7.30.2012

朝霧夏パラ


朝霧高原夏パラ
2012年7月28日土曜日
member Sano Kuwabara  Itokisya記
説明を追加


9時過ぎにスカイ朝霧ショップで合流。天子の稜線はガスの中、今日はやっぱり河口湖がいいね、と話すが、当の河口湖は全日本レースの日。あぶれたメンバーがこちらに移動してきたというわけだ。
前山で1時間ほど雲の上下を飛ぶ。ロンドンオリンピックで人出は少ないよう。元を取ろうと午後も1本。同じ条件だったが避暑にはなったね、と話す。風の湯から中島牧場に移動して納涼ビール。夏休のプランを相談。となりでディスコ大会が始まって太郎はびっくりしていた。



翌日曜日も雲はやっぱり低い。みんな帰るというんでゆっくりチェックアウト、団塊は淡白なのかも。のんびりドライブして勝山のくらよしで吉田うどん。食べながら河口湖のレースを遠望する。条件がいいみたいで順調に出ている(レースは川地塾長が優勝したらしい、さすが)。くらよしは吉田ではなく勝山だけどうどんはしっかりしていて大盛りだ。
1本目80分、2本目30分 #853-854 total 386h32m
参考
28-29の河口湖J1 やまちゃんとライトさんのログ




下り山火口列 1



2012年7月27日金曜日
member Taro Itokisya記
いわくありげな黒塗りの国産高級車

赤色立体地図をかぶせる。見逃してしまったけど029の西100mに火口があったようだ

暑いので太郎を山へ。富士北西火山群の中でごく最近に発見された下り山火口列というのがある。航空レーザ計測で解析されて見つかったクレーターだ。よしそれを見にいこう。
下り山火山もまた青木が原樹海を作った溶岩流のひとつだという。「下り山火口の頂部には直径約100m,深さ約40m の火口」があるというから、近くの石塚火口と同じくらいのスケールのものらしい。
地図には、鳴沢富士宮線(開拓道路)からアプローチできそうな破線がある。
昼は過ぎてもう2時近く。開拓道路を走り、このあたりか、と車を停める。道脇をふらふらするとチェーンで規制された林道入り口を発見。これがその破線のようだ。草が生え倒木もあるがジムニーなら走れそうな道。樹海の中を緩く下っていて本栖湖へ続いているようだ。樹海の中のアプローチがたいへんかと想像していたがこれなら楽勝だ。
きれいな無名林道、ヒノキの造林エリアあり

2時過ぎスタート。シカの森なので太郎はコーフン気味。ヒノキの植林エリアもあるがほとんど原生の樹海のようだ。しばらく下って行くと異様な光景が現われる。黒い乗用車が道端に突っ込んでいる。窓ガラスが全部割れていてホコリまみれ。レグザスのようだ。おそるおそるのぞきこんでみるが中は空っぽ。いわくありそう、、、。
さらにしばらく下って、このあたり、とGPSにマークしてあった屈曲点に出る。ここから火口に向かうのがいちばん近道のようだ。雑木の林を抜けると溶岩流の凸凹地形に出くわす。その先にこんもりとした尾根があって東から西へと延びている。これが下り山火口列のようだ。シラビソの幼木と大木が生える尾根に上がってみる。尾根筋には細いトレイルがあってケモノミチにも見えるが、どうかわからない。赤布の類はない。尾根上には火口のようなものはなく、右手、左手をのぞいて見るがはっきりした火口地形は見つけられない。
下り山火口列の長峰

あちこちに立派な溶岩樹形

尾根から下って樹海の中に戻る。もときた林道へ戻ろうとGPSを見るが、示す矢印が自分の方向感覚とは違っているので驚く。GPSどおり辿る。ところどころに立派な溶岩樹形があってかつてはこのあたり巨木の森だったことがわかる。霧が出てきた樹海を右へ左へと進む。浅い沢地形をいくつか越えた先で黒い車が亡霊のように現われた。ヤブに頭を突っ込んで傾いているレグザス。

このあたり標高1000mほどだが歩くと暑い。今日の探索は終わりにして林道を戻る。航空レーザ計測のデータから作られた赤色立体地図にははっきりとした火口が見える。どうやら尾根上をもう少し下ったところにあるようだ。マークした地点が100mほどずれていたかもしれない。火口の探検は秋、涼しくなってからの課題としよう。
中島牧場に移動、太郎もOKのロッジで過ごす。

つづき 下り山火口列2
https://itokisya.blogspot.com/2012/08/blog-post_6.html

●参考

富士火山(2007)荒牧重雄,藤井敏嗣,中田節也,
宮地直道編集,山梨県環境科学研究所,p.349-363
航空レーザ計測にもとづく青木ヶ原溶岩の微地形解析
青木ヶ原溶岩は,西暦864
~866年(貞観6-7年),長尾山付近での噴火により流下
した玄武岩質溶岩流である.

青木ヶ原溶岩を流出させた火口に
ついては,長尾山だけでなく,その南側の氷穴火口列,大
室山西麓の石塚火口からも噴出したことが明らかにされた
(小山,1998b;小幡・海野,1999).また,鈴木・他(2001)
は,根原付近に到達した青木ヶ原溶岩の分布や地形から,
大室山東麓に神座風穴火口が存在すると考えた.


新たな給源火口の発見
航空レーザ計測の成果を表現した赤色立体地図の判読と
それに基づくと現地調査より,石塚火口列の西北西延長上
に連続する噴火割れ目と,その噴火割れ目の北西端にある
最大比高が約25m の火砕丘を新たに確認した.この火砕
丘を「下り山火口」,この火砕丘の基底部から流下する溶
岩流を「下り山溶岩流」と呼ぶ(図15ab).下り山火口の
頂部には直径約100m,深さ約40m の火口があり,火口
底と火口縁では赤色スパターが確認された.火口の北東側
では少量の降下スコリアが確認されたものの,その分布範
囲等の詳細は不明である.
下り山火口-石塚火口間は直線状にのびる割れ目状の地
形が認められるが,周辺にはスパター等の火口近傍堆積物
は確認されなかった.この割れ目の伸張方向は地形の最大
傾斜方向と異なること,割れ目が古い溶岩(大室溶岩)の
凹凸を乗り越えて伸びていることから,この割れ目は,貞
観噴火時の火口列形成に伴う噴火割れ目の一部と考えられる。


下り山火口以外で貞観噴火で活動した火口や火砕丘の特
徴は以下のとおりである.
石塚火口は,最大比高が約30m あり,頂部には直径約
50m 深さ約10m のすり鉢状の火口がある.この火砕丘起
源の降下スコリアは確認できなかった.長尾山は,最大比
高は約120m であり,長径240m,短径170m,深さ約40
m の北西方にやや開いた馬蹄形状の火口がある.この火
砕丘からは,降下スコリア(長尾山スコリア:宮地,1988)
と溶岩流の噴出が確認された.
氷穴火口列は,長尾山南東に位置する噴火割れ目であり,
従来は現地調査より6箇所の火口が存在すると推定されて
いた(津屋,1968).今回,赤色立体地図を解析し現地調査
を行った結果,最大で直径50m,深さ30m のすり鉢状の
火口が北西―南東方向に少なくとも20箇所以上存在する
ことが確認された.また,氷穴火口列の東側には噴火割れ
目起源と見られる小規模なスパター堆積物が,また北側に
は溶岩流が確認された(図16).

