寄稿2

寄稿2
目次
クライミング仙人、鈴木英貴氏にあう 井上大助
危ないとおもったら、これ。 茅野隆
フレンズはクライマーのおともだち 茅野隆
自然の岩場の危ないルートに注意 伊藤文博
自然の岩場と人工壁の違い 糸尾汽車
ボルトはなぜ打たれるのか 菊地敏之
インスボンへの旅 西宮遊太
幻の『氷雪テクニック』あとがき 木本 哲
ウィリアムソンロックの一日 Y.TOKUCHI
面白けりゃなんでもあり ホイホイ宮崎氏に聞く
どぶねずみクロニクル  伊藤忠男
まいいか、の週末 糸尾汽車
ロッククライミングのすすめ 大岩あきこ
テレマークなんてカンタンだ 糸尾汽車
シングルトン・スキーラリー,ドリームチーム見参  五味隆登
最近またクラッククライミングが流行っているらしい(全文掲載) 菊地敏之 ガメラ
白い粉の魔力的世界。今、パウダーの時代!? HIARI MORI
あずさのニセコ日記 五十嵐あずさ
マッキンレーからアンデスへ 花谷泰広
真実レポート 初めてのスキーレース 松倉一夫
街で見かけるロクスノ・シーン 松倉一夫
オオ、コエーに克つ精神療法 カルロス永岡
ヨセミテエルキャプシールド 麦谷水郷
屏風岩ミッドナイトエクスプレス全文掲載 森光
クライミングと雑誌 山本芳裕


クライミング仙人、鈴木英貴氏にあう
井上大助
「スズキヒデタカ」と聞いてピンと来る現代のクライマーはだんだん少なくなってき
ているのではないだろうか? とはいえ、ちょっと前のクライミング雑誌のインタビ
ューや靴の広告、アメリカのクライミングビデオに登場したりしていたので、会った
ことはないけれど、名前ぐらいは知っているという人はいるだろう。かく言う私もその
クチだった…。

今年6月、プライヴェートのクライミングとサンディエゴで開催されたエクスゲーム
の取材のためアメリカに渡った。ツアーも後半、ネヴァダ州ラスヴェガス郊外にある、
Mt、チャールストンの岩場を訪れ、平山ユージ、飯山健治の二人に合流したとこのこ
とである。
岩場の陰からひょこり現われたその人が、鈴木英貴さんだった。


 私自身のイメージとして英貴さんはすごく険しい人なのだろうと勝手に予想してい
たのだが、それは見事に裏切られ大変気さくな人だった。初対面だった私をすぐに「大
助くん」と親しげに呼んでくれたうえに、ユージたちがすでに転がり込んでいるアパー
トに我々も招いてくれたのだ。

 長いアメリカでのクライミング生活で初めて借りたという英貴さんのアパートはラ
スヴェガス市内にあり広さは大きめの1DKといったところだった。生活はいたって質素
で家具といえばソファーが1つにテレビがあるだけ。それでもしっかりクライミングウ
ォールが作られていたのはさすがである。

 生活はとにかくクライミング中心にまわっていて、ある日の生活は午前中ジムに行
き軽くウォームアップ、午後は日暮れまで岩場でクライミング、夜は再びジムに行きト
レーニングといった感じ…、クライミングがレストの日も決してダラダラすることはな
くレッドロックスにハイキングに出かけ汗を流すといった過ごし方。食事も肉類は一切
食べず、もちろん酒も飲まない。本当に徹底しているのだ。まさにクライミング仙人。

 英貴さんといえばクラックが主体のクライミングをおこなっている人だと思われる
方も多いだろうが現在ではスポーツクライミング(ボルトのルート)がメインとなっ
ているようだ。もちろん、5.12の後半ぐらいサラッと1撃で登ってしまう。パワー
というよりは洗練された上手いクライミング。

 アメリカでは現在「スティッククリップ(1本目、場合によっては2本目のボルトま
で棒を使って予めロープをクリップしておく事)」がポピュラーになりつつあるが、
日本ではこの現象を嘆くヴェテランクライマーがいるし、私自身もあまり好ましく思っ
ていなかった。しかし、英貴さんはそんなことあまり気にしていなさそうだった。もち
ろん英貴さんがスティックを使う事などなかったが、クライミングのスタイルなど他人
にとやかく言う事より自分の中でしっかりできていれさえすればいい、とにかく登れれ
ばいい、ということなのであろうか?。

 とても40代には見えない鍛え上げられた肉体、健康的に日焼けした肌、ユージとは
また違った意味でまぶしく見えるクライマー・鈴木英貴。その生活の多くはまだ謎に
包まれおり、まさにミステリアス。たった2・3日で彼のクライミングライフを知る
事は困難だが、クライマーなら誰もが何らかの影響を受ける事だろう。

 ユージでさえ「英貴さんはスゴイ、英貴さんはスゴイ」を連発していた徹底ぶりだ
が、ユージと別れた後、英貴さんも「平山くんはどうしてあんなに上手いのか、どうし
てあんなに登り続けても平気なのか?」としきりに尋ねてきた。新旧、日本を代表する
クライマーが互いに魅かれ、互いに興味を抱いている様子が非常に印象的なラスヴェガ
スでの数日間であった。

危ないとおもったら、これ。
使うときには大胆に使う

 スティッククリップはアメリカのソルトレイクシティのエッピク社からでているもので、
アメリカでは大売れだという。安全なクライミングを考えるクライマーならひとつもってい
ても悪くない。
 
リードクライミングをするひとにとって、自然の岩場のルートで、一本目のボルトが遠いの
は、プレッシャーだ。ボルト間隔の短い室内の人工ルートに慣れた人にはなおさらだろう。
最初のボルトにクリップする前に墜落したらグランドフォールまちがいなしだから。クライ
ミングで一番緊張するときのひとつだろう。
ルートのなかには,意地悪、とも思えるものもあって、頭のはるか上、信じられないほど上
部に一本目のボルトがあったりする。トポでグレードを知ることができるとはいっても、初
めて登る人には一本目までは恐怖の世界だ。

危険だと感じたら、やめるのが一番だが、登れるか登れないかわからないところを登るのが
フリークライミングの常だから、こんな状況にはよくでくわす。そんなときは、迷わず、こ
のスティッククリップを使うとよい。その辺に落ちている棒にこの器具をくくりつけ、あら
かじめロープを通したヌンチャクをとりつけ、おもむろに一本目のボルトにひっかける…、
と、なんと、安心のトップロープ状態になるというしかけ。これで最初の憂いをたって、ク
ライミングに専念することができるというものだ。

昔から、このクリップ方法を行うための器具があって、。。。。、。。。。。、は使ったこ
とのある人もいることだろう。そんな器具がなくても、知恵と工夫で手作りスティッククリ
ップを使っていた人もいると思う。
図で示したのがそのやりかた。覚えておいて損はないはず。

そんなやり方はフェアじゃない、という人がいるだろうが、それはオンサイトやレッドポイ
ントを狙っている場合。練習しているときだったら、トップロープでクライミングしている
ときと同じことで、なんら恥じることではない。
無理して、突撃して、落ちて、頭でもうったりしたらそれの方が大恥じということになる。

また、ものの本には、一本目のボルトが遠くて、そこまでいく自信がないなら、そのルート
はあきらめること、などと書いてあるものもあるが、『トップロープではなく、リードした
い、が、一本目までがこわい』という状況はありうること。核心部がもっと上にあるのなら
、そこまで登ってトライしてみたいと思うのも人情。とりついて練習しないことにはいつま
でもそのルートはのぼれないことになる。実力より上のグレードを狙うのなら、安全な練習
をかさねて、そのあとレッドポイントすればよいのだ。要は、危険なことを敢えてする必要
はないということだね。

 1本目にクリップしても、二本目にクリップする直前に落ちるとグランドフォールしかね
ないルートもあるので注意。そんなときは2本目までクリップできればさらに安心だ。また
一本目の下に手ごろなクラックなどがあればフレンズなどをつかってプロテクションをとる
のも手だ(アウトドアでクライミングしようとするひとなら、常に、フレンズなどのフレキ
シブルカム類を1セット、備えているのは常識だよ)。


フレンズはクライマーのおともだち
アウトドアでは備えよ常に

自然の岩場では、ボルトのないルートもあり、クラックルートなどがその代表だが、そこでは、ボルト
の変わりにナッツやフレンズなどのカム類をセットして自分でプロテクションをとりながら進まなけれ
ばならない。自然の岩場をのぼるのなら、これらのカム類は必携だ。

とくに可変式のカム、フレンズやキャマロットなどはどうしても1セットはもっていたい。
ボルトルートであってもカム類が使えるところがあり、安全のためには積極的に使うのがよいだろう。
トポにはフレンズが必要とかかれたボルトルートも多い。そんなところではフレンズがないと、危ない
し、登っていっても敗退しか道はないだろう。
3級位のやさしい岩場、古いハーケンしか残されていないルート、足場の悪い岩場のとりつき、マルチ
ピッチのビレイポイントなどなど、アウトドアの岩場にでるとカム類があると便利で安心な場所はたく
さんある。フレンズ一辺倒だった以前とは様子がかわり、最近は、使いやすい可変式のカム類が豊富に
でまわっている。サイズも極小のエイリアンからキャマロットのビッグサイズまで豊富にそろっている

研究してよいギアをそろえたい。 

自然の岩場の危ないルートに注意
ルートをみれば製作者のグレードもわかる


 自然の岩場のルート、とくにボルトを打って作ったルートは、いずれだれかが作ったルートだから出来不出来が
ある。

 楽しいクライミングができるルート取りかどうかがまずその第一。一面の壁のなかにどんなルートを引くかはク
ライミング経験とセンスがものをいうだろう。良いルートはスタンダードとして末永く登られるだろうが、魅力の
ないルートは廃れてしまうだろう。

 出来不出来はルート取りだけではない。
安全のためのプロテクションの作り方にも出来不出来はあるのだ。

 商売でルートを開いている人はいない。みんな持ち出しでボルトを打っているのが普通だから、ボルトや終了点
など金物を節約している場合もある。B級品の金物を使ってあるかもしれない。ボルト間隔が長かったり、終了点
に無理があるものもある。

ボルト自体が不良品ということもある、あるいは古いルートなら打たれたボルトが劣化しているかもしれない。ま
た誰かが打ったものだから浅打ちのように、打ち方がまずい、つまり抜けやすいものもあるかもしれないのだ。

 またボルトの位置も重要で、スラブやフェイスルートの場合はスリップして落ちた場合、体がボルトの当たらな
いような位置になければならないし、ハングした壁などではテンションがかかった場合、カラビナやロープが岩角
に当たらないようにかんがえられていなければならない。墜落したとき、振られて側壁に衝突してしまうようでは
よいボルト位置とはいえない、とかとか、ボルトが適正な位置にあるかどうかは、登る前にクライマー自身がチェ
ックするべきことがらだろう。

既成のルートにはよく出来たルートもあるが、そうでもないものもあることを知っておきたい。すべてのルートを
信じるのは危険だ。
ルートの危険な部分が見えるようになれば、対処の方法もあるが、どこが危険がわからないというのはこわい。
危ないルートで、事故がおきても責任は自分にあるわけで、自分が危ないルートを見分ける目をもたなかったと考
えるしかないのだ。


自然の岩場と人工壁の違い
知っておきたいこと


 室内の人工クライミングに慣れたひとが自然の岩場にでてまず思うことは、色分けされたホールドがないとい
うこと。というのは半分冗談で、とにかく、人工ホールドと自然の岩場のホールドがまったく違うようにみえる
ことだろう。

 当り前といえば当り前だが、これは随分ちがう。慣れることよりほかに方法はないが、慣れてくれば、違いよ
り似ていることのほうが多いということに気がついてくるのではないだろうか。むしろ、見方、使い方によって
は、自然の岩場には潜在的に、無限にホールドやスタンスがあるわけだから、登りやすいともいえる。人工壁な
ら、身長の短い人が精一杯手をのばしても届かないホールドは、ランジでもしないかぎり届かないものだが、自
然の岩場なら、遠いガバの下に小さなホールドを発見できるかもしれない。あるいは足元にスメアリングできる
へこみがあるかもしれないのだ。

 もうひとつ、自然の岩場でリードクライミングしようとするとイヤでも気がつくことは、ボルトの間隔が長い
ということ。
理由がいろいろ考えられるが、とにかく、長い(というよりも室内壁が短い、ともいえるのだが)。欧米のルート
では概してボルト間隔は日本より長いといわれている。
 間隔が長いということは、落ちた場合、墜落する距離が長いということになるわけで、これは怖いということ
につながります。
これも慣れるしか方法はないのだが、良くできたルートなら、グレードにもよるが、核心部の手前には(つまり
落ちそうなところだね)ボルトがあり、そこでは安全にクリップができる、というのが普通だろう。よくできた
ルートならあるべき所にはボルトが必ずあるはずで、必要充分なボルトが打たれたルートはリズムもよく快適な
ものだ(ということは、ボルトが適正に打たれていないルートもなかにはあるわけで、その辺を見る目が必要)
。それにしても、ボルトは室内のようにたくさん連打されていればよい、というものでもないわけです。

もうひとつ、知っておきたいのは、終了点までいってから、そのあとのおり方。室内ジムならば、ロワーダウンという
方法でビレイヤーがそのまま降ろしてくれるのを待っていればよいのだが、自然の岩場では、これだけでは済ま
ないことがある。まず、終了点にジムのような開閉式のカラビナがないことが多い。この場合は別に説明する方
法で降りなければならない。
また岩場の形状のよっては、ロープに負荷がかかりすぎたり、終了点が確固としていないので強い力をかけたく
ない、というような場合があり、そのときはロワーダウンはできない。そんなときは、確実な方法として、懸垂下降で
おりることになる。この方法はジムでは滅多に使わない方法だからしっかりマスターしておく必要がある


ボルトはなぜ打たれるのか
菊地敏之

  先日、何年かぶりで衝立の雲稜第1を登り、あまりの悪さに参ってしまった。しかし参ってしまったのは
、ただ荒れていて悪かったからというわけではなく、どうも納得いかない部分が多すぎたからだ。というの
も、その悪さというのが岩登り本来の難しさというより、全て支点の錆び具合によるものだったのだ。
  クライミングの難しさ、悪さというものは追求しがいがあって面白く、滅多に出ない我々の向上心を大い
に喚起させてくれる。しかしその“難しさ”にこうした受動的な要素を加える事は、一昔前なら一笑に付さ
れたに違いないことだが、どうも違う気がしてしょうがない。なんで他人が打ったハーケンやボルトの、し
かもなすがままの錆び具合なんかに命を託さなきゃならないんだ?  そもそもハーケンを残置し、その残置
ハーケンを辿る事が本来の岩登りなのかどうか、ということを抜きにしても、ボルトに関しては、どうせ使
うならしっかりしたものに変えてもいいんじゃないか、と思ってしまう。
  まあ、そうは言っても、さすがに衝立での支点の整備となると話が現実離れしてしまうだろう。だが、こ
の夏やはり“荒れ放題”だった小川山の事となると、いささか事情は違ってくる。
  今年長雨と集中豪雨に翻弄された小川山でクライマーの話題を独占したもの、それはどこそこの道が崩れ
たとかということではなく、意外にもチッピングとボルトの乱用だった。チッピングについては今更言うま
でもないが、ボルトの事となると問題は複雑だ。
  というのも、ここでボルトを打つ人間は、フリーで登れないからボルトを打つ、ではなく、あくまで安全
のため、あるいはルートをルートたらしめるために、なかば奉仕の気持ちでボルトを打っている、あるいは
その様な建て前を掲げているからだ。
  だが、それも、見る人から見れば“乱用”となる。
  この見解の相違を云々するには、まずフリークライミングに於けるボルトの意味について、いやそれより
先にフリークライミングとは何か、ということをもう一度考える必要がある。
  それではフリーとは何か? ということで、あえて私見と断りを入れて述べさせていただけば、それは自
然が与えてくれた岩壁という遊び場を、自然が与えてくれるもの以外何も使わず(つまりタダ=フリーで)
、トレースするということだ。
  だが、そうは言ってもその対象が難しくなれば、理想ばかりも掲げていられない。靴が必要になり、ロー
プが必要になり、やがてプロテクション用のギアが、そして最終的にボルトが必要になってくる。よく言わ
れる「ボルトはフリーの妥協点だ」という言葉はこのプロセスを抜きにしては理解できないだろう。つまり
ボルトは理想論としての“フリー”が行き詰まった時、具体的にはナチュラルプロテクション・テクニック
や、フリーソロ・ランナウトに対するセルフコントロール能力あるいは精神的な力が限界に来た時に初めて
使うものなのであり、それを無視した多用は、乱用と見なされても仕方が無いということだ。
  例えばある人があるフェースを、できる限り少ないボルトで初登した、ということは、その人がその壁を
恐ろしいプレッシャーに絶えつつ、できるかぎり“フリー”で登り、そのルートとしたということだ。今年
少なからず見受けられた既成ルートへのボルト打ち足しは、そうした事実を完全に無視していると言える。
先人と同じプレッシャーに耐えられないなら、そのルートを登るべきではない。フリークライミングは肉体
の向上と同じく、精神の向上も必要とされる。そうした力の結実が、個別のルートというものなのだ。
  また、クライミングの楽しみ、というか必要技術の一つに、頭脳の問題がある。それは具体的には数ある
岩場の中からルートとして妥当性のあるラインを見つけ、しかもそこでもっとも効率よいラインを選んで登
るというものだ。当然、それを無視したルート設定とボルトのセッティングもやはり乱用と呼べる。その具
体例として最近、優れたクラシックルートの脇に無節操に作られた、知性のかけらも無い新ルートが実に多
く見られるようになった。今年その内の何本かは有志によってボルトが撤去されたが、そうした処置は全く
正しいと私は思う。
  ボルトは岩場に打ち込まれたらその時点で公共性を持つものだ。そうした意味で古いボルト、強度に疑問
があるボルトは、それを使う者が常に受動的な立場にあるという事を考え、整備して然るべき、あるいはそ
の方が望ましいと思う。しかしまた逆に、ボルトの存在そのものについては、ボルトが無い、ということも
一つの存在意義だということを忘れずに考慮する必要がある。
  さて、衝立岩と小川山、随分身勝手にボルトに対する矛盾した意見を述べ立ててきた。本来各人各様のこ
うしたセンスは、一律に統一しようとしたり、数値で表そうとしても無理があるものだが、そうはいっても
クライミングという一つの社会に属する以上はある程度共通の感覚を持たなければ成り立たないだろう。結
局の所、何の分野でもそうだが、自己主張をするにはそれなりに時間をかけ、少なからぬ努力を払ってその
分野の事を充分に勉強する必要があるということだ。そういった意味で、ボルトについては、安易な自己主
張に終わらぬよう、一考を促したい。


