7.17.2012

村山修験2


村山修験2(御殿庭)
2012年7月15日 くもり
member Taro Itokisya
新倉浅間神社は吉田随一のビューポイント

宝永第2火口

西風の強い日のようだ。こんなときはハイキングがいいだろう。太郎と散歩にでかけよう。富士山が近づくにつれて雲が厚くなってきた。南と東側はいつも雲が湧く天気の悪いところだ。
須山口登山歩道を上がって、このあいだ羽根田さんと歩いた辺りを再探索したい。
御殿庭というのがいまいちどこのことなのかよく分からなかったのと、村山修験の修行場というのがはっきりしなかったのが気になっていた。
このあいだ歩いたルート上に御殿庭中、御殿庭上、御殿庭入り口の3つの道標があり、御殿庭入り口には「御殿庭へ」という矢印があった。ということは御殿庭はまだ見てないということなのか。
御殿庭中は須山口登山道上で、地図には3合とあるところ。このあいだ村山古道から森をトラバースして出てきた地点で「村山修験者富士山修行場跡」という碑が立っていた広場。ここも御殿庭かな、という感じの場所だがなんせ狭い。御殿庭上というのは、宝永山第3火口の底のことで、スケールの大きい景観を持っている。ここなら間違いなく御殿の庭という感じだが、古くから言われている御殿庭とは別のようだ。

冠松次郎の「富士の旅」に昭和17年の探索レポートがあって、御殿庭のことが書かれている。このときは村山修験の秋山芳季氏が同行していて、御殿庭を訪ねている。村山道からトラバースしてでてきたところが御殿庭の奥庭で、例の碑が立っているところ、つまり御殿庭中。さらにしばらく下っていくと前庭と言われる広い修行場があり、巨岩の上に木のお札が供えられていたという。お札は秋山氏の昭和7年のものが最後で、その後修験者が訪れた様子はないという(村山修験の富士山中修行はこの年をもって歴史から消えたということか)。冠あるいは秋山師が言う前庭が御殿庭下(地図には2合5勺とある)と今いわれているところだろう。御殿庭中と下をあわせたあたりが古くから御殿庭とされているようだ。

巨岩のある修験場、つまり御殿庭の下にある前庭(御殿庭下)を見てみたい。以前、この須山道を歩いて下りガラン沢へ抜けたことがあったが巨岩や美しい御庭を見た覚えはないのだが。
御殿庭か

022が御殿庭中(奥庭)、025が御殿庭下(前庭)。

水が塚公園はマイカー規制で有料駐車場に変わっているはずなので、南山林道の入り口あたりにクルマを置く。9時半スタート。植林で薄暗い南山林道を辿って1620mの水平道に出る。紅葉台遊歩道ともいわれているきれいなハイキング道だ。左に折れてすぐに須山口登山歩道の1合5勺に出会う。カラマツやモミ、七カマドなどの混交林を行く。村山古道と似たような風景だが、こちらは道がはっきりしているし、なによりもところどころに立派な道標があるのが大きな違いだ。

背の低いシラビソの密林に変わり勾配がきつくなる。ジグザグで200mほど登りきると1980m御殿庭下につく。道標があって山頂とガラン沢方面と二ツ塚との3分岐になっている。高差500m以上登ってきてもう昼前。

御殿庭下が冠さんの言う御殿庭の前庭で、ここに巨岩があって修行場になっていたという。あたりはモミとカラマツの若い森で明るい。探してみるが巨岩はない。御殿のように美しい御庭というのも見当たらない。ところどころに乾いたコケと風知草の広がるスペースがあってそれがそうだろうか。もういちど森の中をグルリとしてみる。小さな広場に大人のクマくらいの大きさの岩があって、巨岩はこれのことか。
なんせ70年以上前のことだから御殿庭は様子がすっかり変わってしまったのだろう。ここが探していた場所と自分を納得させて、もう少し上へ。

ここ数年の大雨で登山道が壊れている。溝の中の急登を行く。3合目の御殿庭中には例の修行場の碑がある。面影はあるが御殿の庭というほどのスケールはない。かつてはもっと広々とした御庭だったのだろう。森が育って昔の様子が消えてしまったのだ。70年前の風景はないが、御殿庭と名づけられたのはさらに100年も200年も前のことだろうから、名前と実際が違っていても不思議なことではないのかもしれない。

