7.03.2012

船津口登山道


船津口登山道
20127月1日 日曜日 くもり、小雨
member taro itokisya記
けっこう不思議。バス道脇の不動岩タイプ

祠になっている?小御岳氷穴 

時代の思惑がからんだいくつものルート…

富士登山の登り口はいくつもあるが、いちばん人気なのが吉田口ルート、別名河口湖ルート、と言われている。が、本来吉田口と河口湖口は別のルートであって、今のあの土産物屋や駐車場のある5合目の登山口をわかりやすく言うのならスバルライン口とするが適当だろう。

吉田口ルートは、富士吉田の北口浅間神社から南190度で富士山頂に向かってほぼ一直線で延びているルート。1合目馬返しから5合目佐藤小屋を経て6合目さらに山頂へ続いている。富士講の北口遥拝道である。
スバルラインの終点の5合目から、だれもが1時間もかけてトラバースして吉田口6合目に合流するのはどうしてか。それはバスやクルマの終点がその5合目だから、ということに過ぎない。
では河口湖口ルートというのはどこにあるのだろうか。河口湖船津の浅間神社から富士山に向かって延ばされた登山道があったという。船津口登山道である。河口村からの道ということで河口口登山道とも言われたそう。それが河口湖口ルートということになりそうだ。

今でもそれを辿ることができるだろうか。地形図にははっきりと船津口登山道と明記された車道が引かれていて今は車でらくらくとそれを辿ることができる。林道船津線とも呼ばれるこの道の終点にはクルマ止めがあって、そこから登山道が始まっている。富士山へはそこから歩き出せばよい! 河口湖口ルート、つまり船津口登山道とはどんな道なのだろうか。歩いてみるのがてっとり早いようだ。
美しい細道。古代ルートを求めるのはもうムリ?

倒壊した4合目小屋、昭和天皇もバスでやってきたらし

梅雨前線が上がってくるという予報の日曜日。森の中を歩くだけなら、と出かける。飼い犬太郎もつれていけとうるさいのでいっしょ。
林道船津線の終点は標高1300m、森の中。ゲートがあってそこから林道のような道が登っている。事前調査では、これは古いバス道で、有料道路富士スバルラインができる前は、河口湖駅からバスがこの道を通って小御岳神社のある5合目駐車場まで登山者を運んでいたという。昭和27年開業らしい。
どんなに富士山の裾野が大きく豊かな森に包まれていて、原生の森を堪能できると言われても、バス道を5合目まで辿るというのでは気分が乗らない。
今日のプランは、バス道を2合目あたりまで辿り、そこからバス道ができる以前の旧登山道に入り込み5合目を目ざそうというもの。旧登山道は地形図にも破線が引かれていて、ネット上でも何人かの好事家の探訪記を見ることができた。富士登山ルートとしてはかなりマイナーな道のようだ。たのしみ。

8時スタート。確かにバスも通れたであろう幅と緩い勾配の道が続く。溶岩でできた天然の石畳もある。左手はツガやカエデの混交林。右手は針葉樹の植林帯だ。地図にも大きく記されている有名な剣丸尾溶岩流に沿って道はが伸びているようだ。左手が溶岩流で露頭がはっきりわかる。右手は溶岩流を免れた古い土壌らしい。
道の脇、溶岩流の際に石碑のようなものがあるのでのぞいてみる。近づくとそれは人工物ではなく溶岩樹形だった。仏像の光背のような衝立の前に大きな穴ぼこがあいている。近所にもいくつも大きくて深い穴ぼこが口を開けている。バス道のすぐ脇にあるのだからだれでも気がつかずにはいられない。溶岩樹形は溶岩流の末端とか横端のあまり厚みのないところにできることが多いというから、まさにそれだ。1000年近く前、このあたりは巨木の森だったことがうかがえる。井戸のように深い穴に落ちてしまったらだれも助けてくれそうもない。太郎はあちこちくんくんしている。

富士スバルラインは剣丸尾溶岩流のど真ん中を遠慮もなくまっすぐに伸びているようだが、古いバス道は溶岩流を避け、そのすぐ際に付けられているようだ。そこがいちばんラクに道を作ることができたのだろう。
東京五輪、新幹線開通、スバルラインで消えた旧道(1合目