「インスボンへの旅」
西宮遊太
 

30リットルのザックひとつと、小さなトートバッグひとつで成田空港を出発した。海外
にでかけるのにこんなに少ない荷物ははじめてだ。クライミングにしろ、スキーにしろ、
いつもならチェックインカウンターで、荷物の超過を心配しているところだ。今回は、そ
んな心配はまったくなかった。
 夏休みにどこへ行こうかと、いろいろ考えた。アルプスにでも行きたいところだが、
それほどヒマとカネもない。近場で行ったことのないところ、韓国のインスボン(仁寿峰)
が浮上してきた。
 8月25日。ソウルまではすぐだ。現在、短期の観光はビザがいらない。飛行時間も2
時間あまり、あっけない海外への旅だ。
 インスボンへは、空港から直接タクシーで行くと便利だ。インスボンは、ソウル郊外
北部の北漢山国立公園にある。タクシーの運転手には英語はあまり通じない。行き先をハ
ングル文字か漢字で紙に書いて見せた方がよいと思う。(韓国の人にはあまり英語は通じ
ない。空港や観光地などでは日本語のほうがよく通じる事がある。)
 さて、タクシーを終点のトソンサで降りて歩きはじめる。ここには門前町で売店があ
るので、ジュースやおやつを買う事ができる。目的地の白雲山荘までは1時間ほどの登り
だ。日本の雑木林とよく似た道を登ってゆくと、けっこう登山者にであう。ここはソウル
市内からすぐなので、日帰りで山歩きを楽しむ人が多いようだ。
 白雲山荘は、数年前に建てかえられた、新しいログハウスで、なかなかいごこちが良
い。板の間に直接寝るので、マットと寝袋が必要だが、山荘で借りる事もできる。食事は
外のテラスで自炊している人もいたけれど、朝食と夕食を出してもらった方が良い。2食
付でマットと寝袋を借りて、一泊2500円くらいだ。
 食事はとてもおいしい。唯一の問題点は量が多すぎる事だ。(今回の旅で、2kgも太
ってしまった。)ごはんとみそ汁に、おかずは野菜、魚介類、肉料理、たまごやき、キム
チ2~3種、のり、だいたい10皿ならぶ。朝食の方が少しあっさりしたおかずが多いくら
いで、やはりすごいボリュウームだ。もちろんよく冷えたビールや、焼酎を買うこともで
きる。マッカリというにごり酒もおいしい。
 午前中の飛行機に乗れば、夕方には白雲山荘に入ることができる。この日はビールを
飲んで暗くなるとすぐ寝てしまった。
8月26日
インスボンの岩場へは山荘より歩いて10分くらいでとりつくことができる。
とりあえず下降路をチェックしたいので、多くの人が頂上よりラッペルに使うビドウル
ギ(Bi Dul Gi はとの意味)ルートを登った。簡単なフリー2ピッチとA0、1ピッ
チで終了点につく。アンカーは鉄製の大きなものがあり、途中のラッペルポイントともよ
く整備されている。
僕たちは50メートルロープ1本しか持っていかなかったので、4回のラッペルで取り付
きにもどった。どのルートもロープ2本を持ってゆけば、同ルートを下降できるようだが
頂上より歩いて下るルートはないので、ほとんどの人がこのルートでラッペルするようだ。
1本登って降りてくると昼前になったので、山荘に戻って昼食にした。昼食向けに特別
にメニューがあるわけではないので、カップラーメンか、(けっこううまい)あたたかい
ソーメンのような、コリアンヌードルを食べる。ビールをたのむとキムチを皿いっぱいだ
してくれるので、これをコリアンヌードルに入れてもおいしい。
昼食を食べていると、山荘のキムさんが、午後から案内してくれるとの事。よろこんで
お願いする。キムさんは31才、ヨーロッパアルプスに登りに行ったことのある親切なクラ
イマーだ。英語もうまい。ひまなときにはクラリネットを吹いている。
昨夜、世間話をしたときに、クラッククライミングが好きだと話したので、アミドンと
いうルートに案内してくれた。アミドンはインスボン東面にあり、5ピッチほどでぬける
ことができる。(どこまでロープを使うかで、ピッチ数は変わる)
まず2ピッチ、やさしいところを登り、クラックにとりつく。インスボンは全般的に傾
斜がゆるく、フリクションが良いので、手がかりがあればやさしく感じる。3ピッチめは
5.9のクラックを登り、クラックがなくなったところから、5.10aのスラブのトラバー
スに入る。クラックはジャミングがよくきくので、難しくないがスラブの一歩がどうにも
こなせない。パートナーの伊藤に替わってもらうと、あっさり登ってしまう。さらに2ピ
ッチ登ってロープをはずす。
頂上までに小さいが、すべりやすいスラブがでてきて少し緊張した。
頂上からのながめはもちろんすばらしい。ラッペルポイントまでは少し歩いて下る。フ
ィックスロープ(てすり用)もあり、かんたんだ。ロープ2本でラッペルしたので、2回
で戻ることができた。山荘に帰り、キムさんたちとビールを楽しんだ。
8月27日
クラックを楽しもうと、有名なシュイナードA(キバID)に出かける。このルートは
ほとんどがクラックで構成されるすばらしいルートだ。やさしいところを2ピッチ登り、
5.8の長いレイバックに入る。フリクションもよく、手がかりもしっかりしており、爽快
なクライミングがつづく。
次のピッチは5.10aのハンドクラックだ。小さなハング越えがあり、そこが核心部。ハ
ングを越えるとえんえんとクラックがつづいている。さらに2ピッチ登って頂上への踏み
あとに入る。
この日は意外と時間がかかってしまい、一本だけで山荘に帰りビールを飲むことにした。
インスボンは白雲山荘から近いし、のんびりした気分でクライミングが楽しめる。あま
りガツガツ登りたいという感じにならなかった。グレードが高くないルートでも、明るく
広びろとした岩場を自分でプロテクションをセットしながら、どんどん登ってゆくのは本
当に楽しい。難しい20メートルを登るのとは違った楽しみかただ。
8月28日
午前中に1本登ることもできたけれど、少し疲れたので朝から下山することにした。途
中の峠から見上げたインスボンはやはり立派だ。1時間ほどでトソンサにつく。お寺を拝
観してからタクシーで東大門に向った。キムさんにクライミングショップをおしえてもら
ったので、少しショッピングを楽しむ。韓国ではなぜか5.10のシューズが安い。
夕食には当然のように焼肉屋にむかい、たっぷりと肉を食べて、韓国の旅をしめくくっ
た。
明るく広びろとした花崗岩のマルチピッチは、ひごろ小さな岩場でロッククライミング
をしている僕にとって、新鮮で心の昂揚する体験だった。
インスボンではキャメロットやナッツを結構使うので、キャメロット2セット、大きめ
のナッツかエイリアンを少し持って行った方が良いと思う。


幻の『氷雪テクニック』のあとがき
  木本 哲
   本に載らなかった幻の『氷雪テクニック』のあとがき

   ケニヤ山のダイヤモンドクーロワールを十一年ぶりに登った。前回はほとんど一人でリ
ードして登ったのだが、今回はその逆でほとんどリードしてもらって楽をした。前回はで
きるだけ難しいところを選んで登ろうという気概があったせいもあるのだろうが、その時
よりいい道具を使って登ったにもかかわらず、今回は「あれ、こんなに悪かったかなあ」
という感情の連発だった。

   その原因にはトレーニング不足というのも確かにあった。しかし、氷雪の登攀というの
は技術や体力だけではなく、天候や精神的な部分も大きい。だから楽した分だけ余計難し
さを感じてしまったのかもしれない。氷雪の登攀でフォローよりリードの方がはるかに易
しく感じることが多いのもそのためだ。久々に「まいった」というようなそんな経験をし
た。

 とはいえ、それも文章を書く、しかも技術書を、ということと比べると、その苦労はた
いしたことではなかった。だから、正直なところ、この数年悩まされ続けてきたことがど
んな形にせよ終わるというのは実に喜ばしいことであると思わずにいられない。しかし、
氷河の歩行など割愛した部分もあるので、実を言うと素直に喜べないところもある。

   思えばこの数年の間にも氷雪の道具はゆっくりと変化し続けている。それに伴って登攀
技術の方も徐々に変化していかざるを得ない。次の十年はどのように変わるのだろうか。
そう思うと、十年後再々度赤道直下のケニヤ山にアイスクライミングに行くのも悪くはな
いなと思う。

 最後になりましたが、多大な迷惑と苦労をおかけした、山と溪谷社の伊藤文博氏、編集
の野村仁氏、写真の川崎博氏など、この本の出版に携わったすべての方々に深く感謝いた
します。


ウィリアムソンロックの一日
ALMOST ALLRIGHIT SUNDAY
 徳地泰彦

 クロスカントリーをやっているという小柄な金髪の女の子はクライミングは初めてのよう
だったけど、けっこうしぶとくルートをフィニッシュしてしまった。もちろん、「手がも
うダメだー」とか「もうおちるー」などと悲鳴は発生した。日本から来たカヤック国体選
手のRちゃんは細身なので何の問題もなし。現在、彼女はアメリカ放浪中だ。自分のクラ
イミングシューズも持ってきたけれど穴が開いてしまったという。男性陣よりブカブカの
靴を借りての挑戦だ。カリフォルニアクライミングをすでに何回も経験しているMさんと
Iさんがリードをしてトップロープをセットしてきたのだ。

今日はこの他にもフリーランスライターのHさん、この仕事は僕があこがれる職業のひと
つだ。もっとも、書けて売れて、メシが食えればの話だ。それと日本語がじょうずなアメ
リカ人のJくんとそのその彼女。Jくんの友達のSくんもいっしょだ。彼等はけっこうク
ライミングにのめり込んでいる。総勢9人が寄り集まってワイワイガヤガヤのクライミン
グ。LAを中心に南、北、東からでそれぞれ車で同じくらいの距離で集まることができて、
初心者も楽しめる場所ということで、このウイリアムソン・ロックと話が決まった。

ウイリアムソンロックは最近開拓された南カリフォルニアの代表的なスポーツクライミン
グエリアだ。標高2000メートルをこえる山岳地帯にあるので暑い夏の間でも快適なク
ライミングができる。タークイッツも夏の岩場として南カリフォルニアでは有名だけれど、
伝統的なナチュプロのルートばかりなので、近頃ではウイリアムソンロックに多くのクラ
イマーが集まる。20メートルから30メートルのルートがほとんどだが、中にはマルチ
ピッチのルートもある。150以上のルートがあり、そのほとんどがスポーツルートだ。
5.5から5.13くらいまでどんなレベルの人でも楽しめ、どれもがみんな満足度の高いル
ートのようだ。

アメリカでも屋内ジムなどでクライミングを始める人が多くなり、スポーツルートのある
岩場の人気が高まってきている。日本のような山岳会制度はないので、初めにお金を払っ
てレッスンを受けて、あとは自分たちでかってにクライミングを楽しむ人達がほとんどだ。
家族連れ、夫婦連れ、恋人同士、グイ・カップルなんかがテニスをするように気軽にクラ
イミングを始める。ウイリアムソンロックあたりの5.6とか5.7の初心者ルートでは腕に
自信のある者がリードをして、トップロープをセットしてくる。ジムなどで5.9くらいは
経験しているから、ボルトで保護されたスポーツルートなら墜ちて怪我をするようなこと
はまずない。ナッツやフレンズだけで登れそうなルートにもちゃんとボルトが打ってある
ので初心者でもリードできる。「オポジションだ。イーコライズだ」などと、いろいろ考
える必要もない。しっかり埋め込まれたボルトにアンカーをとって、あとの人達は安心し
てトップロープで挑戦するのだ。

トップロープなんてクライミングじゃないと信じこんでいた時期が確かにあった。砂漠の
岩峰をトップで登っているはずのクリント・イーストウッドのロープがなぜ上から垂れて
いたあの映画のように、子供だましで、冒険性に欠けている気がしたからだ。ところが、
時代はスポーツクライミングへと移り、コントロールされた条件のもとで、ムーブだけに
専念するクライミングが広まった。伝統的なクライミングのおもしろさを台無しにしてし
まったようなところがあるけれど、安全性に対する技術や道具が飛躍的に向上した。以前
よりもっと多くの人達が気軽にクライミングを楽しめるようになったのはスポーツクライ
ミング発展のおかげだ。きびしい理論もあまり聞かないようになったし、もちろんトップ
ロープのスタイルもここカリフォルニアではしっかりと定着している。ジムではトップロ
ープを楽しむ人がほとんどだし、自然の岩場でもトップロープ専用のところがあるくらい
だ。

今日は多人数で初心者からベテランまで様々だ。トップロープを張ったところは、ウイリ
アムソンロックでも5.10以下のルートが集中するストリームウォールというエリアだ。
春先の雨の多い頃には足元に水が流れるほどが、今の時期は快適な砂地になっている。左
側の壁にはボルト5本ほどの比較的短いルートが集中しているが、右側の壁には30メー
トルほどの5.9の長いルートが3本ほどある。どちらの壁もけっこう立っているのでグレ
イドが低くても登りがいがある。左のルートから順番にリードしてトップロープを張った。
僕らが下でおしゃべりをしている間に、全員が4、5本は登ってしまった。ライターのH
さんなんかは前日もサンタバーバラ近郊でクライミングしてきたので、「今日はもういい
です」などとすっかり満足してしまっている。

気がつくと、みんが陽だまりに座り込んで、国体選手のRちゃんがリンゴ狩りで、もいで
きた新鮮なリンゴとか、スーパーで買ってきたアメリカの駄菓子なんかをかじりながら日
米交流のひとときとなってしまった。日本にしばらく住んだことのあるJくんはもちろん、
他の3人の若いアメリカ人の仲間も日本語が少しわかる。彼等は国際関係学とか国際経済
学なんかを専攻している学生で、日本語のクラスもとったことがあるからだ。英語と日本
語がゴチャ混ぜのおしゃべりになっている。クライミングは世界共通なので初対面の外国
人でもうちとけるのに時間はいらない。特に今日みたいに、多人数がひとところで楽しめ
る場所ではクライミングよりおしゃべりの方がメインイベントになってしまう。そのうち
に「じゃあ、そろそろ」という雰囲気になってきた。今日はこの後、食料品を買い込んで
ジョシュア・ツリーまで行くことになっているからだ。そんなアブない気配を感じた僕と
Mさんは、右側の5.9の長いルートを登らずには立ち去れないと、コソコソとロープやギ
アを集めて反対側の岩かげへと移動していったのだ。

最後のルートも快適に登り終えて、「さあ、ジョシュア・ツリーだ」などといって駐車場
まで戻ってみると、ちょっとめんどうなことが起きていた。車のフロントガラスのワイパ
ーに白い紙切れがはさまっているので、よくある広告のチラシだろうと思った。丸めて捨
ててやろうと手に取ると、それは何とレインジャーからの警告書だった。どうやら駐車料
金5ドルを払わなければならなかったようだ。駐車場には料金を知らすそんな表示はどこ
にも見当たらない。とりあえずビジターセンターまで行って文句をいってやろうというこ
とになった。心配になったHさんもいっしょだ。

ビジターセンターにいたレインジャーはウイリアムソンロックはアンジェルス国有林内に
あるにで5ドルのアドベンチャーパスを買ってくれたという。キャンプもしてないのにア
メリカの国有林で金を取られたことはないというと、6月から試験的に始めている新制度
だとのことだ。有料の表示も入り口にちゃんと出してあるという。駐車料金ではなく国有
林のレクリエーション管理費のようだ。利用者が増えているにもかかわらず予算が大幅に
削減されたための対策だ。集められたお金はいったん連邦政府の会計に入り、少なくとも
その8割が徴収された国有林に還元されるとのことだ。警告書をそのまま丸めて捨てちゃ
ったりすると、連邦政府に記録が移り100ドル以上の罰金、裁判所から呼び出しもくる。
海外からの旅行者でも、空港にある入国管理局のコンピュータに載ってしまうので、次の
機会に入国できないなんて事になる。「めんどくさいなあ」などと思っていたら、Hさん
はもう5ドルをレインジャーにわたそうとしていた。結局、車2台分10ドルの献金とな
り、2人分の警告書と購入したアドベンチャーパスを僕がまとめて営林署へ郵送すること
になった。ビジターセンターでは警告書の処理は行なわないためだ。信用がないせいか、
Hさんからは「ちゃんと送っといてくださいよ」と心配そうに念を押された。5ドルが安
いが高いかはまだ分からないけど、ともかく問題は解決して、僕らの車はジョシュア・ツ
リーへ向って快適に山道を下っていったのだ。


