Showing posts with label RIP. Show all posts
Showing posts with label RIP. Show all posts

10.05.2024

RIP 高木義一朗、浜久雄 (懐かしい写真)

 諏訪の友人ふたり。去年と今年逝きました


高木義一朗さん 

たまたま長野日報ネットで高木さんが「八つ縄文織り」の本を出したというニュースをみました。テレビ動画もあってインタビューされる高木さんを見ました。老けたな、という感じ。車椅子なので、どうしたのかなと、原田ひろふみさんに聞いたところ、6月におなくなりになった、という。がっくりきました。

高木さんは諏訪清陵高校山岳部の一年上の先輩であちこち山にいきました。力持ちで優しいという金太郎のような方でした。私の印象をひとことで言えば「いい人すぎる」かな。

私は中学は東京だったんですが茅野の実家に帰ると兄につれられて八ヶ岳など登っています。それで山好きになったんです。兄の大学進学と入れ替わりに茅野にもどり、それで高校へ、それで山岳部に入ったわけです。部室に一年上の先輩が数人、そのなかに高木さんがいました。キスリングを背負って春山、夏山、秋山、冬山合宿など行き基本的なことを教わりました。岩登りも二葉の岩場で練習してよく八ヶ岳へいきました。放課後は立石展望台までランニング。

一年生最初の夏山は北アルプス縦走で、針ノ木峠を超えて薬師岳、槍ヶ岳、徳本峠こえ、島々という長いルートです。二年生の高木さんがリーダーでよくしてくれました。覚えているのは、早朝、一年生のテントゆっくり寝かせておいて、高木さんが毎朝ご飯を作ってくれたことです。万事そんな人でした。

甲州街道沿いの老舗「いちき糸店」の3代目、並びには真澄酒造があり、学校までは5分くらい、上諏訪の商家の子だったわけですね。山岳部にはほかにも関さん、金子さん、一世さん、飯田さん、片桐さん、  さん、上諏訪の育ちのよさそうな子がいました。家具やの宮坂さんは20歳ころ八ヶ岳で死にましたね。先輩にはほかに法政山岳部の宮原さん、早稲田全共闘の小松さんがいました。小松さんは夏山合宿にOB参加してくれました。

いちき糸店の手創りのホームページを作って諏訪の山の案内なども載せていて近況がわかり楽しみだったんですが、いつのまにか、消えてしまったようで残念です。90年代のことです。

八つ縄文織りもそのころから研究したのでしょう。忘れられた諏訪の織物を再発掘して復元、改良したらしい。詳しくはわかりませんが、効率のいい織り機も作ったそう。理系の頭でしたからエクセルなども活用して新しい織り方を発明したということかな。もっと行政などとつながって広めたら諏訪の文化水準も上がったのではとおもいます。

それにしても「八つ縄文織り」というネーミング。八つは八ヶ岳のことで山屋の言葉、符牒です。縄文は縄の模様ではなくて縄文時代から続くというようなニュアンスかな。山好きの高木さんらしいです。

2024年10月伊藤文博 語る



長野日報の記事。4月の取材だから亡くなる2ヶ月前、療養中だったよう



八つ縄文織り。インスタのいちき糸店から



インスタのいちき糸店から



信濃毎日新聞から





中央アルプス秋山山行、1964年東京オリンピック開会式の日、空木岳。
探していた写真ですが、数年前、関洋一さん所有のものを高木さんが送ってくれました


右から、高木さん、明孝くん、関くん、伊藤フミヒロ、金子さん

高木さんと一世さん


浜久雄さん

宮川村の秀才でした。理系

 諏訪郡宮川村とかつて言いましたが今は茅野市宮川です。諏訪大社上社を流れる川なので宮川。宮川小中学校でいつも学年トップの秀才でした。大学を出て精工舎に長年つとめ、長男だったんで諏訪にもどりエプソンに入り取締役をしていたようです。数年前奥さんをなくされて気の毒でした。

あとは悠々自適に暮らしていましたね。

ゴルフが好きで得意だったよう。5年ほどまえの同窓会では幹事をつとめ、東京オリンピックのチケットがあたってたのしみだと言っていました。

高校時代は宮川村の仲間の級長的なリーダーだったとおもいます。ほとんどが大学卒後、就職した人も結局諏訪(宮川)に戻りましたので、そこでも発言や振る舞いは影響力があったのではないでしょうか。もともと楽天的で明るい人でした。

高校時代は東大へ行くのかと思っていましたが、名古屋の工業大学に入りました。60年代の田舎ですから進学塾があるわけでもなし受験勉強もてきとうなものだったとおもいます。というのは山ばかり行っていた私の感想で、できる人はそれなりにいて、いい学校、いい仕事を見つけています。久雄さんはほんとうにできる人だったんですね。

70年前半にヨーロッパへ遊びに行っています。多分新婚旅行か、写真を見せてもらいました。フェイスブックをみて最近ピラミッドを見に行ったようで感心しました。好奇心の強い人なのでしょう。

団塊世代は競争世代だったと言われますが、それでも田舎はのんびりしたものでした。東京に出てから遅れてはいけないと頑張った人がいて、実家に帰ればいいやと田舎に戻った人がいた、、のではないでしょうか。このことはまた考えてみましょう。

久雄さんは生まれつきのいい頭をしっかり前に向けて、上手に人生をこなしたように思います。

2024年10月伊藤文博 語る



フェイスブックで知りました

2009年富士登山。左から久雄くん、原田ひろふみくん、敏秀くん。私を含め4人とも60歳

久雄くん旅好きだったよう



付録・おもひでのアルバム 

昔の写真を貼ります。
1960年代はもちろん20世紀末まで写真はフィルムの時代でした。高木さん浜さんのほか、懐かしい人が写っています。




























1.08.2024

Rest in peaceリスト2024

 RIP 思い出の人たち

 おもに団塊世代周辺(敬称略) 伊藤フミヒロ記


伊藤忠男クライマー

川崎博カメラマン

細田充カメラマン

渡辺正和カメラマン

磯貝猛カメラマン

宇佐美栄一カメラマン

黒川晴介クライマー

敷島悦朗オリゾン探検

浜久雄いなか

中村成勝カメラマン?

