7.09.2012

村山修験の道


村山修験道
2012年7月8日 土曜日 くもり、晴れ
member 羽根田オサム  太郎 伊藤フミヒロ記
吉田駅からスタート


金曜夜、吉田駅に集合。ビアホールで打ち合わせする。
村山古道の核心部を上がり、2160mの一の木戸から、未知の修験道をトラバースして、須山道に入り修行場を見て須山胎内に下るプラン、とする。
昭和17年の秋に冠松次郎が須山の渡辺徳逸と村山修験の秋山芳季と回ったルートで、古道を巡りたいという冠の希望をローカルが案内したもの。昭和24年刊の「富士の旅」に所収されている。このころの冠さん自身は富士山がブームになっていて雪山登山から低山逍遥まであちこち歩いている。往年の黒部の開拓王も60歳を越えて近場の富士山で日本の山の美しさを再発見したようだ。わざわざ北アルプスと富士山を比較して、富士山の勝ち!と、お山の姿、山腹の景色や展望をおもいっきり称揚している。

土曜朝。梅雨中だが雨ではない。青空もたまに顔をのぞかせる。7時過ぎ出発。上がるにつれてモーレツな霧に包まれた富士山スカイラインを水が塚へ。須山古道の胎内入り口に1台をデポして高鉢山駐車場へ8時過ぎ着。富士登山のクルマがたくさん登っていく。来週からマイカー規制のようだ。

8時半にスタート。高鉢-ガラン沢歩道を辿って30分ほどで村山古道とクロスする。案内表示はまったくない。直角に曲がって細道を山へと登り始める。富士原生林を歩いてすぐにカニコウモリが一面の大樅の広場。山小屋の跡でウエストンもここに泊まったらしい。山岳作家として何十冊も著書をもつ羽根田さんが、ここだったのか、としきりに感心してあたりを見回している。修験者や山の人はここで空に向かって握り飯を投げて太郎坊天狗の機嫌を伺ったとか。
ウエストンが泊まったとき(1893年の5月。2度目の富士登山)の小屋の様子はこんな。
省略
ちなみにウエストンは日本アルプスでの活躍が有名だが、いちばんたくさん登ったのは富士山で6回のはず。
黒森を抜けると一面の倒木帯に出くわす。平成に入ってからの巨大台風で一斉にモミの大木が倒れたとされているが、冠氏は昭和7年の室戸台風の被害だとも書いている。このあたりは風が強いのだろう。数十年のサイクルで森が倒木帯に変わっているのかもしれない。
笹垢離の不動明王。修験の仏

古道の重要遺跡、笹垢離に出る。不動明王の石像と首のない地蔵がいくつか置かれている。一帯は倒木だらけだから明るくて海側の展望もよい。どうやら雲海になったようで山麓は雨かもしれないが、ここは日が差している。青空が見えてきたと思ったらすぐに富士山が顔を出した。標高1960mから見上げると扁平な形をした夏富士だ。今年は残雪が多い。
不動明王にはま新しい御幣とお札(碑伝木というらしい)が立てかけられている。ついこの間7月1日の富士山開山式のもの。村山浅間神社で盛大に行われたらしい。ローカルのRさんのブログで詳細と動画があった。修験の姿形や水垢離や護摩焚きの様子などよくわかる。山伏(修験)同士の問答合戦が面白い。村山浅間は修験の総本山聖護院とつながりが深いとかで京都から修験者がやって来た。この日はイギリスの大使も来たという。サー・オルコック初登頂にちなんでのことだろう。
Rさんのレポート
http://blog.livedoor.jp/dzb16113/archives/51830816.html

倒木帯が終わり、日沢が左手にはっきりと姿を現して、すぐ右岸に渡る。横渡しというところ。背の低いモミの森を急登する。100年も前の古い道形が残っているようだ。やがて数段の石段が出てきて広場となる。ここが一の木戸。村山道の1合目だ。ずいぶん高いところに1合目がある感じだが古文書どおり。ここから短い間隔で2合、3合の小屋跡があり、4合目はちょうど現在の6合目、雲海荘と宝永山荘の2軒の山小屋が軒を並べるところ。バスで上がってくる富士宮ルートの前身はこの村山古道だったことがはっきりわかる場所でもある。昔の人は、富士宮浅間神社から村山浅間を経由して村山古道を上り下りしたのだ。サー・オルコックも例外ではない(大君の都に登山記あり)。

一の木戸は、かつて富士登山の関所のようなものがあったところ。広場はいくつかあった建物の跡。昭和時代には山の人のコケモモ小屋があったという。修験者も戦前まではやってきたと、冠氏が書いている。同道している村山の秋山氏はそのひとり。ここで冠氏一行はそのコケモモ採取と修験者のトレイルを辿って須山古道へトラバースしている。
一節はこうだ。
省略