面白けりゃなんでもあり
ホイホイ宮崎氏に聞く

------こんにちは
ホイホイ。

―――クライミング、長いですね。1971年に26歳でアルプスへ行ってますね。
最終目標は未踏の冬壁を登ることでした。そのために1年目の夏は10本以上登りました。
危ないことをずいぶんやったなあ。そういう時代だったから。それでイキがっていたのかな。


―――グランドジョラス北壁中央クローアル初登は、以来2登がないとか?
いまあんなところ登る人はいません。危ないですから。あのときは持っていたピッケルを
バーナーであぶって曲げて氷壁用に改造しました。そして本番へ。


―――発明王の片鱗ですね。ガストン・レビュファと登ったとか?
ミディのレビュファルートとか登りました。『星と嵐』の友愛という言葉に感動した
んですよ。ソロはつまらん。パートナーと喜びを分かち合って登りたい、ということかな。
 マッターホルン北壁はおもしろかったですよ。パーティーの中に冬の北壁とは思えな
い明るさがあって。楽しく登れるのが一番です。


―――フリークライミングを始めたのは?
 71年当時、パリのクライマーはラバーソールを履いていました。
帰国後三ツ峠で早速履いたら、「地下足袋の親分みたい」と言われましたが。それが今
おもえば事始めだったわけ。この世界は、とにかく登れるやつがえらい。
はっきりしていたから、新鮮だった。理屈はないわけ。スポーツだからね。



――今も5.12を登るとか。
クライミングは年じゃありませんぜ。このあいだも5.12を3本くらい登りやした。
でもグレードは二の次。かんたんなルートでも楽しめる良いルートがたくさんあ
ります。


-----クライミングは危ない思っている人が多いようですが。
クライミングは遊び、ですから、危ないことを無理してやることはない。
フリークライミングの場合なら、危ないときはヌンチャクを握るかもしれないし、
危険なルートなら1本めはスティッククリップするとか。トップロープでもいいわけ。

-----トップロープの効用は。
フリークライミングは安全に登るのが重要でしょ。練習でトップロープほど安
心なものもない。ムーブはおなじなんだから。リードするんなら練習してから
レッドポイントすればよいのです。ぼくが5.13を登るときはそうしますよ。
オンサイトはすばらしいことです。が、それはその人の実力にふさわしいルートでやる
ことで、実力以上のルートではなかなかできません。


―――御言葉を。
クライミングは遊び。面白けりゃ、なんでもあり。他人に迷惑かけなければ。自分の
ルールがあればいい。ホイホイ。


「宮崎ホイホイ」「スノーシャット」などありがたいクライミンググッズを作り出す
宮崎秀夫さん。クライミング界の大御所だ(シーラカンスと言う人もいる)。
。名物の宮崎カー(独自改良型クライミングツアー向けワゴン車)にギアとキャン
プ用品、そして仲間たちを大勢乗せて東へ西へ。テレマークスキーもうまい。
(インタビュー=柏、汽車)


”輝ける壁”と、どぶねずみクロニクル
伊藤忠男
 
  マニリンドウの祭、ネパール、ターメで、7月

 ボクらの時代の神話。
 アラビアのロレンス、ブ-ルにテレイ、ブッチとサンダンス..といきたいところ 
だが、神話の起源はそれよりもずっと前だ。
 マンガのイガグリくんと、テレビ創成期の月光仮面あたり。
  彼らは子供の頃ボクの心に永いあいだ英雄として君臨していた。

  30にさしかかったときに、リチャード・ドナーの手でリメイクされた新生スーパ 
ーマンにさえわくわくしちゃったのだから、もうすぐ50に手の届きそうないまも、 
この手の幼児性はあまり変わっていないかも知れない。

 26のときにネパール、インド、パキスタンとふらついていたが、丁度デリーにい 
たときに、ブルース・リーの「燃えよドラゴン」が公開された。公開された日に主演 
している当人が死んでしまったというので、街ではすごい評判だった。
  3日間毎日、暗闇を蚤の飛び交うシアターに通って夢中になってしまった。このヒ 
ーロ-は超能力もないし、妙なウェアーをまとっているわけでもない。鍛え上げた生 
身だけで敵に立ち向って行くところが鮮烈だった。
  ついでにいうとフリ-クライミングも彼に倣って生まれた...じゃないかなあ? 


 ボクの人生観の底に棲むヒーローは、弱いひと困っているひとの側に身を置きたい 
という、ボクの無邪気で独りよがりな気高さを負っているらしいのだ。 もっとも1 
0代の大半と20代のはじめを殆ど長距離ランナ-として過ごしたから 、早いうち 
から自分が相当地味に、つまりヒ-ロ-には程遠いレベルに生まれたことが分かって 
もいた。陸上は極端に層の厚い世界で、下にも上にもきりがない数のランナ-が目の 
色変えて速く強くなろうとしていた。だから、それまで叩き込まれていた何にでも” 
勝敗”を持ち出すような価値観には、ちょっとうんざりしていたのだ。



     私は自分の名前が呼ばれてから登りだすのでなく、自分が登りたいと思う 
          ときに登りたいのです.....ウオルフガング・ギュリッヒ



>>> 76年 ネパ-ル・ヒマラヤ氷河観測隊 >>>


写真
左上:76ネパール、ハージュン氷河観測基地。アウフシュナイダーゆかりの地。
右下:82年インドCB14峰下部氷壁。
左下:89年ペルー、ピラミデ南壁で


 2年後にちょっとしたきっかけから、文部省が若い探検好きの科学者たちをバック 
アップして実現した「ネパール・ヒマラヤ氷河観測隊」に参加することになった。ク 
ンブで懐かしいシェルパたちに再会すると”科学者になったのか?”と口を揃えて冷 
やかされたが、ボクがメンバーに選ばれたのは計測機械や発電機などのメンテナンス 
ができる技能を買われたからだった。

 ボクの任期は3月から11月にかけてのモンスーン季だったが、7月に4400m 
のハージュン観測所で熱と嘔吐に襲われ何日も身動きのできない状態になってしまっ 
た。本気で命の危険を感じたが、気遣うメンバーと土地の人たちの善意に守られて1 
ケ月後にカトマンズに降りた。
  11月に狙っていたルーウェンゾリもだめになったとナイロビにいる相棒に電報で 
知らせた。
  ”例の肝炎になっちゃったんだよ、オレも”
 念願だった美しい山の中で過ごした日々よりも、ボクに救いの手を差し伸べてくれ 
た土地の人たちのことが忘れられなかった。

  で、第三世界でひとの役に立つ仕事をするのはボクの夢の一つになった。

  入院していた間にカトマンズの本屋で手に入れたP.ボ-ドマンとJ.タスカ-の 
チャンガバン西壁(‘76)の記録「シャイニング・マウンテン」を読んだ。英語は 
赤点ばっかりだったのできつかったが、おもしろくてぐいぐい引き込まれた。チャン 
ガバンは輝ける山なのだが、ボクはこれを“輝ける壁”と訳して読み続けた。ボ-ド 
マンの眼差しが、みすぼらしい北インドの街路から、“輝ける壁”、そしてそれに立 
ち向かうちっぽけな自分たちのこころのありようにまで広がっていたのがことに印象 
に残った。


    
     先立つものは何といっても体力です、体を鍛えるのは諸君の意思の力です 

                                                
...伊藤邦幸 




>>>  82年 CB14/インドヒマラヤ >>>

 チミ-(妻)が肝炎後症候群の悪夢からボクを救い出してくれた翌年(79年)、 
好運にもカトマンズで半年間自分の専門職に従事できる機会があった。
そして82年、”輝ける壁”っていいなあっと、ちょっと本気になりはじめていた。 
その夏、3人の仲間とインド北部、ヒマチャル・プラデシュの未踏峰CB14という 
6000ちょぼちょぼの山へ出かけた。事前に調べられた情報もちょぼちょぼで、そ 
の割に自動車の走れる道路から近く、探検の要素と便利さが混じって、かつ岩と氷を 
辿るクライミングが主体で、オトクヨウってところだろうか。しかもグレードは”ク 
ライミング”誌の人気シリーズに倣っていえば、テン・アンド・アンダー。もっとも 
、この頃はまだデシマル・グレードってなかったな、ボクの周りには。

 登頂のあとBCで夜たき火を囲みながらマナリで雇った60を越えるコック、チャ 
ンドーと僅かに通じるネパール語と稚拙な英単語を駆使してやや突っ込んだ話をした 

 印・パ戦争で家族とバラバラになってみんな行方は分からないという。セントラル 
・ラホールは帰属の曖昧な部分を少なからず抱えているから、マナリは人種の坩堝だ 
。ここにいれば各地からやってくる登山者、巡礼者、難民たちを通じて、生きている 
自分のことが家族の誰かに伝わるかも知れない、っていうのだ。ボクは日本にいるま 
だ1才にもならないボクの娘のことを思い浮かべると言葉を失った。
  チャンドーの顔に刻まれたたくさんの皺はいまも脳裏に焼き付いている。

 なんだかボクは、山登りがうまくても困ってるひとを助けられないようじゃだめだ 
と思った。


    クライミングがそういうことに寄与できるかどうかというのは、僕がいつも 
        心に掛けている点だ.....ダグ・スコット



>>> 89年 ペル-、ボリビア>>>



写真
右:89年ボリビア、ワイトポトシ6079m頂上よりチチカカ湖方。
左:89年ペルー、ヤンザヌコBCにて。サダンディーファンが見える


 85年の春に父が逝き、その秋に山仲間のミケを失った。ネパ-ルで彼女が乗り合 
わせたタクシ-がスンコシ(河)へ150mダイブしてしまったのだ。

  89年に出かけたアンデスでは2つの雪に覆われたピ-クにミケの写真を埋めた。 
しかし、肝心の目標だったペルーのピラミデ南壁はコンディションが悪かったことと 
、それをものともしないほどのチカラのないことに気付いたので、取り付いてすぐに 
降りてしまった。
  つい最近この壁がアメリカ人とスコットランド人のペアに登られた。ボクの記憶で 
は多分80年のD.レンショー以来の成功だろう。コンディションは大半がミックス 
でTD++というから70年代のように安定したフルートを辿ればイタダキって訳じ 
ゃなかったということだ。
 クライミングにも理に適った背伸びは必要だが、制御と慎重さを侮る訳にはいかな 
い。ピラミデはそれまでボクにとっての”輝ける壁”だったが、不遜な背伸びに気付 
くとその輝きは失われた。

 高所順応のトレーニングを始めるときから貧しいが精悍で屈強なインディオ、ファ 
ンをテント・キーパーに雇った。ネパ-ルのシェルパと同じに、彼らもまた野生の高 
所で強かに生きていく術を持った誇り高い人々だ。山の中にまで泥棒の横行するアン 
デスではテント・キーパーは必須だと土地のひとにアドバイスされたのだ。だがファ 
ンの能力はテント・キ-パ-を遥かに超えていた。
  目標の登山が終わってボリビアへ移動する前の晩に彼を食事に招待したが、家族が 
待っているのでと、紳士然とした礼儀正しさで辞退された。つばひろの帽子をちょっ 
とつまんで、もっと岩の出ていない良い時季にまたピラミデへ行きましょうといい、 
4才の可愛らしい娘をひょいと肩に乗せ、スク-タ-抜きの月光仮面みたいに消えた 


  山はだめだったが、タフでダンディ-なファンのお陰で気分は上々だった。

 

     すばらしい日だったよ、相棒....レイ・ジャーダイン



>>> 90年 奇跡?! >>>

  90年に奇跡が起きた。10クラスさえめったに良いスタイルでものにできなかっ 
たボクがある日小川で名うての11bをオンサイトしたのだ。”遊びなんだから”と 
訳知り顔でコンペを勧めるひとまで出現したのは、古典的だがグリコのオマケ。これ 
が20代だったら(もう40さ)こっから破竹の勢い、ってことにもなったかもしれ 
ないが、ある日登り慣れた10のド・スラブを落ちて奇跡も一緒にオチタ。
  しかし、しょげるより、つかの間でもモウケ~と思うことにした。
  その道の猛者がかく語りき。11bなど奇跡でもなんでもないと、な。ついでに、 
一流のクライマ-は風邪ひきやすいんだと。ばっかみてえ(失礼!)。
  クライミングがうまくても風邪ばっかりひいてるような体じゃ困る。
  ついでに言うと、足がちゃんと2本あるうちはフルマラソンを3時間程度で駆け抜 
けられないような根性無しの自分はゴメンだし、水泳だってもっとうまくなんなきゃ 
我慢できない。そうでなければ他人どころか自分自身の面倒さえあやしいぞ...ん?。 

        自分全体を成長させ、能力の一部でそのル-トを登れるようになりたい
                                           ...平山裕示
   


写真
右:小川山、私のルート、ジェイコブラダー。
左:91年ヨセミテ、ジョジョ5.10bをリードする私


 とにかく、ツキはあっけなく落ちた。

  しかしその年、めげずに奇跡の余勢を駆って、比較的ポピュラ-な壁に2人の仲間 
とオリジナル・ル-トを設定した。その壁にはもう何本もル-トがあるから”開拓” 
とは呼べないかもしれない。
 シ-ズンの終わり、11月のうそ寒い日を選んで堂々とハンマ-を振るった。数回の 
リハ-サルのあと吹雪の中でリ-ドした。ル-トは、ネパ-ルで逝ったミケへのレク 
イエムとしたが、ボルトをトップダウンで打った余韻がそれ以前のものに累積してい 
までもある。

  天文学的な時系でいえばいつかは砂礫になるのだろうが、ボルトとそれを打ち込ん 
だこと自体がそのときまでその岩に印されていることを思うと、ときに滅入ったりする
。誰かがル-ト開拓は創造的な行為だとまことしやかに言っていたが、こんなレトリッ 
クは当たり前過ぎて何の意味もない。創造性や舌を巻くような技術、行動は、ふつ
うの暮らしのなかでだっていくらでも見つけられるし、極端な例をあげれば、最も邪悪
な殺人兵器の開発や理不尽な土木工事にさえ含まれているんだ。

 プリ・ボルトのルート作りにケチをつけるなんてとんでもない。単に良いル-トを作
る自信がないだけなのかもしれない。自信がないんなら、ボトムアップとかナチュ・プ
ロのル-トを引けばと思うが、まだあるかもしれない空白部を探ったり可能性を考え
ているだけで残っている人生の大半が過ぎてしまいそうで怖い。松本人志流の”ウン
コちゃん”みたいなル-トはいやだし。...悩む。

  それに、第一ボクはまだ、ときには誰かが引いた5.9にさえてこずることがある
のだ。


    いまさら5.9なんてなんの価値もない...飯山健治
        ガーン、ショック..イイモン、ガンバルゾオ(例外的筆者割り込み)
    誰でも5.10程度は愉しんで登れるようになりますね...鈴木英貴
        ホントゥ?..カナア?(例外的筆者割り込み)



>>> 91年 USA >>>

  91年の秋、以前から打診しておいた大事な取引先に1ケ月の不在を通知して、二 
人の仲間とおもちゃ箱をあさるような旅に出た。サンフランシスコでビュイックのト 
ランクにクライミング・ギヤ、キャンプ・ギヤ、それに空を飛ぶ夢の道具、パラグラ 
イダ-まで詰めてしまった。
  ヨセミテの素晴らしいクラック・クライミングは、北インドを旅するみたいにスリ 
ルと発見に満ちていた。でもワクワクするような冒険心や達成感と引き換えに腕、肘 
、膝は血だらけでボロボロ。グレ-シャ-ポイントとトウオラミで冗談みたいにチン 
ケなパラ(殆どグラハン)をやったあとオレゴンへ向かい、Mt.フッドからのパラ 
・フライトを狙ったが強風で中止。
  南に少し戻ってスミス・ロックへ。スミスではまだクライミングを始めて間もない 
トミィが5.9,5.10レベルながら、取り付くル-トすべてをランナウトをものと
  もせずオンサイトした。
  しかし、彼女はこの旅のあと、”これって、おもしろいのお?”という衝撃的な名 
言を残してあっという間に足を洗ってしまった。因みにこのセリフで少なくともどう 
でもいいようなクライマ-のハシクレ野郎が2人自滅しかけた。

  スミスからワシントン州シアトルを通ってさらに北上。国境を超えカナダ、バガブ 
-を目指した。目指したが、その入り口で、なんだか魔が差して2000mくらいの 
スウェンシ-というヤブヤマに捕まった。成熟と快適度NO.1の国だかなんだかし 
らないが、退屈で死にそうなカナダで、さらに、なあんにもないフェアモントでひと 
の絶えたキャンプ場に5日間も意地になって張り付き、季節風が弱まったわずかなチ 
ャンスを掴んでビッグなフライトに成功した。でも頂上から見えていた、バガブ-の 
尖った岩峰がうらめしい。おもちゃ箱の中身はまだたっぷり残っていたが、時間切れ 
の立て札が目の前に立ち塞がってしまった。

  しかし、世界はボクを魅了して止まない。


      たとえば、未開の地へ出かけていって、適当な岩を見つけてクライミン 
      グするといったようなことです.....イボン・ショイナード



>>> 94年 邂逅  >>>


写真
左上:92年ネパール、ペリチェで。タウツェベースよりフライと。 
左下:92年ネパール、ディック・バスと。
右:94年メララからのフライト

  91年USAから帰国した翌日深夜。もっとも敬愛する”昭和一桁”の友人清水さ 
んが長く辛い闘病生活からいきなり解放され、逝ってしまった。”あきらめるな”と 
いうアンタッチャブルのショ-ン.コネリ-とそっくりな台詞と、”弥陀の請願不思議.. 
.”といういまだに訳の分からない嘆異抄の一節をボクに残して。

