東谷山
2013年3月5日
5日火曜日
member 古川 武田大介 ヒロユキ 伊藤フミヒロ記
天気 山は小雪
東谷山てどこ?と思ったら日白山の手前にあるという。古川さんの企画で日帰り。
貝掛温泉バス停に7時半2台集合。一台を置いて、田代ロープウエー駐車場へ。ときどき青空が除く。気温はマイナス8度くらいで結構寒い。
8時半ころスタート。二居のスキー場を登って尾根に取り付く。急な斜面とところどころバーンになっていて登りにくい。
送電鉄塔から雪庇の尾根を行く。先行スキーヤー2名。傾斜が落ちてブナの森を登る。1553m東谷山頂に12時前。視界は100mくらい。
北西面を滑る。バーンの上に薄雪が載っていたが、だんだんいい感じになる。週末のトラックが残っているようだ。
明るくなって日が差してきた。雪は湿雪系へ。
国道17号をトンネルで越えて貝掛バス停へ。1時半終了。登りはテクニカルで下りは変化のある雪で面白かった。
満天星650円でのんびりして帰京。
11年前の記録を見ると二居から日白山へ3時間で登っている。下りは2時間。
2002年の日白山の記録
日白山から菅平
3/02-03
member hiroyuki omata kisya
二居900ー日白山1200二居1400
日白山は、アプローチは、無く、登り3時間、見晴らしも良さそうで、滑りもほどほ
どオープンが続き、なかなか良いところでした。ただ土曜日は、上に方は、ガスがか
かり、気温も上がらず、雪は、最初から、最後まで、バリバリカリカリモナカの修行
雪でした。ドラゴンドラが、見えました。2時ころには降りてきました。二居のスキ
ー場は、営業をやめてました。
この雪質に、上越をあきらめ、なぜか菅平に移動しました。もう山は、大雪、降らな
いと何処行っても同じ。先週は、オマタ師は、風邪でダウンしていたので、オマタ邸
をたずねることにしました。でも宿は、オマタ師紹介の民宿に泊まりました。民宿と
いっても、りっぱな、創作料理で、ホテルなみでした。おまけに、ただスキーを楽しみました。日曜日は、素晴らしい天気で、新潟方面
以外は、晴天で、根子、吾妻はもちろん、浅間、特に北アが、衝立ての様でした。菅
平の左の方、大松、燕ゲレンデは、初めてでした。今どき異常にスキーヤーの多いゲ
レンデでした。それもみんなレーサー。オマタ邸は、明るく見晴らしも良く、居心地
良さそうでした。
伊藤裕之
3月2日
前夜2時ころ二居のどんつまりに着いた。朝、近所の文明堂のおばさんがせかせかと駐車代を
とりにきた。朝飯を食い900に出発。天気はくもりである。あたたかい。ほかに二人組み
がいて先発している。二居峠からトラバースして巨大鉄塔下へ。さらにやせ尾根から疎林の
尾根を行く。全山アイスバーン状でラッセルはないが、楽しいスキーは望めそうもない。
東谷山からは雪坊主のピークがふたつほど、スリップするとずーっと滑っていきそうなので
おそるおそる上る。1200、もうひとつ雪坊主のピークに達すると標高が1650となっ
た。おそらくここが頂上だろうと決めて通過。北東尾根をゆるりと下る。地形図どおりに右
側に大きな谷が見えはじめた。ひとやすみしてから滑り始める。廊下のような細い尾根を下り
コル。いっきに沢へ滑りくだる。急斜面だがスキーが沈むことはなくあっというまに沢沿いの
台地に降り立ち、あとはオープンスペースをなりゆきで下ると林道にでた。200車にもどる。
談合して菅平方面へと転戦。オマタ師の知友の松栄荘にはいる。手料理いっぱいのよい宿でした。
こんなに込んでる宿は近頃みたことがない。
3月3日
大松、ツバクロスキー場で昼過ぎまで遊ぶ。動画をたくさん撮影しました。オマタ小屋で休憩、
松栄でりんごジュースをおみやげにもらい、オマタ師に昼飯をゴチになって、帰京。
<汽車>
大正7年の記録
(1918)
1月9日
23:20
南魚沼郡 三俣村前ノ平(現湯沢町)
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前の平山頂から烈風とともに表層雪崩が起き、総戸数57戸中全壊33戸(民家26、土蔵4、小学校1、飯場2)半壊2棟。遭難180人中死者158人、生存22人。12日に遺体発掘終了。デブリは約670~150cm位であった。生存者が後に「発電工事のダイナマイトの爆破の振動でおきた」と語った。
2日から暴風雪、積雪20尺で通行途絶。明治24、26年に次ぐ大雪
日本の雪害史
昭和56年
三国街道(みくにかいどう)
中山道の高崎から分かれ、北陸街道の寺泊へ至る街道である。
三国峠は関東と越後を結ぶ交通路としてきわめて古くから利用されており、上杉謙信の関東遠征の際に重用された。 主要街道としての三国街道は、近世(江戸時代)に参勤交代に利用されるようになってから重要視されるようになった。長岡藩、与板藩、村松藩などの諸大名や佐渡奉行、新潟港巡検の関八州取締出役などがこの街道を利用した。また、当時の宿場には、渋川や湯沢をはじめ「三国峠越えの三宿」と称せられた三俣、二居、浅貝などがあった。
しかし、1902年(明治42年)に鉄道(信越本線)が開通してからは、交通面は鉄道に依存し宿場町は衰微していくことになる。長岡から湯沢にかけては道も平坦で農耕地もあったため、ある程度の地方的交通需要があったようだが、三国峠を越える部分の交通量は極めて少ないものであった。
1953年(昭和28年)、自動車の普及とともに長距離の貨物輸送の需要が増大、関東~越後間の自動車交通が信越線沿いに迂回する不便を解消するため、当時県道であった三国街道の国道昇格運動が起こり昇格とともに大規模な改修工事が開始された。
現在三国街道の大部分が国道17号となっており、関越自動車道・上越線・上越新幹線と共に関東~新潟間の大動脈となっている。