1.27.2014

湯の丸と八千穂

湯の丸と八千穂
2014年1月25-26日 
天気 くもりはれ

member Haneda 伊藤フミヒロ 記
日曜日夕方の浅間山

湯の丸北峰から四阿山志賀草津方面

南峰から北峰


25日土曜日 高曇り
 東松山で6時に合流、羽根田さんの新車で小諸ICから百体観音伝いに地蔵峠へ。峠を下って鹿沢紅葉館前に駐車。10時前、湯の丸山を目ざす。角間峠まではスノーシューのトレースがあった。峠から尾根伝いに北峰へ。あまり人が歩いていないようでラッセル。昼過ぎに南峰山頂。登山家数人とボーダーが二人。高曇りだが遠望がよい。白馬から穂高まで、富士山も見える。西風があるがさほどでもない。今日は暖かいようだ。
 東面に滑り込む。先発のシュプールがあってほどほどの粉雪で快適に降れる。あずまやのある旧鹿沢スキー場の広場まで下ってひとやすみ。夏の沢道を下るがなかなかやっかいだった。湯の丸牧場のバラ線柵は曲者だ。広場からは旧ゲレンデを下るのがよいようだ。
 鹿沢の旧ゲレンデはすっかりヤブと雑木の林に戻っていてリアル山スキーが楽しめる。
 紅葉館は去年リニューアルされたという。歩くと床が抜けそうな宿だったがロッジ風に立て直されていた。湯船と温泉はそのままらしい。
 小諸懐古園まえのキャッスルホテルにイン。

以下おまけ。
 鹿沢スキー場は1996年のシーズンを最後に閉鎖されたという。ゲレンデが自然に帰っていても不思議ではない。スキー場ができる前に戻ったわけで、かつてのクラシックなスキーツアーが楽しめる、ということだろう。湯の丸山は地蔵峠から登って往復するのがお手軽だが、今回は鹿沢温泉から登ってみたいという気分があったので、念願が叶った。
 鹿沢温泉と湯の丸山は戦前からのスキーの聖地のひとつだ。鹿沢で有名なのが、雪山讃歌の生まれたところ、というエピソード。
京大山岳部の西堀氏などが大正15年、スキー合宿にきた折、愛しのバレンタインの替え歌として作ったのが、雪よ岩よ、の歌だそう。旧ゲレンデ下に記念碑もある。
 鹿沢温泉の旅館群は大正7年の大火で消失して紅葉館1軒だけが再建されたが残りは1里ほど下の新鹿沢に移ったという。詞は西堀氏が自ら新鹿沢で作ったと書いているから、そうなのだろう。戦前の学生が作ったものだがわかりやすい口語でユニーク。後に出世してエリートとなる彼らだが、素質がよかったのだろう。
 戦前の鹿沢はスキーのメッカだったと書いたが、学生たちが通ったスキーエリアとしてはほかに赤倉、五色などがあったという。五色というのは吾妻の五色温泉のことである。ずいぶんな長旅だ。

参考
休暇村スキー場という名称だった

参考になるローカルのルート(拝借)

26日 日曜日 くもり
 夜に前線が通過して暖かい雨が降ったらしい。懐古園の雪も溶けて早春の様子だ。中部横断道佐久北ICから佐久穂へ。八千穂スキー場で昼まで練習。昼過ぎにスキー場トップから信濃自然歩道沿いに山に上がる。白駒池に通じるハイキング道。前夜の積雪でラッセル訓練になってしまった。踏み跡があったらしくそこを外さなければあまり潜らないようだ。1950mのピークに立って北八ヶ岳の様子を眺めてから下山。一つ先の2010mピークは剣ヶ峰というらしい。
 タンネの森の急斜面粉雪を味わって、さらにスキー場脇の植林エリアを快適に滑る。2時間のツアー。
 西風強風の関越道をドライブ。日曜日なのに空いていた。そうそうプジョーが18万キロ越えた。
八千穂のシャトル

タンネの森を行く


参考
西堀栄三郎選集第2巻『未知なる山・未知なる極地』(悠々社)によれば、大正15年の冬の鹿沢で・・・・合宿が終って新鹿沢に泊まった。吹雪で滞在をよぎなくされたある日、四手井綱彦君や渡辺漸君と共に学校の山岳部の歌をつくろうではないかと提案した。しかし、わたしを始めこの連中は、およそ文才のない奴ばかりである。別に誰にほめてもらおうというわけではないので、でたらめな文句をならべたてた。その頃ラッセルをやりながらよく歌った
「オー・マイ・ダーリン・クレメンタイン」
の曲が気に入っていたので、その曲にあうように。誰がどの文句をつくったかは忘れてしまったが、どれも合作であったようだ。薄暗い部屋で、四手井君が一句一句できるはしから書き留めていたのを思い出す。