造林エリアを過ぎると原始林に入る。モミやカエデ、マツ、ブナなど巨木の森が続く。何十年も利用されることのなかった道は今、自然に帰ろうとしている。バス道と侮るなかれ、いまや素晴らしい自然観察歩道に変身しているのだ。
地形図どおりの道なりで進むと巨木の森の中に明るい広場が現れて、小さな祠と背の高い石碑が立っている。石碑には「特別名勝富士山」と大書され、脇には昭和33年建立とある。バスが盛んに登山者を運んでいた時分だろう。昭和39年に富士スバルラインが開通すると同時にこの道は過去の遺物とされたのだ。
何本か造林用の林道と交差しながらゆっくりと高度を上げていく。雲は低いが雨はまだ大丈夫。このあたりから見えるはずの富士山はまったく顔を出さない。クルマの騒音が聞こえてきてすぐスバルラインが現れる。旧バス道の上を有料道路は高架で走っている。歩き始めて2時間近く。パラパラとくるが雨具を着るほどではなさそう。

トンネルの先で二又となる。バス道は右に、スバルラインと併行するように緩い勾配んで上がっていく。直進する急坂が旧登山道。標高1580mのこの分岐から2080m4合目小屋跡まで500m。地形図には破線が引かれているが、情報では藪こぎもある不明瞭な登山道である。
美しい雑木の林の中、不思議な姿のコケが広がる道を進む。仕事道だろうか、いくつか分岐があるがGPSでチェックしながら急に勾配がきつくなった細道を行く。人ひとりが通れるほどになって、カラマツやシャクナゲ、アセビなどが密生し始める。ところどころにある赤布ならぬビニールテープや荷造りヒモが目印だ。

地形図の破線とはずれた踏み跡を進むが、だんだんとあやしくなって小枝をかき分け右往左往。核心は1850mから高差100mほど、ヤブがやっかいだが、上へ上へと突っ切れば、すぐにシラビソとコメツガ、モミの森に入ることができる。針葉樹の森に入ってひと安心。樹間が広く足もとには青ゴケがじゅうたんのように密生する気分のよいところ。

コケに覆われた塹壕のような溝が現われる。溶岩流の作った火山地形に見える。
ところどころ倒木を越えながら塹壕を進むと、溶岩洞穴発見! 残雪が残る深い窪みが2つ3つと出てくる。落ちたら這い上がれないのではないかと思わせる穴ぼこ。太郎が穴を覗き込むのでしっかり手綱を引く。研究者が付けたらしい小さな名札がある。小御岳第3氷穴、小御岳第2氷穴などなど。そんなものがあるとは知らなかったので名札を見てなんだか安心。これも剣丸尾溶岩流の端にできた溶岩洞穴で、知る人ぞ知る名窟のようだ。数箇所ある深い洞穴の中には祠のようなものが置かれているものもあった。火山マニアも訪れるのだろう。トレイルははっきりしたものになった。

急な斜面を直登すると、いきなり林道に出ることができた。林道脇に広場があって崩壊した建物があった。4合目の小屋跡だ。この道は二又で別れた旧バス道の続き、林道ではない。旧登山道を登ってきたので大きくでショートカットできたわけだ。これを辿ればスバルライン終点の5合目に行くことができる。もう道迷いの心配はない。潰れた4合目の山小屋は登山バスが通う以前の旧登山道沿いにあったと想像できそうだ。登山バスが通っている道脇に山小屋があっても立ち寄る人はいないだろうから。
ここで闖入者現る。けたたましい爆音が聞こえてきてモトクロスのバイク数台が勢おいよくバス道を上がってきた。脇によけているとひとりが突然転倒、つぎも転倒。濡れた石畳、急坂の急カーブが大変らしい。バイクを起こすのにも四苦八苦している。無法者に徹するのも大変だ。
奥庭の下部庭園と2251m寄生火山

黒森の中の奥庭-3合目ルート。七太郎尾根へ続く登頂ルーと

しばらくバス道を辿り2150mで道脇から森に入る。観光客で賑わう5合目駐車場を敬遠してスバルラインへまっすぐ急登する。細いトレイルがあってすぐに有料道路に出ることができた。13時前。スバルラインは通り道なのだろう風が急に強くなって雨もやってきた。雨具を羽織る。犬は濡れに強い。雨は気にしていないようだがそろそろおやつタイム。なにかやりたいがわずかな行動食が尽きた。食料はいつも少ないのである。

