寄稿3

寄稿3
目次

充溢した頂上 柏 澄子
インスボンの岩登り案内 神保エリコ
2月の温泉スキー 伊藤文博
マスミの半生 糸尾汽車
ドキュメント遭難 神保江利
さいきんのクライマー 山本 明
3カ月で3キロやせるには 神保江利

霧の燃える山 山本 明
テレマークスキーの話 徳地保彦
雪山で死なないための用意edico
山がよく見えると山が面白くなるedico
大先輩の岩登り糸尾汽車
「これが小屋番の岩登り」柏 澄子
大雲取谷紀行 黒川春水
オリンピック国立公園を行く 松倉一夫

THE NATION'S CHRISTMAS TREE 沫谷栄児
ヒーリングの滝 空木恵佑
万歳するブナ 松倉一夫
ワシントンの旅1 伊藤文博
富士山のスキー 糸尾汽車
シャーマンツリー 松倉一夫
富士山頂からパラグライダーフライト2004 伊藤フミヒロ
富士山頂からスピードパラグライダー2008 伊藤フミヒロ




充溢した頂上
山仲間のはなし 文=柏澄子

久しぶりに嬉しい頂上だった。最後のチムニー状のピッチを登り終え、いただきの祠をアンカーにビレイを

開始した。ユッコの顔が見えてきたとき、胸が躍った。

ユッコに初めて会ったのは、その年の6月だった。彼女は初対面の私にいきなり言った。「冬に北鎌に登りま

しょう」「えっ?」戸惑った。情けないけれど自信がない。「まずは一緒に無雪期に登ろうよ」と言ってその

日は別れた。それからユッコはデナリで、私はヨセミテで夏を過ごした。

帰国後、電話がかかってきた。「北鎌、いつ行きます?」。彼女は槍ケ岳が大好きで、北鎌に強い憧れを持っ

ているのだ。またもや私は戸惑いながらも言った。「水のことを考えると、9月アタマ、少し涼しくなってか

らはどう? 

その前に一緒に岩に登ろう。短くて簡単なルートでいいから」。私は初めて会ったときから、ユッコのこと

が大好きになったけれど、北鎌の前に、クラッグでいいから登っておきたかった。

8月末の小川山の約束に合わせて、私は滝谷から駆け下りてきて直行した。1週間近く小川山にこもっていた

ユッコは、前日に初のイレブンをレッドポイントしたばかりだ、と喜んでいた。トポを見ながら相談した結

果、セレクションという6Pの簡単なルートに行くことにした。初めて一緒に歩く、登る。

つるべで登り始める。4P目のクラックでユッコが行き詰まる。ナチュラルプロテクションのルートをリー

ドするのは初めてだという。私も経験は浅いが、ともかくフレンズをセットした。ユッコも登れなければ、

私も登れない。交互にトライした。それでも何度かのトライののち、ユッコが先に抜けた。短い体験だった

けれども、このクライミングで、私は、彼女がとても慎重で丁寧なクライミングをする人だということを知

ることができた。北鎌のコルにテントを張った夜、雷が鳴り響き、明日はどうなることだろうと少し心細く

なりながらも、ユッコの小さな一人用テントで、私たちは満ち足りたときを過ごせた。

翌日は、確実に登ろうと、自分たちのペースで慎重に歩いた。実力を考え、2ヶ所でロープを出した。

「女の人と登りたいんです」という10歳年下の彼女の勢いに押されて始まった計画だったけれど、私自身、

同性と登るのがこんなに楽しいって感じたことはなかった。10年以上前の正月に、大学山岳部の仲間3人で

北鎌から槍に立ったことを思い出しながら登った。アップアップの山行だった。充実していたけれど、先輩

に引っ張られて登れた山だった。季節は違えど、今回は、自分たちの力で登っているということが実感でき

たのだ。下山したら、誰よりも先に、部の先輩に報告しようって思った。

頂上で休んでいると、私たちの少しあとに、若い男性ペアが登ってきた。聞くと、ババ平からワンプッシュ

でやってきて、明日は屏風を登るという。俊足、タフネスだ。

彼らと話し終えたあと、ユッコがとっておきの笑顔で、手を差し伸べてきた。互いの手を握り合って、思いっ

きり固い握手をいつまでも繰り返した。男性ペアが羨まし気に笑っていたが、なんだか誇らしかった。時間の

長さではないと思った。短期間のうちでも、互いの山登りへの思いが伝わり、一緒に充溢した山登りをするこ

とができる、そういうパートナーができたことが、ものすごく嬉しい。


インスボンのロッククライミング

prfile
 韓国のロッククライミングといえばなんといってもインスボン(仁寿峰)が有名だ。アメリカだったらヨセミテ
で一度は登ってみたい、と考えるように、韓国ならインスボンで、というふうに思うクライマーは多い。
 韓国には高い山こそないが、岩場は豊富で、半島各地に素晴らしい岩山が点在している。昨今、現地でのロック
クライミングの人気は高く、新しいエリアやルートも続々誕生している。
  インスボンの北5キロほどのところには同様なスケールをもつソニンボン(仙人峰)があるし、コーチャンの
ソウンサ(禅雲寺)などには石灰岩のスポーツルートがたくさん開かれていて人気を集めている。新エリアについ
ての情報は「Rock&Snow」などの取材レポートに期待するとして、ここでは岩登り愛好家なら一度は訪れたいと思う
憧れのインスボンについて概略を紹介したい。
 インスボンがこれほど知られているのはそれなりのわけがある。
素晴らしい花崗岩の岩峰、すっきりして美しいルート、ソウルの町外れにそびえるという立地のよさ、これらがあっ
て、インスボンはフリークライミングのメッカとして古くから親しまれているのである。
 北漢山(プハンサン)国立公園にそびえるインスボン、標高は811メートル、街はずれから30分ほどハイキングし
て初めてその姿を見たひとはその雄大さと美しさに驚くはずである。そしてそこを登ってみたいと考えるにちがい
ない。実際、インスボンのとなりの白雲台(ペグンデー)はインスボンをもっとも間近に見られる岩山としてソウ
ルのハイカーにとって絶大な人気を得る展望台なのである。クライマーでなくともこのハイキングルートは歩いて
みたいもの。
耳岩は特徴的なのでだれでもわかるインスボンのシンボル。ここに登るにはクライミングルートをたどる以外ない。


ルート
 ルート数は100本ほど。インスボンのその姿から想像できるように、すべて花崗岩のスラブとクラックを登るルー
トとなっている。小川山やヨセミテと同様なフリークライミングが楽しめるわけである。グレードもデシマルグレー
ドで、日本とほぼ同じような感覚で登ることができる。岩場の基部から頂上までは3ピッチから5ピッチほどあり、
マルチピッチのクライミングを楽しむ人が多い。
 一部、高グレードなショートルートもあるが、全体には5.7から5.10台までのルートが多く親しみやすい。
クラックルートはかつてイヴォン・シュイナードが登ったりしたこともあることからわかるようにヨセミテ的なグレ
ードで手強い。
 インスボンのスラブはフリクションがよく効く。ジャイアントスラブの2ピッチで最初に様子をチェックするのも
よいだろう。かんたんなスラブほどピンが少ないので不安ならナッツ類で確実にプロテクションをとりたい。
インスボンの頂上に歩いて登れるルートはない、下降もロープで懸垂下降することになる。一般には頂上から西に少
し下り、西壁を懸垂下降する。50メートルロープが一本なら4回で白雲台とのコルに降り立つ。西壁のビデュルギル
ートは3ピッチで頂上に立てる短いルートなので偵察がてら登るのによい。


シーズン
 1年中可能だが、夏冬は気候が厳しすぎる。春や秋が適当といえるが梅雨や秋りん、台風などの影響は日本と同じ
ように受けるので日本にいるあいだから天気情報をチェックしてタイミングよく出かけるとよい。真夏には暑さをし
のぐためにナイトクライミングを楽しむ現地クライマーもいる。

装備
 プロテクションはおおむねしっかりしている。スラブルートには新しいボルトが打たれているし、下降点には頑丈
な支点が設置されている。クラックルートを登ることも多いのでカム類がひととおり必要。キャマロットなら2セット
ほしい。ほかに大きめのナッツ類もほしいところだ。ヌンチャクはパーティで20本は必要。さらに長めのシュリンゲ
なども用意したい。
 ロープはシングル使用で50メートルがあればよい。懸垂下降を効率よくするためにはもう一本あるとラク。頂上ま
で抜けるロングルートが多いので、雨風対策も忘れずに。落石もしばしば起きる。ヘルメットは必要だ。



アドバイス
 アクセスとしては、北漢山国立公園の入り口、トソンサ(道「言にんべんに洗うという字」寺)から白雲台へのハ
イキング道を1時間。インスボンのベース白雲山荘(ペグンサンジャン)に着く。トソンサまではキンポ空港からタ
クシーで1時間ほど。タクシーが早くて一番ラクだが、地下鉄、バスも利用可。最寄バス停はウイドン(牛耳洞)。
自由旅行向きのガイドブックがあれば問題ない。大阪や成田を午前便で出発すれば、その日のうちに白雲山荘に入る
ことができる。