「富士山を知る見るハイキングガイド」伊藤フミヒロ著

7.17.2012

村山修験2


村山修験2(御殿庭)
2012年7月15日 くもり
member Taro Itokisya
新倉浅間神社は吉田随一のビューポイント

宝永第2火口

西風の強い日のようだ。こんなときはハイキングがいいだろう。太郎と散歩にでかけよう。富士山が近づくにつれて雲が厚くなってきた。南と東側はいつも雲が湧く天気の悪いところだ。
須山口登山歩道を上がって、このあいだ羽根田さんと歩いた辺りを再探索したい。
御殿庭というのがいまいちどこのことなのかよく分からなかったのと、村山修験の修行場というのがはっきりしなかったのが気になっていた。
このあいだ歩いたルート上に御殿庭中、御殿庭上、御殿庭入り口の3つの道標があり、御殿庭入り口には「御殿庭へ」という矢印があった。ということは御殿庭はまだ見てないということなのか。
御殿庭中は須山口登山道上で、地図には3合とあるところ。このあいだ村山古道から森をトラバースして出てきた地点で「村山修験者富士山修行場跡」という碑が立っていた広場。ここも御殿庭かな、という感じの場所だがなんせ狭い。御殿庭上というのは、宝永山第3火口の底のことで、スケールの大きい景観を持っている。ここなら間違いなく御殿の庭という感じだが、古くから言われている御殿庭とは別のようだ。

冠松次郎の「富士の旅」に昭和17年の探索レポートがあって、御殿庭のことが書かれている。このときは村山修験の秋山芳季氏が同行していて、御殿庭を訪ねている。村山道からトラバースしてでてきたところが御殿庭の奥庭で、例の碑が立っているところ、つまり御殿庭中。さらにしばらく下っていくと前庭と言われる広い修行場があり、巨岩の上に木のお札が供えられていたという。お札は秋山氏の昭和7年のものが最後で、その後修験者が訪れた様子はないという(村山修験の富士山中修行はこの年をもって歴史から消えたということか)。冠あるいは秋山師が言う前庭が御殿庭下(地図には2合5勺とある)と今いわれているところだろう。御殿庭中と下をあわせたあたりが古くから御殿庭とされているようだ。

巨岩のある修験場、つまり御殿庭の下にある前庭(御殿庭下)を見てみたい。以前、この須山道を歩いて下りガラン沢へ抜けたことがあったが巨岩や美しい御庭を見た覚えはないのだが。
御殿庭か

022が御殿庭中(奥庭)、025が御殿庭下(前庭)。

水が塚公園はマイカー規制で有料駐車場に変わっているはずなので、南山林道の入り口あたりにクルマを置く。9時半スタート。植林で薄暗い南山林道を辿って1620mの水平道に出る。紅葉台遊歩道ともいわれているきれいなハイキング道だ。左に折れてすぐに須山口登山歩道の1合5勺に出会う。カラマツやモミ、七カマドなどの混交林を行く。村山古道と似たような風景だが、こちらは道がはっきりしているし、なによりもところどころに立派な道標があるのが大きな違いだ。

背の低いシラビソの密林に変わり勾配がきつくなる。ジグザグで200mほど登りきると1980m御殿庭下につく。道標があって山頂とガラン沢方面と二ツ塚との3分岐になっている。高差500m以上登ってきてもう昼前。

御殿庭下が冠さんの言う御殿庭の前庭で、ここに巨岩があって修行場になっていたという。あたりはモミとカラマツの若い森で明るい。探してみるが巨岩はない。御殿のように美しい御庭というのも見当たらない。ところどころに乾いたコケと風知草の広がるスペースがあってそれがそうだろうか。もういちど森の中をグルリとしてみる。小さな広場に大人のクマくらいの大きさの岩があって、巨岩はこれのことか。
なんせ70年以上前のことだから御殿庭は様子がすっかり変わってしまったのだろう。ここが探していた場所と自分を納得させて、もう少し上へ。

ここ数年の大雨で登山道が壊れている。溝の中の急登を行く。3合目の御殿庭中には例の修行場の碑がある。面影はあるが御殿の庭というほどのスケールはない。かつてはもっと広々とした御庭だったのだろう。森が育って昔の様子が消えてしまったのだ。70年前の風景はないが、御殿庭と名づけられたのはさらに100年も200年も前のことだろうから、名前と実際が違っていても不思議なことではないのかもしれない。

ここでいつものように貧しいランチ。雲が多く展望はない。ときどきパラパラとくるが本降りになることはなさそうだ。宝永山の第2火口まで行ってみよう。
背の低いカラマツとコケモモのコロニーが育つスコリア帯に入る。風が強くカラマツは風下側に傾いて耐えているようだ。第3火口の縁を登っていくとガスが飛ばされて宝永山が姿を現す。宝永山と火口の作る風景は富士山でも最上級のものだ。風がますます強くなってきた。第3と第2の火口縁に出るが火口底へ下るのはあきらめて下山することに。上の方から2人組が降りてくる。風が強いので登頂をあきらめたが「バスで下るのもなんなんで」この道を下山するのだという。火口の反対側をグルリと回って御殿庭中に戻る。

御殿庭中から御殿庭下へ。林の中に巨岩や修行場はないかともう一度右左見ながら行くがその気配はない。御殿庭下からは往路を戻るのもつまらないので小天狗塚を経由して三辻へ下る。ガスの切れ間から二ツ塚が見える。想像以上に大きくて立派な山容だ。須山口下山道に入り御胎内の上で水が塚へ続くトラバース道に入る。この道はツガやカエデの大木が育つ森の中を縫っている。素晴らしい森。ここだけ訪ねてもたのしそうだ。
南山林道との交差点に出て林道を下る。今日会ったのは先ほどの2人組みだけ。クルマに戻ると大粒の雨がやってきた。3時半終了。

翌日曜日は夏らしい好天になったが西風の強いまま。
吉田の新倉浅間神社公園を初訪問。富士山のきれいな写真を撮る。この公園は素晴らしい。吉田郊外の雁の穴へハイキング。整備されていないので森の中を右往左往。いくつか溶岩地形を見たが全体がいまいち分からなかった。