 翌92年にネパ-ルのナムチェからひとりの若者、ペンバ・シェルパがボクの家に 
やってきた。彼は20年来の友人ニマ・シェルパの長男で、将来へのあしがかりに日 
本語学校への留学を選んだのだ。彼の世話を引き受けたボクは、清水さんの遺志も引 
継いで、”日本”のアジア系外国人への不当な扱いとわずかな間だが、向き合った。 
しかし、日本語学校を卒業後、写植印刷の技術を身に付けたいという彼の希望は、
どこまでも不透明なこの国の”入国管理”によって断たれた。こうして彼はやむなく
93年春に母国ネパ-ルへ戻った。

 94年モンス-ン。
 希望を捨てないタフなペンバとその婚約者テンジン、ボクの二人の娘、それにチミ 
-、そしてあの天才”これっておもしろいのお?”のトミィでボクたちはクンブを歩 
いた。ブル-ポピ-の咲くゴ-キョからタンボチェへ廻った。この地方最大のゴンパ 
の裏手、北に張り出した尾根の針葉樹に囲まれて、ニマとボクと何人かの仲間で作っ 
た清水さんとミケのレリ-フが並んでいる。雨に潤んだシャクナゲの林越しにモンス 
-ンの雲がわずかに切れてアマダブラムがのぞいている。ボクは二人の遺したものに 
思いを巡らせた。


     So Far、So Good.....ブライアン・アダムス


>>> 95年 押し入れで見る夢、そして、再生 >>>

 翌年春、子供の頃からの憧れだったボストンマラソンに出場。季節外れの寒さとコ-
  スの起伏にしてやられ、ボロボロになってしまったが3時間38分でゴール。
その夏、新しい希望を抱いて渡米していたペンバとヨセミテで再会。ネパ-ルでは想 
像もできない恵まれた環境のクライミングに彼も夢中になった。彼はこのあとテキサ 
スでパイロット訓練校に入り、ヘリコプタ-の職業パイロットを目指すことになった。

 その秋、久しぶりのヒマラヤ遠征。若い仲間に誘われてネパ-ルのメラピ-クに出 
かけた。ひとりはスノボ、ふたりがスキ-を使う、それならボクはパラグライダ-、 
ということになった。スノボとスキ-は首尾良くピ-クからの滑降をものにしたが、 
ボクはコンディショニングに失敗し、最高点からのフライトを逸した。

 10年前には考えられなかったペ-スで、アメリカ、ヨ-ロッパ、ヒマラヤへ出か 
けられるようになった。経済的に豊かになったのは明らかだ。96年にはペンバとソ 
ルトレ-クシティ-近郊や、日本の仲間も加えて、ジョシュアツリ-でもクライミン 
グしたし、ヨ-ロッパ・アルプスでのパラグライディングも実現できた。
 世界は目まぐるしく変化し、想像のなかにありつづけることで冒険的だったことが 
、あまりに手軽に実現するためにある種の戸惑いが生まれた。
 冒険と豊かな生き方の相克、あるいは相関。

 
   新しい時代には新しいルールが必要だが、演じるゲームは同じである
                                      
                               ...アラン・ラウス

 また、トミィが名字を変えて(結婚したみたいだ)クライミングの世界に戻ってきた
。別人のようにヘタクソになってしまったが、皮肉なことにクライミングがとてもお 
もしろいと感じるようになったという。”天才”だった頃にはみせたことのない輝く 
ような笑顔で、やさしいル-トからもう一度やり直し始めた。
 すばらしい。じつにすばらしい。

 当たり前だが天才にだけ豊かさがもたらされるって訳じゃない。76で他界した年の
 離れたある友人は、”人生は夢”だと言い残した。清水さん、それに飛躍するがもっ 
とずっと前に生きた織田信長も、世阿弥の”夢/幻”にこだわった。
 人生が夢なら、誰のどんな夢にだって価値がある、とボクは思う。
 クライミングはその最高位に必ずしも”競技”があるという訳ではない。他人と比 
べたり競ったりする世界とは別の基準で計らなければならないような意味もそこには 
ある。


   自分の命を文字通り手中に握り、自分の運命の主人公になること
                ...クリス・ボニントン

 6畳1間に親子4人で暮らしていた少年時代、ボクはたいてい押入で寝ていた。そ 
の小さな空間がボクに想像力を与え、いつかはそこからどこにでも飛び立っていける 
自分を予感していた。50を目前にしてもボクは相変わらず”押入”から夢を膨らま 
せる。ヒマラヤ、アンデス、パタゴニアでのクライミングやそこで暮らす人たちとの 
語らいを思い描くだけで胸がわくわくする。
  ヒーローには程遠いにしても、走ったり泳いだり空を飛んでタフになることが、いつ
   かは誰かを、そして自分を救うことになるだろう。そして、”輝ける壁”へのクライ 
ミングを触媒にして、まだ知らない世界へ旅に出て、自分を試すのがいつでもボクの 
夢なのだ。

-----------------------------97年夏 記-


まいいか、の週末

11月は天気のよい日が多いようだ。連日好転が続いている。木曜日に忠さ
んからのEメイルが入る。明日は小川山にいくという。新しいルートが作れ
そうなのででボルトを打ちにいきたいという。暇ならいっしょに、という行
間のメッセージが読める。 金曜日の平日、自営業の忠さんとちがいこちら
は暇なわけはないけれど、デスクの窓から澄んだ青い空をみていると、信州
の秋空がマブタに浮かんでくる。
 やりくり算段の電話を数本してから、パソコンにむかい、明朝ムカエタノ
ムと返信する。仕事はのばせるけれど、天気はいつまでも続くわけではない。

 高速道路はすいていて、小川山の駐車場もがらがら。
「クライミングは平日にかぎるね」と愛用の十数万円で買ったシビックから
クライミング用具をとりだしながら忠さん。
あたりは、この間までキャンパーとクライマーで
大混雑していたのだが、いまは夢のような静かさだ。雲ひとつない青空にあ
たりの岩峰が白い肌を浮き立たせている。オートキャンパーという新人種
は、蚊やトンボとともに去り、クライマーは日だまりのエリアに移動したら
しい。
 忠さんは遊び着が似合う人だ。良く使いこんだジーンズに山でも街でも使
えそうなアウトドアブランドのジャンパー、煮染めたようなキャップがアジ
をだしている。クライマーらしい中肉中背、マラソンも早いらしい。読書好
き、映画すき、音楽好き、クライミングの知識も抱負、つまり十分、知識と
体験をもった、もうけして若いとはいえない世代のひと。
 
 日向は暖かいが、霜がおりていて日陰は0度くらいか。この近くの川端下
村は日本で一番寒い村のひとつという定評がある。車のわきから、ボルトを
打つ予定の新ルートを眺めるとまだ黒い陰のなか。昼前まで日があたる様子
はない。
「日が当たるまでどこか暖かそうなところで登ろう」
忠さんと、ロープ一本もって、近場の左岩スラブエリアへむかう。乾いた冷
たい空気が鼻の穴にはいりくしゃみがでる。しばらく雨がふっていないから
ホコリっぽくもある。
 そのぶん岩場は乾いていて登るには絶好だった。左岩スラブは午前中は日
当りがいい。「ジャーマンスープレックス」にトライ。最近、ビデオで、こ
こをクライミングの名人が登るのをみた。直登ラインをのぼっていた。1本
めのボルトまではどこでも登りやすい所を登ればよいというのがよくあるル
ートの設定なのだが、ここの場合、初めて登ったひとはこの直登ラインをと
ったのかもしれない。すこし右側からまわりこんで、フレークをつかむと楽
なのだが。
「いいんだよ、どこでも」と乱暴に思う。どこそこは使ってはけないという
限定のあるルートは煩わしくてつまらない。
 それでも直登をこころみる。よっこらしょ、と1本目のボルト下まで真直
ぐ登り、プロテクションをとりひと安心。やっぱりこのラインがいいかな、
と素直な気持ちになる。オリジナルラインは尊重しなくちゃね。上部の核心
部もあっさりこえて、なんだか、今日は調子がよいみたいだ。
 忠さんの「さすがにうまいなー」といういつもの上手なおだてのせいもあ
るかもしれない。そのあと本人もあっさりと登っているのだが。
 
 気持ちがおおきくなってきた。となりの「悲運のエジソン」にとりつく。
グレード12だという。いままでそんなグレードに触ったこともない。気持ち
がおおきくなっているのと、ぼくらだけで、ほかにうるさい外野がいないせ
いかもしれない。
 が、登れるというような代物ではなかった。つるつるで手がかり足掛りは
どこにも見えない(ぼくには)。ぬんちゃくをつかんで、ボルトをステップ
にしてともかく抜ける。
大きくなった気持ちが元にもどる。12だから、まいいか。
  
 忠さんはちょと先の、「雨がやんだら」、をやってみたいという。何度も
トライしているけれど、
「すっきりのぼれたことがない」というルートだ。
1本目のボルトをクリップするのが「悪い」。2本目のボルトにクリップす
るのは「もっと悪い」。クリップし損なうと地面まで墜落するというパター
ンの、あまり触りたくないルートのひとつだ。グレードは11で、細かいホ
ールドで垂直の壁をのぼらなければならない。
上にいくほどもっと難しくなるという、タチのわるいルートだ。2本目まで
無事クリップしてひと安心。見ているといまいち忠さんの動きがさえない。
あれかこれかと上部のホールドを探っているがガバもカチもなさそうだ。と
、突然、上部のガバらしきものに飛びつく(ランジ)。が、手がはずれ墜落
。ビレイするぼくも前に引っぱられる。
 もう一度同じことをやって、『ダメだ。あきらめる』憮然として忠さんがいう
。器用にロープとシュリンゲを使って、2本のヌンチャクを回収しながら降
りてくる。クライミングルートで中途敗退するときは、安全に、しかも貴重
なギアを残さずに降りてこなければならない。何度も経験したことらしく、
そのやり方はムダがない。

 タチの悪いルートだから、いいんじゃないの。とぼくが慰める。無理しな
くていいんだよ、クライミングは、と、いつもの敗退時の持論を吐いていっ
たん車に戻るわれわれだった。
 途中、たしかそのルートはぼくも以前トライしたことがあって、あまりい
い思いでをもっていないことを思いだした。

 忠さんが目をつけた新ルートというのは、小川山では有名なクライミング
エリアのなかにある。人気集中エリアなのでシーズンには混雑もはなはだし
い。もっとルートがあればみんなに喜ばれるところだ。このあたりを開拓し
た人には話しを通したという。そいう仁義も必要らしい。

 15分ほど歩き、ようやく日が当たり始めた現場にたってみる。なるほど、
右と左のルートの間に、確かに一本ルートが作れそうだ。忠さんは前の週に
トップロープでここを試登しているという。ボルトの位置もマークしてある。

 「ひとりで大丈夫」と忠さんがいうので、ぼくは友達に頼まれていた近く
のルートにボルトを一本打ちにいく。そこは、ルート上でナッツをつかわな
ければならないところがあり、それが効きにくく危ないという評判のルート。
いっそボルトにしてしまおうとその友達が考え、僕に、ボルトを託したのだ
った。ルートの上部にまわりこみ、懸垂下降でくだり、問題の箇所にだどり
つく。宙ぶらりん状態で、ボルトを埋め込む穴をドリルとハンマーであける
のだが、思ったよりも岩が固くなかなかはかどらない。ハンマーが軽いのも
悪いのだ。

 今時分、ルートを作るひとはみんな野外でも使える充電式の電動ハンマー
ドリルをもっていてそれでさっさと穴をあけボルトをうちこむのだが、われ
われにはそんなものはない。日当りのよい壁にぶらさがってカーンカーンと
ハンマーを使っていると汗ばんでくるほどだ。10分もあればすむはずの穴
あけ作業に30分もかけようやくちょうどよい深さの穴があく。
ボルトをおもむろに差し込んでハンマーでたたくが、うまく決まらない。ボ
ルトの先が拡張しないのだ。30分の必死の穴開け作業で穴が大きくなって
しまい、少しばかりのボルトの拡張ではボルトが固定されないらしいのだ。
 あきらめて、ユマールで登りかえす。1時間以上かけて、岩場に役にもた
たない穴をあけ自然破壊をしただけだったというわけだ。

 
 新ルート開拓の現場に戻ると、忠さんが作業の真っ最中。新ルートは8本
のボルトを打たなければならないのだが、いま一番上の終了点ができあがっ
たところだという。まず始めに終了点を作った、ということらしい。意外と
時間がかかるものだ。もう日が傾きはじめた。のこりの7本のボルトは近い
うちに打たなければならない。雪が来る前に。
 ボルト打ちは大変な作業だ、とあらためて思う。電動のハンマードリルが
ほしい。

 未完成のルートを見上げていた忠さんが「登ってみてくれ」とぼくにロー
プの先を渡す。ぼくはホイホイとそれを受けてトップロープで登る。トップ
ロープなら途中にボルトがある必要はない。
 ボルト予定位置が黄色いチョークでマーキングされている。それに従って
登る。ルートはほどよく難しく、快適で、難度が持続するよいルートのよう
だ。終了点まで登り、ロワーダウンでスタート地点まで降りてくると、もう
そこは日が陰っていた。汗ばむ体とはべつにあたりの空気はすっかり冷え込
んでいる。
忠さんが聞く。「10A?10B?」
ぼくは「10Bだね」と思ったとおり言う。
「ルートの名前ももう考えてあるんだ」と忠さん。
誰に頼まれたわけでもないのに、国事に奔走する人を志士というのだと聞い
たことがある。維新の志士がそうだ。
クライミングの世界では、ルートを開拓するひとがそれに当たるかもしれな
い。
忠さんが言う。
「今日は、いろんなこをができて、よかった。中途半端だったけど」
「天気もよかったし、空いていたし、ま、いいんじゃないの」と僕。

 なるき屋のラーメンでも食いに行こうと僕らは山ほどあるクライミング用
具やボルト打ちの道具をザックにしまいこんだ。


クライミングのススメ
ENJOY ROCK CLIMBING!
大岩あきこ OHIWA AKIKO

   フリークライミングの魅力といっても一言で言えないものがあります。特
    に今まで一度も経験のない人に分かってもらうのは大変だと思います。フ
   リークライミングは見ているより実際に自分でやってみて初めてその楽し
   さが分かるスポーツだからです。

 私がフリークライミングというスポーツをやるようになったのは24
    歳のときです。でも小さいころから“おてんば”だった私は赤ちゃんのと
    きにはベッドの柵を乗り越えて畳の上におっこちたり、物心つくころには
   塀をよじ登ったり裏庭の樹から屋根に上がったり、高いところから飛び降
    りたりする遊びが大好きでした。
 
   たぶんこのスポーツを見て「おもそろそうだな」と思った人はきっと小
   さいころにそういう遊びが好きだった人ではないでしょうか。クライミ
   ングって人が本来もっている本能かも知れないですよね。赤ちゃんでも
   高いところに這い上がろうするでしょう?
 
    じっさい、子供達にクライミングをさせてみると、とてもじょうずに
    登っていきます。しかし、大人はいざ壁に取り付くと、どうしていい
    かが分からず考えている間に疲れて落ちてしまいます。でも下から「
    次は右のホールド(手掛かり)、足は左側に開いて」などとアドバイ
    スをしてあげると、ちぁんと登って行けるのです。ただ単に体の動か
    し方を忘れてしまっているだけで、できない訳ではないのです。もち
    ろん中には忍者の子孫のように初めてでもかなりのレベルのルート(
    課題)をスイスイ登ってしまう人もいます。こんな人はきっと子供の
    ころの体験を忘れてないんでしょうね。体が自然に楽な体勢をとれる
    のだと思います。

 クライミングは上手に登れるとうれしいし、登れないと悔しい、この
    繰り返しで少しずつレベルが上がって上達していきます。始めは上手く登
   れなくてもやっているうちにだんだん体がスムーズに動くようになり余裕
    もでてきて、こんどはこうやってみようとか、こうやってみたらどうだろ
   う、などと頭で考えられるようになってきます。ここまできて初めて本当
   のクライミングの楽しさが分かってくるのです。


