6.25.2016

河村城址

河村城址
山北の城跡公園

2016年6月23日 金曜日
けっこう大きな工事のあと。畝堀は北条の城の特徴

堀切を渡る木橋、当時は素朴な引橋だったか

かなり大きい。右側は捨て石で本丸は左のエリアか


天候 くもりはれ
member 太郎 伊藤記

富士山からの帰り道、神奈川県山北町にある城址公園へ。中世城の様子がよくわかる整備された公園で、駐車場を探すのに苦労したが早朝とあってだれにも会うことなくあちこち見ることができた。数年前きたときは整備のさなかだった記憶がある。それも完成してきれいな城跡になっていた。というか散策路があってまるで園地のようにきれいになっていて古城を攻城する雰囲気とは遠い。

山北三山と勝手に呼んでるミカン山の西端にあって散策するには手ごろなとこ。
平安時代にその始めができてその後オーナーはめまぐるしくかわり、戦国時代は北条と武田の争いが繰り広げられたそう。城も時代とともに改造され大型化したのはほかと同じ。

このあたりは甲斐と相模、駿河などの三国の堺に近く古城が多いところ。河村新城はすぐ向うにあるし、地名にも惣領とか庶子とかが残っていて246号の交差点名としても知られている。戦国の世では北条方の勢いが強かったのか防御のための土木工事の跡にも畝堀とかの北条の城造りの特徴がよく出ている、と案内にあった。
畝堀は横堀の中に凸凹をつけて攻城を難しくしているとか

本丸。囲いがあって門があって館があったんでしょう

記念碑となんかお堂

南には小田原、鎌倉があって、北には丹沢の山中にいくつか砦があって、道志の山を越えて甲府までのあいだ城跡はたくさんあるようだ。もちろん越後までには諏訪、上田、川中島など合戦の跡がありそれぞれに古城がたくさん点在している。

寺社仏閣なとと違って抹香臭や霊域感がなくて、遊具などの置かれた遊園地ともことなるので犬と散策を楽しむことができるのは城跡のよいところ。中世城跡は近世城のような派手な天主閣や石垣などがなく地味なのも大人の雰囲気だ。
河村城についてはウイキによれば以下。

案内はあまりない、考古学だから推理ば多いのかも



河村城は平安時代末期に藤原秀郷の流れをくむ河村秀高によって築かれたとされる。
建武の新政・南北朝時代に入ると、河村氏は新田氏に協力し南朝方につき、北朝方の足利尊氏と対峙したといわれ、1352年(南朝:正平7年、北朝:文和元年)から2年間、河村秀国・河村秀経らは新田義興・脇屋義治とともこの城に立てこもり、畠山国清を主将とする足利尊氏軍の攻撃をしのいだとされる。しかし、南原の戦いで敗れ落城し河村一族の多くは討死し、新田義興・脇屋義治は中川城を経て甲州に逃れたとされる。
その後は、この城は畠山国清や関東管領上杉憲実を経て、足利持氏の属将、大森憲頼(氏頼の弟)の支配するところとなる。
戦国時代に入ると後北条氏の支配を受けるようになった。元亀年間(1570年(元亀元年) - 1573年(天正元年))には甲斐国の武田信玄の侵攻の際に補強され、その後、周辺の諸城とともに後北条氏と武田氏の間で争奪合戦があったとされる。
1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原征伐で、この城は落城し廃城となった。