 宿は白雲山荘がよい。日本から連絡所に予約可能だが,現地の小屋への連絡が不徹底なこともある。白雲山荘は一
泊二食で3000円くらいの見当。寝袋とマットが必要。ソウル市内に泊まって通うことも可能。ソニンボンなどほかの
エリアにも行ける。
白雲山荘の連絡所先は 韓国SOUL市江北区牛耳洞1番地利 李永九さんは日本語がわかる。
テントエリアもあ
るが、宿泊施設を利用して韓国料理をたしなむのが良案。

 ソウルにはクライミングガイドもいるが日本からの予約はむづかしいかもしれない。韓国のクライミング旅行は時間
的余裕があれば飛び込みスタイルがよいという人も多い。どうしても心配というひとは山岳旅行専門の旅行社で相談す
るのがよい。
インスボンのルートとそのほか詳細なガイドは、安村淳氏の「仁寿峰の岩場・主要32ルートガイド」が完璧に近い。
本誌2000年9,10月号で連載している。

代表的なルート

キバウィD(シュイナードA)5ピッチ 5.10a
インスボンへのアプローチにある見返り峠からみてもそのすっきりしたラインはよくわかる。大スラブを大きく回りこ
んだところからスタート。登るほどに難しくなるのでオーダーに注意。耳岩の頭まで登れば充実するだろう。クラック
が得意のひとでも4ピッチ目は辛くかんじるかもしれない。


ウジョンB (友情B)4ピッチ5.9
核心は2ピッチ目の5.8のクラックだが3ピッチ目の5.5のチムニーは長くて面白い。バックアンドフットで登るとよい。
パックは腹にまわす。4ピッチ目のダブルクラックはけっこう難しい感じがするだろう。

アミドンキル 3ピッチ5.10b
まず大スラブを2ピッチ登る必要がある。この大スラブがインスボンらしい。がまスラブかヨセミテのエプロンか。ル
ートはわかりにくいがブッシュごとにピッチを切る。2ピッチ目の複数クラックをシフトしながら登るのが面白い。3ピ
ッチ目のスラブはうまいひとならどうということもないだろう。、

ウィディキル(医大ルート)5ピッチ 5.10d A0
耳岩まで登る人気ルート。オアシステラスまでかんたんなスラブを登る。1ピッチ目は難しそうに見えるが5.8.3ピッチ
目、5ピッチ目の核心はかなりデリケート。A0をつかえばなんのこともない。そんな登りかたをしている人も多いのが楽
しい。耳岩の頂上からは懸垂で下る。


2月連休の温泉スキー 汽車

登場人物
なべちゃん クラブメンバー
ひろみ なべちゃんの若き新妻
鈴木氏 横浜から野沢にアイターンしたという。元山路クラブ会員。詳細不明。
オマタ師 伝説のテレマークスキーヤー
川崎亀  アウトドアカメラマン
ヨナス氏 山岳小説家
敷島社長 探検家 地平線社長



スキーに行くのにスキーを忘れたのは初めての経験だった。なべちゃんちで車のドアを
開けて気がついた。ひろみさんの大奈スターを借りて深夜の中央道を行く。戸隠大橋は
数年前に行ったことがある。乙妻山スキーのときだ。長野市から入ったが、今回はハイ
ウエイが延びているので信濃町インターでおりる。降りたところに道の駅がありそこの
隅にテントを張る。風呂にでも入りたいところだが未明の3時。あきらめて冷酒をのん
でばたりと眠る。明け方風が吹いてきて雪となった。案の定、天気はだめか、と熟睡し
て起きるともう9時ころであった。顔をあらい道の駅のお茶をいただき、戸隠大橋へ。
天気は悪くなく、佐渡山は3時間ほどのスピード登山だった。
大汗をかいたので、温泉、温泉と唱えながら、黒姫のスキー場方面へ車を走らせる。黒
姫温泉の看板をみて寄ってみるがいまいちの雰囲気。どうせなら妙高のカンポへでもと
雪の中のドライブ。満員御礼で本日は立ち寄り入浴はできません、と張り紙がある。そ
んなのあり? と近所のランドマークへ向かう。1200円とあって即ユーターン。そ
ういえば関川の共同湯があったね、あの向かいの焼肉やもよかったと駅前経由で旧道奥
の温泉へ。200円?ほどで近所のじいさん連がくつろぐ関川共同浴場でのんびりする。
向かいの焼肉やは店を畳んでいた。
夕食は国道を走らせ、かすかに記憶にある「山小屋」へ。老夫婦の経営する清潔な店、
悪くない。薪ストーブが心地よい。ここで鱈腹飲み食いして、再び道の駅へ。なべちゃ
んが一瞬にしてテントを設営してくれる。もうろう状態のままシュラフに入る。8時前だ
ったのではないだろうか。温泉ですべすべした自分のカラダがうれしい。

目をさますと朝の5時だった。
再び戸隠大橋へ。鈴木氏が野沢からやってきた。着くなりいきなり500ccのビールと
焼肉弁当をほう張り始める。こういう人は強いな、と思ったら、やはり山では強かった。
ひきずりまわされるように黒姫山を徘徊すること7時間。ヨロヨロとなって車に戻る。それ
にしても黒姫山は素晴らしくよい山であったことよ。
温泉、温泉と唱えながら、菅平のオマタ師の山小屋へ向かう。鈴木氏は去る。(鈴木氏は
巻尺と計りを携帯していてスキー道具の重量を測るのが好きなようだった)彼はスキーも
うまい。
小布施経由、鈴木氏に教わった須坂の温泉へ。志賀高原方面が夕日に輝き見事な光景。そ
れにしても冬型で大荒れという予報はどうしたのだろう。
温泉センターは国道沿いの殿堂だった。こんなものは以前にはなかった。5時半からは7
00円が550円になるらしい。ちょうど5時半であった。すべすべしたカラダになった。
下駄箱に仕舞ったスニーカーを探し出すのに10分もかかる、それほど巨大な下駄箱部屋
であった。それほどもうろくも進んでいるのであった。
携帯電話で誘導されながらオマタ師の小屋に入る。オマタ師と川崎亀はすでに出来上った
状態で真っ赤な顔でにらみあっていた。
小屋は時計型の薪ストーブがあって、夢のような一夜を過ごすことができた。

よく朝も晴。みんなでネコ岳へ。極上のアスピリンスノーを滑る。これほどのコンディシ
ョンは初めて。コロラドの雪を髣髴とさせる半日だった。頂上の気温がマイナス15度だっ
たからそれもむべなるかなである。とにかく寒い山である。
オマタ師の友人経営のカレーやが休みなので、ではラーメンでもとラガーラーメンでランチ。
師に分かれを告げて、浅間山を眺めながら佐久道を行く。渋滞対策で中央道へ抜けるプラン
だ。
記憶を探りながら、高根の温泉センターがよいかと飛ばす。清里の下で、天女の湯という看
板をみつける。新規開拓、とプランをかえ、そこを訪ねる。高原の公園とかなんとかという
名所にある洒落た湯であった。750円で、まいいかとチェックイン。結構な湯であった。
甲府で夢屋のラーメンをいただき、ついでにとギョウジャニンニクギョウザを頼む。渋滞逃
れで笹子峠を旧道で越え、大月からはたいへんスムースに帰京の途につく。
双葉のサービスエリアで、見慣れた顔にあう。ヨナス氏であった。敷島社長の車を運転して
いて社長は助手席でおろくのように熟睡しているのであった。八ヶ岳帰りとのこと、連日吹
雪であったとぼやく。ぼくらは3日間いい天気だったよ、と言うと、不思議そうな顔をして
いた。

注 
なべちゃん クラブメンバー
ひろみ なべちゃんの若き新妻
鈴木氏 横浜から野沢にアイターンしたという。元山路クラブ会員。詳細不明。
オマタ師 伝説のテレマークスキーヤー
川崎亀  アウトドアカメラマン
ヨナス氏 山岳小説家
敷島社長 探検家 地平線社長