テレマークなんてカンタンだ
糸尾汽車
テレマークなんてかんたんだ
スキー経験者のための即習法発表

 テレマークスキーがブームだ。ブームと
はいうが、テレマークの雪山での実用性の
高さ、その運動性の面白さなどそれなりの
理由があって流行っているのだろう。クラ
イマーとの相性がよくてヨセミテあたりで
はクライマーのピックアップにテレマーク
スキーが乗っかっている光景がよくみられ
る。道具からの自由という意味でフリーク
ライミングとテレマークは共通項をもって
いるという見方もできそうだ。
 それはともかく、「テレマークは難しい」
という噂がひろまっているらしい。そして
、それは正しい。アルペンスキー(いわゆ
るゲレンデスキー)に比べれば、カカトが
つねにプラプラしている分だけテレマーク
が難しいのは当然だろう。とはいえ最近は
、初期の板や靴のように細くてヤワなもの
ではなく、たいへん滑りやすい道具がでま
わっているので、テレマークもけして難し
いものではなくなった。 
 今風のテレマークスキーを使えば、ゲレ
ンデで普通のスキーでパラレルターンがで
きるくらいの人なら1日くらいでマスター
できるだろう。山スキーであちこち行って
いる人なら半日くらいでテレマークがもの
になるにちがいない。ゲレンデスキーがそ
こそこできる人のために、さらにてっとり
早い習得法をご紹介したい。これなら2時
間でマスターできる。
 テレマークスキーとブーツを用意して近
くのゲレンデにでかけよう。板は最近の幅
広短かめのもの。靴はプラスチックの深めがよい
だろう。緩いゲレンデをえらびリフトに乗
る。そしてふだんのアルペンスキーのよう
に滑ってみよう。カカトが固定されていな
いので注意しないと前につんのめりそうに
なるが、そこをグッとこらえて、いつもの
アルペンターンができればよい。板の中心
にさえ乗っていればすぐにできるはずだ。
これであなたもテレマークスキーで滑った
ことになる。あとはどんなところでもこの
アルペンターンができるように滑り込むこ
とだ。
 テレマークスキーだからテレマークター
ンをしなければならないという決まりはも
ちろんないのでこれでよいわけである。む
しろテレマークターンよりもふつうの雪質
、斜面ではアルペンターンのほうがラクで
快適かもしれない。(写真1)
 せっかくテレマークスキーを用意したの
だから、テレマークターンをしたいという
のは人情。その方法は写真2のようにする
とよい(事前知識として、アルペンターン
では回転時に山足スキーがちょっと前にで
ている(先行する)のだが、テレマークタ
ーンでは逆に谷足スキーが前にでることを
知っておいてほしい)。
 アルペンターンの斜滑降姿勢からそのま
まスキーを先落とし最大傾斜線にむける。
すると自然とカカトがあがるのでそのまま
うまく回す。これでテレマークターンの完
成となる。再び斜滑降に入ったらすぐにア
ルペンターンの斜滑降姿勢にもどり、前の
ターンと同じ様に、そのままスキーを最大
傾斜線にむけると自然にカカトがあがり、
反対まわりのテレマークターンが完成する
。これで連続テレマークターンができたわ
けだ。
 実際にはいくらかのコツが必要で、最初
はシュテム気味になったりするかもしれな
い。また回転に入るまえに意識的に後ろ足
のカカトをあげることが必要かもしれない
。回転中は前スキーに過重したほうがやり
やすいはず。
 写真3は、リバーステレマークといわれ
ているもので、テレマークターン修得法の
ひとつ。右回転はアルペンターンだがつぎ
の左回転はテレマークターンでまわるとい
うもの。この逆も練習すれば、連続テレマ
ークターンもすぐにマスターできます。写
真2とあわせて練習するとよい。
 テレマークスキーを使ってアルペンとテ
レマークの2種類のターンができるように
なれば、ひとつの斜面のなかでも状況に応
じて使いわけられるのでたいへん便利。1
台のテレマークスキーとシールがあれば、
山でもゲレンデでも縦横無尽に登ったり滑
べったりすることができるはずです。
(糸尾汽車)

 最近は人工壁のクライミングジムが増えて手軽にクライミングが楽し
    めるようになってきました。自然の岩場へ行くより楽だし安全だから。と
    いうのが人気の理由のようです。初めてクライミングを体験する人にとっ
    ても行きやすいし少ない費用でレッスンが受けられるのも魅力です。


     壁には色別にシールが貼ってあり自分のレベルのルートを選べる
     ようになっています。自然の岩場では自分で使うホールドを探し
     ながら登るのに対し、ジムの壁ではシールを追って行けばいいの
     ですから、初めての人でも迷わずにできて意外と登れてしまいま
     す。
 
     トップロープというスタイルは上からのロープで守られていますので
     気持のうえでもリラックスして練習できる方法です。はじめにロープ
     にぶら下がる時は、だれでも怖がりますが、安全性と信頼性(パート
     ナーへの)が実感できれば慣れるのに時間はかからないでしょう。高
     いところは苦手という人でもきっと楽しめるようになれます。ドキド
     キするような緊張感と冒険心、子供のころの思いをもう一回味わって
     みませんか?


シングルトン・スキーラリー,ドリームチーム見参
THE DREAM TEAM IN SINGLETON SKI RALLY
TAKATO GOMI
 
第6回シングルトン・スキーラリー。登った滑った23チーム、69人。今年も笑
わしてくれました。初登場のドリームチーム見参。
1998-3月29日 
妙高・神奈山コース

 とにかく笑えて楽しいと前評判の高いシングルトン・スキーラリーに初挑戦してき
ました。どうせ行くならすごいメンバーでという事で私、五味隆登、カラファテ店員
のジャック中根、そして黒川春水の3人に決定。レースも速く、ツアーもベテランと
いうドリームチームです。男3人のチームより5分のボーナスタイムがもらえるので
、こりゃもうチームができた時点で勝ったも同然という変な自信をいだき妙高へと向
かったのでした。
 長野オリンピックのアイスホッケー、カナダとアメリカチームのように、えてして
ドリームチームというのは脆いもの。なんたって試合前からうかれてますからねえ。
我がドリームチーム、「トリオ・ザ・3位」もその例にもれず慢心しまくり。前日の
土曜は昼まで寝ていて、その上起きたらまずビールと飯。夜は夜で酒飲みまくりのド
ンチャン騒ぎという始末。こんなんで大丈夫という不安は見事的中するのでした。
 翌29日は暑いくらいの快晴の中、のべ23チームがいっせいにスタート。妙高は
神奈山の斜面に設けられた6つのチェックポイントをチームで通過するラリー形式の
レースです。
 我がトリオ・ザ・3位は幸先良くトップに立ちますが、パイロット役のジャック
コースミス。取り付きの登りで谷の急傾斜面にコースを取ってしまったため、一気に
後方集団にまで順位を落としてしまいます。この段階でトップの大黒屋ホッピーズ
は遥かかなたで、優勝は絶望的な状況。ついには、「バテてないで速く登れ」「ア
ンタがコース間違えるからやんか」などとののしり合い。もうチームワークはバラ
バラです。ドリームチーム、ピンチという感じ。
 しかし「これじゃアカン」と気を取り直してマイペースで登ることしきり。いつ
しか順位も3位に上がり、チームもうまく機能し始めるから不思議です。下りのセ
クションに入ると大黒屋のミスコースにも助けられ一気にトップグループへ。テレ
フォレスターも加え三つ巴のままデッドヒートはゴールまで続きます。そしてトリ
オ・ザ・3位は僅差でゴールスプリントを制したのでした。まるでジャンプ団体戦
日本チームのような逆転劇に感動の一瞬です。
 それにしてもツアーでもう一度滑ってみたい好コースを創ってくれたスタッフの
皆さんに感謝するとともに、油断大敵という言葉の意味を再認識した一日でした。


最近またクラッククライミングが流行っているらしい(全文掲載)
CRACK CLIMBING BACK
菊地 敏之 ガメラ
 
  そういう話を聞いても、たまに城ガ崎でフレンズなどをじゃらつかせては変人扱いされていた私
  などは、本当かなぁと思ってしまう。
 
  だいたいクラックと言えば、一度でも経験して知っている人には「うんざり」という顔をされ、
  ボルトプロテクションのフェースしか知らない世代からは前世紀の遺物というような目で見られ
  る。もうずいぶんと長い間、そういう境遇に甘んじてきたのではないだろうか。実際、5.11dの
  クラックを登ることは、5.12bのフェースをレッドポイントするより苦労する。労多くして得る
  こと少なければ人気がなくなるのも当然の理だ。
 
  だが、この1、2年、状況はまたもや変わって来ているらしい。
  最近キャンパーが減った小川山で、クレイジージャムがどうだ、イムジン河がどうだ、という話
  が聞かれるようになり、カサブランカなどは空いている暇がないそうだ。
  そう言えばこの夏は十数年ぶりで瑞牆山に通ったけれど、確かにあんな「忘れられた」ような岩
  場にも毎週のようにクライマーが来ていた。数年前久しぶりに訪れた時は苔だらけで、まさに「
  ツワモノどもが夢の跡」の面影を呈していた末端壁にだ。
 
  ひところ-ちょっと信じられないだろうが-このクラックの豊富な、と言うよりクラックしかな
  い岩場に、毎週のように本当に強者どもが通い、ジャミングに明け暮れた時代があったのだ。
 
  昔は・・・などという話をするつもりは決してないのだが、その頃フリークライミングといえば
  イコール、クラッククライミングだった。80年代初頭に日本にフリークライミングがもたらされ
  た時の大もとがヨセミテだったことを考えれば当然と言えなくもない。しかし今から思うに、当
  時「フリークライミング」としてクライマー達に衝撃をもって伝えられたものは、単にムーブや
  グレードと言ったスポーツとしての面白さだけではなく、むしろ「フリー」という考え方そのも
  のだったのではないだろうか。何故フリー?  如何にフリー?  そしてその何たるかを伝えてく
  れるものが、当時、クラッククライミングだったような気がするのだ。
 
  かくして小川山や城ガ崎は「クラックができる岩場」ということで脚光を浴び、日本の代表的な
  フリークライミングエリアへと発展して行ったわけだ。今でもその当時の代表的なルート、例え
  ばイムジン河や蜘蛛の糸、あるいは赤道ルーフ、プレッシャーなどを登ると、その内容の豊かさ
  に感心してしまう。
 
  クラックの魅力とは一口で言えば、地球が作り出した岩をその形状に合せて利用し、安全の確保
  (プロテクション)から何からすべて自分の力だけで克服して登ることにある。ジャミングがう
  まく効いた時、また貧弱なプロテクションに身を任せている時、クライマーはまさに自然に同化
  していることを感じる。よく言われる「自然との一体化」という東洋的な思想をここまで具現化
  できる遊びはそうザラにはない。究極のクライミングがフリーソロだというのも大いに肯ける話
  だ。
 
  さて、自分が好きなものだからついうわついた賛美になってしまったが、再びクラックを登ろう
  とする人が多くなったということは、やはりいつの時代もクライミングにとってそうした精神性
  は重要な要素なのだろうかと思う。クライミングの楽しさというのは、単に体を動かすスポーツ
  的なもの以上に、有機的な自然と密接な交渉を持てるということにある。それはクラックに限ら
  ずフェースでも、またアルパインクライミングでも同じことだ。なんだかんだ言ってもフリーク
  ライミングもまた「山登り」の一部なのだ。それぞれのルートをただの数字としてではなく一つ
  の存在としてとらえ、自然が差し出すリスクも同時に受け止めなくてはならない。だがそうして
  、力だけではいかんともし難いそのコシャクな岩の割れ目を克服した時、クライミングの幅はき
  っと大きく広がっていくことだろう。(菊池敏之)


白い粉の魔力的世界。今、パウダーの時代!?(Rock&Snow98-spring issue)
THE POWDER AGE
HIARI MORI

 POWDER誌の日本語版がでたり、スノーボード誌が軒並みパウダー特集とやらを企画したり、時はまさにパ
ウダー時代の感がある。

スノーボードが元気なのにくらべて、スキーのほうはいまいちだ。理由はいろいろあるだろうが、パウダー
(深雪)に関して言えば、スノーボードはパウダーを滑りやすいということが挙げられるだろう。

 スキーヤーにとって、以前はパウダーは一部のエキスパートのみが楽しめる世界だった。パウダーを華麗
によどみなく滑ることは、バックカントリースキーヤーの到達すべき目標であり、また究極の快楽だった。
パウダースキーはビギナーとエキスパートの差が如実に出るテクニックだったのである。

 そこへスノーボードという新しい道具が入ってきたのだが、その道具がパウダーを滑るのに実に適してい
ることにボーダー達が気づくのに大して時間はかからなかった。スキーでは何シーズンもかかってやっとの
ことで滑れるようになったパウダーでも、スノーボードなら初心者でもスイスイ滑れてしまう。 私も、ス
ノーボード歴1年以下のボーダーが10年以上もの経験のあるテレマーク・スキーヤーよりもすばやく深雪
を滑って行くのを目にしたときの驚きは未だに覚えている。

なったことは喜ばしい。ただ、反面ガッカリしている山のスキーヤーが多いのも事実だろう。パウダーの醍
醐味は、何といっても誰も滑っていないふかふかの雪に初めてトレースをつけることである。パウダー愛好
者が増えるほど、そういった斜面に巡り会うのは難しくなってくる。もちろん問題は、いい斜面が少なくな
っただけではない。安易に山に入る人が増えてくれば遭難者も増えるし、マナーの悪化もあるだろう。これ
から山スキーヤーもボーダーも考えなければならない点だ。どちらをやるにしても、earn your turns!(滑
る分は自分の足で稼げ)という同じ世界、なかよくやりたいものだね。

 パウダースキーイングは素晴らしい。人はみな恍惚とした表情になる。アメリカのコロラドのテレマーカ
ーはパウダーを滑るとき上体を弓なりにそらし、両腕を天に向かって突き上げる「ソードアーチ」という姿
勢をとる。パウダーの浮遊感、自由感を表現しているのだ。


 技術や用具の進歩によって、パウダースキーイングも以前のようにそれほど難しくなくなっているという
のも事実だ。ただ、バックカントリーに行けば誰でもすぐにパウダーが滑れるというわけではない  。ブレ
イカブル・クラストだったり、アイスバーンだったり、ザラメだったり、重い湿雪だったり…。パウダーを
滑るには同時に悪雪もこなせなければならないというわけだ。パウダーを志す人はそういったいろいろな条
件を含めて全部容認する、つまり何でもOK!という気持ちと技術を持つことが大切だと思う。

 冬になると遠い目をして「深雪」とか「パウダーが」とか「パフパフ」とか口走る男や女が奥山に出没す
る。”白い粉の魔力”の時代なのだ。(森光)


あずさのニセコ日記
AZUSA IGARASHI

*11月末某週末*

 いやっほ~い!降ったぞ、降ったぞ~!スキー場は今年も11月中に無事オー
プン。シーズンはじめにこれだけ思いっきり滑れるということほど、幸せなこと
はないかもね。しかも雪質もなかなかgood.

*12月某週半ば*
 
 毎日のように「今日もいい雪だった。」と友人たちにメールを送るのが罪に思
えてきた...。ごめん、でもホントなの。なかでも今日は、あずがニセコに来て
からのベスト3に入る雪だった。第7リフトがオープンと同時に山頂へ。英語で
いうヒーロースノー。あんまり雪が良くって皆がヒーローに見える雪ってことな
んだけど、だから何だい?気持ちよけりゃあオッケーでしょう。ひさびさのオー
バーヘッドのスーパーライト極上パウダーで、リフトからも「おお~っ!」「す
っげえ~!!」って歓声が上がってる。前が見えなくてあぶな~い。息ができな
くって、く、く、くるし~い!

*1月某週末*

 大将ことMR深雪あっちがった、MR深町に誘ってもらって秘密の某パウダー山へ
バックカントリーへ出かける。日頃滑っているゲレンデを離れて静かな山奥へは
いっていくのもいいもんだ。ここには大自然と自分だけ。とっても小さな自分を
感じさせられる。雪はしんしんと降り続いてすぐに歩いたあとが消えてゆく。深
いけれどもとても軽い雪は思わずほおをゆるませる。

*2月某水曜日*

 あずのすけが(一応)働いているロッククライミングジムでは、週一回レンタ
ル代がかからないスペシャルデーがあるので、地元の方々のクラブ入会もふえて
きている。いいぞ、いいぞお~!誰でもいつでも11mの壁を体験できるんで
す。「手ぶらでクライミング」の時代到来か?!

*2月末某水曜日*

 そんなジムにて腕試しの大会を開催する。みんな始めたばかりなので半ば講習
会に早変わり。和気藹々とあ~でもない、こ~でもないとやってみる。クラブ員
は地元の自衛隊隊員、郵便局さん、スキースクールの先生、ガソリンスタンドマ
ン、公務員さんやお母さんと子供ちゃんなどなど多彩な顔ぶれ。なかでも宏之
(7歳)と大地(4歳)はすっかりクライミングにはまってるよなあ~。どちら
かというと子供さんがおやごさんを連れてきてるという感じ?未来のユージさん
のたまごたちだね。

*3月某週末*

 じゃ~ん!北海道で一番大きなテレマーク大会『秀岳荘杯』がやってきた。地
元中学生チバイッペイ君の参加もあり、大人も負けちゃいられまへん。札幌のカ
リスマ店員ことトッチー栃内サンのポールセットのもと、みんな腕に気合いがは
いってる。なんで腕かって?そりゃあ本当の勝負は商品を選ぶくじ引きだって
う、わ、さ?!スポンサーさんの皆様、今年も宜しくお願いしま~す。

*3月末某週末*
 
 明日はイワオヌプリでバックカントリースキー。今晩は山の上でキャンプと思
ったが霧がとても濃いので、ふもとでなぜかバーベキューをする。冬のBBQもな
かなかおつなものですね~。翌朝イワオに登って滑って温泉!やっぱりこうでな
くっちゃあ~。

*4月某週末*

 大将主催の『ニセコカップ』テレマーク大会が行なわれる。アルペン第4リフ
トを下りてからスタートして、その下の第3リフトのりばまでというかなり長~
いレース。春の雪はむずかしい。途中のジャンプ台を飛んでから急に雪が変わっ
て板が走り出してビックリ。どんどんスピードが出ちまったい。でも大将、すっ
ごくおもしろいコースだったと思いますよ~!ほんと。

*4月末某週末*

 某パウダー山にて「テレマーカーズミーテイング」なるものが開催される。さ
すがカリスマ店員、かなりのブランドのNEWモデルテストスキー&ブーツが一同
に会している。そして、あのヒデ永島の愛用したスキーポールなどもオークショ
ンにかけられ、高値で落札されていった。(値切られたともいう。)なんといっ
ても地元テレマーカーたちが久々にそろって春スキー&ビールを共に楽しみ、滑
り納めをできたのは素晴しいな。あずのすけは当然いつものショートパンツ&T
シャツ姿で滑っとりました。ハイ。はやくまた冬が来ないかなあ~。

