこ
れで頂上に立てるんだ。そこから先は寒さとの戦いだった。西側を登っているのでま
ったく日が当たらない。寒さで関節が堅くなってきた。手足の感覚もほとんどなく、
しびれてきた。おまけに眠たい。頂上に立てば太陽に当たることができるので、とに
かく早く頂上に立ちたかった。つらく、長い登りだった。今までこんなにつらかった
登りはなかった。でも終わりは必ずやってくるものだ。7時30分、ついにワスカラン
の頂に立った。不思議だがうれしくなかった。むしろちゃんと下りられるのか不安だ
った。写真を撮ってすぐに下山を始めた。気がつけばアイゼンがはずれている。相当
くたばっているようだ。途中で榎本さんとすれ違い、やっと気持ちにも余裕がでてき
た。問題のクレバスにはガイドパーティーのフィックスロープがかかっていたので問
題なかった。ガルガンタに戻ってきてようやく登ったという喜びがわいてきた。フラ
フラになって12時過ぎにモレーンキャンプに戻ってきた。もうこれ以上動けなかった
。翌日ふたりでワラスに戻った。 
 ワスカランのあとアルテソンラフ(6025m
)に行こうとしたが、すでにぼくのモチベーションが切れてしまっていた。それに、
ワスカランでけっこう怖い思いをしたのでこれ以上無理をしたら死んでしまうと思っ
た。悔しかったが、今回はこのくらいが限界のようだ。でも帰国までにはまだ時間が
あったので、フライトを変更してロスに戻り、ヨセミテで1週間クライミングを楽し
んだ。 
 ぼくの記録ははっきりいって大したことはない。どれもノーマルルートか
らの登攀だったし、困難な山でもなかった。日本人で同じ時期にいた人たちのなかに
すごい登攀をした人がいるというのも知っている。でも、現時点でやれるだけのこと
はやったつもりだ。今後ぼくも彼らのようなすばらしい登攀ができるよう努力しよう
。 マッキンリーについて 
[登山のシーズン] 5~7月。7月でもかなりクレバス
が開く。われわれは5月の下旬に入山したが、そのころがベストシーズンだろう。 
[登山許可・入山料について] 登山申請は入山の2カ月前までにデナリ国立公園にす
ることが義務づけられている。申請用紙はデナリ国立公園からFAXで送ってもらえ
る。同時に、登山の手引き書を送ってもらうとよい(日本語版があるので助かる)。
ソロの場合は特別な申請用紙があるらしい。 
 登山料は1人150ドル。50ドルは
予約金として申請と同時に前払いする。クレジットカードを用いて支払うと便利だ。
 
[その他] レンジャーステーションでは地形図やガイドブックが数多く販売されて
いるので、情報収集に役立った。バリエーションルートの案内も詳しく載っていた。 
 スキーはアンカレッジの登山用品店でレンタルできる(1人150ドル)。ただ
し、シール別に用意しなければならないので注意。スノーシューはタルキートナの飛
行機会社でもレンタルできる。 
  アンデスの山について 
[登山シーズン] 5月
下旬~8月中旬が乾期で晴天の日が多く、登山に適している。だが年によって状況は
異なるので、こればかりは運である。ちなみに今回は7月になってようやく天気が落
ち着いた。 
[クライミングについて] ありがたいことに、ここでの登山は基本的に
登山申請や登山料は必要としない。だから、思いきって登山に励むことができるのだ
。ただ近年は温暖化の影響か、氷河が後退していたり、あるべきところに雪がなかっ
たりして登攀がきわめて困難になってしまったピークがたくさんある。ガイドブック
のみを信用せずに、現地で積極的に情報を集めるべきだ。注意しなければならないこ
とに、キャンプ地での盗難がある。不安ならテント番を雇ったほうがよい。ワラス近
郊のモンテレーには温泉があり、疲れた身体を癒すことができる。治安がよくなって
きたので、今後この山群にはより多くの人が訪れることになるだろう。
 