芦沢一洋

秋野さん

三島悟ヤマケイ

川畑ヤマケイ

藤田ヤマケイ

久保ちゃんヤマケイ

北田啓郎スキー

山崎義和スキー

岡部マダムスキー

池の内クライマー

中山茂樹クライマー

城が崎クライマーほかに二人

なくなっている方をかき出してみました。上でも名前を思い出せない人もいます。縁のうすかった方もいます。ほかに、わたしが知らないだけでもうとっくに亡くなっている人もいるでしょう。著者と編集者の場合はともだちにはなりにくい。リストは今後増えることはあっても減ることはありませぬ。諸行無常。伊藤フミヒロ記 

2024年更新



追加 

岡野さんパラグライダー

水野校長パラグライダー

磯野剛太さん 山

田代博 山岳展望家

広島三朗 登山家  

高木義一朗 山

中尾雄吉 漫画

久保田鉄 イラスト

高橋龍太郎カメ

8.12.2022

甲斐犬太郎RIP

長生き太郎、眠るようにいった。甲斐犬すごい
太郎 2017年富士山村山古道 

●2022年8月11日 甲斐犬太郎どこかへワープ 

 朝6時前に太郎を庭先にねかせてブラシをかけた。カラダが伸び切っていて意識なし。タバコを吸ってながめていたら、このところ続いていたピクピク(痙攣)がはたと止まって、しばらくすると呼吸がなくなったようだった。

昨日あたりからぐったりしてて、寝ているというよりもほとんど意識がなかった。痛くも苦しくもなさそうだったが、いよいよ今日明日の命だなと思っていたので驚くことはなかった。 

軽くなったカラダを業者に渡したら昼には骨になって帰ってきた。庭の隅にかけらでもうめておこうかと思う。
17年近くいい相棒だったな、太郎。 

 甲斐犬の太郎、2005年9月22日相模原愛川の甲斐犬舎の生まれ。三つ子の兄弟。
友人高城さんがそのうち一匹をひきとり陸と名付けた。もう一匹いるよ、と紹介されてもらってきたのが太郎。3ヶ月の子犬だった。柴犬クロが14歳でなくなったあとだったのでちょうどいいかな、というなりゆきだった。 

 柴犬よりもひとまわり大きく犬種もわりあいレアなのでどうかなという気分もあったのだけれど杞憂でした。 陸と太郎は双生児のように顔かたちがそっくり、なのが笑えた。

 太郎とは山へよく登った。雪山や山スキーにも行った。残雪の富士山頂にも2回登っている。日本百名山には15山くらい登っているはず。いい山の連れだった。パラグライダーの日はけっこう人気ものだったかな。山中湖の山小屋あたりではわがもの顔に歩きまわっていたな。

あれほど野山を駆けずり回ったのに怪我もなく事故もなかったのは幸運児だったんだろう。
2012年朝霧高原中島牧場
●太郎の老衰の経過。 

 この数ヶ月犬が老衰するのをじっくり観察できた。15kgの体重が最後は10kgまでになっていたと思う。 
兄弟の陸は去年の今頃ワープした。15歳、16歳まで元気に生きられるのだから甲斐犬は優秀な犬種だと思います。 

犬の一生は人間の5倍か6倍のスピードで終わるらしい。人は太郎の数倍の時間をかけておなじように老衰していくのかな、とじっくり勉強できた思いです。 

いやはや、これからは犬のいない人生か、というのがいまの思うところかな。
2021年10月清里高原で 。年とった
経過 

2022年3月ころ 太郎16歳半 後ろ足が衰えて歩くのが遅くなり坂道など大変そうになった。朝晩の散歩コースを2kmから1kmほどに短くする。 

6月ころ 太郎16歳9ヶ月 よろよろするのが目立つので散歩コースをさらに短縮。そのうち家の前をいったりきたりがせいいっぱいになる。 

7 月下旬になると 食欲が落ち、歩行困難。そのうち寝たきりになる。たまに発作けいれんあり。くすり。 

8月。一週間前には、寝たきり。食事取れない。ほとんどすやすや寝ている。たまに発作痙攣あり。くすり。 

4日前からはスポイトで砂糖水を補給。
1日前 ほとんど意識不明。水もごくんできない。 

8月11日朝 呼吸止まる。
心臓がとくに強かったのか、わずかな砂糖水だけで4〜5日延命したような気がする。 

RIP.

 ●いくつもある太郎のyoutube動画
 お気に入り2本 2歳のころ山小屋で、もうひとつ6歳ころ霧ヶ峰





●太郎春秋  
太郎の若い時のブログ1 2005〜2012

  若い時のブログ2 20012〜2015






●furoku

・太郎が登った百名山 全部日帰り

富士山頂 6月に2回
八ヶ岳赤岳ほか
霧ヶ峰何度かいった
空木岳
丹沢 ヒルケ岳大山ほかあちこち
金峰山帰りまっくら
雲取山三条の湯経由帰りまっくら
甲武信岳?調査中
大菩薩峠
皇海山
浅間山(黒斑山)小浅間も
那須三本槍
東吾妻山鎌池
赤城山地蔵岳
天城山 万三郎周回

