5.19.2013

富士スキー2、と「山の本」に掲載した原稿


富士スキー
2013年5月18日

                     

                                       ラフマニノフでテレマーク

水が塚から。いつもより少ないかな?

3人とも単独行、たまたま会つた

18日 土曜日 
member furukawa、Takeda_vitz
天気 はれ
 昨日金時山から見た富士山南面はまだまだ雪があるようだった。好天予報なんで、早起きして出る。富士宮口5合目6時すぎにスタート。2800mまで下部雪渓が残っているようだ。今日を逃すわけにはいかない、というんでたくさん登っている。ここんとこ週末あんまりよくなかったから。南面は200人以上と見た。

 無風快晴、あたたかい。下を見ると案の定古川さんが登ってきている。連れはだれだろう? 3300mで合流。タケダビッツさんだった。山頂まで階段でアイゼンは使わなかった。高いところは初めてなのでスローペース。12時半富士宮口山頂。

 広場から剣ヶ峰滑降の二人を撮影。上部雪渓は新雪できれい。ざくざくで飛ばす。タケダビッツさんもうまい。古川さんとおんなじでごんちゃれんこ先生門下だという。下部雪渓、新雪は溶けて汚れていて下るだけ。3時前終了。こんなにたくさん人がいる富士山は珍しい。
 山北さくらの湯、でラーメン食べて帰る。
 