5.22.1999

月山キャンプ

天気がよくても目的地をさがすのはたいへん
 
GASSAN
 
1995-5-22
MEMBER HIROYKI HARUMI MIKA IRENE KISYA 二郎

 前夜にリフト下の駐車場にはいってテントで仮眠。ぬけるような青空と新緑のなか
で準備して10時にはリフトにのった。大混雑。モーグル大会が開催されるようだ。
みんなうまい。テレマークでこぶとジャンプをたくみに抜ける選手もいた。1時間余
で頂上。雪がすくない。頂上付近は草原になっている。去年はもっと少なかったとい
うが、はじめてみる光景だ。はるみ、みかは登りかえしがたいへんとのことで来た道
をもどるという。
 大雪城をさがしにいく。5分ほど下ると大きな雪原があらわれる。清川行人小屋を
目指すことになっているので、方角をさだめて滑り下る。広大な雪原をどんどん下る
。
 大雪原のなかに大きなクマ笹の島があるので、どちら側に下るか迷うところだ。下
り過ぎて方角が違っていたら、登りかえすか、クマ笹の島を横切らなければならない
からだ。ヒロユキさんがあっちへいってみようというので大きな台地をどんどん下る
。清川行人小屋の赤い屋根がみえた。
 もうここでいいね、ということでシールをつけて登りかえす。小1時間登って、こ
のあたりかな、というあたりで西にやぶをトラバースして四ッ谷の壁をさがす。頂上
に登り過ぎたのか雪渓が見えない。やむをえずハイマツヤコケモモのじゅうたんの上
を歩き回り、ようやく雪渓をみつける。うろうろすること30分ほど。
 上からみると小さな雪渓に見える。滑りはじめるとなかなかの大斜面である。ぎり
ぎりまで滑ってから大きくトラバースして志津の駐車場に滑り込む。
 月山荘のキャンプ場で盛大に焼肉パーティをひらく。この日はTAJの月山ミーティ
ングの日。100名くらいのメンバーが集まって大騒ぎした。こんシーズンのテレマ
ークレースの総合表彰式もおこなわれ、クロカンストックとキャップなどいただく。
(kisya)

5.01.1999

ティトンクレスト・ツアー

TETON CREST SKI TOUR IN TETON NATIONAL PARK, WYOMING

MATUSKURA KAZUO
ティトンクレスト・ツアー
      
from left,Trail head,touring,it`s me,camp site,kisya,itosan and kurokawa and tokuchi 
Hikari on ID in JT,Bouldering in JT
 