プランでは往路を戻る予定だったが、先ほど苦戦した旧登山道を下る自信がもてない。登りよりも下りの方がルートファインディングは難しいだろう。以前歩いたことのある奥庭から精進口登山道3合目へ下る道を選ぶことにする。面白くもおかしくもないスバルラインの道脇を、大流し橋、青草流し洞門、白草流し洞門と2kmも歩く。山側、富士山は雲に覆われているし山麓側の展望もない。梅雨なのである。奥庭に下り奥庭山荘でうどんをいただき、底をついた行動食のかわりに安物のクッキーをゲット。太郎はおやつをもらってシッポを振っている。

寄生火山の山腹に附けられた奥庭-3合バス停ルートを下る。奥庭山荘にはこのルートの案内表示は一切ない。観光客が間違えて入り込まないようにしているのだろう。シャクナゲのトンネルがみごとな山道を抜けて、すぐに浅い火口と火口原のあるお庭に出る。2251mの火山が見えてきれいな写真が撮れるところ。コメツガやスギなど原生の黒森をほどよい傾斜で道は下って行く。ところどころに新しい倒木があるが回り道がつけられていて、けっこうな人数が歩いているようだ。暗い森だが原生林は立派で、素晴らしいのはあたり一面を覆う青ゴケ。北八ツのようだ。屋久島あたりまで行かなくてもそんな雰囲気が味わえる富士山腹である。

3合目の旧バス広場1786mに出る。河口湖駅からバスで上がってきた登山者は、さらにここで小型の4輪駆動?バスに乗り換えて5合目に登ったという(地形図ではこのバス道は精進口登山道となっている)。さきほど見た潰れた4合目の小屋前を登っていったのだ。どんなバスだったのか見てみたい。バスが通ったのは、昭和27年のこと。しばらくは3合目までだったがその後無理矢理5合目まで運んだということだ。

この奥庭-3合目バス停のルートは、スバルラインを利用するとラクに歩くことができる。この旧バス広場から3合目バス停まではすぐ。スバルラインに出たら富士急のバスを待てばよい。5合目駐車場からお中道-お庭-奥庭と歩いてから下ってくると充実するだろう。
雨は、ぱらぱら状態がずーっと続いていてどしゃ降りにならないのが幸い。バス広場でひとやすみしてから、だらだらと長いバス道を下り、朝方に分かれた二又に到着。もう4時前。
さらに登ってきたとおりバス道を下り5時過ぎに船津口登山道ゲートに戻る。モトクロスバイクは閉鎖ゲートを突破するのではなく林道の脇から森の中を大回りして侵入していることが轍の跡から見てとれた。
太郎は1日中歩き回ったけれどまだまだ元気。このトレイルは犬の長い散歩やトレイルランナーにも向いているかもしれない。




広告
富士山を知る見るハイキングガイド 伊藤フミヒロ

参考

船津口ルートつまり河口湖ルートは、概ね今日歩いたようなルート取りだったと思われる。標高1500mあたりで東剣側に寄り道しているのがヘンな気がするが、ここはもっとストレートに2合目(正確にどこだか不明)へ繋がる道があったのにちがいない。「特別名勝富士山」の石碑の場所がおそらく1合目だろう。ここが二又になっていたのだが、そこで左の道を選ぶと旧登山道に入ることができたのではないかと想像している(古い地図でそのとおりのトレイルを見つけることができた。馬車軌道があったらしいが今もトレイルがあるかどうかは行ってみないとわからない)。
鎌倉あるいは室町時代からあるというこ船津口ルートだが不思議なのは、吉田口など他の富士登山ルートなら当然あるべき富士講などの宗教的な記念碑が見当たらないこと。所属する講の名前登頂記念などが彫られた石碑や合目の標識などがないのである。唯一というか、4合目の倒壊した山小屋がこの道が登山道であったことの証にはなっている。この小屋が生きていたころのことに興味が湧く。記念碑などがないのは、船津口ルートは富士講登山以前の古代ルートだったからかもしれない。