カラマツとイタドリ。富士さんらしい風景

溶岩弾の上。黄色い雨具は20年ものになってしまったなあ

参考

村山修験の富士行(お峰入り)
村山浅間には12人の山伏がいて、毎年4人づつ富士修行と称して山に入った。
役の行者からの伝法といわれている。山伏は富士山教の導師であり信者を引率登山させる先達でもあった。江戸時代以降は神道に傾く様子もあるが、本来仏教(密教)の系譜である。修験者は山伏であり山伏は仏教に帰依する僧であり経を読んだ。村山浅間神社には興法寺という寺もあり神仏混交の気配が強い。村山浅間は明治以前は村山興法寺といわれた。

7月22日に富士山に上り、そのあと8月2日まで山に篭る。3日に須山口に下り、三島明神、沼津の日吉山王社、そのあと吉原から村山道で村山にもどる。8月15日まで26日の修行。これを経て初めて先達となることがかなう。
最後の法印といわれる秋山芳季師の話が「富士山村山古道を歩く」に紹介されている。249ページ。
7月22日に入山。一の木戸の御室で11日間山篭り勤行。薄い粥で腹を満たして修行三昧。新参者は木渡り、逆さつり。早がけ、縄抜けなど忍者のような修行。さらに宝永山、須山中宮浅間へ移動。須山朝日観音で5日の勤行。愛鷹山堂ヶ日にも篭る。26日の修行が終わると下界ではご利益にあやかろうと善男善女が拝み迎え、村村では大歓迎だったという。


聖護院修験者の富士山峰入り修行
富士山72年ぶり峰入り修行(2011年8月22日 読売新聞)
 修験者による富士山峰入り修行が72年ぶりに復活し、聖護院(しょうごいん)(京都市)の修験者ら約20人が21日朝、海抜0メートルの鈴川海岸(富士市)を出発した。一行は村山口登山道(村山古道)を使いながら、3日間かけて富士山頂を目指す。久しぶりの復活に合わせ、江戸時代に栄えた宿場町「吉原宿」(富士市)では住民が一行をもてなすなど、かつての修行の光景が一部再現された。富士山峰入り修行は室町時代に始まったとされ、旧暦の7月21日~8月16日の二十数日にわたって修験者が富士山中で修行し、下山後はお払いや祈祷(きとう)を行ってきた。明治時代の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)などの影響で縮小し、1939年を最後に行われなくなっていたという。(抜粋)
このときのビデオあります。

富士山お山開き 村山浅間
2012年の様子をローリング父さんがレポートしています。

村山古道が載ってる本
「富士山ハイキング案内」
富士山を知る見るハイキングガイド 伊藤フミヒロ 

7.10.2012

弓射塚と桟敷山


弓射塚と桟敷山
2012年7月8日 日曜日 くもりはれ
member Taro Itokisya
大室山からみた北西火山銀座。赤が今日のトラック

氷穴のケービングツアー


朝いちで河口湖のパラスクールへ。飛べそうな空模様だが予報がわるい、いつものメンバーはだれもこない。
しかたがないんで太郎の散歩に出かけよう。

林道鳴沢線に入り精進口1合目へ。ツアーのクルマが2台とまってる。1030スタート。
未見の弓射塚1566mと3合目まで上がり桟敷山1790mを見てみたい。
氷穴までやってくると、ツアーのグループでにぎやか。ツナギウエアの数人がリーダーの話を聞いている。カラビナ架け替えのレクチャーしてるところを見るとビギナー相手らしい。大掛かりな仕掛けが進行中で、ロープを空中高く張って滑車でつるべにもう1本を竪穴に下ろしている。クライマーの常識とは大違い。

地図のトレイル沿いに弓射塚山麓にトラバースして、造林用の林道に出る。あちこちからよく見える広い植林エリアがあって、そこを除けば弓射塚は広葉樹の森になっているようだ。林道はすぐ終わり仕事道を行く。ササを刈ってあるので楽勝。適当に林の中を上がるとすぐ頂上部に出た。どこが山頂かわからないが切り開きがあって歩きまわることができる。標石などは見当たらない。御坂や天子の一部が見えるが、見下ろすことができると聞いていた大室山の火口あたりは低い霧と林に阻まれてわからない。

2mほどの大穴があってサンプリングの跡かもしれない。この山の火口は南西面にある3つの大カルデラ。白大龍王-氷池大火口だ。これはもう確認炭なんでこれでよしとしよう。弓射塚は紀元前5300年にできた火山。大室山が1390-1120 B.C.の山だからそれよりも古く、山腹は広葉樹の美林となってすっかり落ち着いている。ちなみに白大龍王-氷池大火口は西暦410~770年に噴火していると研究書にあるからこのあいだ爆発したばかり。そのあとすぐに先ほどケーバーが潜っていた氷穴列状火口が青木ヶ原溶岩流を噴出している。これはA.D.864-866とあるから平安時代の2年間と特定されている。富士山貞観大噴火と呼ばれている。それにしても火山の歴史を詳細に解明できる科学者はいい仕事をしています。

精進口登山道に戻りたいのでコンパスで方角を合わせて下る。仕事道がありすぐに古い林道にでる。深い沢が出てきたな、と思ってのぞきこむと先ほどの氷穴列状火口の上流のクレーターのようだ。3つ4つ見える。
氷穴の列状火口は、従来あることは分かっていたがその詳細はあんまりはっきりしてなかったそう。最新のレーザー光線を使った航空測量で全体が明らかになったという。長さ1km、幅は50mほどのところに火口が20個ほど列状に並んでいるということだ。見てわかりやすく一見の価値があるので訪問されることをおすすめしたい。
美しい森。弓射塚山頂近く

桟敷山の火口谷


精進口登山道に戻り幅広の道を緩い勾配で上がる。大正時代にできたというこの登山道は、以前は車を通すことができたらしい。なんと道は現在のスバルラインの5合目終点まで伸びている。林道富士線を横切り2合目の休業中の小屋前でひとやすみ。

さらに美しい広葉樹の森の中を進む。新緑と紅葉の季節はもっと素晴らしいことだろう。やまなしの森林100選という看板があり「精進口登山道2合目のブナ林」とある。明るい日が差し込んだ広々とした森は、バンビの出てくるディズニー映画のよう。実際ここはニホンシカの森でもある。

クルマの音が聞こえてきてすぐに富士スバルラインの下をトンネルでくぐる。ここから勾配がややきつくなって桟敷山の裾をまくようにして道は伸びている。木々の間から富士山の頭の部分が現われるがすぐに雲の覆われてしまう。しばらく登ると3合目のバス広場に出ることができた。昭和の時代に河口湖からの登山バスがここまで上がってきたという。さらに5合目までバスで登ることができたらしい。広場の片隅には壊れかけた古いバス停やらトイレなどが残されている。このバス広場は桟敷山火山の生成(紀元前1000年)でできた平地を利用しているようだ。

桟敷山はバス広場と同じくらいの標高だから、ここから森の中に入ればそのまま山頂に立つことができるはず。桟敷山は北に向かって大きな火口谷が開いていることが地図からはっきり読み取れる。2時近いのでここで太郎とわびしいランチ。