2月の八ヶ岳、真澄の半生


登場する主な食べ物
大判焼き 
世田谷
真澄
かもねぎそば
おいなりさん
おにぎり
ハンバーグ
天ぷらそば
野沢菜

調布の駅前でいけさんを待ちながら一個80円の大判焼きを3つ買った。並んで買っている
くらいで焼きたては香ばしくてとてもおいしかった。ひとつは運転の川崎亀にあげる。12
時ころ諏訪南のインターでおり、目の前の食堂に入って昼とする。かもねぎそばを注文する。
都会並の値段だがうまいのかまずいのかようわからない。
すぐ横のコンビニで行動食においなりさんなど買い、諏訪の銘酒真澄をひと箱購入。川崎亀
が世田谷土屋酒造の世田谷を持ってきているので、今夜は豪勢な宴になりそうだ。
みのど口から雪の多い道を2時間半。鉱泉に着く。横岳の夕日がものすごかった。気温もマイ
ナス15度くらいとみた。
小屋にはちゅうさんとみうらが先着していて、さっそくあったかいラウンジで一杯と思うが
、川崎亀といっしょの世田谷はいまだ到着せず、真澄をチタンコッフェルであっため熱燗と
する。バテモードに酒が入ったのですぐに出来上ってしまう。
6時には夕食となった。ハンバーグなど食べる。ワインが2本ほど差し入れされてそれも飲
む。あまり口にあわなかった。
食後、たわいのない話をしながら9時の消灯まで。さらにヘッドランプをつけながら池、川
崎は世田谷を空けてしまったようだ。世田谷は終わってしまった。
翌朝、2月2日 5時に起きる。ふとんのなかであたためておいたお稲荷さんを食べ、スト
ーブの上であたためた大判焼きをひとつ食べるとおなかがいっぱいになった。行動食のおに
ぎりを胸ポケットにいれて、たまたまどこかで入手したホカロンのようなものもいっしょに
入れておく。初めての試みである。コーヒーをいただき、7時前にスタート。
真澄はまだ5合目ほど残っているのでザックに入れる。今日から天気が下り坂とかでぱっと
しないがなんとかなりそうだ。歩きだして30分ほどでトレールがなくなり、交代でラッセ
ル、三叉峰ルンゼに向かう。
雪が多く1,2ピッチは雪の斜面となっていた。
3ピッチ目はソロで全員が登る。雪壁をダブルアックスでがんがん行くのは気持ちがよい。
4ピッチ目は5メートルくらいの氷壁があった。池、ちゅうリード。5ピッチ目はたいした
ことなく、そこでロープをまく。胸であたためていたおにぎりを食べる。ほかほかでおいし
かった。気温はマイナス10度くらい。
源頭部で城砦状の壁に囲まれる。突破口が3メートルくらいのミックスで、ロープをフィッ
クス。この3メートルがA0なのにいちばん難しかった。
そこから2ピッチほど登ると縦走路にでた。まだ12時前。
北アルプスや富士山などが見える。頭の部分が厚い雲に覆われている。
稜線は雪が多く、アルプスのように素晴らしく、危険もいっぱいだ。雪壁をトラバースしたり
下ったり、八ヶ岳の縦走路とは思えないスリルがある。昨日からいままでアイゼンが岩に当た
ってがりがりと鳴る音をほとんど聞かない。それほど雪がたっぷりなのだ。
地蔵尾根をだーっ、とくだり行者小屋着。1330。
運んできた真澄を池さんといっぱいづつ飲みほし乾杯。
石尊稜や三叉峰ルンゼを振り返るとなにやら険悪そうな表情をみせていて、小同心ルンゼは一
枚の細長い雪壁となっていた。
5人無事帰還できてよかった。なにが起きてもおかしくない危険がいっぱいの一日だった。
雪が踏まれて歩きやすくなった道をスムースにくだり、みのど八ヶ岳山荘?で川崎亀のお
ごりでビール飲む。野沢菜とビールがよくあう。もっと飲みたかったが先があるのでがま
ん。ここの犬は、シェトランドの雑種のように見えたが、仕種が人間の子供のようで
とても可愛い。頭もいのかもしれない。
小淵沢スパシオで600円の温泉に入り、そこで600円のてんぷらそばを食べ帰京9時前に
は自宅着。
昨日から今日、よく飲みよく食べたが運動もこなしたので勘定はあっているかもしれない。2
月の八ヶ岳の稜線まで旅をした真澄はまだ3合ほど残っていて晩酌用となった。
<汽車>


ドキュメント遭難 
西穂独標近くで”うっかり”ルートを踏み外し転落

東京都・山本明久(42歳)
北アルプス・西穂高岳下山中に転落
左足首骨折


  1997年12月、冬の西穂高岳登頂をプランした。師走だというのに同じ山岳
会の3人が集まった。同じ世代で、夏山縦走もしたり岩登りもする気心のし
れた仲間である。小屋泊まりやテント利用で雪山登山も何度か経験している。
 12月20日に新穂高温泉からロープウエーで入山。雪の中をトレールを追って
2時間ほどで西穂高山荘まで。積雪はこのあたりで50センチというところ。
小屋のそばの平らにテントを張る。天気が悪いので気分もいまいち。
 天気予報によれば明日は晴れそうだ。予定通り西穂高岳登山とする。ガイド
ブックによれば独標から上部はやせ尾根もあり険しいので無理をしないで独
標までのプランとするのもよいと書かれている。夏に登ったことがあるので
おおよその見当はついている。ぜひ頂上を踏みたいが、天候によっては独標ま
でということもあるかもしれない、と話し合う。

 好天でモチ上がる
 12月21日。天気はよさそうだ。4時に起床。6時半に完全装備で出発。す
でに先行パーティがある。新雪はほとんどなく、ときどきブッシュに膝まで
もぐったりするがおおむねアイゼンが快適に効く。トレールもはっきりつい
ている。雲はでているが風はなくまずまずの天気。独標のピークに立つ人が
みえる。独標8時着。
 ひとやすみして、迷わず、頂上をめざすことにする。先行パーティがピラ
ミッドピークの途中を登っている。先は長そうだ。天気はもちそうだ。氷壁
のようなところはなく、夏道伝い。刃渡り、横ばいなどこわい所はあるが、
雪は安定していて急斜面も階段のようになっていて歩きやすい。
 11時過ぎに頂上着。風もなく絶好の登頂日和といえそうだ。仲間のひとり
のザックからビールが一缶でてきたので3人で乾杯する。12時前に下山開始
。下りも快適だった。急な下りが終わり、独標まで細い尾根上の平坦なトレ
ールを行く。「もう安心」と仲間とあれこれを話ながら行く。先頭が私、続
いて二人が続く。
 独標まであと100メートルくらい、細い尾根の上高地側にトレイルがつい
ている。独標へはちょと上り返さなければならないな、と思った瞬間、足元が
崩れ、何もすることもできず崖下に転がり落ちてしまった。7,8メートル
くらいだったが、ブッシュの生えた棚があってそこでストンという感じで止
まった。もっと下まで落ちてしまうのかと思ったのでホットする。
雪を払いのけ「まいった」と声をだす。上から仲間の顔がのぞく。
「大丈夫か?」
 オーバーパンツが一部切れていたが、ピッケルやアイゼンによるケガはな
いようだ。ドキドキしてはいたが、「すぐ上がるから」としばらく休んで体
勢をたてなおして、登りかえそうと試みるが急な崖で1歩も上に上がれない。
両側はもっと急なので落ちた場所からまっすぐ上に登る以外方法はないのだ。
 何度かトライするが脱出は無理。そのとき左足首がとても痛いことに気が
ついた。落ちた時捻挫をしたのにちがいない。なんとか登りかえそうと1時間
くらい試みるがピッケルとアイゼンで雪の壁を削ってしまったためにオーバ
ーハングのようになってしまった。
 頂上付近で会った先行のパーティがロープを持っていたのを見ていたので
、ひとりが彼らの後を追ってテント場に下ることにする。ロープを借りてく
ることにしたのだ。3時だった。
 
あっという間に夜
 衣類を全部着こんで待つ。日が当たらずとても寒い。上で私を見守ってい
るもうひとりの仲間も寒そうだ。テルモスに残っていたお茶をすするが役に
はたたない。なにか食べたらと上から仲間が言うが食欲などまったくなし。
あたりが薄暗くなってきて心細くなってくる。足首はずきずきと痛む。ツエ
ルトがザックに入っていたのでそれをだして被るといくらかましになった。
 結局3時間ほど待った。体がガタガタと震えているのがわかる。ロープを貸
してくれた山岳会からも二人が応援に来てくれた。あたりは暗闇、ヘッドラ
ンプがなければ何も見えない。ロープが降りてきたので、体に結びつける。
上から4人が引っ張りあげてくれるということだ。私も火事場の力をだして
必死でよじ登る。縦走路に着くとへたへたとなって口も利けなかった。
 落ちた場所を見ると、夏道のうえに雪がこんもりと積もっている。広く見
えたのだが、結局路肩の雪の上に足を置いたらしく、その下は崖になっていた
のだということがわかった。
 このあとテント場に戻るのがたいへんだった。捻挫か骨折かわからないが
左足が思うように効かず、うまく歩けなかった。仲間の肩を借りたりして必
死で下った。時間がとてもかかった。テントに戻ったのは8時前だった。翌日
空身でロープウエーまで仲間と下った。病院でレントゲンをとると足首の怪
我は骨折だった。

遭難はなぜ起きた?

積雪が隠す実地形。悪場通過後に気の緩みはなかったか

 この西穂高岳のケースの場合、登山路から足を踏み外し、墜落したというも
ので、滑落というよりも転落事故といえるだろう。幸いなことに本人は数メー
トル下の岩棚に落ち、止まったため危うきを脱することができた。トレイルか
ら転落してそのまま斜面を滑落する場合もある。今回のケースでは不意の転落
であったためなすすべもなく一瞬にして最悪状況に陥ってしまった。
 転落時にアイゼンやピッケルで自分の体を傷つけることがなかったのは幸い
であった。岩棚には雪があったため足首の骨折ですんだのも不幸中の幸いとい
えるかもしれない。