五十嵐あずさ


CLIMBING TRIP FROM DENALI TO ANDES
マッキンリーからペルーアンデスへ
 99年5月から8月、ぼくのクライミングトリップ

花谷泰広 信州大学山岳会

 1996年秋、ぼくは信州大学山岳会のヒマラヤ登山隊の一員として、未踏峰ラ
トナチュリに登らせてもらった。まだ大学2年生だった当時、冬山もたったワンシー
ズンしか経験していなかった。そんな未熟者がヒマラヤに通用するわけがなく、登頂
はさせてもらったが、ルート工作はおろか荷揚げも満足にできず、喜びよりも悔しさ
が残った遠征だった。だからつぎは自分の力で、できれば現役の部員だけでどこか海
外の山に登ろうと思っていた。そういう思いを抱いていたときに会に入ってきたのが
今回のパートナーの大木君だった。彼は入会当時からモチベーションが高く、ぼくと
同じように海外の山にあこがれを抱いていた。そして99年に海外の山に登ろうと意気
投合し、その目標をアラスカのマッキンリーとペルーアンデスにした。
  けじめ
の山
 マッキンリー(6194m)は日本人によく名前が通っている山の1つでは
ないだろうか。ぼくのなかでマッキンリーという山は、北米大陸最高峰としてではな
く、あの植村直己を飲みこんだ山として存在している。中学1年のとき、長尾三郎氏
の著書である『マッキンリーに死す』という本を読んだ。その読書感想文に「いつか
ぼくがマッキンリーに登って、植村さんの遺体を見つける」と書いた。ぼくも植村直
己にあこがれ、山にのめりこんでしまったひとりなのだ。だからマッキンリーはぼく
にとってけじめのような山なのだ。
 5月24日、ついにわれわれの旅が始まった。
ロス経由でアラスカ入りをしたので、ずいぶん遠く感じた。
 25・26日は、アンカ
レッジで買い物をしたり、隊荷の整理などに追われた。アンカレッジには登山用品店
がいくつかあり、品揃えがよく安い。スーパーマーケットもたくさんあるので日本か
ら大量に食料を持ちこむ必要もない。やや高いが、日本食も手に入る。大量の荷物を
前にうんざりする。でも、26日中になんとか準備を整えることができた。
 5月27
日、いよいよマッキンリーの登山基地タルキートナに向かう。入山手続きをして、レ
ンジャーから細かい注意事項を聞く。われわれの入山日は翌日だったので、航空会社
(ダグ・ギーティング)のバンクハウスで最後の準備をしていた。するとなんだか今
日飛び立てるような雰囲気があったので、期待していたら本当に飛び立ってしまった
。不意打ちをくらった入山だったが、とにかく早く登りたかったのでうれしかった。
 翌5月28日から行動を開始する。スキーをはきそりをつけて出発。最近はスキー
よりもスノーシューが主流のようだ。5月は天気がよくなかったらしく、下山してく
る人はみんな「地獄だった」と言っていた。このルートのじつに3分の2の距離に当
たるえんえんと続く氷河歩き。ときには吹雪かれ寒い日もあれば、昼間の太陽の暑さ
にうんざりする日もあった。底なしのクレバスも恐ろしい。途中高所順応の失敗もあ
り、ベースキャンプ(4300m)に着いたのは6月3日だった。
 ベースにはい
ろいろな国からの遠征隊のテントがたくさんあり、まるでゴールデンウイークの涸沢
のようだ。フォーレイカーやハンターをはじめとする山々も見ることができてとても
美しい。みんなとてもフレンドリーで思い思いのスタイルで登山を楽しんでいた。下
山する人から、食料や燃料も分けてもらえる。雰囲気は申し分ないのだが、とにかく
寒かった。着いた翌朝、いきなりマイナス30度Cまで下がった。でも日が当たるよう
になるとどんどん気温が上がり、そのうちテントのなかにいられなくなる。この気温
差にはずいぶんと苦しめられた。一度高所順応で失敗をしているので、ベースから上
はとても慎重に時間をかけて順応に取り組んだ。悪天のため、予定より2日遅れの6
月8日、アタック態勢が整った。
 6月9日、いよいよハイキャンプ(5200m
)に向けての登高が始まった。天気はそれほどよくなかったが、われわれのように停
滞をしていた人たちがいっせいに登り始めた。デポしておいた荷物が加わると、急に
重さを感じた。ゆっくり、しかし確実に高度をかせぐ。空中散歩道を5時間くらいで
ハイキャンプ着。お茶をガブ飲みする。やはり空気が薄くしんどい。「ここでおれが
あこがれた偉大な冒険家の言葉をそのまま用いて、今日の日記を短いながら終える。
何が何でもマッキンリー登るぞ!」(6月9日の日記より)
 6月10日、9時45分
出発。快調なペースで歩き始めた。デナリパスまでは日が当たらず風も強かったので
寒かった。アーチディアコンズタワーを越えると眼前にマッキンリー南峰がそびえて
いた。フットボールフィールドと呼ばれる広い雪原を越え急な登りを登りきると頂上
に続く稜線に出る。右側は南壁がはるか下まで落ちている。だんだん顔がゆるんでく
る。15時10分、ふたり並んでついにマッキンリーの頂上に立つ。天気がよく、360
度の大パノラマが広がっていた。交互に写真を撮り、会の歌「春寂寥」を肩を組んで
歌う。植村さんが歩んだ道をついに歩むことができたんだ。疲れた身体に鞭を打って
、ハイキャンプに戻ったのが17時20分。くたくたになった。
 翌日まだだるかった
が下りなければならない。テントを撤収して下山準備をする。天気が下り坂だったの
で、早く下りなければならなかった。ベースキャンプに戻り、デポしていたものを回
収する。われわれも下山に不用な食料をだれかにあげようとしたが、貧弱な食料しか
なかったので、だれももらってくれなかった。仕方がないのですべて担ぎおろす。荷
が重すぎて登るよりもつらい下りだった。6月12日に無事タルキートナに戻った。

 下山後われわれはそれぞれの旅をして楽しんだ。そして6月26日にアンカレッジで
合流して、つぎの目的地である南米ペルーアンデスに向かった。

アンデスへ

 アラスカからロスを経由してペルーに入国した。英語がほとんど通じず、スペイン
語ができないわれわれは途方に暮れた。いきあたりばったりという感じでバス会社に
行きなんとかその日のうちにブランカ山群の登山基地ワラスに着いた。
 ワラスに
はわれわれのほかにも日本人クライマーが何人か来ていて、いろいろ教えてもらうこ
とができた。ほとんど何の情報もなしで乗りこんでしまったため、しばらくは情報収
集に時間を費やす。今年は例年にない異常気象らしく、乾期なのに雨が降る日もあっ
た。
 マッキンリー登頂からすでに1カ月以上たっていたので、まずゆっくりと順
応することにして、最初の目的をイシンカ谷にあるウルス(5495m)、イシンカ
(5530m)、トクヤラフ(6032m)とした。
 7月4日、ワラス出発。イ
シンカ谷のいちばん奥にあるコリィオンという村でブーロ(ロバ)とアリエロ(ロバ
使い)を雇い、その日のうちにベース(4300m)入りする。どうも天気がすっき
りせず、夕方には雨が降ってきた。翌日ウルスに登った。6日間の予定で入山したが
、ぼくの調子がイマイチで、おまけにひどい下痢になってしまい、たった3日で下山
した。天気がよくなかったのも事実だが、情けないデビュー登山だった。
 しかし
、われわれはついていた。下山した日から天気が急によくなってきたのだ。ワラスで
体調を戻しながら、つぎの山を考えた。その結果、天気が落ち着いているうちに当初
最後に登る予定だったアルパマヨ(5947m)に向かうことにした。アルパマヨは
北面の整った三角錐、そして南西面のアイスフルートの美しさから世界最美の山と呼
ばれている。日本にいるときからその姿を一度は目に焼きつけたいと思っていた。そ
してもちろん登りたいと思っていた。
 7月11日、ワラスを出る。コレクティーボ
(乗合バス)でカラスという町を経てサンタクルス谷の入り口の村カシャパンパまで
行く。サンタクルス谷は、トレッキングルートとしても有名で、われわれのほかにも
たくさんの人がいた。カシャパンパでブーロとアリエロを雇いいざ出発。さまざまな
花が咲いていてとても美しい。サボテンの多さにも驚いた。谷は奥に行けば行くほど
開けてきて、神秘的な風景を見せてくれる。この日はイチコーチャというところで1
泊して、翌日ベースキャンプ入りした。ベースはアルパマヨをはじめとする秀峰をた
くさん望むことができる天国だ。早い時間に着いたので、少し荷揚げをしたかったの
だが、泥棒が多いらしくあきらめた。山の美しさとは対照的な現実だ。
 7月13日
、ハイキャンプに向けて登る。ケルンをたよりにモレーンを進んで氷河に乗り、アル
パマヨとキタラフの間のコルをめざす。氷河の上部は今にも崩れそうなセラック帯の
なかを進む。傾斜は大したことないが、荷物が重いので緊張した。のちにこのセラッ
クは崩壊し、1人が死亡した。しかし、そこを通過してコルに出るとまさにそこにア
ルパマヨの南西壁を望むことができた。やはり本物は迫力が違う。夕方には壁が真っ
赤に染まった。ぼくはその美しさを忘れることはないだろう。
 7月14日、4時30
分に起きたが、すでに1パーティーが取付にいた。完全に出遅れてしまった。あわて
て準備をして6時20分に出発。取付に着いたがやはりわれわれが最後のようだ。取付
では、不安と緊張でいっぱいだった。なぜなら、このようなダブルアックスで長い雪
壁を登るのは初めてだったからだ。しかし、アックスを一度振るとそのような気持ち
はどこかにいってしまい、喜びがこみ上げてきた。こういう登攀をずっとやりたいと
思っていた。それがやっとできたという喜びだ。先行パーティーがたくさんいたので
、落氷がすさまじくなかなか前進できなかったが、ゆっくりと確実に進んでいった。1
2時55分終了。頂上をめざしたが、雪の状態が悪く断念した。不思議だが悔しくなかっ
た。どちらかというと満ち足りていた。でも、いつまでもそんな気持ちでいるわけに
はいかない。これから下降しなければならないのだ。不安定な支点で懸垂下降をする
。胃が痛い。取付に戻ってきたとき、急に疲れが押し寄せてきた。フラフラしながら
ハイキャンプに向かう。ハイキャンプでわれわれを迎えてくれたのはアルパインクラ
ブFOSのふたりだった。飲み物とかをいただきようやく落ち着くことができた。

 翌日、下山の途につく。2日かけてワラスに戻った。このあとぼくは激しい下痢に
襲われ、医者に1週間安静にするよう言い渡された。登りたいのに登れない悶々とし
た日々を過ごした。この休養の間に大きな変化があった。旅好きの大木君がボリビア
に旅することになったのだ。しかし、ぼくには山しか見えていなかった。不安はあっ
たが自分の力を試したくなり、単独で登山を続けることにした。

 ひとりで山
へ向かう
 はっきりいって不安だった。日本でも数えるほどしかやったことがない
単独登山。それをいきなり海外でやってしまってもいいのだろうか。しかし、こうす
ることで今までの殻を破り、成長できると信じていた。
 アルパマヨからしばらく
時間がたっていたので、まずはリハビリをかねて、ピスコ(5752m)とチョピカ
ルキ(6345m)に登ることにした。
 7月25日、ヤンガヌコ谷にあるピスコの
ベースに向かう。コレクティーボでユンガイを経由してベースの入り口まで行くこと
ができる。ヤンガヌコ湖のブルーが美しい。大木君が前日ボリビアに旅立ったので、
今日からはすべてひとりでやらなくてはならない。気が張っているせいか重いはずの
荷が軽く感じる。昼過ぎにベース着。明日のルートの確認をして早めに寝る。
 7
月26日、緊張しているせいか、ほとんど眠れなかった。1時起床。アルパマヨの反省
もあり、早めに出発することにした。2時30分出発。月明かりのおかげで、ヘッドラ
ンプなしでも行動できた。モレーンのトラバースで少し迷ったが、なんとかハイキャ
ンプに着いた。ハイキャンプには数パーティーがいて、すでに出発している人もいた
。雪が出てきたのでアイゼンをつけるとさらに気が引き締まった。トレースをはずさ
ないよう慎重に歩くがところどころにクレバスが開いていたので緊張した。夜明け前
の寒さはきびしかった。最後に雪壁を越えて6時50分山頂に立つ。正面にはチャクラ
ラフの南壁がそびえ立ち、振り返るとワンドイの大きさに圧倒された。まさに展望の
山だった。
 ベースに戻って時間を見るとまだ9時30分だったので、今日のうちに
チョピカルキのベースまで行くことにした。荷物をまとめて下山する。道路に出たが
コレクティーボがなかなか来なかった。そこで、冗談半分でヒッチハイクを試みたら
なんと止まってくれた。登山口のすぐ手前まで乗せてもらい、ずいぶん助かった。こ
の日はベースで泊まり、翌日モレーンキャンプに上がった。
 7月28日1時起床。
起きてテントから顔を出すと雲が多くて山が見えない。おまけにひどく身体がだるい
。あきらめてもう一度眠りかけたが、今日を逃すともう登れないような気がしたので
意を決して起きる。2時30分出発。歩きだしてはみたが、やはり身体が重い。しかし
、月の明かりをたよりに氷河を登っていく。ときどき現われるクレバスはだいぶん広
がっていて怖かった。ハイキャンプにはいくつかのテントがあり、十数人のパーティ
ーが出発したところだった。彼らを抜いてどんどん登る。ハイキャンプの上にある急
な雪壁を越えると稜線に出た。そこで初めて休憩をとった。しばらくはただ歩くだけ
だったが、6000mを過ぎたあたりから急な雪壁が連続して出てくるようになった
。頂上直下でウルタ谷側に出るが、そこから急に風が強くなり、気温もぐっと下がっ
てきた。手足の感覚がなくなっていく。ダミーの頂上をいくつか越えて6時50分、よ
うやく本当の頂上に着いた。思わず叫んでしまった。写真を撮って風の弱いところに
行き、腹に物を入れ水分をとってさっさと下山を始めた。滑落しないよう慎重に下っ
ていった。つらい下りだったが、9時40分、無事にキャンプに戻った。登頂の勢いも
あって今日中にワラスに戻ってしまおうと思い、荷をまとめて下山することにした。
この日はペルーの独立記念日でワラスの町も人が多くとてもにぎやかだった。
 こ
の2つの山でスピードに自信をもつことができた。そこでつぎはペルー最高峰のワス
カラン(6768m)を、1日目にモレーンキャンプに上がり、2日目に頂上を往復
し、3日目にワラスに戻るという計画で登ることにした。同じ日程で単独行の榎本さ
んが入山するので、2日目以外はいっしょに行動することにした。
 8月1日、ワ
ラスを出る。コレクティーボでワスカランの登山口ムーショという村に行く。ふたり
で1頭のブーロと1人のアリエロを雇う。チェックポストで入山の手続きをして出発
。前の山の疲れが残っているせいか調子が悪い。3時間ほどでベースキャンプ(42
00m)に着いた。シーズンはもうすぐ終わりなのだが、やはりこの山は人気が高く
、まだたくさんの人がいた。われわれは4600mのモレーンキャンプにテントを張
り、早々に眠りにつき明日に備えた。
 翌日零時にテントを出る。やけに暖かい。
氷河に達するまでに少し道に迷ったが、そんなに時間のロスはなかった。トレースを
はずさないように登る。1時30分、キャンプ1通過。ここから先はどんどん傾斜が強
くなる。また、上部のセラックが崩壊したときにそれをまともにくらうやばい場所を
通らなければならない。ガルガンタ(6000m)で初めて休憩をとった。ガルガン
タから上が今回の核心だ。事前の情報ではクレバスがかなり広がっているらしいが、
行ってみなければわからない。頂上がはるか遠くにあるように感じた。どんどん気温
が下がってきた。問題のクレバスの下にはセラックが立ちはだかっていて、底の見え
ないクレバスがすぐ下にあった。セラックをダブルアックスで越えクレバスの縁に立
つ。飛び越えたかったが反対側は壁になっていたのでそれもできそうになかった。こ
こを越えたら頂上に立てるが、はたして無事下山できるだろうか。急に怖くなってき
た。5分くらい考えた。そして、両手にアックスを握って倒れるようにして反対側に
アックスを決めてつぎに両足を移してそこを越えた。息が上がり苦しかった。でもこ
れで頂上に立てるんだ。そこから先は寒さとの戦いだった。西側を登っているのでま
ったく日が当たらない。寒さで関節が堅くなってきた。手足の感覚もほとんどなく、
しびれてきた。おまけに眠たい。頂上に立てば太陽に当たることができるので、とに
かく早く頂上に立ちたかった。つらく、長い登りだった。今までこんなにつらかった
登りはなかった。でも終わりは必ずやってくるものだ。7時30分、ついにワスカラン
の頂に立った。不思議だがうれしくなかった。むしろちゃんと下りられるのか不安だ
った。写真を撮ってすぐに下山を始めた。気がつけばアイゼンがはずれている。相当
くたばっているようだ。途中で榎本さんとすれ違い、やっと気持ちにも余裕がでてき
た。問題のクレバスにはガイドパーティーのフィックスロープがかかっていたので問
題なかった。ガルガンタに戻ってきてようやく登ったという喜びがわいてきた。フラ
フラになって12時過ぎにモレーンキャンプに戻ってきた。もうこれ以上動けなかった
。翌日ふたりでワラスに戻った。
 ワスカランのあとアルテソンラフ(6025m
)に行こうとしたが、すでにぼくのモチベーションが切れてしまっていた。それに、
ワスカランでけっこう怖い思いをしたのでこれ以上無理をしたら死んでしまうと思っ
た。悔しかったが、今回はこのくらいが限界のようだ。でも帰国までにはまだ時間が
あったので、フライトを変更してロスに戻り、ヨセミテで1週間クライミングを楽し
んだ。
 ぼくの記録ははっきりいって大したことはない。どれもノーマルルートか
らの登攀だったし、困難な山でもなかった。日本人で同じ時期にいた人たちのなかに
すごい登攀をした人がいるというのも知っている。でも、現時点でやれるだけのこと
はやったつもりだ。今後ぼくも彼らのようなすばらしい登攀ができるよう努力しよう
。 マッキンリーについて
[登山のシーズン] 5~7月。7月でもかなりクレバス
が開く。われわれは5月の下旬に入山したが、そのころがベストシーズンだろう。