シラビソだろうか、暗い森の中、倒木をかわしながら進む。凸凹がでてきて塹壕のような溝も現われる。火山らしい地形だが、あたり全体がコケ蒸している。どこが山頂か分からないまま進んでいくと深い谷が現われる。火口谷の源頭に立ったようだ。見下ろすときれいな火口底がある。仕事道なのか、研究者のトレイルなのか細道があるのでそれを辿って火口底に立つことができた。倒木とコケに覆われた直径20~30mの火口底。
さらに下流に下っていくと2つ3つと小さな火口が現われ、やがて谷が開いて扇状地のようになる。辺りには間伐したシラビソが転がっている。いつの間にか造林エリアに入っていたようだ。地形図にもある古い林道を歩いてスバルラインへ出る。うまい具合に登りにくぐったトンネルで登山道と合流することができた。
往路をのんびり下る。4kmほどの下り。氷穴のケービングチームははどうなったかとのぞいてみると地上には2人だけが残っていて、まだ探検中とのこと。
精進口登山道はいいハイキングルートだなと感想して3時半終了。
たんしい散歩
参考
富士山の寄生火山に馬蹄形、U字形、C形、勾玉形、みんな同じだけど、そういうのが多いのは、スコリアの丘ができたあと、マグマが噴出して形成された丘を壊しながら流れくだるわけだ。砂山にコップで水を落とすと、そんな形になりそうだ。砂山がスコリアで水が溶岩流。溶岩流の場合は下から吹き出してくるわけだが。なんとなくわかる。
以下ウイキペディアより。
スコリア丘は、主に玄武岩から安山岩の溶岩による活動で、そのほとんどは一度の活動によってできた単成火山で、規模は小さい。形成される場所は、複成火山側火山独立単成火山群の一部として形成されることが多い。また、複成火山の山頂火口内に一度の噴火で形成され、その後の噴火や陥没により、非常に短期間で消滅こともある(例えば、伊豆大島三原山三原新山など)。
スコリア丘の形成中に大量のマグマが地下から噴出すると、噴出した溶岩はガサガサのスコリア丘より密度が大きいので、スコリア丘と基盤の間から染み出るように流出する。そうすると、溶岩流は上にのっているスコリア丘を破壊しながら流下する。これによりスコリア丘は馬蹄形(U字型)の形状となる。溶岩流の上にはスコリアの残骸がのっていて、これをスコリアラフトという。
また、形成される期間によっても形が変わってくる。短期間で形成されたスコリア丘は、溶結してお供え餅(数時間以内に形成されたものに限る)のようになったり、不安定な形をしていることが多い。長期間(数か月単位)で形成されたものは、長い間を掛けて不安定な箇所をスコリアで修正するので、大きく非常に安定した斜角をしている(例えば、阿蘇山米塚富士山大室山)。

富士山を知る見るハイキングガイド 伊藤フミヒロ 

7.09.2012

村山修験の道


村山修験道
2012年7月8日 土曜日 くもり、晴れ
member 羽根田オサム  太郎 伊藤フミヒロ記
吉田駅からスタート


金曜夜、吉田駅に集合。ビアホールで打ち合わせする。
村山古道の核心部を上がり、2160mの一の木戸から、未知の修験道をトラバースして、須山道に入り修行場を見て須山胎内に下るプラン、とする。
昭和17年の秋に冠松次郎が須山の渡辺徳逸と村山修験の秋山芳季と回ったルートで、古道を巡りたいという冠の希望をローカルが案内したもの。昭和24年刊の「富士の旅」に所収されている。このころの冠さん自身は富士山がブームになっていて雪山登山から低山逍遥まであちこち歩いている。往年の黒部の開拓王も60歳を越えて近場の富士山で日本の山の美しさを再発見したようだ。わざわざ北アルプスと富士山を比較して、富士山の勝ち!と、お山の姿、山腹の景色や展望をおもいっきり称揚している。

土曜朝。梅雨中だが雨ではない。青空もたまに顔をのぞかせる。7時過ぎ出発。上がるにつれてモーレツな霧に包まれた富士山スカイラインを水が塚へ。須山古道の胎内入り口に1台をデポして高鉢山駐車場へ8時過ぎ着。富士登山のクルマがたくさん登っていく。来週からマイカー規制のようだ。

8時半にスタート。高鉢-ガラン沢歩道を辿って30分ほどで村山古道とクロスする。案内表示はまったくない。直角に曲がって細道を山へと登り始める。富士原生林を歩いてすぐにカニコウモリが一面の大樅の広場。山小屋の跡でウエストンもここに泊まったらしい。山岳作家として何十冊も著書をもつ羽根田さんが、ここだったのか、としきりに感心してあたりを見回している。修験者や山の人はここで空に向かって握り飯を投げて太郎坊天狗の機嫌を伺ったとか。
ウエストンが泊まったとき(1893年の5月。2度目の富士登山)の小屋の様子はこんな。
省略
ちなみにウエストンは日本アルプスでの活躍が有名だが、いちばんたくさん登ったのは富士山で6回のはず。
黒森を抜けると一面の倒木帯に出くわす。平成に入ってからの巨大台風で一斉にモミの大木が倒れたとされているが、冠氏は昭和7年の室戸台風の被害だとも書いている。このあたりは風が強いのだろう。数十年のサイクルで森が倒木帯に変わっているのかもしれない。
笹垢離の不動明王。修験の仏

古道の重要遺跡、笹垢離に出る。不動明王の石像と首のない地蔵がいくつか置かれている。一帯は倒木だらけだから明るくて海側の展望もよい。どうやら雲海になったようで山麓は雨かもしれないが、ここは日が差している。青空が見えてきたと思ったらすぐに富士山が顔を出した。標高1960mから見上げると扁平な形をした夏富士だ。今年は残雪が多い。
不動明王にはま新しい御幣とお札(碑伝木というらしい)が立てかけられている。ついこの間7月1日の富士山開山式のもの。村山浅間神社で盛大に行われたらしい。ローカルのRさんのブログで詳細と動画があった。修験の姿形や水垢離や護摩焚きの様子などよくわかる。山伏(修験)同士の問答合戦が面白い。村山浅間は修験の総本山聖護院とつながりが深いとかで京都から修験者がやって来た。この日はイギリスの大使も来たという。サー・オルコック初登頂にちなんでのことだろう。
Rさんのレポート
http://blog.livedoor.jp/dzb16113/archives/51830816.html

倒木帯が終わり、日沢が左手にはっきりと姿を現して、すぐ右岸に渡る。横渡しというところ。背の低いモミの森を急登する。100年も前の古い道形が残っているようだ。やがて数段の石段が出てきて広場となる。ここが一の木戸。村山道の1合目だ。ずいぶん高いところに1合目がある感じだが古文書どおり。ここから短い間隔で2合、3合の小屋跡があり、4合目はちょうど現在の6合目、雲海荘と宝永山荘の2軒の山小屋が軒を並べるところ。バスで上がってくる富士宮ルートの前身はこの村山古道だったことがはっきりわかる場所でもある。昔の人は、富士宮浅間神社から村山浅間を経由して村山古道を上り下りしたのだ。サー・オルコックも例外ではない(大君の都に登山記あり)。