5合目から。片蓋山、腰切塚、浅黄塚が並んで見える

新雪でざくざく

雲海は1日取れなかった、、富士宮下界はどんぐもりで予報ハズレの1日


以下「山の本」 号に掲載の原稿

 山が好きだが雪が降るとスキーによく出かける。ゲレンデではなくて雪の山を滑るのが目的、だから山スキー屋である。今頃はなぜか山スキーのことをバックカントリーと呼ぶのが流行っているのはご存知でしょうか。それに従うならバックカントリースキーヤーということになりそう。12月から5月まで週末は天気を見計らって出かけるのがいつも。広い世の中、同好の士は多く、雪の山でスキーを履た人に会わないことはない。
美しい光景
 1年のうち6ヵ月間営業の山スキーだが、シーズン仕舞いにみんながよく行くのが富士山。5月連休のころ5合目登山口まで上がるとスキーを持った人、スノーボードを背負った人、雪山登山の人が仲良く行列して登る光景に出くわす。この時期の富士山は夏よりもずっとラクで快適な登山ができるから登ったことのある人も多いでしょう。山の様子も雪のせいでふだんの倍くらいは美しい。
 スキーヤーも登山家も登りは同じである。吉田口(河口湖口)でもよいし富士宮口でもよい、5合目からひたすら山頂を目ざす。7時ころスタート、すぐに雪道となって、おおむね夏道沿いに登る。9合目あたりでアイゼンがほしい、という場合もある。たくさんの人が連日登るので階段状になっていてアイゼン不要のこともある。昼前に山頂、四方の景色を楽しみ、のんびりランチ。日がいちばん高くなって雪が緩むころが下山時である。スキー屋はスキーで、登山家は歩いて往路を戻ることになる。スキーの方が早そうに思えるが、私の観察するところ、実際はあんまり変わりない。登山家はサクサクといつものように下り、スキー屋は滑っては休み、休んでは滑ってを繰り返すのでそうなるのである。カメとウサギというところか。夏の富士山はご免、という人にもこの時期の富士登山はおすすめだ。登りも下りもラク、混雑も砂ぼこりもなくひたすら爽やか、山小屋は休業中とあって幸せ。靴だっていっさい汚れなし、なのである。
富士山直滑降
 富士山でスキー、などと一般の人に言うと「えーっ」と驚かれることが多い。5月連休ころのあの雪富士の楽しげな賑わいを見せてあげたいくらいのものだが、普通の人には大層なことと思えるようだ。世代にもよるだろうが、かつて三浦雄一郎さんが富士山で冒険スキーをしたことが印象に強く残っているのかもしれない。1966年、三浦雄一郎 富士山直滑降、というのが富士の登山史に記されている。このとき三浦さんは確かに富士山を滑ったが、文字通り「直滑降」をしたのであった。時速100kmをも超えるスピード滑降だったから、用意していたパラシュートを開きブレーキをかけたのだ。パラシュートは自衛隊が製作協力したという。 [富士山直滑降] という記録映画も作られた。
 それにしてもスキーヤーといえばいまだに三浦雄一郎の右にでる有名人はいない。今、3回目のエベレスト挑戦(かのエベレスト大滑降を加えると4回目の挑戦か)などと話題が途切れることがない。たいした人であることよ。
 われわれ山スキー屋が富士山を滑るときにはもちろん右に左に大きく振って降りる。上手な人の滑りはまるで舞うように見える。いまどきの山スキーの道具はよく出来ているから、条件がよければ中級者でも楽しく滑走できるのである。富士山の勾配はあのように見たとおりのものだから、スキー場なら中級者ゲレンデの傾斜だろう。ま、天気がよくて雪が緩んでいればさほどのこともないのである
レルヒ少佐
 富士山を最初に滑ったのは、だれあろう、あのレルヒ少佐であることは意外と知られていない。日本に初めてスキーを伝え「スキーの父」とも言われているオーストリアの軍人レルヒだ。少佐は1911(明治44)年4月に友人クラッセルと富士山九合目からスキーで滑降したという。高田で日本陸軍にスキーを伝授したのがこのシーズンだから、スキーを教えたり、自ら山で滑ったり忙しいことだ。当時の貧弱なスキー道具で富士山を滑るのは、三浦さんの直滑降にも匹敵する冒険であったに違いない。
 いかめしい肖像写真で知られる少佐だがとても日本びいきのよい人だったという。各地で好印象を残していて、今でもレルヒファンが多い。人物であったのだろう。富士山が日本最初の山スキー滑降の地であることを記念した碑を、今も御殿場登山口のバス停脇で見ることができる。御殿場市が建てたもの。
 ちなみに、富士山頂から初滑降したのは、勝田甫という青年で友人の筧弘毅と、1935(昭和10)年4月、今の御殿場口ルート沿いを滑っている。レルヒといい勝田といい、いまのゴールデンウイークに滑っているのは当然といえば当然、富士スキーはそのあたりが絶好の日和なのである。山頂滑降はレルヒ少佐の富士山スキーから25年もあとのことだから、その間にも何組もの挑戦があった。廣瀬潔さんの作ったスキー年表には、滑落死を含むいくつかの事件が記されている。登山家黒田正夫・初子、気象庁藤原(新田次郎)の名前やら冬期初滑降の深田久弥の1行もある。深田さんが仲間と滑り下りたのは昭和14年3月2日のこと、剣ヶ峰絶頂からだからたいしたものである。深田さんのスキー好きは(スキーの)弟子の小林秀雄のエッセイでも知っていたが、もの書き以前に冒険スキーヤーでもあったというのがいい。
ウエストンの雪富士
 先ほどの山頂初滑降の勝田青年は地元御殿場の名門の出。当時スキーは上流層の趣味だったから、大正、昭和初期にスキー登山史に登場する若者たちは学習院や慶応などのお坊ちゃまが多い。ちなみに私の尊敬する山スキーの先達は中尾峠で逝った板倉勝宣である。槇有恒、三田幸夫との最後の山行は日本初の雪山遭難として知られることになったが、3人とも上流層の人。貴人の余裕と見識と行動力が、日本の近代登山を引っ張っていったというのは山岳史の事実だが、板倉勝宣の書き残した散文にもそれが表れている。板倉の語る山スキーについての詩と真実は今でも感動を呼ぶなにものかである。「嗚呼スキーは飛ぶ…、われも舞う…」というあたりは板倉の詩に属する。