他パーティの存在と適切な判断
 転落の原因は踏み外しである。これは雪山ではときどき起きる事故である。
大量な積雪は帽子のようにすべてのうえに覆いかぶさるから、路肩などではほ
んとうの道形がかくされてしまうことが多い。沢筋などでは雪下の凍りを踏み
抜いて水に漬かることもある。また雪庇を踏み抜いて転落する事故は毎年おき
ている。雪が積もった山では、実際の地形が隠されてしまうから、それを予測
して行動する必要がある。
 事故は下山時に起きている。西穂高から急斜面を下りつづけ、一段落して、
独標手前の平坦なトレイルを歩いているときに「うっかり」して事故は起きた
ようだ。よそ見をした可能性もある。この場所は同じ様な事故が夏冬問わず何
度も起きている「転落の名所」である。気の弛みがなかったとは言えないだろ
うか。事故はしばしばそういうときにやってくる。さらに、雪山の頂上でビー
ルを飲んで祝杯をあげたとのことだが、まさかそれが理由とは考えたくない。
 この3人の場合、山行プランやメンバーの技量に無理はなかったと思いたい。
しかし登頂を第一目標に置いたため、独標で引き返す選択があったにもかかわ
らず、強行したのはほんとうに正解であったと言えるだろうか。気の弛みやよ
そ見とともに、疲労が事故の一因であった可能性も考えられる。本人はおそら
く、頂上まで行かなければ事故は起きなかった、と一度ならず考えたにちがい
ない。さいわい、朝早く出発したため、事故が起きたのが下山時にもかかわら
ず、なんとかその日のうちにテントに帰着できた。早出は身を助けるのである。
 事故が起きたあとの対処だが、自力脱出が困難となり、ひとりが他パーティ
のロープを借りに下り、ひとりが現場に残っている。
 ロープは雪山登山では必携のものと考えたい。この場合でもロープが手元に
あれば救出はもっとすみやかに行われただろう。ロープは、積極的な使用が予
定されていない場合、ロッククライミングに使用うような太くて長いものであ
る必要はない。8ミリ径のものが30メートルもあればよい。ザックにいつも
これを入れておきたい。
 雪山では、無雪期にはなんともないような場所でも「ロープがあれば…」と
いうような状況にでくわすことはしばしば起きるのである。
 雪山では日が暮れるのが早い。夜はあっというまにやってくる。この場合、
ロープを借りるため救出に時間がかかった。しかし、借りるようなロープがな
かったらどのようになっていただろうか。ロープを探しているうちに、闇が訪
れ、転落者は岩棚での一夜を送らなければならなかったかもしれない。ケガを
した足をさすりながらのビバークはかなり危険なものであっただろう。ツエル
トはつねにザックにいれて置かなければならないことがよくわかる事例である。
 さらにヘッドランプ、防寒具、非常食、ファーストエイドキット、そして小
さなコンロとコッフェルなどは、ビバークして初めて「持っていてよかったあ
」と思えるギアである。彼らの場合、ザックの中にはこれらの物は確かに収め
られていたとのことである。
 ロープを借りて転落者を引き上げる。ツエルトにくるまる。というアイデア
は経験の長い登山者だからできたことだろう。頭を働かせてその日の内に救助
できたのはなによりも、彼らの機転の勝利であったといえるだろう。どんなに
いろいろな装備をもっていようと冷静な判断がなければ役にはたたない。困難
な状況のときにもっとも有効な救助の方法を考えるのはなによりも大切なこと
なのだ。


転落しないために、滑落してしまったら…

1転倒はこわい

 雪山では滑落事故がしばしば起きる。富士山のようなアイスバーンの急斜面
では、登山者はさまざまな原因により転倒、そのまま斜面を滑走して岩に衝突
するという事故が起きている。北アルプスや八ガ岳、谷川岳などにもいったん
転倒すればそのまま谷底まで一直線に滑落したり転落するという危険な場所は
多い。
 冬でなく残雪期でも高山では朝夕は雪が引き締まって滑りやすい状況が生ま

れるから油断はできない。
 新雪のような柔らかい雪でも、そこに傾斜があれば滑落は起きる。丹沢など
の低山でも転倒すれば滑落してしまう崖や斜面はたくさんある。
 急斜面では転倒しないように最大の注意をはらわなければならない。転倒の
原因は、疲れてバランスをくずしたり、強風に倒されたり、小石につまづいた
りさまざまだが、注意すれば防ぐことができるものである。よくあるのがアイ
ゼンをズボンにひっかけること。アイゼンの前爪が出っ張っているのでそれを
ひっかけてしまうのだと思いがちだが、実際には後ろ爪がスパッツやズボンに
当たることが多いという。
 またよく起きるのがアイゼンをつけるタイミングを過って、登山靴で登って
いる最中にスリップすること。ルート全体の概要を事前のよくつかんでおくこ
とが必要だ。
 アイゼンはタイミングよく装着し、アイゼンをはいたら細心の注意をもって
歩行しなければならない。アイゼンがあっても雪が団子のようについたらそれ
は高下駄をはいているようなもの。アイゼンのアンチスノープレートは必需品
だ。


2滑落停止技術
 不幸にして滑落した場合は、ピッケルを使って滑落停止を行う。これは転倒
と同時に行うもので、体が滑走を始める前に瞬時に行うこと。ピッケルによる
滑落停止技術は雪山登山者が必ず修得しなければならないテクニックである。
練習によって技術は向上するので、シーズン前や時間のあるときには、この練
習をすることをおすすめする。もちろん失敗してもケガをすることがないよう
な安全な場所を選ばなければならない。

2要注意の雪山地形
 雪の斜面が凍って固くなると、危険な滑り台に変わる。早目にアイゼンを装
着してスリップ事故に備えるのが肝要だ。アイスバーンの斜面になってからア
イゼンを付けるのはたいへん危険である。
 やせた尾根のうえや断崖付近に大量の雪が積もっていると、きのこのカサの
ようになって、実際の地形がかくれてしまう。やせ尾根では歩く時は尾根の真
上にルートを選ばなければならない。また片側が谷へ切れおちているようなル
ートでは、エッジ部分から充分離れたところを歩くようにしなければならない。
 雪山では稜線に雪庇が発達する。稜線の風下側に庇のように張り出す雪庇は
ときに数メートルも伸びることがある。雪庇のできた稜線では、先端から充分
な距離を置いて歩かなければならない。春山などで、ときに、巨大な雪庇の近
くで休憩しているグループがいたりする。雪庇のある尾根で休む時にはひさし
の発達具合を遠望するなどしてチェックしておくことが大切だ。
3行動不能のときどうするか。
 滑落事故の場合、カスリ傷程度で済めば幸運といえる。重大なダメージをう
けて行動が不能となる場合も多い。そんなときはどうするか。仲間がいればた
だちに救助してもらうか、手数がたりなければ救助を求めに走ってもらうこと
になる。
 一人の場合は問題だ。もし携帯電話も通じない、無線も通じないとなれば大
声をだすしかない。そしてひたすら救助の手を待ち望むしかない。
 連絡ための道具としては携帯電話、無線などが一般的だが、谷間などでは通
じないことも多い。また積雪期は他の登山者を見かけることも少なく、山小屋
なども閉まっている。山は孤立した世界となっていることを知っておこう。入
山前に計画書や登山届を出しておくなど基本的な手続きをしておくことは必須
中に必須。


4ロープ
 登山用のロープを持っているといざというときに役にたつことがある。グル
ープなら1本、8ミリの30メートルくらいのものがあると安心だ。
 谷底や崖下に落ちた遭難者を助けあげることができる場合も多い。トレイル
からロープを使って崖下の遭難者のところまで下ることも可能になる。行動中
に積極的に使うこともできる。やせ尾根や岩場ではビギナーを確保したり、フ
ィックスドロープにして安全に誘導することも可能になる。
 ロープを利用する場合は、結びかたや利用方法に知識と技術が必要だ。事前
にロープワークについて研修を受けたり学んでおくのがよいだろう。

5ビバーク
 何年か雪山登山を続けているとビバークしなければならない緊急事態に直面
することも起きる。行動時間が制約され、寒さや風などもいちだんと激しい雪
山では、ビバークのための最低限の装備を常に携行していることが必要だ。
 ヘッドランプや防寒具、非常食などは個人個人が持っていたいもの。できれ
ばツエルトやコンロ、コッフェルなども各自が持っていても悪くない。いつい
かなる場所で仲間とはぐれ一人になって夜を迎えるかは誰にも予測できないの
だから。
 ツエルトやコンロを持っている仲間と離れてしまった場合はどうしたらよい
だろうか。可能であれば稜線を避けて標高を下げる。森林限界まで下がること
ができれば安心だ。雪洞を作ってそこに避難できれば言うことなし。雪崩対策
のためにだけでなくシャベルを持っていくのはよい考えだ。
 緊急避難なので必要なら焚き火を起こすことも可能だろう。暖もとれるし、
救助隊に存在をアピールできる可能性もある。マッチやライターなどの発火装
置は携帯していたい。ナイフなどもそんなときに「持ってきてよかった」と思
うサバイバルギアなのだ。



さいきんのクライマー

新世代のクライマーたち
 最近都内のボルダリング専門のクライミングジムにときどき行きます。
そこで「インタビュー」して感じたこと。
 それは彼らと現行メディアとの断絶です。彼らが行きたい岩場は奥多摩
の御岳であり、蓬莱や二子、城が崎では決してない。リードはいつかやっ
てみたいが、正直いって関心ない――のでありました。ジムに来る目的も
純粋にボルダリングのためであって、リードのレベルアップと答えた利用
者はごくごく少数です。若者たちのあいだではリードはオールドなスポー
ツと映っていて、すでに過去のモノのようでした。ちなみ、御岳には休日
ともなれば30~50人がやってくる盛況ぶりだそうです。
>  山からスポーツクライミングが派生したときと、今のボルダリングブ
ームは状況が似ているようです。スキーに対するスノーボード、そういって
もおかしくないでしょう。彼らにとってのカリスマは岡野、室井、三由で
あり、すでに平山ユージではありません。
>  ジム経営者のN、S氏のは、この現行メディアと実情のズレ
を実感しているようです。ボルダリング専門のジムにやってくる利用者の
求めているの
は純粋ボルダリングの情報誌であり、雪山やリード中心の内容には関心が
ない。だから、いまボルダリングの情報誌があればなあということなのです。
>  また、大阪のクラッグスがリードではなくボルダリングにこだわって
メッカになったように、各地のジム運営もリードよりボルダリングに向か
っています。Nコンツェルンが国分寺に作るジムもクラッグスを真似た
「明るく清潔なボルダリングジム」となると思われます。
さいきんのボルダリングジムのやってくるクライマー、
>  彼らにとって二子や蓬莱の12,13なんてドーでもいい。ちょうど
僕らフリークライマーが谷川岳や奥鐘に無関心だったように……です。なん
か時代は一回りしたかな、そんな印象を受けた、今回の「取材」でありました。  
 山本明