一の木戸は、かつて富士登山の関所のようなものがあったところ。広場はいくつかあった建物の跡。昭和時代には山の人のコケモモ小屋があったという。修験者も戦前まではやってきたと、冠氏が書いている。同道している村山の秋山氏はそのひとり。ここで冠氏一行はそのコケモモ採取と修験者のトレイルを辿って須山古道へトラバースしている。
一節はこうだ。
省略

70年前にあったコケモモ小屋はもちろん霧消しているし、踏み跡などもすっかり消えているだろうから、ここからは道を探って行くしかない。前述のローカルのRさんは村山古道の研究に熱心で、古道の平成再興の有志のひとり畠堀操八さん(富士山村山古道を歩くの著者)のお仲間。毎週?のようにこのあたりを見にきていて古道の守り人のような人ともいえる。
Rさんのブログにこのトラバース道を探し歩いたレポートがあったので、今回はそれのマネ。わずか1kmほどだが、冠氏一行もRさんも歩いて抜けているのだから、行くことができることは分かっている。先達があることほど力強いものはない。真のパイオニアが偉大な理由はそこにある。
日沢から山頂を望む

修験行場で

もう昼。かんたんなランチを取って再スタート。
Rさんの手描き地図を見ながらケモノミチのようなところを抜けていく。すぐにガレ場に出てさきほど渡った日沢の上流を渡りかえす。すっかり姿を現した富士山が大きく見える。青空に白い雲が湧いて流れている。さらに小木のシラビソの森を行き、水無しの小沢を越える。上り下りがないように道を選んでいくが倒木がっあってやっかいだ。背の低いカンバとカラマツの林に入り明るい雰囲気に変わってくる。大きな尾根に出たようだ。すぐに須山登山道に飛び出すことができた。1時間ほどの探索だがあと20~30人のフォローがあれば踏み跡はもっとはっきりしてくるだろう。

登山道の脇に明るい広場があって、村山修験者富士山修行場跡、という碑が立っている。ここでひとやすみ。修験はここでなにを行ったのだろう。冠さんの本の中に「すぐこの下の御殿庭にも行場があって、巨岩の上の凹みに木で作ったお札が何枚も置いてある。行をした者が置いていったもの」という一節がある。岩の上でお経を読んで瞑想したのか。
ウエストンは、さきほどの2回目の富士登山では山頂から雪渓を滑って御殿場口に降りている。太郎坊のあたりで、老隠者が座っているのに出合った。ウエストンが聞くと隠者は答えたそう。
「純潔と克己と得ようとしています。水だけを呑み森の木々だけを友として、ここが目的を遂げやすい所と思って座っているのです」この老人はやはり修験の者であったのだろうか。


宝永第3火口

須山道の修験行場からハイキング道を宝永山第3火口へと降りる。ものの10分ほどでいきなり大きく開けた広場にでる。サッカー場の何倍ものスペース。第3火口の底に立つ。宝永山が圧するようにそびえていて、やがてガスの中からさらに大きな富士山が姿を現す。ドラマチックな光景だ。作家羽根田氏もこの映画のようなシーンに「おお。」と感動気味でカメラを向ける。第1、第2の火口底はさらにこれよりも大きいのだ。富士山で見られる劇的な光景をあげるのなら、山頂のお鉢とこの宝永山の3つの火口ではないだろうか。地球というグローブを感じさせる場所だと思うのだが。

宝永山から吹き出したスコリア砂漠を横切って西二つ塚と呼ばれる二つの寄生火山、その間の峠を越える。海側は小天狗塚と言われる毛無山である。それでも山頂にはパイオニア植物のカラマツが点在している。強い西風を受けて幹は傾き、枝は東側にわずか。フラッグツリーといわれるその姿は感動的ですらある。
三辻で須山口下山歩道に入り、天然カラマツの林をゆっくり下る。やがてブナやカエデの巨木の森に入り、須山道がいかに美しい細道であるかということを身にしみて知らされることになる。

溶岩洞穴としても有名な須山胎内神社に降り立つ。羽根田さんがお参りをかねて入洞。「コノハナサクヤヒメと3人の皇子の像があった」そう。神社と周辺は手入れが行き届きローソクとライターまで備えられている。須山村の人が定期的に見にきているようだ。須山道はそんな熱心は人によって再興された新しい古道なのだ。

クルマの騒音が聞こえてきてすぐに富士山スカイラインに出る。4時半終了。のんびり歩いたせいか長丁場のハイキングになった(そういえば8時間も歩き回ったのにだれにも会わなかった。信じられない。静かな山はあるのである…)。
とはいえ冠氏一行は10kmも下の村山村を早朝に発ち、同じようにグルリと周遊して、途中で道迷いもあって、村に戻ったのは夜中になっていたという。当時の村山道はほとんど廃道状態で、倒木とヤブの道だったことを考えると昔の人はすごい、偉い。

同行した渡辺徳逸氏は須山生まれの冠氏の岳友である。1900年生まれで2006年に他界。105歳まで日本山岳会の最長老として知られた登山家であり富士山研究家。徳逸翁がなによりも世間に知られているのは須山古道再興の父として、である。
須山胎内神社

村山古道、須山道が載ってる本
「富士山ハイキング案内」

「富士山を知る見るハイキングガイド」伊藤フミヒロ


7.03.2012

船津口登山道


船津口登山道
20127月1日 日曜日 くもり、小雨
member taro itokisya記
けっこう不思議。バス道脇の不動岩タイプ

祠になっている?小御岳氷穴 

時代の思惑がからんだいくつものルート…

富士登山の登り口はいくつもあるが、いちばん人気なのが吉田口ルート、別名河口湖ルート、と言われている。が、本来吉田口と河口湖口は別のルートであって、今のあの土産物屋や駐車場のある5合目の登山口をわかりやすく言うのならスバルライン口とするが適当だろう。

吉田口ルートは、富士吉田の北口浅間神社から南190度で富士山頂に向かってほぼ一直線で延びているルート。1合目馬返しから5合目佐藤小屋を経て6合目さらに山頂へ続いている。富士講の北口遥拝道である。
スバルラインの終点の5合目から、だれもが1時間もかけてトラバースして吉田口6合目に合流するのはどうしてか。それはバスやクルマの終点がその5合目だから、ということに過ぎない。
では河口湖口ルートというのはどこにあるのだろうか。河口湖船津の浅間神社から富士山に向かって延ばされた登山道があったという。船津口登山道である。河口村からの道ということで河口口登山道とも言われたそう。それが河口湖口ルートということになりそうだ。

今でもそれを辿ることができるだろうか。地形図にははっきりと船津口登山道と明記された車道が引かれていて今は車でらくらくとそれを辿ることができる。林道船津線とも呼ばれるこの道の終点にはクルマ止めがあって、そこから登山道が始まっている。富士山へはそこから歩き出せばよい! 河口湖口ルート、つまり船津口登山道とはどんな道なのだろうか。歩いてみるのがてっとり早いようだ。
美しい細道。古代ルートを求めるのはもうムリ?