 スキー初滑降は1935年だが、富士山の積雪期初登頂は? 誰あろう、ウオルター・ウエストンであったのは知る人ぞ知る。日本アルプスの父といわれるウエストンだがいちばんたくさん登ったのは富士山で都合8回である。そのうち半分ほどが雪の富士山で、夏富士は「人ゴミで嫌だ」と言っているのは今と同じ。1892年5月の積雪期初登頂のレポートは「日本アルプス 登山と探検」にある。このときは御殿場ルートを仲間と登っている。翌年の5月にも村山浅間神社から今の富士宮ルートで山頂に立っている。よほどうれしかったのだろう。英国山岳会に積雪期初登頂と報告した記録がある。それ以前に雪の富士山に立った記録はないし、実際そんな人間はいなかっただろうから。この記録は正しいと思う。このころのウエストンは30歳に達したばかり、イケイケのやんちゃなアルピニストだったようだ。ときどき神父の仕事もしたらしい。
 ウエストンはスキーはしなかった、というより、この時スキーは日本に入っていなかったからそれも当然だが、後に1918年に出した本では、レルヒ少佐のことや富士山スキーについても詳しく記している。日本人は革靴を履かないせいで足が丈夫だからスキーの上達が早い、レルヒの教えたスキーは急速度で日本に広まっているなどと書いている。
30の沢
富士山スキー滑降には、ことほど左様に100年以上の歴史がある、ということになる。先達の偉業を知って平成のわれら一般の山スキー屋は、5月の週末好天を狙って富士山に向かうわけだが、天気が悪いと日差しがなく雪はカチカチ、風が強いと吹き飛ばされそう、なので週末がちょうどいい陽気に当たる確率は3割くらいだろうか。運が悪いと、今年は富士山滑れなかった、ということも往々にしておきる。
 滑るエリアも多彩だ。のっぺらぼうに見える雪富士だが、いったん近づけば崖あり、谷あり、火口あり、複雑で味わい深い様相であるのは、一度でも登ったことのある人には常識。とくに富士山の沢は山頂部から放射状に30本以上あって、深くて長い。ここに残雪が遅くまで溜まるからどの沢も格好のスロープとなる。
 よくみんなが行くのは南面の富士宮口ルートと北側の吉田口ルート、その周辺の沢。富士宮口側は山頂火口の縁から宝永火口に向かって下る。そのまま行くと火口に墜落するから手前で右手の日沢に乗り換えて5合目まで滑ることができる。高差は1200mある。吉田口はもっと豪快。吉田大沢をまっすぐ下降する。1200mの一枚バーン、日本一の滑り台といわれている。ほかにも、御殿場口、須走口山頂からいくつものラインを選ぶことができる。マニアックルートもいくつかあって、白草流し、小御岳流しなど。痛快なのは最高峰の剣ヶ峰から山頂火口、つまりお鉢への滑降。高差200mほどのルートだが急だし、空気が薄いから息が上がる。滑ったあとの登り返しはもっと辛いが、登らなければ死ぬまで火口底の人となるからだれもが必死で這い上がってくることになる。
スノーボード面白い
何年かかけてあちこちのルートを滑ったが、週末山スキーヤーの範囲内のことで目覚ましいことはない。トラブルは何度か滑って転んだというくらい。いちどスキー靴の靴底がパックと開いて往生したことがあったが、頂上をあきらめて引き返した。強風で引き返したことは数回でこれはよくあること。遭難者の落とし物を何度か拾ったことはあるが遭難者に出くわしたことはない。富士山で拾ったものは多い。寝袋、財布、アイスバイルは2回。今年は手袋とスノーボード。富士山はとにかく落とし物が多いのである。そのわけはいくつかありそうだ。
 滑っていちばんいいところを挙げろと言われれば、明快で豪快な吉田大沢だろうか。おすすめである。昭和の末にスノーボードというものが日本に上陸した。これで富士山を滑ってやろうとひとシーズン、スキー場や山で練習した。スノーボードは幅広で重厚で全体重を1枚の板に乗せることができる。二本の脚で操るスキーに比べると悪い雪や急斜面に強いのである。5月になって天気のよい日に吉田口ルートを上がった。昼過ぎにまだ堅さの残る吉田大沢を滑った。1度か2度転倒したかもしれない。このときはピッケルを持っていたのでスリップを止めることができた。これが富士山のスノーボード初滑降というわけではない。パイオニアはいつも先を進んでいて、そのとき私は100番目くらいの滑降者だったのではないだろうか。
スキーパラとは
10年近く前、日本にスキーパラが上陸した。スキーを履いて小型のパラグライダーを持って、飛んだり滑ったりするという、ハイブリッドというかどっちつかずというか、そんな遊びである。フレンチアルプス発祥という。これで富士山を飛んだり滑ったりしてみようと思いついて、ひとシーズン練習した。5月になって何度か富士山頂に足を運んだ。風があってもスキーはできるが、スキーパラは風向きと風速が重要。4度山頂までムダ足を踏んで、5度目の正直で吉田口山頂から吉田大沢を飛んだり滑ったりすることができた。重力に従って滑り落ちるスキーは気持ちのいいものだが、布きれ一枚で重力に抗して空を舞うパラグライダーもまた快楽的遊びといえるだろう。スキーパラという流行りもので富士山を飛んだり滑ったりしたというのでパラグライダー専門誌が大きく取り上げてくれた。山とスキーは長いことやっているが初登、初滑降などの記録はいっさいない一般人、あとにも先にも、だれかに先駆けてなにかをやったというのはこの富士山のスキーパラしかない。しかし山ボードとは異なり、スキーパラで私の後に続く人はだれもいなかったようである。
なんか勘違い?
5月の富士山にいけば、登山者、スキーヤー、スノーボーダーがにぎやかにしているのを見ることができる。雪の富士山を楽しむのにオレがオレがはないから、いい景色といえる。どんな道具で登ろうが下ろうが、みんな富士登山仲間にちがいない。
 この数年、富士宮口にはスキー、スノーボードは禁止、という看板が見られる。吉田口側には、スノーボードは止めましょう、という立札もあった。ゲレンデスキーのつもりでやってくるスキーヤーやボーダーに親心で注意を呼びかけているのだと思いたいが、先日「夏以外は富士登山禁止を検討」という新聞記事を見た。え、なんか勘違いしてない? 静岡県側の意向のようだったが、山梨県側でもそうなのだろうか。残雪期の富士山では、6合目あたりに登山道通行止めのバリケードが作られている。なんとも無粋な光景だ。

 登山や山スキーを禁止したいというお上を持つ富士山に、文化遺産などと自慢する資格があるのだろうか、笑ってしまう。ほかの山で登山禁止などという看板に出あったら卒倒する人もでるところだ。アルプスやヒマラヤでもそれは同じ。勘違いしている人たちにこのことをどう言えばいいのだろう