●太郎の晩年のトリップの記録
 クルマにのって出かけるのが好き 

2019年
11月 小浅間山から草津 元気
 鐘ヶ嶽(丹沢)後ろ足異変
 松茸山(丹沢)元気
 (スキートリップなど略)
2020年
 (スキートリップなど略)
3月 梅の木尾根(丹沢)元気
  烏場山・鴨川(房総)元気
4月 ミツバ岳(丹沢)元気
  黍殻山(丹沢)元気
6月 三つ石真鶴(湯河原)夏バテ
8月 鉄砲の木頭山・箱根 夏バテ
9月 富士山須山登山道 元気
10月 赤城地蔵岳・谷川岳  まずまず
12月 荒崎・観音崎(三浦)散歩

2021年
1月 ふじてんスキー 散歩
3月 ふじてんスキー 散歩
6月 箱根外輪山 観光
5月 那須中大倉尾根・足尾銅山 散歩
   弘法山(丹沢)箱根 まずまず
8月 神津牧場・白樺湖 散歩
10月 清里・軽井沢・長瀞 散歩

2022年 
2月 御宿・九十九里(房総)散歩 最後のお出かけ
8月 ワープ

6.01.2022

北田さんの海外スキー旅

●北田さん追悼2 伊藤文博

Tajニュース(日本テレマークスキー協会報)の依頼で以下書きました。2022年3月。公開6月1日。北田さんのビジネストリップ以外の私の知るかぎりの海外スキー旅です。テレマーク時代の旅にはどれも一緒に行きました。以下本文。

北田さんの海外スキー旅

盛岡生まれを誇りにしていた北田さんですが育ったのは浦和です。山へは兄紘一さんと中学生から、スキーは18歳からといいますからやや遅咲きかもしれません。

その後、北田兄弟のモーレツな雪山修行があったようです。国内の雪山を総なめ?にしたかのような北田さんですが、ここでは海外の山行のこと。


1979年に高田光政氏らとアルプスオートルート(スイス側)、82年にはフランスルートを走破しています。間の80年には、なんとマッキンリーを滑っています。成蹊大チーム(磯野剛太隊長)でメンバー全員登頂、そして全員滑降という輝いている記録です。このころイケイケの北田さんですがカリブークラブを結成したのもこの時期。北田さんらしく、やたらに緩いしばりの集まりです。以上はアルペンスキー(山スキー)での記録です。


82年に突然テレマークに開眼します。以降アルペンスキーにもどることはありませんでした。しばらくTAJの活動で忙しかったのですが、90年代からは本場アメリカでのテレマーク修行にでかけます。


92年4月ユタ州ワサッチ山脈。93〜95年、3年連続でコロラドロッキーの探索、テンスマウンテンルート完走。

97年4月にはカリフォルニア州のシエラネバダ山脈へ。翌年にそなえてソリとテント泊のツアーでした。

98年4月、念願のシエラハイルート完走。日本人初記録。

2000年3月ワイオミング州グランドティトンツアー。


以上、すべてメンバーはカリブークラブとその仲間、全員テレマークで参加しています。企画はすべて北田さん。よい頭脳があってこその成果といえるでしょう。

とくに98年のツアーは避難小屋もエスケープルートもないシエラの高山を5日間で抜けるというスピード山行でした。

99年の「rock & snow」春号のレポートで北田さんはこう結んでいます。

「シエラハイルート。シエラバックカントリーの最終目標といわれるコースを、天候に恵まれ、僕たちはまんまと成功した!」

テレマークの貴公子、北田さんの品のいい笑顔がうかんでくるようです。

伊藤文博

追加1

スキーや山を大いに語った北田さんですがそれ以外のことについては静かな人でした。あまりよそから見えない好き嫌いがあって、食事やクルマ、そしてふだんの振る舞い、すべてにこだわりのある人のようでした。どれもが上品志向です。読書家であったことは彼の文章をみれば自明ですね。静かなインテリ。そんなあんなが人をひきつけたのでしょう。


追加2

あるとき山でサングラスをいただきました。スミスの替えレンズ付きのもので今も愛用しています。「マトリックス」ぽいデザインで「オレには似合わないから」と言っていましたが、人にやたらモノをあげていたら成り立たない商売をしていたはずなので感謝しております。ありがとう北田さん!

伊藤文博

Tajニュース2022年春号掲載。追加分は編集からの求めで補いました。

https://www.ski-taj.org/news/data/TAJnews2022.pdf

ニュース2022年春号は以下でみられます。

日本テレマークスキー協会

https://www.ski-taj.org/



 

2.28.2022

北田啓郎大兄 RIP


●北田さん追悼1 山と溪谷誌からの依頼で以下書きました。伊藤文博 2022年2月

貴公子のテレマーク

北田さんがスキーツアー中に倒れて亡くなったのは1月25日。尾瀬戸倉から大行山へ登る途中でした。原因は内因的(心臓発作)なものだったそうです。
同行した二人(カラファテ社の中根さん、荒山さん)によると、
13時ころ、少し後ろを歩いていた北田さんが見えないので戻ってみると雪の上に倒れていた。意識がなく呼吸もないようだった。心肺蘇生しながらヘリコプターを呼び、14時30分には病院へ搬送されいったが、その後、回復することはなかった、とのことです。山中の突然死でした。

北田さんは1949年盛岡の生まれ、育ったのは埼玉県の浦和です。兄の紘一さんの山好きにひかれて中学生のころからふるさと岩手の山に登りました。スキーで雪山にもよくいったと言います。

学習院大仏文科を出て登山用品の業界に入ります。
山熱が高じてカリブークラブ(山スキーチーム)を仲間と結成、内外の雪山にでかけます。80年のマッキンレー山頂からの滑降は一大イベントでした、ヨーロッパアルプスのハイルートへは何度かでかけています。