倒壊した4合目小屋、昭和天皇もバスでやってきたらし

梅雨前線が上がってくるという予報の日曜日。森の中を歩くだけなら、と出かける。飼い犬太郎もつれていけとうるさいのでいっしょ。
林道船津線の終点は標高1300m、森の中。ゲートがあってそこから林道のような道が登っている。事前調査では、これは古いバス道で、有料道路富士スバルラインができる前は、河口湖駅からバスがこの道を通って小御岳神社のある5合目駐車場まで登山者を運んでいたという。昭和27年開業らしい。
どんなに富士山の裾野が大きく豊かな森に包まれていて、原生の森を堪能できると言われても、バス道を5合目まで辿るというのでは気分が乗らない。
今日のプランは、バス道を2合目あたりまで辿り、そこからバス道ができる以前の旧登山道に入り込み5合目を目ざそうというもの。旧登山道は地形図にも破線が引かれていて、ネット上でも何人かの好事家の探訪記を見ることができた。富士登山ルートとしてはかなりマイナーな道のようだ。たのしみ。

8時スタート。確かにバスも通れたであろう幅と緩い勾配の道が続く。溶岩でできた天然の石畳もある。左手はツガやカエデの混交林。右手は針葉樹の植林帯だ。地図にも大きく記されている有名な剣丸尾溶岩流に沿って道はが伸びているようだ。左手が溶岩流で露頭がはっきりわかる。右手は溶岩流を免れた古い土壌らしい。
道の脇、溶岩流の際に石碑のようなものがあるのでのぞいてみる。近づくとそれは人工物ではなく溶岩樹形だった。仏像の光背のような衝立の前に大きな穴ぼこがあいている。近所にもいくつも大きくて深い穴ぼこが口を開けている。バス道のすぐ脇にあるのだからだれでも気がつかずにはいられない。溶岩樹形は溶岩流の末端とか横端のあまり厚みのないところにできることが多いというから、まさにそれだ。1000年近く前、このあたりは巨木の森だったことがうかがえる。井戸のように深い穴に落ちてしまったらだれも助けてくれそうもない。太郎はあちこちくんくんしている。

富士スバルラインは剣丸尾溶岩流のど真ん中を遠慮もなくまっすぐに伸びているようだが、古いバス道は溶岩流を避け、そのすぐ際に付けられているようだ。そこがいちばんラクに道を作ることができたのだろう。
東京五輪、新幹線開通、スバルラインで消えた旧道(1合目

造林エリアを過ぎると原始林に入る。モミやカエデ、マツ、ブナなど巨木の森が続く。何十年も利用されることのなかった道は今、自然に帰ろうとしている。バス道と侮るなかれ、いまや素晴らしい自然観察歩道に変身しているのだ。
地形図どおりの道なりで進むと巨木の森の中に明るい広場が現れて、小さな祠と背の高い石碑が立っている。石碑には「特別名勝富士山」と大書され、脇には昭和33年建立とある。バスが盛んに登山者を運んでいた時分だろう。昭和39年に富士スバルラインが開通すると同時にこの道は過去の遺物とされたのだ。
何本か造林用の林道と交差しながらゆっくりと高度を上げていく。雲は低いが雨はまだ大丈夫。このあたりから見えるはずの富士山はまったく顔を出さない。クルマの騒音が聞こえてきてすぐスバルラインが現れる。旧バス道の上を有料道路は高架で走っている。歩き始めて2時間近く。パラパラとくるが雨具を着るほどではなさそう。

トンネルの先で二又となる。バス道は右に、スバルラインと併行するように緩い勾配んで上がっていく。直進する急坂が旧登山道。標高1580mのこの分岐から2080m4合目小屋跡まで500m。地形図には破線が引かれているが、情報では藪こぎもある不明瞭な登山道である。
美しい雑木の林の中、不思議な姿のコケが広がる道を進む。仕事道だろうか、いくつか分岐があるがGPSでチェックしながら急に勾配がきつくなった細道を行く。人ひとりが通れるほどになって、カラマツやシャクナゲ、アセビなどが密生し始める。ところどころにある赤布ならぬビニールテープや荷造りヒモが目印だ。

地形図の破線とはずれた踏み跡を進むが、だんだんとあやしくなって小枝をかき分け右往左往。核心は1850mから高差100mほど、ヤブがやっかいだが、上へ上へと突っ切れば、すぐにシラビソとコメツガ、モミの森に入ることができる。針葉樹の森に入ってひと安心。樹間が広く足もとには青ゴケがじゅうたんのように密生する気分のよいところ。

コケに覆われた塹壕のような溝が現われる。溶岩流の作った火山地形に見える。
ところどころ倒木を越えながら塹壕を進むと、溶岩洞穴発見! 残雪が残る深い窪みが2つ3つと出てくる。落ちたら這い上がれないのではないかと思わせる穴ぼこ。太郎が穴を覗き込むのでしっかり手綱を引く。研究者が付けたらしい小さな名札がある。小御岳第3氷穴、小御岳第2氷穴などなど。そんなものがあるとは知らなかったので名札を見てなんだか安心。これも剣丸尾溶岩流の端にできた溶岩洞穴で、知る人ぞ知る名窟のようだ。数箇所ある深い洞穴の中には祠のようなものが置かれているものもあった。火山マニアも訪れるのだろう。トレイルははっきりしたものになった。

急な斜面を直登すると、いきなり林道に出ることができた。林道脇に広場があって崩壊した建物があった。4合目の小屋跡だ。この道は二又で別れた旧バス道の続き、林道ではない。旧登山道を登ってきたので大きくでショートカットできたわけだ。これを辿ればスバルライン終点の5合目に行くことができる。もう道迷いの心配はない。潰れた4合目の山小屋は登山バスが通う以前の旧登山道沿いにあったと想像できそうだ。登山バスが通っている道脇に山小屋があっても立ち寄る人はいないだろうから。
ここで闖入者現る。けたたましい爆音が聞こえてきてモトクロスのバイク数台が勢おいよくバス道を上がってきた。脇によけているとひとりが突然転倒、つぎも転倒。濡れた石畳、急坂の急カーブが大変らしい。バイクを起こすのにも四苦八苦している。無法者に徹するのも大変だ。
奥庭の下部庭園と2251m寄生火山

黒森の中の奥庭-3合目ルート。七太郎尾根へ続く登頂ルーと

しばらくバス道を辿り2150mで道脇から森に入る。観光客で賑わう5合目駐車場を敬遠してスバルラインへまっすぐ急登する。細いトレイルがあってすぐに有料道路に出ることができた。13時前。スバルラインは通り道なのだろう風が急に強くなって雨もやってきた。雨具を羽織る。犬は濡れに強い。雨は気にしていないようだがそろそろおやつタイム。なにかやりたいがわずかな行動食が尽きた。食料はいつも少ないのである。