[登山許可・入山料について] 登山申請は入山の2カ月前までにデナリ国立公園にす
ることが義務づけられている。申請用紙はデナリ国立公園からFAXで送ってもらえ
る。同時に、登山の手引き書を送ってもらうとよい(日本語版があるので助かる)。
ソロの場合は特別な申請用紙があるらしい。
 登山料は1人150ドル。50ドルは
予約金として申請と同時に前払いする。クレジットカードを用いて支払うと便利だ。
[その他] レンジャーステーションでは地形図やガイドブックが数多く販売されて
いるので、情報収集に役立った。バリエーションルートの案内も詳しく載っていた。
 スキーはアンカレッジの登山用品店でレンタルできる(1人150ドル)。ただ
し、シール別に用意しなければならないので注意。スノーシューはタルキートナの飛
行機会社でもレンタルできる。
  アンデスの山について
[登山シーズン] 5月
下旬~8月中旬が乾期で晴天の日が多く、登山に適している。だが年によって状況は
異なるので、こればかりは運である。ちなみに今回は7月になってようやく天気が落
ち着いた。
[クライミングについて] ありがたいことに、ここでの登山は基本的に
登山申請や登山料は必要としない。だから、思いきって登山に励むことができるのだ
。ただ近年は温暖化の影響か、氷河が後退していたり、あるべきところに雪がなかっ
たりして登攀がきわめて困難になってしまったピークがたくさんある。ガイドブック
のみを信用せずに、現地で積極的に情報を集めるべきだ。注意しなければならないこ
とに、キャンプ地での盗難がある。不安ならテント番を雇ったほうがよい。ワラス近
郊のモンテレーには温泉があり、疲れた身体を癒すことができる。治安がよくなって
きたので、今後この山群にはより多くの人が訪れることになるだろう。


ヤンオジまっちゃんの真実レポート
 初めてのテレマークレース  
文�松倉一夫

 緩斜面なら何とかテレマークポジションがとれるようになった私。自分でも日一
日と上達しているのが分かり、何年かぶりにスキーを楽しんでいる。下手くそなが
ら20年近くやってきたアルペンスキーは、もう上達する気がしない。年に2、3度
行くが、すぐに疲れてお茶タイム。どこを滑っても昔のような新鮮さを感じないの
だ。ところが、テレマークスキーをはじめてどうだろう。まだ延べ1週間足らずだ
が、毎回楽しくてしょうがない。練習しただけ上手くなる。朝より夕方、前日より
今日と、みるみる上達していく。密かに、自分はテレマークのセンスがいいのでは
と思えてくる。そんな私の元に電話が入った。
「まっちゃん。レースに出てみよう」
 シニアクラスで何度となく優勝しているロクスノ編集長の伊藤さんからだった。
裏磐梯スキー場でピーロートカップ杯のテレマークスキーのクラシックレースがあ
るというのだ。
「まだ早いですよ」
 もちろんはじめは断わった。以前に他のレースを取材し、とてもじゃないが急斜
面を滑り、斜面をかけ登り、ジャンプをするなど無理だと思った。でも、詳しく聞
いてみると、ビギナーズクラスがあり、そっちはジャンプや登り返しはなく距離も
半分ほどだという。「それなら……」と曖昧な返事をしていたら、いつの間にか出
ることになった。
 大会前日はクリニックに参加。ビギナーズクラスとは言え、他の人たちはみんな
上手だ。どんな斜面でもしっかりテレマークポジションを決めていく。聞いてみる
と、ビギナーとは言え、3年以上やっている人もけっこういる。ビギナーズクラス
は申し込みさえすればテレマークスキー歴に関係なく誰でも参加できるという。
「こりゃ無理だな」
 明らかにビリ争いをしそうなのは目に見えた。さらにどうも右ターンがうまくい
かない。ところがクリニックで山開きのターンを教えてもらうと、私の滑りは変わ
った。山足を前に踏み出すことで、ターンのきっかけがつかめるようになったのだ
。だんだんリズムに乗れてきた。私よりもリズムが悪い人も見られる。上手くいけ
ばビリは免れるかも……。あとは本番あるのみ。
 日が開けていよいよ大会当日。レースは10時スタート。一足早くスキー場に乗り
込むと、昨日習った山開きターンをおさらいする。
「まっ、何とか転ばすにいけそうだ」
 そう思ったのも束の間、レース前のインスペクション(下見)で浅はかな考えは
消え去った。ビギナーズクラスのコースは緩斜面で短いとは言え、やっぱり旗門が
あるとかなり滑りにくいのだ。練習バーンでは自分のタイミングでターンをできる
が、本チャンコースだと、無理にターンをさせられるといった感じだ。しかも、先
に終わったマスターズクラス、ポイントクラス、レディスクラスが滑った後の旗門
脇は深くえぐれている。そこを否応なく滑らなければならない。しかもテレマーク
ポジションを決めながら。旗門をどちらからくぐるのかも間違えそうだ。昨日、芽
生えた10位以内の目標は完走へと変わった。
 いよいよビギナーズクラスがスタート。15秒おきほどにスタートしていく。刻一
刻と自分の番が近づいてくるが、思ったほど緊張はない。まだはじめて延べ7日。
転ばずに完走できればOK。目標が低いだけに気楽なものだ。
 何人かがスタートして2つ目、3つ目の旗門で転んだ。傾斜はゆるいがカーブは
きついのだ。あそこは注意だ。自分にいい聞かせる。
 ついに私の番。他の人のスタートに倣って、ゲートの先にストックを突いて、ス
キー板の先端をゲートの下にくぐらせスタートを待つ。前走者を見ると、先の旗門
でこけている。すぐにスタートしたのでは追いついてしまうと思う。まだそんなこ
とを考えられるだけの心の余裕がある。
「行きます」
 スターターのかけ声で、あの「ピッ、ピッ、ピッ、ピーン」という音が響く。出
だしはゆるい斜面。ここでスピードを乗せないと好タイムは得られない。スケーテ
ィングをしながら勢いをつける。左足を前へ踏み出しながら右ターン。1つ目の旗
門は何とかうまくいった。次の左ターンが問題。こけないようにやや足を開き気味
にターンに入る。左足が十分に引き切れていないことがわかる。
「減点か?」
 頭をよぎる。山足が谷足より足一つ分後方に引かれしっかり踵が浮いていないと
1秒のペナルティーをとられるのだ。減点されたらその分、スピードで稼げだ。そ
れ以降はただただ夢中で飛ばした。長いことアルペンスキーをしていたからスピー
ドに対する恐怖はない。
「こけたらこけたでいいや」
 いつの間にか、完走よりスピード狂となっている。吹っ切ると我ながらけっこう
早い。体重が重い分、滑り出すと加速する。途中、360度のヘリコターンをクリ
アしさらに飛ばす。意識の半分はテレマークポジションよりスピードだった。最後
は大滑降のレーサーよろしく前方に小さくかがみ込んでゴール。
 2本目に向け、リフトに乗っていると、1本目のタイムが放送された。1分18秒
26。思ったよりもいい。半分以内にはいる模様だ。2本目しだいで入賞も狙える
かも知れないとの思いがよぎる。
 そして2本目スタート。1回目よりスピードを抑えてもいいから、今度はテレマ
ークポジションに注意して滑る。1本目でだいたいコースも把握できたので、スピ
ードの殺しどころもわかった。1回目明らかにペナルティをとられたと思える旗門
を慎重に通過。しかし、ヘリコターンでしくじった。入りで大回りしすぎて大幅に
タイムロス。ゴールしてみると1分24秒55。約6秒遅い。
「まっ、初参戦としては上出来か」
 私より明らかに遅い人もけっこういたからビリはないと一安心。そして、表彰。
結果は6位入賞。できすぎの成績に思わず飛び上がり、会長と肩を組んで記念写真
。副賞としてカメラケースをいただく。来年は3位以内だ。
 

IMPRESSION
街でみかけるロクスノシーン 松倉一夫

 最近、街では若者の間でチョークバッグが流行っている、とあるテレビ番組でや
っていた。もちろんチョークを入れるわけではない。携帯電話を入れたり、小銭入
れを入れたりの小物入れに利用しているわけだ。
 考えてみると、山の用具やウエアは何かと若者のファッション・アイテムに取り
入れらてきた。古くはデイパックにはじまる。私が学生の頃になるから、20年ほど
前だろうか。学生の多くが、タウチェの水色や赤のデイパックを片方の肩にかけ始
めた。それから、ダウンベスト、ダウンジャケット、マウンテンパーカーなどが一
世を風靡した。
 時は流れ、デイパックはタウチェからグレゴリーへと変わり、さらにローやマウ
ンテンスミスなどの中型ザックを背負う姿も増えてきた。足元はレッドウイングや
LLビーンのワークブーツやフィールドシューズを経て、今はトレッキングシュー
ズだ。私などは、街なかでまで重く蒸れるトレッキングシューズを履きたいとは思
わないが、それがお洒落なのだそうだ。
 ウエアも今はフリースが大流行だ。中には2000円程度で買えるバッタもんも
多いが、軽く、暖かく、色鮮やかなジャケットは、若者も財布にも軽いようだ。
 こうした山やアウトドアを取り入れたシーンは街だけに限らない。テレビCMで
も盛んに取り入れられている。昔から一貫して冒険的シーンを取り入れてきたのは
「ファイト一発」でお馴染みの大正製薬「リポビタンD」だ。ロクスノのことを知
らなかった当初は、「おー、すげー」などと言って見ていたが、知るに連れ「セル
フビレーもとらずによーやるよ」「あんなでたらめやっていたら、いくつ命があっ
てもたりねー」だのと、逆の意味で楽しみながら見ている。
 他にも、テレビCMにもロクスノシーンはさまざまなかたちで登場する。2、3
年前にはマイルドセブンライトのCMで林間を軽やかにテレマーカーが滑るシーン
が使われた。考えてみると、私がはじめにテレマークスキーの滑りを目に焼き付け
たのはあのCMからだったといっていい。
 ひと味かわったところでは、ウイダー・イン・ゼリーのCMもクライミングの技
術が取り入れられていた。かの木村拓哉が、ビルの狭間をチムニー見立てビル壁の
中程でレストし、商品を口にくわえているのだ。すると、下からワニが大きな口を
広げ飛び上がってきて、慌ててポジションを取り直すというわけだ。
 このように、街もテレビもいたるところでロクスノの一面に触れるわけだが、実
際にロクスノをやっているという人はまだまだ少ない。何が足りないのか。環境か
、教える人材か、それとも時間か……。
 いずれにしても、道具が流行ったからといって、それを本来の場所で使う者はい
ないのは、昔から変わっていない。タウン用にザックを買った若者が、せっかくだ
から山にも行こうという発想を生むとは思えない。かっこよければいい。それが流
行だ。ただ、業界が活性化するためには、何であれ流行ることは歓迎だ。流行れば
安くなる。正価でしか手に入らなかったものも値引きされる。安くなれば、我々も
うれしい。
 では、次は何が流行るのか。こればっかりは何とも言えない。でもチョークバッ
グが流行るぐらいだから、何でもありかもしれない。近い将来、ハーネスをつけて
、カラビナをじゃらじゃらさせて街を歩く若者が出たって、私は決して驚かないつ
もりだ。


CONQUER YOU FEAR
オオ、コエーに克つ精神療法 
カルロス永岡

クライミングはメンタルゲームだ。2,3メートルのボルダープロブレムでさえ、ランディングが悪けれ
ばかなりの集中力が必要とされる。ましては高度感たっぷりのスポーツルートや、不安定なナチュプロ
ルートのリードではなおさらだ。どうやって墜落の恐怖を克服するかは、いかにうまく登れるか、いか
にクライミングを楽しめるかを決定してしまう。
 以前、ロクスノの増刊号でも「おお、コエーに克つ」と題して墜落恐怖の研究をしたことがある。墜落
 に恐怖を感じるのは人間にとってごく自然なことで、スポーツ心理学を利用したメンタル・トレーニン
 グでその恐怖心を克服する方法が紹介された。メンタル・トレーニングはスポーツ医学の分野でいうエ
 ルゴジェニック・エイド(Ergogenic Aids=作業補助)の心理学的エルゴジェニック・エイドに属する
 テクニックのひとつだ。
 エルゴジェニック・エイドとは、運動のための生理機能を引上げたり、その妨げとなる心理的抑制を取
 り除いたりする身体トレーニング以外の技術や物質のことをいう。興奮剤やステロイド剤などの薬品類
 、栄養補助食品や酸素などのサプリメント類はその典型だ。心理学から派生したエルゴジェニック・エ
 イドとしてのメンタル・トレーニングは、スポーツの分野ではすでに実践的な技術として確立されてい
 て、催眠療法、リハーサル・ストラテジー(イメージイング)、ストレス・マネージメント(リラクゼ
 ーション)などは、ロクスノで紹介された哲学的訓練、イメージ・トレーニング、自律訓練法などと同
 様のテクニックになる。

 目標設定
墜落の恐怖心を取り除き、クライミングが上達するための心理学的エルゴジェニック・エイドのさらに
具体的な方法として「目標設定」技術の応用が考えられる。前回取上げられたイメージ・トレーニング
の中にも目標を持つことの重要性が指摘されていたが、ここでは登るための手段として効果的な目標設
定の方法を取上げてみたい。クライミングの部分部分にはっきりとした目標を設けて、それに集中する
ことによって墜落の恐怖を考えないようにするテクニックだ。Rock & Ice誌の93号にも紹介された技術
で、クライミングのための使える心理学的エルゴジェニック・エイドの方法といえる。
 まず、目標を設定する時に最も注意しなければならないことは、その目標が必ず達成可能でなければな
 らないということだ。例えば「登れないルートの完登」そのものを目標にするのではなく、「登れる3
 本目のボルトまで自然な呼吸を保つ」などとすることだ。ボルト3本目までは必ずのぼれるのだから、
 自然な呼吸をすることだけに専念すればよい。目標が具体的で、達成される可能性が高い。
 次に、目標はその進み具合や成り行きが分かりやすいものでなければならない。「とにかく登れるとこ
 ろまでは落ち着いて登る」などは目標がどこまで達成されたのか分かりにくい。「落ち着いて登ること
 」の意味がはっきりしていないし、どこまでが「登れるところ」なのかも良く分からない。反対に「ど
 こに足を置くか集中している時でも、ルート全体にわたって自然な呼吸を続ける」などは具体的な目標
 の良い例だ。効果的な目標とは達成しようとしている物事に対しての集中力を導くものでなければなら
 ない。

 してはならない、はだめ
一方、あまり効果的でない目標設定の方法として、実行しなければならない目標のかわりに、してはな
らないというネガティヴな目標をかかげることだ。例としては「このルートでは絶対にビビらないよう
にする」などがあげられる。このような目標設定による結末は成功か失敗しかなく、ちょっとした恐怖
心がちらついただけでも失敗したことになってしまう。
 「目標設定」では結果を目標にすることよりも、過程を目標にしたほうがより効果的だ。上記の「登れ
 ないルートの完登」という目標は結果のための目標で、達成が難しいばかりではなく完登するためのプ
 ロセスが無視されている。初めに「3本目のボルトのクリップ成功する」、次に「核心部のガバにどう
 にか触れる」などのようにひとつひとつの過程を目標として進み、その結果として登りきってしまった
 というパターンが望ましい。設定した目標を次々と達成していくことによってモチベーションを引き上
 げて行くことが大切だ。
 忘れてはならないのは、目標に集中することによって、墜落の恐怖を考えないようにすることがここで
 の目的であることだ。恐怖心を克服することが直接の目的ではない。結果として墜落の恐怖は感じなか
 ったという状況をつくりだすことが重要だ。そのためにも必ず集中することのできる現実的で具体的な
 目標を設定しなければならない。
 具体的な方法
Rock & Ice誌では墜落恐怖を忘れ去るための実践的な技術や考え方として、1.呼吸をすること、2.墜落
を試すのはあまり効果的でないこと、3.現実的な目標を設定すること、4.ゆっくりと確実な進歩を目指
すこと、の4点をあげている。 
 呼吸については、クライミング中にごく普通の規則正しい呼吸をすることがいかに難しいかに触れ、落
 ち着いた呼吸ができるように訓練することでクライミングが驚くほど上達すると述べている。ここでは
 特別な呼吸方法の習得を目指しているのではなく、クライミング準備の段階からクライミング中まで自
 然に呼吸できるように心がけることが重要だとしている。
 「ルート全体を通して自然な呼吸ができるようにする」という目標の達成にはかなりの集中力が必要な
 ので、それだけで墜落に恐怖を覚える暇がなくなるということだ。呼吸を意識するきっかけをあらかじ
 め決めておいたり、例えば、クリップしたら落ち着いて深呼吸するとか。また、クライミング中にパー
 トナーからしつこく注意を促がしてもらうのもこの目標の達成には有効だ。
 また、墜落を試してみるのがあまり効果的でないのは、ぎりぎりまで頑張ろうとする意欲を失ってしま
 うからだという。いちどもトップ落ちをしたことのないクライマーにとっては、安全な状況でフォール
 を経験するのは確かに大切なことかもしれない。しかし、クライミングは登るためのスポーツで落ちる
 ためのゲームではない。困難なムーブに直面している時に落ち癖がついては問題の解決にはならない。
 安直なフォールを繰り返していたら、何が何でもホールドにしがみついて絶対に登るぞという気構えを
 なくしてしまう。すぐにだめだと諦めてしまう悪い癖がついてクライミングが向上しないのだ。ここで
 は墜落によって墜落の恐怖心を取り除いても意味がないという考え方を主張している。