本人いわく「テレマークスキーに開眼したのは82年、転機でした」。84年に有志と日本テレマークスキー協会を設立して普及に努めます。その後の人気イベント「てれまくり」も北田さんが始めたものです。
90年代はテレマークの修行にコロラドロッキー山脈に4年連続でかけました。コロラドのあとカリフォルニアのシエラネバダ山脈へ2シーズン行っています。98年の仲間とのハイシェラルート完走は北田さん自作自演ツアーの傑作といえるでしょう。マッキンレー滑降とこのハイシェラのツアーは日本人の記録として誇れるものです。

ほかに、北田さんはたくさんのスキーツアーの本を書いています。スキービデオの出演も多いので動画を見られた方も多いでしょう。
もうひとつ北田さんがやった仕事があります。89年日本初の「テレマークとクライミング用品の店・カラファテ」を創業したことです。今もつづく都内目白にあるお店はよく知られています。

いつもにこやかでやさしい北田さんですが、仲間との山行では違う表情もあります。
雪の山については独自の美意識があり、登る山、ルート、滑るラインなどこだわりの多い人だった印象があります。「北田スタイル」があり、山に関してはシリアスだったと言えます。
北田さんのあのきれいで上品な滑り、まさに「貴公子のテレマーク」がもう見られないと思うとほんとうに残念です。

伊藤文博 パウダーガイド社代表、元ヤマケイ誌編集長


 山と溪谷2022年3月号 


●松倉さん撮影編集ビデオ 

北田さんをしのぶ

https://youtu.be/Q9We51RZu_8

<iframe width="560" height="315" src="https://www.youtube.com/embed/Q9We51RZu_8" title="YouTube video player" frameborder="0" allow="accelerometer; autoplay; clipboard-write; encrypted-media; gyroscope; picture-in-picture" allowfullscreen></iframe>


北アルプス立山11月 撮影川崎博


●THE SIERRA HIGH ROUTE

シエラハイルート走破行

北田啓郎

 

 
シェラでの北田さん 写真は真壁さん


北田啓郎 文
 
期間:1998/4/25-4/30
パーティ:ベンジャミン バーディ、マット バーディ、糸尾希沙、真壁章一
          伊藤裕之、渡辺賢二、溝部克実、北田啓郎

日本に記録的な少雪をもたらしたエルニーニョは、カリフォルニアでは季節はずれの
大雪を降らせていた。4月半ばを過ぎてから、ハイルートもかなりの雪が積もったと
の連絡が入り、雪崩や、重いシエラセメントのラッセルなど、前途は多難そうだ。日
本チームはサンフランシスコでいつものようにフォードの15人乗りフルサイズバンを
借り、ヨセミテ経由でフレズノに向かう。本当はタホスキー場あたりで足慣らしをし
てからフレズノに向かう予定だったが、あわただしすぎるスケジュールなので、まず
はヨセミテ観光でお茶を濁すこととなった。ヨセミテは予想外に天気が悪く、気温も
低い。ヨセミテフォールの下にはまだ多量の雪が残っていた。

ハイルート走破の第一関門は、いかに入山下山の足を確保するかである。僕たちのと
った方法はいくつかある中で最も贅沢な方法だ。
まず2台の車で下山口のウルバートンまで行き、バンをデポしてくる。次にフレズノ
から軽飛行機で東へシエラを飛び越える。最後に入山口までは現地のバンサービスで
運んでもらう、というわけだ。飛行機代は1機$800、1人頭にして$180、日本の新
幹線や高速料金と比べ高い気はしない。
飛行機は双発のパイパー機2台。主翼のエンジンルームにスキーとストックがすっぽ
り入るのがとても便利だ。飛行機オタクのニシが珍しい小型機を見つけて興奮しなが
らシャッターを切りまくる。空港は宿にしたホリデイイン・フレズノエアーポートの
すぐ脇にあり、移動には理想的だ。

前夜は酔っ払いながら各自パッキングに努力する。徹底軽量化を自負する糸尾記者の
ザックが意外にも重いことがわかると、土壇場で酒を減らしたりしている。最も若手
のナベちゃんのザックが最も小さく、溝部氏から一言があったり、今回は皆いつにな
く重さにナーバスである。真壁氏、ベンさんは体力に自信があるのか、結構でかいザ
ックである。
シアトルから夜遅くにマットさんが到着。仕事が忙しそうで、ホテルに来てからどた
ばたと装備を点検している。マットの荷物は一番でかく、その中にはこれからお世話
になる貴重な装備がぎっしり詰まっていたのだが。

4月25日、出発の日、6:30起床。ホテルの甘すぎるドーナツとコーヒーで朝食を済ま
せ、ベンさんの車で3回に分けて荷物を運ぶ。パイロットは日本にも来たことがある
という退役軍人だ。
9:30、いよいよフライトである。飛行高度は4、5千メートルくらいか、登山者がいれ
ば見えるくらいにまじかに稜線を越えてゆく。先行した機とは少しルートが違うのか
、機体は見えない。僕の機はいちどエアーポケットに入り、シートベルトをしていた
にもかかわらずおもいきり天井に頭を打付けてしまった。
着陸地は、昨年も通ったインディペンデンス。シエラクレストを越えると、機体はお
おきく北に旋回し、はるか下方に箱庭のように見える滑走路をめがけて、高度を下げ
ていく。シエラ山脈の東と西では、景色がまったく違う。こちら側は、乾燥しきった
砂漠地帯、インディペンデンスはその中のオアシスである。
待ち構えていたバンサービスのトラックに荷物を移し、すぐに出発。すぐに埃もうも
うの砂漠の中の、ジープ路らしきを進む。
入山口はシムスクリークだが、地図で確認するとかなり山の近くまで入ってくれたよ
うだ。辺りはガラガラヘビでも出てきそうな砂漠で、トラックが2台デポしてある。
ここで最初のトラブル発生。真壁さんのストックがないのだ。共同で荷物の積み下ろ
しを繰り返したから、車か飛行機かに置き忘れたに違いない。車は行ってしまったの
でもはや戻る方法はない。ストックがなければ歩けない、真壁さんの頭の中は真っ白
になったに違いない。