プランでは往路を戻る予定だったが、先ほど苦戦した旧登山道を下る自信がもてない。登りよりも下りの方がルートファインディングは難しいだろう。以前歩いたことのある奥庭から精進口登山道3合目へ下る道を選ぶことにする。面白くもおかしくもないスバルラインの道脇を、大流し橋、青草流し洞門、白草流し洞門と2kmも歩く。山側、富士山は雲に覆われているし山麓側の展望もない。梅雨なのである。奥庭に下り奥庭山荘でうどんをいただき、底をついた行動食のかわりに安物のクッキーをゲット。太郎はおやつをもらってシッポを振っている。

寄生火山の山腹に附けられた奥庭-3合バス停ルートを下る。奥庭山荘にはこのルートの案内表示は一切ない。観光客が間違えて入り込まないようにしているのだろう。シャクナゲのトンネルがみごとな山道を抜けて、すぐに浅い火口と火口原のあるお庭に出る。2251mの火山が見えてきれいな写真が撮れるところ。コメツガやスギなど原生の黒森をほどよい傾斜で道は下って行く。ところどころに新しい倒木があるが回り道がつけられていて、けっこうな人数が歩いているようだ。暗い森だが原生林は立派で、素晴らしいのはあたり一面を覆う青ゴケ。北八ツのようだ。屋久島あたりまで行かなくてもそんな雰囲気が味わえる富士山腹である。

3合目の旧バス広場1786mに出る。河口湖駅からバスで上がってきた登山者は、さらにここで小型の4輪駆動?バスに乗り換えて5合目に登ったという(地形図ではこのバス道は精進口登山道となっている)。さきほど見た潰れた4合目の小屋前を登っていったのだ。どんなバスだったのか見てみたい。バスが通ったのは、昭和27年のこと。しばらくは3合目までだったがその後無理矢理5合目まで運んだということだ。

この奥庭-3合目バス停のルートは、スバルラインを利用するとラクに歩くことができる。この旧バス広場から3合目バス停まではすぐ。スバルラインに出たら富士急のバスを待てばよい。5合目駐車場からお中道-お庭-奥庭と歩いてから下ってくると充実するだろう。
雨は、ぱらぱら状態がずーっと続いていてどしゃ降りにならないのが幸い。バス広場でひとやすみしてから、だらだらと長いバス道を下り、朝方に分かれた二又に到着。もう4時前。
さらに登ってきたとおりバス道を下り5時過ぎに船津口登山道ゲートに戻る。モトクロスバイクは閉鎖ゲートを突破するのではなく林道の脇から森の中を大回りして侵入していることが轍の跡から見てとれた。
太郎は1日中歩き回ったけれどまだまだ元気。このトレイルは犬の長い散歩やトレイルランナーにも向いているかもしれない。




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富士山を知る見るハイキングガイド 伊藤フミヒロ

参考

船津口ルートつまり河口湖ルートは、概ね今日歩いたようなルート取りだったと思われる。標高1500mあたりで東剣側に寄り道しているのがヘンな気がするが、ここはもっとストレートに2合目(正確にどこだか不明)へ繋がる道があったのにちがいない。「特別名勝富士山」の石碑の場所がおそらく1合目だろう。ここが二又になっていたのだが、そこで左の道を選ぶと旧登山道に入ることができたのではないかと想像している(古い地図でそのとおりのトレイルを見つけることができた。馬車軌道があったらしいが今もトレイルがあるかどうかは行ってみないとわからない)。
鎌倉あるいは室町時代からあるというこ船津口ルートだが不思議なのは、吉田口など他の富士登山ルートなら当然あるべき富士講などの宗教的な記念碑が見当たらないこと。所属する講の名前登頂記念などが彫られた石碑や合目の標識などがないのである。唯一というか、4合目の倒壊した山小屋がこの道が登山道であったことの証にはなっている。この小屋が生きていたころのことに興味が湧く。記念碑などがないのは、船津口ルートは富士講登山以前の古代ルートだったからかもしれない。

精進口登山道のことについてほとんど触れていないが、大正時代にできたこの登山道は精進湖の赤池からえんえんと18kmの距離で富士スバルラインの終点5合目に達している。鳴沢村から合流することもできたので鳴沢口とも言われている。歩いてみるとわかるのだが車が通れそうな道幅と様子なのである(物資運搬用の林道も兼ねたという話し)。
地形図に明記されているように、3合目のバス広場から倒壊した4合目小屋を経て5合目に達するルートは精進口登山道だとされている。船津口ルートは4合目小屋でこの道に合流するわけだ。
精進口登山道よりもはるかに古い船津口ルートだが、戦後バス道ができる前はそれほどたくさんの人が歩いていたわけではないようだ。もちろん河口、船津の人が富士山へ登るにはいちばん効率のよいルートだから、結局ローカルな登山道だったと推測するのがよさそうだ。もっとも精進口登山道もその長さ故に山頂を目ざして歩きぬく人は当時から少なかったようだ。

精進口登山道では1合目、2合目、3合目(バス広場)とかつての小屋跡を見ることができる。ということは4合目の小屋は精進口ルートを歩く登山者に向けて間口を開けていたのではないだろうか。河口湖からバスがやってくる前のことである。河口湖からも多からず旅人や仕事人はやってきたかもしれない(バスが通うようになった始めのころの終点は3合目で、5合目までは徒歩だったという話しもある)。

いずれにしても、山裾を行く見事な原生林の中のバス道といい4合目まで続く美しい自然林、そして溶岩洞穴などの興味深い火山地形…、船津口ルートは観察や保養の森歩きとして絶好の姿で今も残されている。訪れる人は歩いた距離に比例するだけの充足を得られるにちがいない。

もうひとつ興味を引く登山道は、下山に利用した奥庭-3合目バス広場ルートである。実はこの道は、地図を見れば想像できることだが富士山頂まで続いている。奥庭荘から今のスバルラインまで上がり、さらに御庭に登る破線がある。御庭には廃業した御庭山荘があり、ここはお中道の途上となっている。御庭から山頂に続く長い立派な尾根は七太郎尾根と言われている。今そこに破線はないが、かつては七太郎尾根登山道があったという。古い地図にはその経路が記載されているのだ。
2426m三角点から森林限界を超えて山頂に続く細い道。今でも残された道形を見ることができる。実際知人が数年前にこの道を辿って登頂に成功している。過去といっても近代のことだが、少なくない登山者が七太郎尾根を通って登頂していたにちがいない。富士山頂に至るマイナールートの1本である。