カラダを燃やす

カラダを軽くしよう。まず3kg減量をめざす

 体重を落とすとカラダが軽くなって気分も軽快になる。フィットネス
のスタートであり最終結果でもある。減量といっても筋肉など有用な要
素を減らすのではなく、ムダな脂肪を減らすのが重要だ。減量自体は理
論的にはとてもカンタンなことだ。
 脂肪はカロリーに換算できる。減らしたい脂肪分だけのカロリーを消費
すればよいわけだ。単純な算数である。
 具体的には1kgの脂肪は7700kcalに相当する。3kgの脂肪を減らす
ためには、3倍して23100kcalを消費すればよいわけだ。さらにこ
れを3カ月間で達成することを目標とすれば、23100kcalを90日
で割ることになる。一日あたりに減らさなければならないカロリーは2
56、7kcal、大体一日250kcalと覚えておけばよいだろう。
 これを運動と食事制限の2面から減らすことにする。運動面
では一日150kcal減を目標にしたい。食事では100kcal減を目標と
しよう。
 一日150kcal消費する運動とは、20分から30分の軽い運動に相当す
る。運動でなくても、エレベーターを使わない、駅ひとつ分を歩く、など
普段の生活の活動をレベルアップしても達成することができる。いままで
通りの生活ではどうやっても150kcalを減らすことはできないから、意
識改革が必要だ。
 100kcal減の食事制限については、そんなにたいへんなことではない。
缶コーヒー2本分を減らせばよいだけだ。
これを3カ月続けることによって、3キロの脂肪減が可能になる。
 運動しないで、食事制限だけでこれだけのことを達成しようとすると、例
えば3カ月間連日、夕食のおかずなし、という情けないことになる。
 目標設定を5kgの脂肪減にするともっとタイヘンなことになる。イラスト
で3kgと5kgの場合、さらに自分にあったかんたんな計算式を紹介するの
で試してみていただきたい。食事制限や毎日やらなければならない運動が
増えていくと、ストレスも増えてくる。できるだけ可能な目標を設定する
のが減量を成功させる秘訣だ。
 食事制限の目安として、さまざまな食材、メニューのおおよそのカロリー
数がのったカロリーブックが出回っているので、それを購入して日々の食事
を管理したい。運動の目安としてはMETS表を参考にして割り出
すのがよい。
糸尾汽車 監修 なかじまさん


霧の燃える山
山本明

 今でも「彼」を忘れてはいない。あれから多くの歳月が流れた。南ア林道が北
沢峠に通じ、バスが運行する以前の話だ――。

 土曜日で、おまけに明るいうちに着くバスはこれが最後なのに、終点の戸台口
で下車したのは僕ひとりだった。時刻は3時半、九月下旬の傾きかけた太陽がた
まに雲間からのぞき、山々を黄金色に染めていた。
 今日は北沢峠まで行く。平坦な戸台の谷をつめ、急登は八丁坂のみだ。コース
タイムは6時間だが、その半分強で着けるにちがいない。歩きには自信があった
。北沢峠でテントを張り、明日は初の仙丈岳を目指す。
 戸台まで来ると木札が立ち、台風で登山道は赤河原の分岐付近まで決壊中、と
書かれていた。どうりで誰もいないワケだ。だが沢筋には踏み跡があり、それを
辿ることにする。仙丈なんて所詮ボタ山、軽く片付けてしまおう。
 踏み跡の歩きにくさに閉口しだしたころ、空身の男性が追いついてきた。僕に
鋭く一瞥をくれると、
「キミは高校生か。困るな、高校生の単独は。四カ月前にも遭難してんだぜ」
 一つ年上の高校生のことは新聞で読んでいた。鋸岳に出かけた高3が下山日に
帰らず消息不明に……。男性は戸台村の人で北沢峠の小屋番だという。
「オロクはまだ出てない。仕事があるから先に行くが、道も荒れているし、キミ
も充分気をつけてくれ」
 そう告げると、男性は河原を駆け上がっていった。ショックだった。遺体は収
容されたものと思っていたのだ。谷を塞いでそびえる鋸岳は分厚いガスに覆われ
ていた。あの霧の中に、異臭を放ち野晒しのまま横たわる。おぞましさに戦慄し
た。一刻も早く鋸岳の麓を通過して峠に着きたい。迫る暮色と競いながら無人の
谷を急いだ。
 2年になって山岳部をやめた。もっと激しく山と向き合いたい。仲間を募り八
ヶ岳で岩登りもした。単独も今回が最初ではない。
 突然、渓谷に木々のざわめきが響き渡った。山風が吹き始めたのだ。それを合
図に、鋸岳の中腹からガスが堰を切って滑り落ちてきた。谷底に到達した霧は幾
筋もの奔流となって広い谷を疾走してくる。押し寄せる様はさながら津波だ。茜
色に輝く虹が波頭を飾っていた。呆然と見ていると、霧の波は背後にも押し寄せ
、一瞬にして僕を飲み込んでいった。
 霧の中は静かだった。すべてが鈍色に溶け込んでいた。判然としない踏み跡を
探しながら上流に向かう。ガスは濃さを増し、視界は2mを切った。単独の寂寥
が身を焦がす。

 いつしか夜が辺りを支配していた。ヘッデンを灯したが、霧は光を乱反射し目
映い壁となって眼前に立ちはだかった。霧は光る闇だった。ライトを足元に向け
て進む。踏み跡を追うことはすでに困難な作業となっていた。
 霧の底を黙々と歩き続けた。ふと、やけに倒木が多いことに気づき、愕然とし
た。周囲を探ると沢幅も狭い。流水の跡や獣道を踏み跡と誤り、枝沢に入り込ん
でしまったようだ。慌てて下るが、沢は滝となって切れ落ちていた。時計は7時
。鋸かそれとも仙丈の小沢か。赤河原の分岐点を見失い、甲斐駒の方角に迷い込
んでいる恐れもあった。
 鼓動が頭の中に響く。踏み跡や目印を探し、霧の中を闇雲に動き回った。崖を
登り、ルンゼに降り、木の根に躓きながら薮の中にも分け入った。
 原生林から突きでた岩の上でザックを下ろし、頭を足の間に落としてうずくま
る。もうクタクタだ。衣類は霧を吸って下着まで濡れていた。10月も間近だった
。めったやたらに寒い。断続的に震えが走る。
 一時の勢いはないものの、霧は澱んで体にまつわりつく。何やら強烈な睡魔が
襲ってきた。こんな寂しい場所で進退窮まった。あの高校生のように僕も遭難す
るのか。

 眠気を払うために顔を起こしたときだ。前方の闇に淡い明かりが浮かびあがっ
た。大きく小さく、風に煽られる炎に見えた。霧が燃えている、朦朧とした頭で
そう思った。
 次の瞬間、我にかえった。霧に彷徨っていたのは僕だけじゃない。明かりはラ
ンタンだろう。距離は三十mほど。荷物を背負い、声をあげて明かりに向かう。
 が、声が届かないのか、明かりの主は動き始めた。ルートから外れた霧の中な
のに足取りは確かだ。置いていかれる恐怖で足を速めるが、追いつくどころか離
されてしまいそうだ。気は急くが岩や潅木が行く手をはばむ。足はもつれ、両膝
に手を当てて一呼吸つく。すると明かりの主も立ち止まり、こっちを窺っている
。僕の存在を知っていたのだ。霧を通して相手の眼差しが突き刺さってきた。
 でも、それも束の間。明かりはまた無情に遠ざかる。なぜ、待ってくれないの
か。僕が遅れても、もう歩調を落としてはくれない。無視ではないが突き放す。
泣きじゃくりそうになる自分を、唇をかんで懸命に耐えた。とにかく、冷静にな
ろう。
 付いてくるのは勝手だが、甘えないでほしい。キミも単独なんだから他人に頼
りきりになるな――。明かりの主の歩みからは、そんな主張が伝わってきた。
 霧に迷い、パニックに陥った。うろたえていた自分が見透かされている。わか
った、僕も単独行としての矜持をもとう。真剣に付いていく。だめならビバーク
なりして、自分でなんとかする。足手まといにはならない。決意すると全身に精
気が甦るのを感じた。

 間隔を詰めようとすると、わざと速度を上げる。先行する明かりの主は僕との
脚力較べを楽しんでいるようだ。追いつけるもんならやってみな――挑発という
よりもちゃめっ気に近い。受けて立とうと僕も必死に歩く。 40分ほど明かりを
追うと、唐突に登山道にでた。さらに道を進むと、赤河原分岐の道標が霧に漂う
。心に安堵が広がった。ここから八丁坂を登りさえすれば、北沢峠にたどり着け
るのだ。明かりの主はすでに遥か頭上の八丁坂にいた。おぼろげな光が梢に見え
隠れしていたが、手を振るように明かりを左右に揺らすと視界から消えていった
。霧は濃いが、道は確かで不安はない。