しかし、神は真壁さんを見放さなかった。マットさんが出発前に悩んだ末、予備のス
トックを持ってきていたのだ。
                            ***
ひとずつ準備が出来たものから歩き出す。山の上は雲がかかっているが、頭上は砂
漠の青空である。サボテンなどを踏みながら雪のない山路を歩く。徹底軽量化をはか
ったザックだが、一週間分の食料とスキーまで担ぐと、25キロぐらいあるかもしれな
い。クリークを離れ急傾斜をジグザグに登ると、やがて雪が現れ、スキーをはく。27
30mのシムスサドルにでると、目の前にMt.ウィリアムソン(4313m)が聳え立つ
。確かアメリカ本土で第2の高峰である。その右肩はるかに、明日越えるはずの第一
の難関、シェファードパスが望まれる。ここから幕営予定地のマホガニーフラットま
では予想外に長く、一度シェファードクリークに向かってかなり高度を下げ、再び登
りかえさねばならなかった。
                             ***
2日目は、シエラクレストと呼ばれる主稜線を越える難行が待っている。シェファー
ドパス、3600mである。
アンビルキャンプ手前の急斜面でロープを使用する。岩の迷路となっているモレーン
帯を苦労して抜けると、パスに続く急斜面が立ちはだかる。といっても最大傾斜40度
くらいだろうか、アイゼンピッケルを使用すれば難しいわけではない。しかし荷物の
重さと高度になれていない身には結構つらい。コンディションの良い者といまいちの
者の差は大きく出る。
真壁さんが最初から絶好調である。他を寄せ付けない速さで登ってゆく。糸尾記者は
半分ぐらいまでシール登高しきわどいバランスでアイゼンに履き替えている。マット
、ベン、ナベ、北田、ヒロあたりはまあまあの調子だが、溝部氏とニシが大きく遅れ
ている。溝部氏の昨年のあの馬力は何処へ行ったのだろう。ニシはまあこんなものだ
ろう。
登りきると広大な雪の砂漠のような地形が現れた。カーンリバーまでほぼ平坦か少し
下り。シールを剥がし、一人遅れているニシの姿を、はるか後方に確認しながらキッ
クアンドグライドで快調に先を目指す。少しでも下り傾斜だとスキーはほんとに楽だ
日が西に傾くなか、クラストがはじまった斜面をひとくだりすると、池のほとりに平
らな第2日目のキャンプサイトが見つかった。雪を掘り氷を割ると、うまい具合に水
が現れた。いつものように小型水浄化器で汲み上げる作業をする。まわりは樹林帯で
、日本でいえば黒部の源流でキャンプしている感じだろうか。陽が落ちるとあたりは
急速に冷え込んでくる。そんな中ベンとマットは最後まで外で夕食をとる。温度感覚
はアメリカ人と日本人ではかなり差があるようだ。
                            ***
三日目は第2の難関マイルストーンのコル(3900m)を越え、トリプルディバイドピー
ク下までの予定で出発する。ここからがハイルートの核心部である。シエラクレスト
の西、シエラのど真ん中にはしるグレートウェスタンディバイドをたどるからだ。1
、 2日前に通過したらしいシュプールがあり、気楽な気分で出発したが、地図をよく
見なかったのが災いし、かなり進んでから、一本南の谷に入り込んでいることがわか
った。周囲の景色は素晴らしく、このまま進んでも方向的にはよいのだが、たぶん最
後のつめが急で苦労するだろう。マイルストーンクリークとこの谷を隔てている尾根
の弱点を探し、そこを越え、正規ルートに出れないか偵察をする。尾根上に出ると、
反対側はかなり急ながけになっていた。アメリカの地図は、等高線のみで、日本のよ
うに岩記号がないので、行ってみないとスキーが使えるかどうかわからないのだ。

結局、マット隊は尾根を忠実に数百メートル下り、結構な急斜面をスキーで下降し、
トラバース気味にマイルストーンクリークの上部へ出るルートをとる。北田と記者、
ニシの3名は、尾根の手前のよい斜面をスキーでどんどん下り岩場のきれたところか
らマイルストーンクリークに回り込んだ。登り返しがけっこう長かった。正規のルー
トに出た時は、かなり時間が経っていた。今日中にマイルストーンのコルを越えたか
ったが、何か緊張の尾が切れた感じで、コルのかなり手前の池のわきで3日目のキャ
ンプとなった。
雲一つない晴天が続き、風もない心地よい春の午後、周囲の景色も申し分ない。休養
のタイミングとしては良い決定だろう。惰眠をむさぼる者、装備やふやけた足の虫干
しをする者、お茶にする者、さまざまだ。元気が余っている若手のナベとベンがスキ
ーを始めた。荷物がないと気持ちよさそうだ。ナベが目の前の岩に挟まれた少クリフ
に挑戦しようとしたが、土壇場でチキン状態になってしまった。MSRストーブの通を
自任するニシのXGKがこの日不調になった。あれこれいじっても直らない。お湯も作
れないで困っていると、マットがそのでかいザックの中から、なんとスペアのコンロ
を出してきた。マットは寡黙な男だが、実に頼りになる。
                             ***

4日目。今日こそ核心のグレートウェスタンディバイドをぬけ、ハイルートの後半部
に入ろうと、勇んで出発する。東面に向くマイルストーンクリークは早くから陽が差
し、アンダー1枚で歩いても寒くない。ナべがオーバーパンツを脱ぎ、パンツスケス
ケのアンダータイツ姿で歩き、顰蹙を買っている。