 ボルトが腰の位置に
現実的な目標設定の例としては、すぐにでも使えそうな例をあげて解説していたので、そのまま次のク
ライミングで試してみるとおもしろそうだ。ここでは結果ではなく過程を目標とした良い例として、「
最後のボルトが腰の位置あたりに来るまでは呼吸とムーブだけに集中する」をあげている。最後にクリ
ップしたボルトの位置が腰の位置を過ぎたら後は何でもOK。ただし、それまでは呼吸とムーブのみに完
璧に集中するという目標だ。
 この目標はクライミングそのものを成功させるための目標ではなく、腰の位置がボルトのところへ来る
 まで何が重要なのかに集中するための目標だ。この目標が達成されるにはかなりの集中力が必要だし、
 そのために墜落の恐怖を感じる暇がなくなる。たとえ部分的な目標でもひとたびそれが達成されれば、
 クライミングにかなりの進歩があったことになる。
 また、ここでは非現実的で好ましくない目標の例もあげている。リードするのがいつでも怖い状態であ
 りながら「絶対にリードを怖がらないようにする」などという目標をかかげることだ。このように急速
 な進歩を目指す目標設定では、成功か失敗かどちらかの結果しか得られず、上達のほどがよくわからな
 いからだ。最後に、ゆっくりと確実な進歩を目指すことについては、上記の「最後のボルトが腰の位置
 あたりに来るまでは呼吸とムーブだけに集中する」という目標をさらに発展させて説明している。腰の
 位置まで完璧に集中することに成功できたら、次は膝の位置、その次は足首までと、段階的に目標を高
 めて行くことが最終的な結果を得るための近道になるというわけだ。もちろん、それが少し難しいよう
 だったらもっと易しい目標でもかまわない。いきなり「ルート全体を通して自然な呼吸ができるように
 する」などという目標を設けてもなかなか実現は難しいものだ。

 観察と研究に専心
以上のような目標が達成されて呼吸やムーブなどに集中することができても、目指すルートが登れない
ことも多い。そういう場合はもっと直面している課題を次の目標にかかげると良い。例えば、右手で取
らなければならないホールドがどうしても左手になってしまうとしよう。まず、右手で取るためのムー
ブの流れをよく観察して、何が妨げになっているのかを見きわめる。原因が解明したら、それを解決す
るための手段に徹底的に集中する。そうすることによって「上に見えているホールドは以外と悪いんじ
ゃないか」とか、「次のクリップに失敗したらどうしよう」とかいう墜落の恐怖を誘発するような不安
材料が心に浮かばないようにするのだ。

エルゴジェニック・エイドはあくまでもエイドであり作業補助だ。良く考えられて、まとめあげられた
トレーニング計画に汗を流すこと以外にスポーツの上達の早道はない。心理学的エルゴジェニック・エ
イドのテクニックも広く普及しているのにもかかわらず、その効果のほどは今だはっきりと証明されて
いない。それは心理学が人間の行動や意識を研究する学問で、学問としての歴史そのものがまだ浅いこ
となどにも原因している。テクニック自体もかなり抽象的な側面があり、そのためメンタル・トレーニ
ングなどは、まったく無視して練習や競技にのぞむアスリートも少なくない。
 それでもオリンピックや世界選手権のような微妙な違いで勝敗が決まる極限の競技や、クライミングの
 ようにメンタルな部分がかなりの割合で影響するスポーツでは、どう精神をコントロールしていくかが
 成功の鍵になる。落ちるかもしれないという恐怖は精神作用なのだから、精神療法で克服するしかない
 。設定した目標に徹底的に集中し、墜落の恐怖を忘れ去るテクニックは、いつまでも足踏み状態のクラ
 イマーにとって効果的な心理学的エルゴジェニック・エイドになる。


SHIELD EL CAPTAIN
ヨセミテエルキャプシールド
 麦谷水郷

 シールドという名の由来は、そのルート上部の形状がのっぺりとして楯に似ていることからきている。ルー
ト核心部もその切り立った楯の部分にあり、否が応でも露出感に身をさらしながら、困難な登攀を強いられる。
まったくすばらしいところに、すばらしいピッチがあるものだ、と感心してしまうルートである。
 17日。
マンモステラスまでのフィックス工作のため、ぼくと相棒の佐々木大輔はようやく重い腰を上げた。ヨセミテに
来て、早くも2週間がたっていた。
 シールドのオリジナルルートはマンモステラスから始まる。それまではサラテと同じラインをたどるのだが
、ぼくらは果敢にも(無謀にも)、アブミなしのフリーで行こうと試みた。つまり、Free・Blast(10P、5・1
1b)である。
 結果は、予想していたとおり、A0・Blastと化した。2人とも5・10cまではオンサイトでこなしつつも
、3ピッチ目の5・11bトラバース、5ピッチ目の5・11bスラブではまったく歯が立たず、すんなりとA0が
炸裂した。ともあれ、本来の目標はフィックスなので、楽しむことができたことに満足。
  18・19日は準備にいそしんだ。足りないギアと、1週間分の食料の買い出し。もちろん、酒を買うのも忘れ
ない。カリフォルニアワイン6㍑、バドワイザー12缶、ウイスキーとどっさり買いこむ。酒はビッグウォールを
のんびり、ご気楽にやるには必須アイテムである。そう、ぼくらがめざすのはハーディングスタイルなのだ。

重いホールバッグ 
 20日。いよいよ垂直の世界に出発。しかし酒でパンパンに膨れあがったホールバッグはなかなかぼくらを前
に進ませてくれない。結局、荷揚げは1人ではびくともしないので、2人対ホールバッグの綱引き大会となった
。綱引き大会は1ピッチに1時間で進行し、マンモステラスに着いたころには12時を回っていた。
 荷揚げで疲れ果てたぼくは、マンモステラスでばったり倒れて昼寝したい衝動を抑えつつ、さっそくエイド
クライミングにとりかかった。ぼくらは3ピッチ交代で行こうと決めていて、最初はぼくの番だった。しかしA
1だからとなめてかかったピッチも、スモールストッパーを駆使せねばならず、予想以上に手こずらされた。ま
だ慣れていないせいもあり、この日は結局、2ピッチと半分しか延ばせず、思惑どおり(?)のハーディングスタ
イルとなってしまった。もちろん夜にはワインをしこたま飲むのも忘れない。
 21日。昨日残した半ピッチの仕事を消化するため、登りづらいチムニーをひいひい言いながら登っていると
、2ピッチ先にいる先行パーティーが落石をおこした。20吋テレビほどの岩は、そのままチムニーを伝ってきて
、ぼくの肩をかすめて落ちていった。先行パーティーは「ソーリー」などとにこやかに謝っているが、あんなの
が当たっていたら冗談ではすまされない。気をとり直して、再びチムニーと格闘していると、今度は壁の左手に
いるJolly Rogerの連中が「ラーク、ラーク」と叫びまくる。何かと思って振り向いてみると、ホールバッグが
宙を舞っているではないか。何でも降ってくるエル・キャピタンの恐ろしさを改めて実感した。
 昨日のぼくと同じように、まだエイドクライミングに体がなじまない佐々木のリードは時間がかかり、この
日も3ピッチと半分しか進めなかった。しかしぼくらの基本方針は、のほほんと楽しむことにある。むしろシー
ルドルーフの真下で、落石を心配せずに宴会を開けることに満足する。

トリプルクラック
 22日。朝一番、シールドルーフの5㍍空中ブランコ。しかし、ボルトがしっかり打たれているので、心おき
なく堪能できる。むしろ問題はルーフを越えてからにあった。ルーフを抜けると、そこはクラックというべきク
ラックがないフェース状岩壁。5㍍ほど先にボルトを確認できるが、それにはチョンボ棒を使っても届くはずが
ない。「ここで落ちたら、まちがいなくルーフ下の空中に投げ出されるなー」と思いながらも、覚悟を決めて、
ストッパーの半掛けに乗り移る。続いてスカイフック。アブミの最上段に立ちこみ、震える手でチョンボ棒をボ
ルトに引っかけた。
 フリーで登ったら楽しそうなコーナーを抜け、いよいよ核心部である楯にさしかかる。20ピッチ目は「The
Groove」と呼ばれる箇所で、のっぺりとした壁にフレアーしたヘアクラックが一直線に延びている。ルート図で
はA3とあるこのピッチは、回収できないでいる残置のラープ、コパーヘッドが豊富で、リードする佐々木はす
いすい、ためらいもなく登っていった。
 続くA3のきれいな3本線「Triple Cracks」はぼくのリードであった。順番はもう変則的になっている。T
he Grooveと同じように残置が並んでいるのを期待していたのだが、残念ながらこちらはきれいにクリーニング
されているようだ。もとはヘアクラックだったこの箇所も、今ではピトンスカーが並んでしまっている。そのピ
トンスカーにオフセットナッツ、エイリアン、半分に切ったアングルと、あらゆるギアを総動員して、パズルを
組み立てるかのようにセットしていく。ビッグウォールは作業である。要は手順に従って前に進みさえすればよ
いのだ、と自分に言い聞かせながら、下を覗かないように黙々と作業をこなす。とはいえ終了点のボルトにクリ
ップしたときは「ほっー」と、安堵のため息。ようやく下を覗けるようになったぼくは、自分の今した仕事を眺
め、満足感に浸った。

墜落
 23日。核心部のA3は昨日終わらせていた。だから何の躊躇もなく、朝一の22ピッチ目リードを受け持った
。A2にしてはやけに悪いなー、と思いながらピトンスカーにセットしたトランゴに乗りながら、ロストアロー
を打とうとした瞬間……しっかりとテストしたはずのトランゴが何の前触れもなく、はずれた。目の前の光景が
ビデオの早送り映像のように流れる。気がつくと、逆さまになった状態で、ビレイしていた佐々木のすぐ横にい
た。8㍍のフォール。大胆になってあまりランナーをとらないでいた。残置ラープのワイヤーもちぎれている。
セルフビレイをとって、深呼吸するが、心臓はバクバクいって止まらない。ビレイしていた佐々木も動揺してい
るようだ。
 しばらくして動悸はおさまり、登り返してはみるが、臆病風に吹かれて動きがぎこちなくなり、ぜんぜん作
業がはかどらない。「だめだ、交代して」ついに情けないひとことを出してしまう。結局、この日はチキンヘッ
ドレッジまで、3ピッチ全部佐々木にリードしてもらうはめになった。夜、レッジでひとりぼくは、ビール片手
にピスタチオの殻を投げつけながら、しょぼくれていた。
 24日。残すところあと6ピッチ。ご気楽に登ってきたぼくらも、今日は頂上に抜けたいと思っていた。だけ
ども臆病風はまだ吹きやまない。昨日のトラウマで、ピトンスカーにカムをセットしてもどうも信用できないで
いた。しだいにA1ですら怖じ気づく自分にいらだちを覚え、「ちくしょう、ちくしょう」を連発。半狂乱にな
りつつも、怒りをぶつけることで恐怖心をごまかされ、作業を続けることができた。
 最終2ピッチは、ビッグウォール用シューズをはいているということでぼくに任された。ギアの引っかかる
やっかいなチムニーで「ちくしょう」、ランナウトを強いられるスラブで「ちくしょう」とがむしゃらに登りつ
める。だんだんと傾斜がゆるくなり、猿から人へ、手を使わずに、二本足で歩くことができるようになる。垂直
の世界からの解放。完登できたことを喜びつつも、いつもの感想……「もう二度とビッグウォールなんてやるも
のか」。



MID NIGHT EXPRESS IN BYOUBU IWA
屏風岩ミッドナイトエクスプレス全文掲載
森光

テンアンドアンダー・チームがトライした穂高屏風岩のフリークライミング
(屏風岩東壁ミッドナイト・エクスプレス~雲稜ルート3P目)

 フリークライミングを始めてかれこれ15年以上になる。今までクライミング以外にも
いろいろなスポーツに手を出してきた。でも自分ではフリークライミングがいちばんおも
しろいと思っている。ところがクライミングとはタフなスポーツで、10年やっていたから
上級者になれるなんてことはない。15年やっていても登れるグレードは初~中級者のまま
だし、それだってちょっとサボったら登れなくなってしまう。
 5・11もそりゃ登ったことはあるけど、どう考えてもイレブンクライマーじゃない。
いや、今やもうイレブンクライマーなんて言葉もほとんど死語か。
 初めての岩場に行けば、テンクラスならトライできる。イレブンなら勇気を出さねば
トライしない。そんな2人組が今回、穂高屏風岩のフリークライムルートにトライしてみ
た。
 理由はいろいろ。まず、純粋に大きな岩ををフリーで登りたかったこと。前年行った
アメリカのヨセミテで、簡単だが長いフリークライミングのルートを登って、ショートル
ートとはまた違ったおもしろさを発見した。やっぱ、スポーツとしてのクライミングでは
なく、「岩登り」としての根源的な楽しさがあるよね。ルートファインディングも必要だ
し、つぎにどんなピッチが出てくるのかドキドキするし、水や行動食をどれだけ持とうか
なんて考えるのも楽しいし。
 また、ショートルートばかりだとどうしてもグレード追求的になってしまって、私ら
のような反シリアスクライマーは行き詰まってしまうのである。目先を変えて違ったタイ
プのクライミングをして、モチベーションを維持しているのよ、これでも。
 それから、今、屏風岩はすいているらしい。アプローチが遠く、岩も脆い屏風なんか
行く人はまれなんだそうだ。これはチャンス。私らクライミング歴だけ長いおかげで、屏
風はなじみがあるし、もともと山ヤなので、アプローチもハイキングとして楽しめる。ま
た、すいているということは、思いきりハングドッグできるということじゃないですか!
 ルートはT4尾根を登って、2ピッチのクラック「ミッドナイト・エクスプレス」を
登り、扇岩テラスに出て雲稜ルートの3ピッチ目をフリーでトライしようというもの。ミ
ッドナイト・エクスプレスは5・10前半、雲稜の3ピッチは5・11a/bのグレードがつ
いている。私らがオンサイトできるグレードぎりぎりのところだ。
 8月末の土曜に横尾山荘に入り、快適な一夜を過ごす。山ヤとかいっているわりに思
いっきり軟弱だけど、やっぱ小屋泊まりはラクだよね~。
 翌朝、横尾の岩小屋をめざして、工事現場みたいな道を歩く。横尾の橋が壊れていて
ブルドーザーが入っていた。おかげで以前の記憶にあった岩小屋はすっかり変貌していて
、もうすでに「小屋」ではない。
 横尾の岩小屋跡から対岸に1ルンゼの押し出しが見えたら徒渉しよう。夏とはいえ、
横尾谷の水は冷たい。頭がキンキンするほどだ。
 岩でガラガラの1ルンゼを登りつめていく。T4尾根までは40分ほどの急登だ。早め
にヘルメットをするのを忘れずに。
 天気は上々、絶好のクライミング日和だ。すいている屏風岩でもさすがに雲稜ルート
は人気で、先行パーティーが3組いた。私たちがいちばん最後だ。水は今流行のハイドレ
ーションパックという、チューブのついた点滴袋みたいなものに入れる。チューブだけを
ザック本体から外に出しておくので、登攀中も好きなときに水が飲めて大変便利だ。難点
は、飲み尽くすまで残量に気がつかないこと。食料はこれもアメリカ風に気分を出して、
クリフバーというエネルギーバーを2~3個持っていく。
 T4尾根は登り終わってからT4までの歩きの部分がとてもいやらしい。浮き石がた
くさんあってロープを引っぱるだけで落石をおこしてしまう。
 T4の広場にザックをデポし、空身でミッドナイト・エクスプレスにトライする。
 ミッドナイトの1ピッチ目は、雲稜の1ピッチの途中から左に斜上しているクラック
だ。雲稜の簡単なコーナーを登り、ミッドナイトに入る。クラックはずいぶん斜めで、見
た目は超カンタンそう。思わずパートナーに「5・8にしか見えないよ~」と叫んでしま
う。ところがどっこい、甘かった。フットホールドも乏しく、プロテクションのセットも
難しい。ついに終了点間際にテンションを入れてしまう。
 ミッドナイト2ピッチ目はさらに悪い。相棒はリード中「ひょえ~」とか「こえ~」
とか言っていたが、それもナットク。クラックに泥がつまっていて、生えている草をうま
く押さえながらのクライミングだ。
 ぐったり疲れて扇岩テラスに到着。雲稜3ピッチ目はつるつるに見えるんですけど…
…。オプションとして考えていた「ファイナルカット」はプロテクションが見あたらず、
とても恐ろしそうなので速攻で却下。
 なにはともあれ、フリーでトライしてみる。でも1本目のペツルボルトまではおろか
、最初の5ムーブもできない。なんて難しいの! ふたりで交互にトライするも、ちっと
も進展なし。「11a/bならひょっとしてオレがオンサイトかな」なんて心中密かに思っ
ていたふたりともがっくり。
 しょうがないのでトップロープをセットすることにする。卑怯ながらザックに忍ばせ
ておいたアブミで登る。さすがにぐいぐい登れる。あたりまえか。50mロープを2本つな
いでトップロープを張り、再度トライ。トップロープの威力はたいしたもので、なんとが
ムーブがつながった。やはり、核心は出だしだった。でもリードしたら5・11cくらいは
あるんじゃないかな。
 下降は、扇岩テラスからトラバースして、蒼氷ルートを下りるのがロープの流れがス
ムーズでよい。
 今回はオンサイトなんてとんでもなく、フリーで登ったとすらいえ
ないが、登り終えたあとはとても充実感があった。これがロングルートの醍醐味なのだろ
う。扇岩テラスも快適だし、またいつかトライしてみたいと思う。
   (文=森 光 
写真=●●●●)