 急坂に音を上げながら高度を稼いでいくと、いきなり霧が晴れた。夜空には無
数の星がきらめく。濃霧が嘘のようだ。しばらく歩くとほんのりとオレンジ色の
明かりが山裾にもれ、北沢峠の小屋が近いことを知った。
「やっと来たか。心配していたぞ」
 小屋番の人が戸口から声をかける。数人の登山者も一緒だ。もはや10時になら
んとしていた。事情を説明し、先導してくれた方に挨拶したいと語ると、小屋番
の人は奇妙な物を見るように僕の顔をしばらく覗き込んだ。
「オイ、みんなで8時から待っているけど、戸台から上がってきたのはキミひと
りだぞ。私が途中で抜いたのもキミだけだ。1時間ほど前に東大平あたりまで探
しに行ってもらったが、誰も見かけなかったそうだ」
 登山者たちも一様に頷いた。沈黙した後に小屋番の人は続けた。
「山じゃよくある話だ。あの高校生だろう。同じ高校生ってことで、助けてくれ
たんだよ。帰りに鋸岳に手を合わせていきなさい」

 小屋に泊まっていいといわれたが、これ以上、迷惑をかけてはならないと辞退
した。テントを張り終え、忍ばせてきたポケット瓶を口にする。食道から胃、全
身に小さな炎が染みていく。はらはらと涙が流れ落ちてきた。その夜はなかなか
寝付けなかった。

 赤いナナカマドの実が繁る道を一心に登った。仙丈にいるのは僕だけだ。薮沢
のカールで休憩する。カール底から天に向け、巨大な山容が一気に吹き上がる様
に圧倒された。振り返ると甲斐駒の肩に鋸が連なる。褐色の胸壁が陽光を照り返
し、底が抜けた濃紺の空にいつまでもはためいていた。



スキーのこと

徳地保彦

雪の遠い南カリフォルニアに暮すようになってスキーにはす
っかり足が遠のいた。ロサンゼルスの近郊には3000メートル
の山がいくつかあって、冬の間のしばらくは自然の雪でスキーが楽しめる。とこ
ろが人が多いのとリフト代が高いのとで、ぼくはシーズンに一度ぐらいしか行か
ない。バックカントリースキーとなると降雪のタイミングが特に難しく、近郊の
山でパウダーなんかを楽しむのは至難の技だ。400マイルは離れたシエラやタホの
山に何時間もかけて出かけていかねばならない。

スキーは滑らないでいるとますますへたくそになっていく。クライミングもスキーもただ
面白いというだけで気合を入れて集中してやったことはないので、もともと上手というわけではな
い。だからこれ以上へたくそにはなりそうもないのだが、久しぶりに深雪なんかにもぐり込んで奮闘して
しまうと、こんなはずではなかったのにと情けなくなってしまうのだ。

まだ暖かい師走に訪れた日本で、白馬方面にスキーに行く機会があった。学生時代には大町にある友人の
実家に何日も泊まり込んで春スキーを楽しんだこともある。白馬周辺でスキーをするのは10数年ぶりになる。高速
道路がなかった昔は東京方面からだと塩尻峠を越えるのも大変で、勝沼辺りからだらだらと一般道を走り、塩尻峠で
チェーンを付けて、松本を過ぎてからは雪わだちにハンドルを取られながらようやくスキー場にたどり着くことができた。
深く雪の積もった里山にテントを張って五竜や白馬の尾根を登り山スキーの練習をした。

ぼくがテレマークスキーを始めたのは80年代の前半だ。初めて行ったコロラドのスキー場でレンタルのテレマークスキーを
借りた。白馬で山スキーの練習をしていた頃からしばらく後のことだ。その頃、テレマークスキーはまだ完全にクロスカント
リースキーで、レンタルもゲレンデから離れたクロカンセンターで取り扱っていた。名前は忘れてしまったが借りたの
は茶色のロシニヨールスキーだ。平地を走るクロカンスキーにエッジを付けたものだった。滑り止めワックスをキ
ックゾーンに塗れるダブルキャンバータイプだった思う。靴はもちろん皮製で、当時、日本で流行ってい
たスノトレシューズにスリーピンのコバが付いたような頼りないものだった。

テレマークターンは山足が前か、それとも谷足が前かなどとだっだ広い斜面で遊んでいたら、ひ
とりのテレマーカーが近づいてきた。いっしょに滑ろうといってきたのだ。彼の道具はぼくのと
たいして変わらないが、持っているストックがやけに短い。手首にだらっとぶら下げてやっ
と先端が雪面に着く長さだ。テレマークスキーは長いストックで両手を上げて万歳ス
タイルで滑るものだと信じていたからこれにはちょっと驚いた。ゲレンデで滑
るだけなら歩いたり登ったりしないのだから長いストックは不要なのだ
が、それにしても短すぎる。

その理由は彼の滑りを見てすぐに判明した。彼のテレマーク姿勢は
膝を深く折り曲げて滑るスタイルで、もうほとんどスキーの上に
座っている。細いダブルキャンバーのクロカンスキーに、足首
の不安定な柔らかい革靴でコロラドのだっだ広いスキー場
を飛ばすにはしゃがみ込みスタイルが必要だったのだ。
だからストックもそれぐらい短い方が便利というわ
けだ。ぼくはそんな本場テレマカーのスタイル
を真似ながら、必死になって彼の滑りを
追っていった。


今回、白馬でいっしょに滑った友人たちはさすがにモダン
な滑りをしている。ひとりはプラスチックブーツとカービン
グスキーで鋭いターンを切っていく。どちらの道具も、今で
はすっかりテレマーク界に受け入れられている。彼はアメリカのス
ノボー小僧から波及したダウンヒルヘルメットまで被っている。最近
はこれが流行のようだ。もうひとりはツアー用の革靴だが新品の板でな
めらかに小回りターンを決めていく。ぼくはといえば、ここ10年ぐらい1シ
ーズンに1、2回ぐらいのペースだから、そんなターンは到底期待で
きない。久しぶりに白馬で味わう雪の感触を楽しむだけだった。

シーズン初めで雪量も今ひとつの白馬だったが、栂池では偶然
会ったTAJのインストラクターが駐車場まで滑り降りる特
別コースを教えてくれた。初心者不可の深雪コース
だ。泥のように重い悪雪にもかかわらず友人ふ
たりは面白そうに滑り降りていく。ぼくのター
ンは3回ほども続かない。ぼくは雪まみ
れになりながらようやく車まで降り
ていった。そして、待っていたふ
たりにこういった。「このスキー
、ぜんぜーん滑んないじゃー
ん!」 練習不足で深雪が
滑れない言い訳をヘ
ルメットを被っ
た友人か
ら借り
たスキ
ーの




た。



雪山で死なないための用意

これを着てこれを持っていれば生還できる


 冬山、天気のよい日にピークを目指すときどんなウエアを着ていけばよいのだろう
か。ザックのなかには何をいれておけばよいだろうか。 好天に恵まれたな1日なら、
デイパックに非常食と防寒具くらいを入れて、「薄もの」の行動着で出発、雪の斜面
がでてきたらアイゼンをはき、ピッケルを持ってサクサクと頂上に達し、ルンルンと
下りてくることができる。 パックも軽いし気分も軽快、こんな山行が何度か続けば、
「雪山なんてかんたんさ」ということになりがちだが、チョト待て、ほんとうにそれ
でいいのか、緊急時のための装備は? というのがここでのテーマである。 天気が
よければつぎにやってくるのは悪天にきまっている。 急に風が吹いてきて、雪が舞っ
てくる。視界が閉ざされ、やがて吹雪き、トレールが消えて、道を失い、さまよった
あげく、夕暮れが迫ってくる。焦っているせいか斜面でスリップしてねんざしてしまっ
た。遭難という言葉が脳裏に浮かぶときである。こんな場合でも、「生きて帰ってく
るための装備」があれば落ち着いて行動ができる。

ウエアー
 吹雪がやってくると、その凄まじさに驚いて気持ちとカラダが負けてしま
いがちだ。頭はパニックになりカラダが固くなって正確な行動ができなくなる。そう
ならないためには、吹雪に強いウエアを身につけておきたい。 まず第一はしっかり
したアウターが必要だ。防水透湿性素材の、丈夫で軽くしかも動きやすいもの。日本
の雪山では雨がふることも多い。完全防水であるのは当然だが、そのうえ行動中の汗
が外へでていくものがマスト。フードの形がよいものは強風を防いでくれる。同時に
バラクーバ(目出帽)は必携アイテム。ジャケットだけでなくボトムも同じものをそ
ろえたい。完全なアウターがあれば吹雪もなんのその、外はそよ風よ、の気分で余裕
をもって行動ができるはず。もちろん登山用のアンダーウエアとフリースなどの中間
着を自分好みのレイヤードで身につけておく。ジャケット類を一日中着ている必要は
ない。陽気がよければパックの中にはいったままで出番がないときもあるだろう。グ
ローブもおなじで、行動中は化繊やウールのうすい手袋でも役に立つが、冷え込んで
きたり、吹雪きになったときは完璧な防寒性のあるデラックスなグローブがパックか
らすぐ出せるようにしておきたいものだ。アウター同様にグローブにもお金を惜しん
ではいけない。手が冷えきると勇気も失われるのである。