メンバー 松倉一夫、黒川晴介、徳地保彦、汽車、北田啓郎、溝部克実、真壁章一、
     真壁静子、DON SHEFCHEK,BENJAMIN BURDE

1999年5月1、2、3日


4月30日

 ティトンパスの駐車スペースにクルマを停める。すでに10台ほどクルマがあり、
滑ってきた山スキーヤーやスノーボーダーがいる。
 さっそく、われわれもスキー板にシールを着け南へと伸びる斜面を登り出す。ア
メリカに来る前に、一度だけ「田代かぐらスキー場」で試してきたが、まだ操作に
なれておらず、いきなり仲間から遅れる。時差ボケのせいか、すぐに息が上がりみ
んなについていくのがきつい。それでも20分ほどで通信小屋(?)のある稜線のピ
ークにたどり着く。
 すぐにシールをはずし、西斜面の樹林帯へと滑り込む。山スキーなら何とかなる
だろうと思っていたが、あまりに湿って重い雪にターンさえままならない。そんな
中、他の面々はこんな悪雪にも慣れているのか、次々鮮やかなシュプールを描きな
がら滑り降りていく。私はターンをしようと体重移動をすると、板のトップがひっ
かかり転倒。すでに下で待っている仲間が心配そうに見つめている。
 やっとボトムまで滑り降りると、対面の斜面へと登っていく。重く滑らない雪に
、テレマーカーはシールも着けずに登るが、山スキーでは上手く登れない。シール
を再装着し登る。すでに、北田さんたちはかなり先を行ってしまった。
「このツアーについてきたのは間違いではなかったか」
 30分もしないうちに頭をよぎる。自分だけ今のコースを登り返し、駐車場に戻っ
て待っていたほうが賢明ではないかとさえ思う。
「みんな飛ばすけど、ゆっくり行けばいいですから」
 真壁さんが私に付き合い励ましてくれる。
 先に行っていた伊藤さんも、途中で心配げに待っていてくれた。
「歩幅を小さく、マイパースで来ればいいから」
 そうは言われても、どんどん先との差が開いていくのは心許ない。今日は2、3
時間の足慣らしだから、どんなに遅れても心配はないが、本番になればそうもいか
ない。大した登りでもないのに、これほど息が上がり足が前に出ない。これではど
う考えても2泊3日のツアーは難しい。荷物も倍以上の重さとなるはずだ。もう少
し、様子を見て「ダメだ」と自分で判断したら、早めに参加中止を申し出ようと思
う。
「これでは足手まといになるのは間違いありません。みんなだけなら予定通り、ツ
アーを成功させられるのに、私がいたのではどんなご迷惑をかけるかもわかりませ
ん。私は登山口と下山口の送り迎えなどサポートに徹します」
 すでに、みんなになんと言うかも考えていた。ただ、そうは言っても、とりあえ
ず、この斜面だけは登らなければならない。20歩ごとに一息入れながらゆっくり登
り続けた。
「この先の稜線に出たら、僕らはみんなが下りてくるのを待ちましょう」
 真壁さんが、私の歩みを見てそう告げる。歩き出して1時間ほどで、ダメ出しを
されるのは辛いが、それでも、これ以上登らずに済むと思うと、「わかりました」
とお願いする。
 やっと森林限界となり稜線に出ると、さっき私を励ましてくれた伊藤さんと徳地
さんが、稜線の右手に広がる斜面の中腹まであがっていた。
「このバーンを滑れたら気持ちいいだろうな」と思うが、体は休みたがっている。
真壁さんがスコップで斜面をカットし休憩場所を作ってくれる。
 荷を降ろし、行動食を食べていると、しばらくで山頂からみんなが滑り出してき
た。なんともゆっくりしたペースだ。ビデオなどで見た豪快さとスピード感はない
。まるで、日光いろは坂をゆっくりゆっくり安全確認をしながら下ってくる観光バ
スのような速度だ。
「まるで、鳥餅の上をすべっているよう」と北田さん。
「おかゆのようだ」と溝辺さん。
 降りてくると、それぞれに開口一番、雪のひどさを口にする。昨晩の雨が湿った
雪をさらに重くしていたのだ。山頂では雪だとばかり思っていたが、うえも雨だっ
たようだ。
 全員が私と真壁さんのところまで滑り降りたところで、ティトンパスへ向け戻る
。しかし、すぐに壁が立ちはだかった。40度はあると思える急斜面。それに加え、
この悪雪。ほとんどゲレンデスキーしか体験したことのない私には、まさに未知の
雪の重さだった。
「斜滑降、キックターンで下りてくればいいから」
 伊藤さんは言うが、思いきりがつかない。
「松倉さん、そっちは雪崩れるかもしれないから、こっち側に」
 真壁さんが、木がある斜面へと誘う。と、伊藤さんが、私とは逆方向にトラバー
スした。その瞬間、斜面が崩れたのだ。
「やっぱり起こったか」
  以前、雪崩に巻き込まれて自力生還した真壁さんにが言った。誰一人慌てていな
い。雪崩は山肌をゆっくりと流れていく溶岩のようなスピードなのだ。
「今の雪なら雪崩れても手でつかめるくらいゆっくりだから心配ないですから」
 入山前に黒川さんが言っていた通りだった。
「大丈夫だから」
 伊藤さんの声に、私もこれならいざとなっても逃げ切れると、意を決し斜面をい
っぱいに使いながら斜滑降で横切る。そして、キックターン。それを繰り返しなが
ら高度を落としていく。そして、もう転倒しても大丈夫だというところまできたら
、あとは直滑降で谷底へと滑り降りた。
 再びシールを着け登高。北田さんたちは斜面を登り返して滑ってティトン・パス
に降りると言うが、私は黒川さんの先行で斜面をトラバースして直接駐車場に戻る
ことにした。ゆっくり樹林帯の中を巻きながら登っていくと、切り通しで左手下に
峠から下っていくハイウエイが一度見えた。さっきまで疲れ切っていた体が急に元
気になる。しばらくでトレースは下りへと替わりシールを外す。300mほど滑る
と一気に視界が開け、あっけなく駐車場に出た。
 ティトン・パスを出てから3時間半、私のはじめての山スキーのツアーはこうし
て終わった。