精進口登山道のことについてほとんど触れていないが、大正時代にできたこの登山道は精進湖の赤池からえんえんと18kmの距離で富士スバルラインの終点5合目に達している。鳴沢村から合流することもできたので鳴沢口とも言われている。歩いてみるとわかるのだが車が通れそうな道幅と様子なのである(物資運搬用の林道も兼ねたという話し)。
地形図に明記されているように、3合目のバス広場から倒壊した4合目小屋を経て5合目に達するルートは精進口登山道だとされている。船津口ルートは4合目小屋でこの道に合流するわけだ。
精進口登山道よりもはるかに古い船津口ルートだが、戦後バス道ができる前はそれほどたくさんの人が歩いていたわけではないようだ。もちろん河口、船津の人が富士山へ登るにはいちばん効率のよいルートだから、結局ローカルな登山道だったと推測するのがよさそうだ。もっとも精進口登山道もその長さ故に山頂を目ざして歩きぬく人は当時から少なかったようだ。

精進口登山道では1合目、2合目、3合目(バス広場)とかつての小屋跡を見ることができる。ということは4合目の小屋は精進口ルートを歩く登山者に向けて間口を開けていたのではないだろうか。河口湖からバスがやってくる前のことである。河口湖からも多からず旅人や仕事人はやってきたかもしれない(バスが通うようになった始めのころの終点は3合目で、5合目までは徒歩だったという話しもある)。

いずれにしても、山裾を行く見事な原生林の中のバス道といい4合目まで続く美しい自然林、そして溶岩洞穴などの興味深い火山地形…、船津口ルートは観察や保養の森歩きとして絶好の姿で今も残されている。訪れる人は歩いた距離に比例するだけの充足を得られるにちがいない。

もうひとつ興味を引く登山道は、下山に利用した奥庭-3合目バス広場ルートである。実はこの道は、地図を見れば想像できることだが富士山頂まで続いている。奥庭荘から今のスバルラインまで上がり、さらに御庭に登る破線がある。御庭には廃業した御庭山荘があり、ここはお中道の途上となっている。御庭から山頂に続く長い立派な尾根は七太郎尾根と言われている。今そこに破線はないが、かつては七太郎尾根登山道があったという。古い地図にはその経路が記載されているのだ。
2426m三角点から森林限界を超えて山頂に続く細い道。今でも残された道形を見ることができる。実際知人が数年前にこの道を辿って登頂に成功している。過去といっても近代のことだが、少なくない登山者が七太郎尾根を通って登頂していたにちがいない。富士山頂に至るマイナールートの1本である。

富士登山道として 七太郎尾根ルートを見ると御庭山荘が5合目、奥庭荘が4合目、今のバス広場に3合の小屋があったということだろう。精進口あるいは鳴沢村からならこの道が山頂への至近ルートとなりそうだ。船津口ルートからでも3合目あたりで合流するのはかんたんだっただろう。バス道ができる以前のことだが、古地図を見るとたしかにそんな山道が実際1本あったようである。

想像だが、富士講登山以前、河口湖(河口、船津)からの古代登頂ルートはこの七太郎尾根を利用していたのかもしれない。歩きにくい剣丸尾溶岩流の上を避けてルート取りを考えると、今の船津口ルートで3合へ、さらに奥庭、御庭、七太郎尾根と歩くのが山頂への至近ルートに見える。古代河口湖ルートの道形は今となってはあとかたもないだろうが、机上のルートとしてはそれが合理的に見えるのだが。

登山道ではないが気になる林道がある。3合バス広場からスバルラインに併行して山登りする御庭林道である。あとから出来たスバルラインが真似したかのようなルート取りになっている。御庭林道は標高差600mを稼いでお中道にある御庭山荘へ通じている。スバルライン5合目の駐車場より50mも高い。ここに登山バスが通っていたという話は知らない。御庭山荘専用のルートに見えるが、一軒の山小屋が独自で開ける道路とは思えない。奥庭荘も恩恵に預かれそうな道なのだがどうなんだろう。戦後、河口湖からのバス道の開通があったからこそ出来たものだろうが、七太郎尾根登山道を意識した道だったのだろうか。