迷わないためのギア
雪山ではいつかきっと道に迷うと考えよう。コンパスと高度計と
地図の3点セットは必携。これで自分のいる位置が特定できる。登山者の多い雪山で
はトレールが明瞭だが、ひとたび吹雪きがくればトレールは消えてしまう。夏の道は
雪の下だから、基本的には雪山では自分でルートを作っていくことになる。道迷いは
しばしばおきる。3点セットでつねに自分の位置を確認しよう。GPSというハイテクギ
アも有効だ。 道に迷うと時間がどんどん過ぎていく。すぐに暗闇が訪れる。

ビバークに備える 
雪山ではいつかきっとビバークしなければならないときがくると
考えよう。 暗くなる前にビバークの準備を始めることになる。長時間寿命のLEDの
ヘッドランプを出して暗闇を追放。パックの底から超軽量ツエルトを出して設営、こ
んなときのための超軽量の羽毛服を例のアウターの下に着込む。コンロセットを出し
て火をつけお茶でも飲もう。カラダがぬくぬくしてきたら、非常食をとりだしてサバ
イバルな夕食を楽しむ。携帯電話か無線機を使って下界と連絡がとれると安心だ。外
は厳寒の暗闇でもツエルトの中は別世界。仲間がいれば心強い。隠しもったウイスキー
でもでてくれば余裕もでてくるだろう。明日の行動予定を落ち着いて考えるときだ。

 以上の装備を持っていれば、命がけの雪山のビバークが余裕の雪上キャンプにかわ
る。グループの場合でも、ツエルト、ロープはともかく、基本的には各自がそれぞれ
を持ちたい。そんなにたくさんいつも持っていくの?という質問がありそうだ。コン
パクトで軽量なものをセレクトすればそれほどのカサや重さにはならないはずだから
(せいぜい1キロか2キロ)、常時携帯をおすすめする。雪山で死にたくなかったら、
それが常識と考えよう。 もちろんスピード登山や高所登山、冒険的な雪山登山を目
指すエキスパートにはこの常識はあてはまらないかもしれない。彼等は軽量化のため
リスクを承知で冒険精神のおもむくまま常識的装備をも省いて行動することがあるの
である。 日帰り登山や山小屋利用ではなく、一泊以上のテント山行の場合について
は、幸いにもここで挙げた装備が必ず携行されているはずだから、装備の不足による
遭難はおきないはず。(文 糸尾汽車 イラストレーションS 村上智行)


いちばんいいモノを。ぶかぶかのものを
話 小西浩文

 雪山は自然条件が厳しい。どうしてもヤバイ状況にでくわすことがあります。そん
なときはパニックにならない沈着な精神的耐久力が必要です。強い肉体も必要ですね。
 装備も重要です。雪山装備を買うんであれば信頼できるいいものにしてください。
命を預けるものですからケチるとろくなことにはなりません。いいものは高価なもの
になりますがそれだけの理由があるのです。 大切なポイントは、雪山のウエアはす
べて大きめのものがいいということです。アウターはもちろんブーツ、手袋などゆっ
たり目のものが保温力が高いです。ぼくはほとんどぶかぶかに近いワンサイズ上のも
のでそろえています。足先はとくに冷えますから雪山専用の大きめのブーツにしてく
ださい。 ヒマラヤと違って日本の山は湿気が多いです。だからアウター類はすべて
ゴアテックスをつかったものが絶対必要ですね。シュラフカバーもそれでないとどん
ないい羽毛寝袋も濡れて役にたたなくなります。

(こにし ひろぶみ 登山家 8000メートル峰14座無酸素登頂を目
指している。現在6座を登り、2002年には3座の登頂を予定している )




これがあればあなたは生きて帰れる


インナー羽毛服 薄手のシェルに上等な羽毛入り。ウルトラライトでコンパクトに
なるもの。モンベル製は最新。ふだんは使用しない

グローブ ゴアテックスのシェ
ルで中綿が厚いもの。シンサレート入りもよい。ミトンタイプのほうが保温性は高い


バラクーバ アンダーウエア生地か薄いフリースのものがよい。ネックゲーター
としても使える

帽子 ウールかフリースのもの。頭は意外と寒さに強いから厚い必
要はない

アウター上下 ゴアテックスを使った本格的な雪山登山用を。インナーに
はフリース、登山用アンダーウエアを着る。行動中は別に薄手のシェルを使うのも賢
い方法。各社の高級商品から選びたい


ブーツ アイゼンがしっかりと装着できる雪山用の登山靴であること。プラスティッ
ク製か、最近は皮革製のすぐれたものがでている

コンロセット 最近人気の小型軽
量バーナーとチタンコッフェル、寒冷地用ガスバーナーは大きいものをもちたい。さらに
出がけにテルモスに暖かいお茶をいれておけば最高
8、

コンパスと高度計 もちろん地図が必要。機器ものとしては携帯電話や無線器など
もほしい
10
、ヘッドランプ LEDの長時間持続タイプできまり。ペツルがポピュラー
11
、ウルトラライトなものを。これもふだんは使用せず。お助け丸のシェルター、ア
ライテントかICI石井あたりのもの
12、
ロープ グループにひとつほしい。6ミリの
30メートル。あるのとないのとで生死の境となる
 13,14 
 アイゼンとピッケル す
ぐ取り出せるところにつけておこう。ピッケルは落とさないようにシュリンゲでカラ
ダからアンカーをとっておくこと。使用中にアイゼンが外れることがないように厳重
にチェック。落としてしまったら命取りとなる
15。
非常食 すぐに食べられるすきな
ものを。コンビニで調達できる
text edico itoo kisya


大先輩の岩のぼり


北岳第4尾根で

小俣さんはひょうひょうと最後のピッチを登ってきた。確実で安定した
クライミングだ。ニコニコ顔。僕のところまでくると
「やったね」
と手を差し出す。うれしそうだ。
小俣さんは念願だった北岳バットレスをついに登った。本格的
アルパインクライミングだったが、余裕で登ったように見える。60歳を超
えているとは信じられないその元気。いちばんすごいと思うのは、遊びの心が
元気なことだ。
もうロープはいらない。クライミング用具を腰や肩から外してザック
におさめる。ヘルメットもぬいで帽子をかぶりなおす。
あと一時で北岳の頂上だ。

年に一度か二度高い山に岩登りに行きたくなる。
ふだんは山登りの仲間と、近場のゲレンデや室内ジムでロッククライミングの
練習をしているのだが、高い山で本格的な岩登りをすると、クライミングの楽
しさが増幅するのだ。もともと岩登りはアルプスのような高い山に行って行
うものであった。標高3000メートルの付近でのクライミングしていると、
まさに天と地の間にいるという感じがして悪くないものである。
「どんなに難しくて大変な遊びであろうか」と考える人もいるかもしれないが、
この高い山でのロッククライミングは、じつは意外とかんたん。
というのもふだんゲレンデや室内ジムで練習している技術の半分以下の
テクニックで登れるようなルートを選んでいるからなのである。
なーんだ
ないのである。技術的な困難さ以外に、高山では標高や気象などそのほかの要素
が加わることもあってテクニックのことばかりは言っていられないのだ。
そんなわけで、北アルプスや南アルプスなど季節のよいときを選んで身
のほどにあったルートを選んで毎年登っている。

スキーの仲間、というより先輩の小俣さんは、南アルプスの北岳が大好きで、
毎年仲間を誘っは登っている。あるとき、「なんども北岳には登ったけれども、
北岳バットレスからはまだ登ったことがない。」と話してくれた。
「じゃ、こんど行きましょう」と軽く請け合ったのだ。北岳といえば富士山
につぐ日本で第二の高峰。その頂上に突き上げる第4尾根は長くてきれいな
岩登りルートとなっていて、まさに3000メートルの岩登りが楽
しめるところなのである。有名なアルパインクライミングルートというわけだ。
軽く請け合ったのには理由があった。
ぼくもそこを登ってみたい、と思っていたから。このところ毎年のように北岳
バットレスを登っていて、今年も、と思っていたのである。標高差1700
メートルもあるこの岩登りはカラダによく効く絶好のトレーニングなのである。
もうひとつの理由は登るが小俣さんだったからだ。小俣さんは60歳を超
えているはずだが、足腰の丈夫なことは冬のスキーで承知のうえ。さらに
クライミングが好きらしく、以前はどこかのゲレンデでクライミングの講習会
を受けているのに出くわしたことがあった。そのときの小俣さんの登り方を見
ていたからである。
小俣さんは目標のルートを登る十分な条件を備えていたのである。ふつう
の60歳のおじさんを北岳の岩登りに誘うことになったら、ぼくは深刻に考え込
むことだろう。