5月1日

 夜中、何度となく目が覚めた。その度にシトシトと屋根を打つ雨音で心が軽くな
っていた。昨日のティトン・パスツアーでさんざんだった私は、できればツアーが
短縮することを願っていたのだ。
「翌朝、雨の場合は1泊2日のショートツアーに切り替えよう」
 昨夜の夕食で、そう決まったとき、顔には出さなかったが喜んでいた。
 アメリカまでわざわざスキーツアーをしにきたのに、まるでツアーに参加できず
に帰るのは癪。かといって2泊3日のツアーについていく自信はなくしていた。1
泊2日……、そう、私の限界は2日間。2日だけなら、意地でも頑張り抜けるだろ
うと思っていた。
 しかし、その目論見は夜明けとともに消え去った。アメリカに入って、久しぶり
の快晴だった。
「決定ですね」
 黒川さんの声で、私の心は決まった。「辞退する」ではなく、「参加しよう」に
だ。まっ青な空が、私の心の曇りまでも吹き消していた。絶好のツアー日和に、登
らぬは損、誰もがそう考えるような空だった。
 決心が付くと準備も早い。ラーメンとシリアルで朝食を済ますと、パッキングを
すべて終えた。
「晴れたよ」
 7時10分、伊藤さんが嬉しそうに我々の部屋へとやってきた。他の面々も心躍ら
せ、出発準備を進めているのがわかる。今回、参加するのは、北田啓郎、溝部克美
のA班、伊藤文博、黒川晴介、徳地保彦、私のB班、ベン・バーディー、ダン・シ
ェフチクのアメリカ人チームC班、そして真壁章二・しずこご夫妻のD班の10人だ
。
 8時30分、宿をチェックアウト。4台の車に分乗し、Granit Canyo
n Trailheadを目指す。私と徳地さんだけは、下山ポイントのJENN
Y LAKEに車(スバル・フォレスター)を回送してから向かう。
 10時10分、全員が揃い、トレイルヘッドの看板脇で記念撮影をしてから出発。し
ばらくは雪がなく、ザックにスキー板を装着して樹林帯を行く。エルクかムースか
、分からないが、そこら中に糞がこぼれている。まるでチョコボールのようにコロ
コロしている。糞の玉は50~100個くらいが一塊りになっている。糞は排出され
たばかりかなり熱を持っているのだろう。いずれの糞の塊もちょうどボール状に丸
く凹んだ穴にきれいに収まっている。
 そんなことを考えながら、樹林帯をゆっくりと登っていく。
 みんなはテレマークブーツだが、私だけが山スキーの兼用靴。歩きにくい。それ
でも、スキー板をつけて歩くよりは、私にははるかかに楽だ。まだ、板をつけての
歩行に慣れていないのだ。板を前に引きずるのは、足を普通に前に出すのとは違っ
た筋肉を使うのか、長く歩いていると股関節の外側の筋がなぜか痛くなってくる。
 しかし、スキー靴での歩行はいつまでも続かなかった。約1時間で、トレールは
完全に雪に覆われ、板を付けることになる。
「今日は調子良さそうだね」
 沢沿いで2回目の休憩をとっているとき、伊藤さんが声をかけてくれる。私も不
思議と今日は息が上がらない。まわりの景色を楽しむ余裕もある。切り立った岩峰
と直立するシダーや米松の森が、いかにもアメリカの風景だ。
 昨日は時差ボケなどから、あんなにバテたのだ。ふだん、水泳やバスケットをや
って鍛えている私が、いくらはじめての山スキーツアーとはいえ、登りであんなに
息が上がるはずない。「そう、自分は体調が悪かっただけなのだ」と自分自身に言
い聞かせる。
 その後も、しばらくは足運びがつらくなることもなかった。ただ、いくら歩いて
もなかなか近づかない、あまりに遠い本日のキャンプ地が恨めしい。
「もう3分の1は来たでしょ」
 期待を込めて言うと、真壁さんが「4分の1がやっとでしょ」と答える。「もう
3分の2は来たでしょ」の問には「半分ぐらい」とそっけない。
 私は歩いた距離よりも、時計とにらめっこしながら勝手に自分がどれぐらい進ん
だかを推し量ろうとしていた。
 16時過ぎ、半分以上雪に埋もれたGranit Canyon Patorol
 Cabinに到着。かなり古ぼけた丸太小屋だ。これがアメリカの昔ながらのロ
グキャビンなのだろう。
「丸太のつなぎが粗いから、セメントのようなものが詰められている」
 山中湖に別荘のログハウスを購入したばかりの伊藤さんが感慨深げに言う。
「どこまで進もうか」
 北田さんたちA班はMarion Lakeまで行きたいと主張。B班と外人チ
ームはシェルフの下に平らがあるはずだから、その辺りにしたいと答える。
 すでに歩き始めて6時間が経過。調子が良かった私もだいぶ疲れてきている。で
きるだけ近場で今日のキャンプとしたいと願う。
 答えが決まらないままに再出発。ここからNorth Fork沿いに右へとゆ
っくり登っていく。昼間あんなに天気がよかったのに、だんだん雲がたれ込めてく
る。やはり天気予報通り、晴天は1日と続きそうにない。しばらくすると、小雪が
舞う。
 早くキャンプ地を決め、腰を落ち着けたいと思いながら、ただただ黒川さんが先
導してつけているトレールをたどる。
 1時間ほど歩くと、やっと樹林帯が大きく開けた平原に出た。まさにキャンプ地
にぴったりといった感じ。平原の右には沢が流れ込んでいる。すぐにでもザックを
下ろしてキャンプの準備をしたい。
 しかし、真壁さんが一人、どんどん先へと進む。時計を見ると17時を10分ほど過
ぎている。A班はもっと行く気なのだろうか。
「もう、今日はここにしましょう」
 そう叫びたくなるが、ただついてきただけの私に言えるはずもない。ゆっくりと
ついて行くしかない。そのときだった。少し離れてやってきた外人チームが、今日
はここでキャンプにしようと言ってくれた。伊藤さんや北田さんたちも「それじゃ
、そうしよう」となった。
「まかべさーん。ここでキャンプしましょー」
 すでに100mほど先に行っている彼に向かって、私は思わず声を張り上げてい
た。もう、それ以上一歩たりと先に進まないでくれと願いながら。
 そして、ついに平原北端の木のそばで1日目のキャンプとなった。
 場所が決まると、めいめいにテントが設営された。アライのゴアテックスのテン
トが4張り。徳地さんだけがツエルトだ。徳地さんはもし夜中、吹雪いてどうしよ
うもなくなったら「逃げ込ませてね」と言うが、誰も「うん」とは言わない。ちょ
っと可哀想だが、誰もがゆったりと寝たいのだ。もちろん、生死にかかわるような
事態にでもなれば、話は別だが、装備は万全。少々、寒くたってツエルトでも充分
に寝れること知っているのだ。
 テント設営を終えしばらく休んで、18時過ぎから夕食の準備。B班はそれぞれに
コッヘルに好みの食事をつくって食べる。とは言っても、ジフィーズだ。私は牛飯
。伊藤さんが、1日頑張り抜いた私をねぎらってか、私の分まで食事を作ってくれ
た。水を入れすぎビチャビチャだったが、喉の乾いている私には十分美味しかった
。完全に暗くなる21時過ぎにシュラフにくるまる。