70年前にあったコケモモ小屋はもちろん霧消しているし、踏み跡などもすっかり消えているだろうから、ここからは道を探って行くしかない。前述のローカルのRさんは村山古道の研究に熱心で、古道の平成再興の有志のひとり畠堀操八さん(富士山村山古道を歩くの著者)のお仲間。毎週?のようにこのあたりを見にきていて古道の守り人のような人ともいえる。
Rさんのブログにこのトラバース道を探し歩いたレポートがあったので、今回はそれのマネ。わずか1kmほどだが、冠氏一行もRさんも歩いて抜けているのだから、行くことができることは分かっている。先達があることほど力強いものはない。真のパイオニアが偉大な理由はそこにある。
日沢から山頂を望む

修験行場で

もう昼。かんたんなランチを取って再スタート。
Rさんの手描き地図を見ながらケモノミチのようなところを抜けていく。すぐにガレ場に出てさきほど渡った日沢の上流を渡りかえす。すっかり姿を現した富士山が大きく見える。青空に白い雲が湧いて流れている。さらに小木のシラビソの森を行き、水無しの小沢を越える。上り下りがないように道を選んでいくが倒木がっあってやっかいだ。背の低いカンバとカラマツの林に入り明るい雰囲気に変わってくる。大きな尾根に出たようだ。すぐに須山登山道に飛び出すことができた。1時間ほどの探索だがあと20~30人のフォローがあれば踏み跡はもっとはっきりしてくるだろう。

登山道の脇に明るい広場があって、村山修験者富士山修行場跡、という碑が立っている。ここでひとやすみ。修験はここでなにを行ったのだろう。冠さんの本の中に「すぐこの下の御殿庭にも行場があって、巨岩の上の凹みに木で作ったお札が何枚も置いてある。行をした者が置いていったもの」という一節がある。岩の上でお経を読んで瞑想したのか。
ウエストンは、さきほどの2回目の富士登山では山頂から雪渓を滑って御殿場口に降りている。太郎坊のあたりで、老隠者が座っているのに出合った。ウエストンが聞くと隠者は答えたそう。
「純潔と克己と得ようとしています。水だけを呑み森の木々だけを友として、ここが目的を遂げやすい所と思って座っているのです」この老人はやはり修験の者であったのだろうか。


宝永第3火口

須山道の修験行場からハイキング道を宝永山第3火口へと降りる。ものの10分ほどでいきなり大きく開けた広場にでる。サッカー場の何倍ものスペース。第3火口の底に立つ。宝永山が圧するようにそびえていて、やがてガスの中からさらに大きな富士山が姿を現す。ドラマチックな光景だ。作家羽根田氏もこの映画のようなシーンに「おお。」と感動気味でカメラを向ける。第1、第2の火口底はさらにこれよりも大きいのだ。富士山で見られる劇的な光景をあげるのなら、山頂のお鉢とこの宝永山の3つの火口ではないだろうか。地球というグローブを感じさせる場所だと思うのだが。

宝永山から吹き出したスコリア砂漠を横切って西二つ塚と呼ばれる二つの寄生火山、その間の峠を越える。海側は小天狗塚と言われる毛無山である。それでも山頂にはパイオニア植物のカラマツが点在している。強い西風を受けて幹は傾き、枝は東側にわずか。フラッグツリーといわれるその姿は感動的ですらある。
三辻で須山口下山歩道に入り、天然カラマツの林をゆっくり下る。やがてブナやカエデの巨木の森に入り、須山道がいかに美しい細道であるかということを身にしみて知らされることになる。

溶岩洞穴としても有名な須山胎内神社に降り立つ。羽根田さんがお参りをかねて入洞。「コノハナサクヤヒメと3人の皇子の像があった」そう。神社と周辺は手入れが行き届きローソクとライターまで備えられている。須山村の人が定期的に見にきているようだ。須山道はそんな熱心は人によって再興された新しい古道なのだ。

クルマの騒音が聞こえてきてすぐに富士山スカイラインに出る。4時半終了。のんびり歩いたせいか長丁場のハイキングになった(そういえば8時間も歩き回ったのにだれにも会わなかった。信じられない。静かな山はあるのである…)。
とはいえ冠氏一行は10kmも下の村山村を早朝に発ち、同じようにグルリと周遊して、途中で道迷いもあって、村に戻ったのは夜中になっていたという。当時の村山道はほとんど廃道状態で、倒木とヤブの道だったことを考えると昔の人はすごい、偉い。

同行した渡辺徳逸氏は須山生まれの冠氏の岳友である。1900年生まれで2006年に他界。105歳まで日本山岳会の最長老として知られた登山家であり富士山研究家。徳逸翁がなによりも世間に知られているのは須山古道再興の父として、である。
須山胎内神社

村山古道、須山道が載ってる本
「富士山ハイキング案内」

「富士山を知る見るハイキングガイド」伊藤フミヒロ