コル手前までに2ピッチ、傾斜がきつくなる手前でアイゼんにはきかえ、急な雪面を
トラバースする。コル自体は狭い岩尾根で、反対側はマイルストーンボウル。出だし
は40度くらいの急傾斜である。
ザックが重いので、とても華麗なテレマークターというわけにはいかない。慎重にデ
ブリを避けトラバースし、途中から気持ちよくターンをきめる。あまり下りすぎない
ようにし、トラバースに入る。稜線の下の急なカールの側壁をひたすら斜滑降する。
その先コルビーリッジを越える場所を探し、再び迷ってしまう。比較的上部の急な雪
面をアイゼン登高するか、岩場を下方まで回り込みスキーで越えられそうな弱点を探
すか、意見が分かれた。結局かなり下までスキーで下る案を試みたが、回り込んだ先
が岩壁で越えられそうにないことがわかり、昨日に続きまたまたシールで谷を登り直
す。リッジを越えられず、この日も核心手前で時間切れとなり、3300m地点でキャン
プにする。ハイルート手強し、といった感じだが、天気がよいので、悲観した意見は
出ない。明日こそ、である。
この辺りは熊の新しい足跡がたくさんあり、食料はまとめて木の上に吊るした。
                                ***

5日目。東に面した谷なので、早くから陽が差し、尾根の上部も輝いている。コルビ
ーリッジの乗っ越しは見た目ほど悪くなかった。 尾根上の出たところは約3650mの
地点。広い尾根で、ここからスキーが使えそうだ。スキーを付ける。少し下ってから
、再びえんえんとカールの側壁をトラバースである。はるかかなたに見えたトリプル
ディバイドピークがどんどん近づく。山容とそのこなし方にようやく慣れてきたせい
か、今日は行動が順調だ。 

トリプルディバイドパスまではシールで達する。反対側は岩交じりの急斜面。偵察の
結果スキーで滑降可能と判断し、岩の間で慎重にスキーを履き、思い切ってジャンプ
ターンで1回転する。雪は硬いが、エッジは効き、2,3回転するうちに傾斜も落ち
てくる。すぐ下がグレイシャーレーク。ようやくグレートウェスタンディバイドの山
場を越したので、ここで行動食を食べながら今日の行動予定を話し合う。予定より1
日遅れているのと、天候が崩れた時のこの先の行動を考えへ、今日は頑張ってロンリ
ーレイクまで足を伸ばすことに決定する。
ライオンレイクのコル下へ降りるのは、アメリカチームは岩場の下の急斜面をスキー
で回り込み、日本チームは岩場の上から岩交じりの急斜面をアイゼンで下った。ニシ
が不安定な雪を踏み外し、危うく谷へ転落しそうになり、一同肝を冷やす場面があっ
た。  
行く手にはクラウドキャニオン上部のとてつもなくでかいカールが広がっている。1:
30、巨大な二つのカールをトラバースしなければ、今日のキャンプ地はない。クラウ
ドキャニオンはシールでひたすら歩き、カッパーマインパスはアイゼンで登る。デッ
ドマンキャニオン側は急だがスキーで下れそうだ。トラバース気味にひとりひとりス
キーを滑らせて行くが、最後のほうは上層の雪が落とされて固いクラスト面が露出し
、谷底へ落とされそうなトラバースであった。

デッドマンキャニオンは半分までシールなしで滑れたので時間が稼げた。特徴あるフ
ィンパスをスキーのままで乗り越すと、今度は先ほどまでと逆の方角に開いたカール
に出る。その真ん中がロンリーレイクだろう。もちろん今は雪の下だ。
低い樹木が出てき、山場は越えたことを実感する。トラバースばかりでうんざりして
いたが、ここはキャンプサイトまでいっきに滑れそうである。一人二人とスキーを下
に向け、思い思いのシュプールを描く。雪質は柔らかめのコーン。最高の気分だ。17
時、陽はまだ十分に標高3200mのキャンプサイトを照らし、風もなく、空には長閑な
お天気雲が並んでいる。
これで5日を無事消化、残るは2日だ。ぼちぼち余りそうな食糧を整理するものも出て
、気分は一路下界とビールへ飛んでいる。前半やや不調だったニシと溝部氏は調子を
戻し、代わって伊藤記者が胃炎で調子をおとしている。絶好調は真壁氏とマット、そ
の他はまあまあの調子だ。
マットがしぶとく水の湧き出ているところを発見したので、炊事はぐんと楽になった
。大きな岩の下を、耳を澄ませると確かにちょろちょろ水の流れる音がする。浄水器
の管を隙間に落とし、ポンピングするとおいしそうな水がボトルに溜まっていく。ポ
ンピングをボトル3本もやるとさすがに腕がパンプしてくる。ニシと二人で鼻水凍ら
せながら、皆のボトルに水を溜めるのに30分以上かかってしまった。それにしても、
春のシエラでは小型浄水機は必携品だ。僕の使用しているなはスイートウォーター・
ガーディアンというモデル。コロラド製だ。ポンプがテコの利用で使いやすい。
                           ***
6日目。今日の予定はペアーレイクハット周辺まで。基本的に下りだから気分はるん
るんだ。いよいよ高山地帯を離れる日だ。さびしくもあり、うれしくもある。
下り気味のトラバースからテーブルランズに登るが、谷を隔てた南側は、グレートウ
ェスタンディバイドの高峰が重なるように連なり、眺望は並外れたものだ。
ペアーレイクハットへ導かれる谷に入るまで、かなり複雑な地形のためルートを探す
のに苦労したが、ルートがはっきりすれば、後は速い。マットを先頭に緑が増えてき
た広い谷をぐんぐん滑り下る。
雪の腐った急斜面に思い思いのシュプールを描くと、小屋である。ペアーレイクハッ
トはレインジャーの小屋で、一般の宿泊はない。周りをアルプス風の岩峰に囲まれた
瀟洒な山小屋だ。
小屋を過ぎると樹林帯だ。最終キャンプの場所はこの辺に予定していたが、皆の足は
下へ向いたまま。このまま後数時間下れば、ハイルートの旅は完成するのだと考える
と、ここで泊るという主張にほとんど説得力はなかった。
 雪の腐った樹林帯をわれわれはひたすら下りつづける。苔むしたセコイアの樹林は
 結構長かったが、結果、2日分を1日で滑り降りてしまう。
16:35、一人の落伍者もなく9名はウルバートンの駐車場に残した懐かしいフォードの
前に滑り込んだ。
シエラハイルート、シエラバックカントリーツアーの最終目標と言われるコースに、
好天に恵まれ、僕たちはまんまと成功した。(北田啓郎、1999/1/11)