5月2日

 時計を見ると、まだ夜中の2時を過ぎたばかりだ。なかなか深い眠りにつけない
。遠足の朝を待つ子供のように30分おきに目が覚めていた。
 からだが暑かった。ほとんど冬山を経験したことのない私は、寒くて寝られない
のだけはゴメンと、ダウン800gの冬用シュラフを用意していた。さらに防寒着
を着込んでいた。とくに下半身が蒸し暑い。伊藤さん、黒川さんを起こさないよう
にと気を使いながら、狭いシュラフの中で、フリースのパンツと靴下を脱ぐ。
 テントの外では静かに雪が降っていた。屋根にパラパラと落ちる音がかすかに聞
こえる。雪というものは音もなく積もっていくものだとばかり思っていたが、雪質
によって違うことをこの山行で知った。今、降っている雪はふわりふわりと落ちる
牡丹雪ではなく、まっすぐ落ちる硬い雪に違いない。そんなことを思いながら、隣
で寝息を立てる二人を羨ましく感じていた。
 天候は下り坂だという。夕食のときの話では、荒れればこのまま下山となる。登
りよりも下りのスキー滑降のほうに不安を覚えていた私には、昨日のゆるい登りを
戻るほうがはるかに楽だろうと感じていた。登ってしまったなら、下るのはDea
th Canyon、地獄の谷である。名を聞いただけでも、難行苦行を強いられ
そうな感じだ。
 時計を見ると2時を回っていた。夜明けまで3時間半。
 天候が持てば、ひとまず稜線まで上がってから後の対応を考えるという。先の行
動が決まらずに動くというのは、何とも心細い。登ったはいいが、やっぱりダメだ
から戻るというのはくたびれもうけの感がぬぐえない。その点では、まだまだ私は
挑戦者ではなく、観光気分で山に入っていると言ってもいいのだろう。「登れると
ころまで登る」ではなく、「登れると分かっているから登る」でなければ行きたい
と思えないのだ。
 そうはいっても、結局、行くか行かないかを決めるのは各班のリーダーたちの話
し合い。私は決定にしたがうのみ。天候がカラリと晴れればGO、だめなら下山。
そんなわかりやすい決定を望みながら、再び眠りへと落ちていった。
 誰かがテントの内側をバタバタバタと揺らし、屋根に積もった雪を落とす音で目
を覚ました。時計を見ると6時を回ったところだった。外はうすら明るくなってい
た。それを機に私たちは起床。
 起き出すと伊藤さんはすべての準備が早かった。外に出て、すぐにお湯をわかし
朝食の準備をはじめる。私と黒川さんはテント内で準備。山の朝はやはりラーメン
がいい。食べやすいし、体もあったまる。
 しばらくすると、北田さんがやってきた。10時まで待って、どうするかを決める
という。考え方は3つ。1、このまま昨日のコースを戻る。2、荷物をここに置い
たまま稜線まであがり、眼前に広がる斜面を1本だけ滑ってから下山。3、荷物を
もって稜線へとあがり、当初のTETON CREST TRAILをたどりFO
X CREEK PASSを越えてDeath Canyonを下るというものだ
。
「まっちゃんはどうしたい」
 伊藤さんが聞く。
 シンシンと降り続いている雪を見ていると、私のなかでは1か2しかありえなか
った。気分としては2だった。北面から東面にひろがる斜面はいかにも滑りやすそ
うな斜面に見えた。雪が昨夜から降り続いていたため、これまでの雪質に比べると
ずっといい。ここを滑って今日中に町に降りる。そして、ジャクソンで有名なカウ
ボーイ・バーで乾杯する。
 しかし、私の思惑とは裏腹に3の選択となった。あろうことか、答えを決定する
10時頃になると、雪がやみ、一部だが雲が切れ青空が覗いてしまったのだ。
 決まればやることは早い。伊藤さんが「みんなをびっくりさせてやろう」と言い
、他のチームがのんびりしているなか、さっさとテント撤収から出発準備を済ませ
ると、いち早くスタートを切ったのだ。
 伊藤さんが先頭でトレースをつけながらどんどん進んでいく。2番手に私が続い
た。そして、10分ほど進んだ急登の手前の木立の陰で待つことにした。
 15分ほどで全員がそろった。ここからいよいよ本格的な登りとなる。
 真壁さんが重戦車のようにがんがん登っていく。しかし、今回は私は慌てない。
ティトンパスのときのように、慌ててついていこうとするとペースを乱されバテる
のが目に見えている。スキーのクライミングサポートを立てると、ゆっくりと登り
始めた。稜線が近づくにつれ、かなり大きな雪庇が張り出しているのが見て取れる
。
 きつそうに見えた急斜面もジグザグ登高でマイペースで行くと、意外とあっけな