ここでいつものように貧しいランチ。雲が多く展望はない。ときどきパラパラとくるが本降りになることはなさそうだ。宝永山の第2火口まで行ってみよう。
背の低いカラマツとコケモモのコロニーが育つスコリア帯に入る。風が強くカラマツは風下側に傾いて耐えているようだ。第3火口の縁を登っていくとガスが飛ばされて宝永山が姿を現す。宝永山と火口の作る風景は富士山でも最上級のものだ。風がますます強くなってきた。第3と第2の火口縁に出るが火口底へ下るのはあきらめて下山することに。上の方から2人組が降りてくる。風が強いので登頂をあきらめたが「バスで下るのもなんなんで」この道を下山するのだという。火口の反対側をグルリと回って御殿庭中に戻る。

御殿庭中から御殿庭下へ。林の中に巨岩や修行場はないかともう一度右左見ながら行くがその気配はない。御殿庭下からは往路を戻るのもつまらないので小天狗塚を経由して三辻へ下る。ガスの切れ間から二ツ塚が見える。想像以上に大きくて立派な山容だ。須山口下山道に入り御胎内の上で水が塚へ続くトラバース道に入る。この道はツガやカエデの大木が育つ森の中を縫っている。素晴らしい森。ここだけ訪ねてもたのしそうだ。
南山林道との交差点に出て林道を下る。今日会ったのは先ほどの2人組みだけ。クルマに戻ると大粒の雨がやってきた。3時半終了。

翌日曜日は夏らしい好天になったが西風の強いまま。
吉田の新倉浅間神社公園を初訪問。富士山のきれいな写真を撮る。この公園は素晴らしい。吉田郊外の雁の穴へハイキング。整備されていないので森の中を右往左往。いくつか溶岩地形を見たが全体がいまいち分からなかった。

カラマツとイタドリ。富士さんらしい風景

溶岩弾の上。黄色い雨具は20年ものになってしまったなあ

参考

村山修験の富士行(お峰入り)
村山浅間には12人の山伏がいて、毎年4人づつ富士修行と称して山に入った。
役の行者からの伝法といわれている。山伏は富士山教の導師であり信者を引率登山させる先達でもあった。江戸時代以降は神道に傾く様子もあるが、本来仏教(密教)の系譜である。修験者は山伏であり山伏は仏教に帰依する僧であり経を読んだ。村山浅間神社には興法寺という寺もあり神仏混交の気配が強い。村山浅間は明治以前は村山興法寺といわれた。

7月22日に富士山に上り、そのあと8月2日まで山に篭る。3日に須山口に下り、三島明神、沼津の日吉山王社、そのあと吉原から村山道で村山にもどる。8月15日まで26日の修行。これを経て初めて先達となることがかなう。
最後の法印といわれる秋山芳季師の話が「富士山村山古道を歩く」に紹介されている。249ページ。
7月22日に入山。一の木戸の御室で11日間山篭り勤行。薄い粥で腹を満たして修行三昧。新参者は木渡り、逆さつり。早がけ、縄抜けなど忍者のような修行。さらに宝永山、須山中宮浅間へ移動。須山朝日観音で5日の勤行。愛鷹山堂ヶ日にも篭る。26日の修行が終わると下界ではご利益にあやかろうと善男善女が拝み迎え、村村では大歓迎だったという。


聖護院修験者の富士山峰入り修行
富士山72年ぶり峰入り修行(2011年8月22日 読売新聞)
 修験者による富士山峰入り修行が72年ぶりに復活し、聖護院(しょうごいん)(京都市)の修験者ら約20人が21日朝、海抜0メートルの鈴川海岸(富士市)を出発した。一行は村山口登山道(村山古道)を使いながら、3日間かけて富士山頂を目指す。久しぶりの復活に合わせ、江戸時代に栄えた宿場町「吉原宿」(富士市)では住民が一行をもてなすなど、かつての修行の光景が一部再現された。富士山峰入り修行は室町時代に始まったとされ、旧暦の7月21日~8月16日の二十数日にわたって修験者が富士山中で修行し、下山後はお払いや祈祷(きとう)を行ってきた。明治時代の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)などの影響で縮小し、1939年を最後に行われなくなっていたという。(抜粋)
このときのビデオあります。

富士山お山開き 村山浅間
2012年の様子をローリング父さんがレポートしています。

村山古道が載ってる本
「富士山ハイキング案内」
富士山を知る見るハイキングガイド 伊藤フミヒロ