上、Rock & Snow誌掲載記事より
 
ハイシェラほかのレポート
 http://www.pguide.jp/chronicle2/hisierra.html


●コロラドのスキーについて

コロラドのテレマーカー

北田啓郎 文
PHOTO BY K-ITO
 
 
心地よい春風に、スプルースやパイン、ファーなどの針葉樹の木々の香りがまじっている。見
上げる空は、いつも変わらぬコバルトブルー。ここはコロラドロッキー。標高 四000メート
ル以上のピークがいくつも連なる巨大な山塊だ。

 春になると、この空気、この匂い、そしてこの空の色にさそわれて、アメリカの東や西から
ここにやってくるスキーヤーは多い。北米大陸を貫くロッキー山脈のなかでも緯度の低いこの
あたりは、比較的、気候温暖、地形もマイルドで、山のスキーを楽しむにはもってこい。

 いくつものトレイルがあって、基地となる山小屋も充実している。そして特筆すべきは、彼
らが使っているスキーがすべて、テレマークスキーだということ。伝統と環境がしからしむと
ころとはいえ、これほど、徹底しているのも面白い。

 テレマークが自分の足のようになっている地元っ子にまじって、長い休暇を楽しむ都会人も
目立つ。なかにはすっかりこの辺りに魅せられて住み着いてしまったテレマーカーも多いよう
だ。

 年に一度のコロラドへのスキーの旅を何度か続けているうちに友達になってしまったテレマ
ーカーも一人や二人ではないが、ここ数年、いつも僕らの旅につきあってくれる二人の移住組
のテレマーカーのことを話したい。
 ドンとローラがその二人だ。

 ドン・シュタフチェク、四十六歳。ミズーリ州生まれ。山に憧れスキーをやりたくてコロラ
ドへやってきた。八○年代の初め、テレマークスキーがアメリカで盛り上がったその時期に、
テレマークの洗礼をうけた。アルペンスキーが大好き立った彼だが、コロラドのバックカント
リーを自由自在に歩き滑りまくるには、テレマークこそ、自分にぴたったりのスキーだ、と思
ったのだ。テレマークは、軽い、速い、そして足になじんだ革靴の心地よさがとてもよい。

 ドンの滑りは凄い。軽登山靴ほどの浅いブーツをはいて、八十リットルの大型パックを背負
ったまま、深雪に細い美しいシュプールを返いてゆく。彼は現在、アスペンとベイルを結ぶテ
ンスマウンテン・ハット・トゥ・ハットツアーを中心に活動するパラゴンガイド社の一員であ
る。 
 ローラ・グリーンは、ドンについてアシスタントガイドをしているもの静かな女性だ。彼女
もまた、山とスキーが大好きで、コロラドに移り住んでしまったひとり。ふだんは、コロラド
でもっとも標高の高いラブランドパススキー場でパトロールの仕事をしている。このスキー場
では、彼女だけがテレマークでパトロールすることが許されているのだ。

 この二人と僕らを巡り会わせてくれたベン・バーディのことも話したい。ベンは以前日本で
仕事をしていた。奥さんは日本人だ。ニューヨーク生まれの彼は、学生時代、ユタのスキー場
で働き、そこでテレマークスキーをマスターした。彼の滑りには、腰掛けるような独特なユタ
スタイルが残っている。ベンもいつか、夏はカヤック、冬はテレマークのガイドを仕事とした
いと考えている。

 ドンもベンも陽気だ。行動中はいつもなにかしら喋りつづけ、ジョークを連発し合っている
。黙々と登る、ということは、コロラドスタイルにはないのである。四月だというのに、北面
にはパフパフのパウダー。何度もアスペンの林を登り、何度もパインの森をスラロームする。
夕暮れになるまでけして引き上げるると言わないのも、コロラドのパウダーフリークのルール
だということを知った。

 テレマークスキーはコロラドの大自然と、そのなかで遊ぶパウダーフリークたちが育てた、
もっとも痛快な雪山の遊び道具といえるだろう。近くて安くなったアメリカへの旅路、仲間と
春の山スキーを楽しみにコロラドへでかけるというプランも今や難しいことではない。

上  powder guide 誌の掲載記事より

● 以下、北田さんが登場するスキーのレポートいくつか

ハイシェラ完走 伊藤文博のレポ

ハイシエラ完走前年のレポート

タイオガパスのレポート

アスペンからジャクソンへ

国内 大戸沢岳のレポート

 北田さんが好きだった会津駒のレポート

北田さんの最後の山、大行山の2月

●パソコンのアルバムから

大戸沢岳5月

立山11月

会津駒5月

ニセコのハイクローツで

余市岳

会津駒でのスキー動画 1




会津駒ヶ岳での動画 2


●北田さん追悼2 伊藤文博

Tajニュース(日本テレマークスキー協会報)の依頼で以下書きました。2022年3月。公開6月1日。北田さんのビジネストリップ以外の私の知るかぎりの海外スキー旅です。テレマーク時代の旅にはどれも一緒に行きました。以下本文。