く稜線に立つことができた。稜線は思ったよりもなだらかでだだっ広かった。
「ここからが当初のコースだ」
 伊藤さんが言った。
 1日半かかって、やっとTETON CREST TRAILに出たわけだ。日
本での予定ではTETON PASSからこのTETON CREST TRAI
Lをたどり、主峰GRAND TETONの脇を抜けてCASCADE CANY
ONを下りJENNY LAKEへと滑り降りる予定だった。しかし、現地入りし
てさまざまな情報から入山をGranit Canyonからに変えたのだった。
 時計の高度計で標高を確認すると3045mを差していた。今回の最高点だ。時
計は13時を少し回ったところ。木陰で風をさけて行動食をとる。雪が少しずつ強く
なっている。
 しばらく休むと、広大な斜面をゆるやかに下り、FOX CREEK PASS
にたどり着く。今回楽しみにしていたDeath Canyon Shelfの岩
棚が見える。しかし、そちらへは進まず、Death Canyonへと向かう。
 いきなりの急斜面。巨大な雪庇で下れるところはほんの一部しかない。雪質も最
悪。TETON PASSのときよりもひどいくらいだ。べちゃべちゃでしかも深
い。伊藤さん、北田さん、ダンが先陣を切り、果敢に降りていく。ほんとうに滑り
にくそうだ。20年以上年間100日もテレマークスキーをしてきたダンにしてもテ
レマークポジションを取るのに苦労している。果たして私はここを滑れるのだろう
か、と怖くなる。
「そっちにいったらダメだよ」
 真壁さんが叫ぶ。溝部さんが急な斜面を避けるように、左へと滑っていったが、
下には大きな雪庇があり、さらに下には岩が覗いている。私は溝部さんはきっと分
かって行っているのだとは思うが、足元が崩れはしないかとハラハラしてならない
。結局、しばらくすると、ダメだとあきらめたのか、戻ってきて、伊藤さんたちが
滑ったところを降りていった。最後まで残ったのは真壁さんご夫妻と私。奥さんと
私は真壁さんのリードにしたがい、雪崩に気をつけながら順番に斜滑降とキックタ
ーンを繰り返しながら少しずつ滑り降りていった。
 その壁を抜けると、あとはずっと緩やかな斜面だった。ただ最悪の雪質にスキー
が滑らない。下りなのに歩行をしなければ進まないのだ。私は今日中に下山できる
のだと思っていた。ベンも「今日は下りてカウボーイバーだ」と言っていたのだが
、結局、下りにも関わらず思うように距離が稼げず、3時過ぎ川のそばの平らでキ
ャンプとなった。
 テントを張り終えるを待っていたかのように、雪が本降りとなったきた。牡丹雪
が周辺の木々をみるみる白く化粧していく。
「真冬の雪だね。まるで上越の雪みたい」
 伊藤さんが言う。
 まさに1日にして野山を真っ白に変える湯沢あたりを襲う豪雪のような降りだっ
た。当たり前なのだが、アメリカも日本も雪が降っている様子は変わらないのだと
、妙に納得する。
 17時半過ぎ、私と黒川さんはテント内で、伊藤さんだけが外で食事をする。私た
ちを気遣ってか、窮屈なテント内で食事をしたくないのかは定かではない。私はカ
ルボナーラを食べたが、なかなか美味しかった。
 しばらくすると、徳地さんがつまみ、お茶をもってやってきた。全員が狭いテン
トに入ってティータイム。雪はますます強くなってくる。
「ツエルト、だいぶ雪が積もってきたよ」
 徳地さんが入口から木陰のツエルトを見ながら言う。たしかに黄緑のツエルトが
白くなっている。
「でも、ゴアテックスだから……」
 伊藤さんが笑う。
「夜つぶれないかな」
 徳地さんが続ける。
「あんだけしっかり張られていれば大丈夫だよ」
 昨日と同じようなことが繰り返される。昨夜、ちゃんと夜を過ごせたのだから、
今日だって大丈夫だという理論だ。でも、状況はちょっと違うかも知れない。日が
暮れると、昨日よりはるかに冷え込んできている。それでも、しばらくすると諦め
たのか、徳地さんは自分のツエルトへと帰っていった。後ろ姿が少し寂しそうだ。
 もし、あの立場が私だったら、きっと伊藤さんはこっちにおいでと言っていたの
ではないかと思う。一人でツエルトに寝せるのは心配だから。ああやって、徳地さ
んを一人で行かせたのは、彼なら一人でも乗り切る能力があることを知っているか
らだ。
 食事もお茶も終われば、もう何もすることはない。寝るだけ。すでにかなり冷え
込んでいた。今日はジャケットとオーバーパンツも履いてシュラフに入る。