富士登山道として 七太郎尾根ルートを見ると御庭山荘が5合目、奥庭荘が4合目、今のバス広場に3合の小屋があったということだろう。精進口あるいは鳴沢村からならこの道が山頂への至近ルートとなりそうだ。船津口ルートからでも3合目あたりで合流するのはかんたんだっただろう。バス道ができる以前のことだが、古地図を見るとたしかにそんな山道が実際1本あったようである。

想像だが、富士講登山以前、河口湖(河口、船津)からの古代登頂ルートはこの七太郎尾根を利用していたのかもしれない。歩きにくい剣丸尾溶岩流の上を避けてルート取りを考えると、今の船津口ルートで3合へ、さらに奥庭、御庭、七太郎尾根と歩くのが山頂への至近ルートに見える。古代河口湖ルートの道形は今となってはあとかたもないだろうが、机上のルートとしてはそれが合理的に見えるのだが。

登山道ではないが気になる林道がある。3合バス広場からスバルラインに併行して山登りする御庭林道である。あとから出来たスバルラインが真似したかのようなルート取りになっている。御庭林道は標高差600mを稼いでお中道にある御庭山荘へ通じている。スバルライン5合目の駐車場より50mも高い。ここに登山バスが通っていたという話は知らない。御庭山荘専用のルートに見えるが、一軒の山小屋が独自で開ける道路とは思えない。奥庭荘も恩恵に預かれそうな道なのだがどうなんだろう。戦後、河口湖からのバス道の開通があったからこそ出来たものだろうが、七太郎尾根登山道を意識した道だったのだろうか。

今でもそうだが、そのころも、となりの吉田口ルート、静岡県の富士宮口ルートなどと、登山客の奪い合いが激しかったという。どんな思惑があってのことだろうか。

瑞穂通信から引用以下

昭和初めごろは馬返しと1合目の間に県営の高山植物園があったようだが現在は痕跡すら分からない。また、「馬返スロープ」と呼ばれる初心者用のスキー場があった。「馬返スロープ」はおそらく県営馬返スキー場のことだと思う。「郡内の100年」(写真集)に1枚この写真が載っている。(昭和9年2月28日第1回県下スキー選手権大会)これらの観光施設も第二次世界大戦に向かいガソリンなどのひっ迫によって自動車が運行できなくなり、やがて戦争によって衰退したと思われる。戦後は船津口登山道が開通し、昭和27年河口湖から5合目にバスが運行した。当時の昭和天皇が搭乗し5合目を訪問している。この船津口登山道にもスキー場ができた。富士山麓のスキー場開設は最近のことかと思っていたが、昭和はじめから作っては消えを繰り返していた。この変遷が太平洋戦争と言う特殊事情もさることながら吉田口登山道→船津口登山道→スバルラインと言う道路変遷によるものであったこともなんとなく理解できた。このスバルラインは昭和39年開通。現在スキー場は天神山スキー場が開設されている。
以上瑞穂通信


富士スバルラインを作ったのは山梨県。昭和39年。東京オリンピックの年。静岡県側が、東海道新幹線開通に便乗して富士宮新5合目まで登山者を運び上げた(富士スカイライン昭和45年開通なのでそれ以前のバス道のことか)。それに山梨が必死に対抗して急遽作り上げたのがスバルラインだった、というハナシはよく知られている。

ちなみに小御岳神社のあたりが平になっているのは、そこが古代富士山である小御岳火山のテッペンだったから、というのはよく知られた富士山地学である。あの平らがあればこそ、、、

河口村にある湖だから河口湖と名づけられた

5合目から6合目、この登山道はお中道と重なるので歴史は古い。お中道を利用して駐車場から吉田口6合目に繋げたのは自然だったといえる。小御岳のあたりが具合よく平になっていた(古代富士の山頂である)ので駐車場が作りやすかったはず。バスなどの便がないときには富士山に登るのにここの立ち寄る理由はなかったはず。
とはいえお中道の途上であり1000年の歴史ある小御岳神社だからそこが重要な興味点であったのはまちがいない。
吉田口ルートと離れていたので訪問者は少なかったと以下にある。



小御岳神社
(こみたけじんじゃ)

 山梨県富士山有料道路の終点標高2340メートルの富士山5合目にある神社は、937(承平7)年の創建と伝えられ、往古は太郎坊正真または石尊大権現と呼ばれたが、明治初年神仏分離令の施行に伴い小御岳神社と公称、戦後富士山小御岳神社の社名で届け出、別名富士山大社とも呼ばれ山内第一の大社として全国信者の崇敬を集めている。祭神は大山祗命の長女磐長姫命を主神とし随神として桜大刀自神ほか3神を併祭、末社に日本武尊社ほか2社をもっている。

 造営以来数回修改築されたが、1874(明治7)年11月、東京一心行者の失火により全焼。後山吉講一山講の寄進により再建。以来しばしば増改築、現在は鉄筋コンクリート造りの社殿となっている。

 例大祭は8月17日に富士山型神輿の渡御がある。そのほか開社祭、閉社祭、月次祭および山開祭、山終祭を行う。社宝は郡内領主小山田信有の社地免除朱印状、富士講開祖藤原角行真筆のお身貫(みぬき)のほか多数の古文書、刀剣などだが、圧巻は重さ数百キロに及ぶ神剣など巨大さを競って信者が寄進した奉納品であった。この多くは先の大戦に軍需資材として供出され姿を消したが、最近寄進が相次いでいる。

 同社は吉田口登山道からはずれていたため参拝者は限られていたが、1964(昭和39)年、同有料道路の開通で積雪期を除いて通年数百万人を超える観光客が訪れる。
小御岳神社


山梨日日新聞社 YBS山梨放送
当ウェブサイト上の掲載情報、写真等の無断複写・転載を禁止します。


むらちゃんの「富士山大好き!」
http://blogs.yahoo.co.jp/fujisanski/folder/396189.html

大宮さんの「瑞穂通信」
http://www.fjsan.net/index.htm

ROUTE 5
http://www7b.biglobe.ne.jp/~fujisan60679/huna.html


富士山を知る見るハイキングガイド伊藤フミヒロ

7.02.2012

河口湖夏パラ1



河口湖ひとりフライト
2012年6月30日土曜日
member いつもメンバー10人
湖畔を行く

ともながさん一直線

雲は低いが日ざしもあって悪くなさそう。午前中は吸い上げコンディションでにぎやかに飛ぶ。黒雲を恐れて中途半端に動いていたが急にコンディションが変わっておっとっとという感じで降下。あえなくランディング。みんな似たり寄ったり。

午後の2回目、だれもテイクオフに上がらないというのでひとりで。東風が出てきたので尾根をよじ登るようにジグザグと上がって背の山へ。高くは上がらないが落ちることもない。黒岳でハイカーが手をふってくれた。ウエアのブランドがわかるほどの距離。大石峠から東尾根に移動して、まいいかと湖畔経由でランディング。
メンバーは1日1フライトの人が多い。みんな淡白なのである。
太郎は小さい子が好き
河口湖大石村



1本目15分 2本目60分 852本目 384時間42分