北田さんの海外スキー旅

盛岡生まれを誇りにしていた北田さんですが育ったのは浦和です。山へは兄紘一さんと中学生から、スキーは18歳からといいますからやや遅咲きかもしれません。

その後、北田兄弟のモーレツな雪山修行があったようです。国内の雪山を総なめ?にしたかのような北田さんですが、ここでは海外の山行のこと。


1979年に高田光政氏らとアルプスオートルート(スイス側)、82年にはフランスルートを走破しています。間の80年には、なんとマッキンリーを滑っています。成蹊大チーム(磯野剛太隊長)でメンバー全員登頂、そして全員滑降という輝いている記録です。このころイケイケの北田さんですがカリブークラブを結成したのもこの時期。北田さんらしく、やたらに緩いしばりの集まりです。以上はアルペンスキー(山スキー)での記録です。


82年に突然テレマークに開眼します。以降アルペンスキーにもどることはありませんでした。しばらくTAJの活動で忙しかったのですが、90年代からは本場アメリカでのテレマーク修行にでかけます。


92年4月ユタ州ワサッチ山脈。93〜95年、3年連続でコロラドロッキーの探索、テンスマウンテンルート完走。

97年4月にはカリフォルニア州のシエラネバダ山脈へ。翌年にそなえてソリとテント泊のツアーでした。

98年4月、念願のシエラハイルート完走。日本人初記録。

2000年3月ワイオミング州グランドティトンツアー。


以上、すべてメンバーはカリブークラブとその仲間、全員テレマークで参加しています。企画はすべて北田さん。よい頭脳があってこその成果といえるでしょう。

とくに98年のツアーは避難小屋もエスケープルートもないシエラの高山を5日間で抜けるというスピード山行でした。

99年の「rock & snow」春号のレポートで北田さんはこう結んでいます。

「シエラハイルート。シエラバックカントリーの最終目標といわれるコースを、天候に恵まれ、僕たちはまんまと成功した!」

テレマークの貴公子、北田さんの品のいい笑顔がうかんでくるようです。

伊藤文博

追加1

スキーや山を大いに語った北田さんですがそれ以外のことについては静かな人でした。あまりよそから見えない好き嫌いがあって、食事やクルマ、そしてふだんの振る舞い、すべてにこだわりのある人のようでした。どれもが上品志向です。読書家であったことは彼の文章をみれば自明ですね。静かなインテリ。そんなあんなが人をひきつけたのでしょう。


追加2

あるとき山でサングラスをいただきました。スミスの替えレンズ付きのもので今も愛用しています。「マトリックス」ぽいデザインで「オレには似合わないから」と言っていましたが、人にやたらモノをあげていたら成り立たない商売をしていたはずなので感謝しております。ありがとう北田さん!

伊藤文博

Tajニュース2022年春号掲載。追加分は編集からの求めで補いました。

https://www.ski-taj.org/news/data/TAJnews2022.pdf

ニュース2022年春号は以下でみられます。

日本テレマークスキー協会

https://www.ski-taj.org/



 




7.31.2018

RIP 川崎博

川崎カメラマンの作品。古川一也さんの滑り。山の写真の中でもスキー写真が得意だった

Powderguide誌の表紙やポスターなどほとんど川崎カメラマン撮影でした



白馬のスキーフェスティバルで取材中

てれまくり祭で。クラブメンバー。
川崎さん左。柏澄子さん、真壁章一、高城亮、森光、伊藤フミヒロ

晩年、仲間と砧公園で、川崎さん真ん中、その右北田さん
左、高城、伊藤、右はし松倉

生まれは九州と言っていました。日本昔話にでてくるようなところで家もそんなだったそう。とはいえお父さんは大手自動車会社(ニッサンかな)のおえらいさんだったらしく転勤?などがあって実際は東京育ちではなかったかな。カメラマンになってからもおぼっちゃんの東京っ子に見えました。


今も名門の社会人山岳会G登攀倶楽部に入ってアルパインクラミングに熱中。
甲斐駒の冬季クライミングでストレスからか胃に穴があき手術、後年までくるしんでいました。ロッククライミング出身なので山岳カメラマンになっても岩登りの取材はまかせろ、だったかんじ。

東京写真大学をでてスタジオカメラマン、主婦の友写真部などをへて山岳カメラマンになったそう。その後もっぱら山と渓谷社の仕事が多かったはず。国内はもちろん海外取材も多かったです。後年はパウダーガイド社の写真部長していました。

60年代に写真大学に入ってG登攀倶楽部に入るくらいだから変わってもいたし、恵まれた境遇だったのではないでしょうか。スキーも好きでした。

登山やハイキング、スキーなどの雑誌の仕事多数。モトクロスバイクにのって颯爽としていましたね。セドリックのステーションワゴンに高級機材のせてスタジオにきていました。雑誌カメラマンという仕事が肌にあって気に入っていたようです。話好きだったけど出しゃばることない、とにかく楽しい人でしたよ。こころねがやさしい人でしたね。
カッコいい人生を歩いたとおもいます。

山の取材に何十回もおともしました。仕事とはいえ半分は遊びのようなものでしたが。お酒は人並みに好きでした、同世代で気があいましたね。ガンでした。享年70だったんじゃないかな。あとでしらべます。
   伊藤フミヒロ語る 2024年

2000年刊、川崎さんの著書。豊富な経験からあれこれ指南。よく売れました

川崎さんの作品 日本テレマーク協会のポスター


川崎さんの作品 秋田駒ケ岳のスキー


2018年6月RIP、世田谷耕雲寺で

2024年9月に世田谷美術館で開かれた奥様との二人展


2024年の2人展のレポートmatukura さん