5月3日

 昨夜同様、何度となく目が覚めた。目を開けると、天井に黒い陰。雪がだいぶ積
もっていることが分かる。その度に内側からバンバンバンと叩いて雪を落とす。昨
夜はカラリと乾いていたテントの内側が湿っている。着込んで寝たため寒さは感じ
ないが窮屈だ。足が火照ってしょうがない。今日も、シュラフ内でもぞもぞと靴下
を脱ぐ。
 伊藤さんは夏用のシュラフで寒いのだろう。私のほうに寄っている。ふと、徳地
さんは暖かく寝ているだろうかと考える。
 一度、目が覚めると寝付けない。30分おきぐらいに浅い眠りから覚め、その度に
テント内側を叩きながら朝を迎えた。
 6時起床。雪はやんでいた。解かした雪でチキンライスを食べる。しばらくする
と、徳地さんが元気そうにやってきた。他のチームもそれぞれに食事の準備をはじ
めている。
「今日も先に行きますか」
 私が伊藤さんに聞くと、「今日はラッセルしなけれんばならないから最後にしよ
う」と笑う。何ともお茶目な伊藤さんだ。それでも「犬走りの伊藤さん」という異
名は生きていた。出発準備が終わると留まってはいられない性分なのか、他のチー
ムを出し抜いて8時10分に出発。
 新雪が覆っているが、思ったほど深くはない。先頭を伊藤さん、2番手を徳地さ
ん、3番手を黒川さん、そして私と続いた。だらだらな傾斜で半分以上は自分の足
で進むしかない。それでも、体調はばっちり。順調に進んでいく。
 しかし、30分ほどで状況は一変した。先頭の伊藤さんは沢との出会いで左岸を進
んだが、徳地さん以下は右岸をとった。伊藤さんは沢にかかっていた橋を見落とし
たのだろう。徳地さんは気がつき、夏道のトレールにしたがって進んだわけだ。選
択としては徳地さんが正しい。左岸はいかにも雪崩の危険がありそうで、ところど
ころデブリが見えた。しかし、実際は伊藤さんがずっと楽なコースをとった。我々
のコースははじめの100mばかりは快適だったが、あとは登ったり下りたりが激
しく、ルートファインディングも難しい。私は途中何度が転倒し、ストックが縮ん
だまま伸びなくなり、1本がほとんど使いものにならない状態で進んだ。
 それでも、1時間ほどでやっと伊藤さんが待つ地にたどり着いた。
「あんまり遅いんでどうかしちゃったのかと思ったよ」
 自分たちが右岸を行ったのだと告げると、左岸は一度デブリの中を抜けたけど、
あとは全然問題なく楽にこられたと得意げに笑う。伊藤さんにはそういう楽をする
嗅覚があるようだ。初日、やはり同じようなことがあった。私たちは沢沿いをさけ
て高巻きしたが、伊藤さんだけが果敢に沢沿いを行った。結局、最後きびしい斜面
を横滑りと斜滑降で沢まで下らなければならなかったのは我々のほうだった。
「これからはどちらに行くか迷ったら、伊藤さんについていこう」
 そう決める。しかし、実際はその後、そういう選択を強いられることはなかった
。
 全員が揃うと再び下山。私の縮んだポールは北田さんが直してくれた。餅は餅屋
か。
 ここからは左岸を行く。アップダウンはなくだいぶ滑りやすくなってきた。しば
らくで樹林帯が切れ、広い斜面となる。昨夜の雪でこれまででは一番のコンディシ
ョン。伊藤さんが豪快に滑っていくと、次々に思い思いのシュプールを描き滑り下
りる。私が行こうとすると、黒川さんが私の滑りを撮りたいのでちょっと待ってて
と言い先を行く。
 黒川さんがGOの合図を出す。斜度は15度ぐらい、長さも100m弱。これまで
ひどい滑りばかり見せてきたが、雪質さえ良ければ少しは滑れるというところを見
せたい。すでに滑り降りた面々が私の滑りに注目する。
「この雪ならいける」
 私はウエーデルンでかっこよく決めようと飛び出す。しかし、ザックが重い。か
らだが振られショートターンは難しい。ウエーデルンは諦め、中ターンのパラレル
で飛ばす。5回ほどターンしたらもうみんなのところに着いてしまった。思惑とは
違ったがまずまずの滑り。勢いよくブレーキをかけ止まると、伊藤さんにひとこと
言われた。
「まっちゃん、山でそんなに飛ばすと危ないよ」
 ちょっとショック。
 そこを過ぎると、あとは滑りらしい滑りを楽しむことはできなかった。徐々に雪
は少なくなるし、岩や灌木が多くなり、それを避けながら行くので精一杯。若木の
幹をエッジで傷つけるたびに、心の中で「ごめんなさい」と言いながら進む。
 昼過ぎにやっとPhelps Lakeに到着。しかし、下りすぎたようで沢を
渡れない。少し沢沿い戻り、橋を見つける。橋を渡ったところで、ゆっくり休み行
動食を食べる。
 あとは湖沿いを南下し、林道を目指す。もう一息で、駐車場まで戻れる。しかし
、気がゆるんだのか一気に疲れが出てきた。湖沿いとはいえ、小さく登ったり下り
たりが続く。しかも、小さな流れを飛び越えたり、木をまたいだりでスキーをつけ
たままではまともに歩けない。これまでは何とかついていけたが、だんだん差が開
いてくる。いっそ板を担いで、つぼ足で歩いたほうが楽だろうと、スキーを脱ぎし
ばらく行くが潜って歩けない。
 結局、再びスキーを着けて出発。途中で、遅れ始めた私を徳地さんと黒川さんが
待っていてくれる。申し訳ないと思うが、ペースは上がらない。それでも、湖から
離れるとまた進みやすくなってきた。そして、左手に林道がちらりと見えた。やっ
と戻ってきた。あとは板を担いで林道を歩いていけばいい。真壁さん、伊藤さん、
徳地さん、黒川さんが林道脇で私を待っていてくれた。
「まっちゃん、のんびり来て……。誰かが迎えに来てくれるだろうから」
 伊藤さんはそう言うと、さっさと林道を下っていく。私も板をザックにくくりつ
けると、さっそく出発。しかし、山スキーの靴では林道は歩きにくい。林道脇の未
舗装路を選んで進む。徳地さんは、これならスキーほうが楽と再び装着して、雪が
残っている森へと上がり滑っていく。再び自分だけが取り残される。
「まーいいか。マイペースで行こう」
 私は一人ぶらぶらと進む。10分ほど歩いただろうか。前からワインレッドのレガ
シーがやってきた。ダンさんとベンさんだ。
「グッド・ジョブ」
 ダンさんが車から下りると握手を求めてくれた。
「サンキュー」
 時計を見ると2時少し前だった。やっと、ツアーが終わったのだ。そのときは感
激はほとんどなかった。重いザックと歩きづらい靴から解放されたことが、何より
も嬉しかった。
松倉一夫/Kazuo Matsukura