今でもそうだが、そのころも、となりの吉田口ルート、静岡県の富士宮口ルートなどと、登山客の奪い合いが激しかったという。どんな思惑があってのことだろうか。

瑞穂通信から引用以下

昭和初めごろは馬返しと1合目の間に県営の高山植物園があったようだが現在は痕跡すら分からない。また、「馬返スロープ」と呼ばれる初心者用のスキー場があった。「馬返スロープ」はおそらく県営馬返スキー場のことだと思う。「郡内の100年」(写真集)に1枚この写真が載っている。(昭和9年2月28日第1回県下スキー選手権大会)これらの観光施設も第二次世界大戦に向かいガソリンなどのひっ迫によって自動車が運行できなくなり、やがて戦争によって衰退したと思われる。戦後は船津口登山道が開通し、昭和27年河口湖から5合目にバスが運行した。当時の昭和天皇が搭乗し5合目を訪問している。この船津口登山道にもスキー場ができた。富士山麓のスキー場開設は最近のことかと思っていたが、昭和はじめから作っては消えを繰り返していた。この変遷が太平洋戦争と言う特殊事情もさることながら吉田口登山道→船津口登山道→スバルラインと言う道路変遷によるものであったこともなんとなく理解できた。このスバルラインは昭和39年開通。現在スキー場は天神山スキー場が開設されている。
以上瑞穂通信


富士スバルラインを作ったのは山梨県。昭和39年。東京オリンピックの年。静岡県側が、東海道新幹線開通に便乗して富士宮新5合目まで登山者を運び上げた(富士スカイライン昭和45年開通なのでそれ以前のバス道のことか)。それに山梨が必死に対抗して急遽作り上げたのがスバルラインだった、というハナシはよく知られている。

ちなみに小御岳神社のあたりが平になっているのは、そこが古代富士山である小御岳火山のテッペンだったから、というのはよく知られた富士山地学である。あの平らがあればこそ、、、

河口村にある湖だから河口湖と名づけられた

5合目から6合目、この登山道はお中道と重なるので歴史は古い。お中道を利用して駐車場から吉田口6合目に繋げたのは自然だったといえる。小御岳のあたりが具合よく平になっていた(古代富士の山頂である)ので駐車場が作りやすかったはず。バスなどの便がないときには富士山に登るのにここの立ち寄る理由はなかったはず。
とはいえお中道の途上であり1000年の歴史ある小御岳神社だからそこが重要な興味点であったのはまちがいない。
吉田口ルートと離れていたので訪問者は少なかったと以下にある。



小御岳神社
(こみたけじんじゃ)

 山梨県富士山有料道路の終点標高2340メートルの富士山5合目にある神社は、937(承平7)年の創建と伝えられ、往古は太郎坊正真または石尊大権現と呼ばれたが、明治初年神仏分離令の施行に伴い小御岳神社と公称、戦後富士山小御岳神社の社名で届け出、別名富士山大社とも呼ばれ山内第一の大社として全国信者の崇敬を集めている。祭神は大山祗命の長女磐長姫命を主神とし随神として桜大刀自神ほか3神を併祭、末社に日本武尊社ほか2社をもっている。

 造営以来数回修改築されたが、1874(明治7)年11月、東京一心行者の失火により全焼。後山吉講一山講の寄進により再建。以来しばしば増改築、現在は鉄筋コンクリート造りの社殿となっている。

 例大祭は8月17日に富士山型神輿の渡御がある。そのほか開社祭、閉社祭、月次祭および山開祭、山終祭を行う。社宝は郡内領主小山田信有の社地免除朱印状、富士講開祖藤原角行真筆のお身貫(みぬき)のほか多数の古文書、刀剣などだが、圧巻は重さ数百キロに及ぶ神剣など巨大さを競って信者が寄進した奉納品であった。この多くは先の大戦に軍需資材として供出され姿を消したが、最近寄進が相次いでいる。

 同社は吉田口登山道からはずれていたため参拝者は限られていたが、1964(昭和39)年、同有料道路の開通で積雪期を除いて通年数百万人を超える観光客が訪れる。
小御岳神社


山梨日日新聞社 YBS山梨放送
当ウェブサイト上の掲載情報、写真等の無断複写・転載を禁止します。


むらちゃんの「富士山大好き!」
http://blogs.yahoo.co.jp/fujisanski/folder/396189.html

大宮さんの「瑞穂通信」
http://www.fjsan.net/index.htm

ROUTE 5
http://www7b.biglobe.ne.jp/~fujisan60679/huna.html


富士山を知る見るハイキングガイド伊藤フミヒロ