以下2017年12月伊藤フミヒロ追記

 

このあとジャクソンに戻ってながれ解散となったはず。徳地さんがトラックでロス
アンジェルスまで帰るというので黒ちゃんと3人で旅をすることになった。
しばらくそのことを忘れていたが、こないだ徳地さんと、あれは面白かったね、と
その長距離ドライブが話題になった。googlemapでそのルートを出してみたがおおむ
ね写真のようなものだったはず。

ジャクソンからアイダホに下って、シティオブロックスで岩場を見学、ベントに入
ってバチェラースキー場でひとすべりしてからスミスロックも見学したのを
覚えている。あとはカリフォルニアを縦断するドライブで、途中シャスタ山麓で1泊。
洒落たロッジで暖炉を囲んでくつろいだのが楽しかった。2泊のドライブでロスアン
ゼルスに着いたはずだが、そのあとどうしたかは記憶にない。

rock&snow誌の2000年の秋号と冬号に徳地さんがこの山旅とドライブの記事を書いて
いてこないだ久しぶりに見てみたがよいレポートだと思った。山ツアーの記事も
rock&snow誌のどれかに掲載されているはず。

シティオブロックスで撮ったトラックの入った写真は、下請けで日本のロシニョール
のカタログを作ったときに見開きで使ったはず。カタログにはアルプスの写真など
アリネガを総動員して思い出のアルバムのようになってかなり満足したのだが、はて実物は
どこへ行ったかな。