8月も終わりになって、夏山シーズンもそろそろというころ、その北岳
バットレスを小俣さんと登ることにした。去年いっしょに登った仕事なかまの
川崎さんにもプランを伝えると「おれもまたいきたい」と素早い反応。
日曜日は混雑するといけないので月曜日に登ることにした。人気岩登りルート
には人が集中することがある。混雑すると、落石があったり、順番待ちで渋滞
することもあって面白くないのである。予定の月曜日は天気予報によると曇
りか雨。
前日の日曜日、小屋にやってきたお二人。装備をしっかりと整えてはきたが、
天気予報がそれだから気合いはあがらない。どうしようか、と最新の天気図を
見る。明日登るのなら、今日中にスタート地点の広河原に
入っておかなければならない。
「この天気図を見ると、ふつうなら中止というところですね」と僕。
一般の山登りならいくらか雨風があってもなんとかなる。アルプスでもおなじ、
だが、それがアルプスでの岩登りとなると危険度は倍増する。岩は濡れると
スリップしやすくなるから、それがいちばん恐いのだ。第一、天気が悪い時に
クライミングなどしても楽しくもなんともない。
古いともだちと小屋で小宴会を開くのもよいものだ。そんな気分に流
されそうではあったけれども、
宴会は現地スタート地点でもできるではないか、という目からウロコの発言
があって
衆議一決、とりあえずきょうは広河原に入ろう、ということに。夜は小宴会、
翌朝雨だったら戻る。万一天気が悪くなければ登ればよいというプランだ。
岩登りの装備に加えて、テントやお酒などを積み込み、厚い雲の流れる空のした
甲府盆地経由南アルプスの登山口広河原へ。
小屋から3時間。その夜、小さなあずまやの下、ランプの明かりたよりの宴会
は楽しいものだった。

あけてよく朝。
思いもかけない好天。北岳の頂上までハッキリ見える。第4尾根が朝日を浴
びて輝いている。
あわててお茶を飲みおにぎりなどをほうばり、6時前には歩き出した。この
広河原が標高1500メートルだから頂上まで1700メートル弱ある計算だ。
大樺沢を登っていく。夏山シーズンが過ぎたとはいえ、人気の山だから人足が
途絶えることはない。雪渓がでてきた。何百メートルも続いている。空気が
ヒヤッとする。前の冬は大雪だったから今頃まで残ったらしい。雪渓から小さな
枝沢に入る。急でガラガラしたがれき状の沢をつめていくと、城壁のような大
きな岩場が行く手を阻む。こればbガリーの大滝といわれる岩場だ。ここが岩登
りのスタ ート地点だ。
「ひとやすみしてから登りはじめましょう」ここまで3時間近く歩
いているから、休憩とエネルギーの補給が必要だ。
靴をクライミングシューズに履き替えヘルメットを取り出し、ロープなど
クライミング用具を点検する。
朝の光りがさわやかだが、山肌にはもうガスが湧きはじめている。
「落ちてもロープで止めますが、できるだけ落ちないようにしてください。浮
き石がありますから気をつけて」
北岳バットレスは1000メートル四方くらいの大きな壁だが、
そのなかにいくつかの尾根と急な沢が入り込んでいて複雑な構成となっている。
下部岩壁と上部とに分かれていて、下部岩壁にはいくつものルートがある。今回
はbガリーという易しくて快適なルートを選んだ。上部は直接頂上に突き上げる
人気の第4尾根を登る。
岩登りは普通、複数の人間がロープで結びあって交互に登っていく。先に登
るのがトップであり、後ろからいくのがフォローである。トップはリード
ともいう。
今回は3人なのでひとりが2本のロープをひっぱりながらリードして、つぎに
他の二人が同時に登るシステムとした。
下部岩壁のbガリーは3ピッチあった。1ピッチと2ピッチはぼくがリード。3
ピッチ目は、
「先にいってみたい」という小俣さんの気分で彼がリードすることになる。
慎重に登って、なんの問題もない。
小俣さんも、それよりは若いけれど、それでも50歳をとっくに超えた川崎
さんも元気なものである。
口笛をふきながら登る、という余裕だ。
下部岩壁を登り切ると、お花畑がひろがっていて、晩夏にさく山の花がかれんに
咲き競っている。朝方登ってきた大樺沢が目の下にあって、雪渓が大きく広
がる。登山者がアリのようにその雪渓のわきを歩いているのがみえる。まさに
天と地の間に、の気分である。
再び小休憩。岩登りは、これから待ち受けるルートのことや天候が急変
しないか、などということが気になってゆっくり休んでいられないタイプの山登
りではある。
次ぎに目指す上部岩壁の第4尾根はすぐにわかった。幸いなことに平日
とあって、そのうえ天気予報が悪かったせいか、ほかに
登っているひとはいないようだ。マイペースでいけるし、上から人工的な落石
がないことがうれしい。

第4尾根は全部で8ピッチほど。急なむき出しの岩尾根だから高度感もあるし、
その分恐いというか気分がよいというか、クライミング特有の痛快な感覚が味
わえる。昼になってあたりにガスが湧いてきた。高山の雰囲気がいっぱいだ。
天気はしばらく崩れることもなさそうだ。ラッキー。
とんとん拍子でのぼり、時間に余裕もあるのでところどころ小俣さん、川崎
さんもリードする。
クライミングではリードする人が危険性が高い、その分恐さも充分。一方
フォローは、安心して登れるがその分、充実感が少ないかもしれない。自信
があればたいていの人はリードして登りたいと考える。達成感がちがうからだ。
「リードすると面白いですね」小俣さんはうれしそうだ。
一カ所、尖塔のような岩峰からロープ頼りに伝い降りる場所がある。その技術は
懸垂下降といわれているが、ロープ1本にぶら下がって谷底に向かって降
りるのは、何回経験しても、どんなにベテランになってもこわいものである。
「何回か練習したことがありますから大丈夫です」小俣さんはなんの不安
もなく降りていった。
懸垂下降は面白いと余裕だ。
ガスが濃くなってきて、その切れ間に、向かいの尾根を登っていく登山者の列が
遠望できる。ファンタスティックな光景だ。
最後の岩尾根を慎重に超えると、たたみ100畳くらいの岩の平らにでる。
その先には色鮮やかなお花畑がひろがる。岩場は突然終了して別天地が開
けるのである。そこから15分も登れば北岳の頂上。

頂上には数人の登山者がくつろいでいた。ガスが遠巻きに湧いていて遠くの山
は見えないが、周辺の尾根や沢はクリアだ。風もなくぽかぽかとした陽気。
平和な頂上。こんなときに頂上に立てるのは幸せなことにちがいない。岩尾根を
クライミングして辿り着いたのならなおさらだ。3人あわせて162歳という
高年クライマーたちは、頂上で特別にはしゃぐわけでもなく大人
しいものであった。
「天気予報ははずれたね」
「おれたちはアタリだ」
「山の天気はとにかく現地まできてみないとわからない、というのが今回の
教訓」
一般登山道である草滑りルートをいっきに下り、朝出た広河原には3時間
もかからなかった。出発から帰還まで11時間。下りに勢いよく走ったせいで、
翌日、その翌日と筋肉痛などの後遺症が激しく3人を襲うハメになることを、
このときはまだ予想していなかった。
糸尾汽車


 s.kashiwa
「これが小屋番の岩登り」

 最近、北アルプスにある北穂高小屋の取材をしている。北穂高岳北峰の頂上直下。
切り立った岩ばかりの稜線に、へばりつくように立っている小さな山小屋だ。一昨年
に、山岳雑誌の企画で北穂高小屋の主人・小山義秀さんをインタビューして以来、私
はすっかり北穂高小屋に魅せられてしまった。ぜひ、書きたい、書かせて欲しいと、
小山さんにお願いしたのだ。理由はいくつかあるのだけれど、それは別の機会に。

 今年は、4月21日の小屋開けから参加させてもらった。雪がべったりとついた春の
北アルプスにヘリコプターで入山し、雪の下に埋まっている山小屋を掘り起こし、GW
には営業を開始できるようにするのだ。除雪作業といい、その後に数回通った際の山
小屋の仕事といい、私は、もちろん戦力外。それどころか、不慣れで邪魔ばかりして
いる。
 それでも、北穂高小屋の方々が私を温かく受け入れてくれるので、取材を続けるこ
とができるのだ。感謝の思いでいっぱいだ。なんとかいい本を書かなければならない
(これから出版社を探します!)。私はいつも、従業員の方々の優しさや真心に触れ、
心があらわれる思いになる。

 今回は、8月15日に入山した。途中、激しい雷雨に打たれ、濡れ鼠になって小屋に到
着すると、支配人の足立敏文さんの姿はなかった。数日前の電話では、足立さんが「天
気がよければ、滝谷に行こう」と言ってくれたので、ギアを持ってきているのだが。
 どうやら、足立さんは、大キレットで起きた事故の救助に行っているようだ。夕食
の準備が始まった頃に、びしょぬれになって帰って来た。すぐに雨具を脱ぎ捨てて、
お客様用のしょうが焼きを作り始めた。先ほど、頭部をケガした登山者を救出し、雨
の中ヘリコプターを待って、無事収容したばかりだ。次は大なべの前に立って、80人
分もの料理をするのである。なんというギャップだろう。本当に山小屋の方がたには
頭が下がる。

 前回の訪問のとき、居間でテレビを見ていた足立さんに、「今年は北穂イヤーなの
で、滝谷を登りたいと思っているんですよ」と話した。そしたら、「いつでもお付き
合いしますよ」という応えが返ってきて、びっくりした。想像もしていなかったから
だ。誰かクライミング仲間に付き合ってもらうしかないって思っていた。 足立さん
は、大学生の頃から北穂高小屋で働いている。20余年前のことだ。大学の専攻は鉱物
学で、北穂高岳周辺の岩石について研究をしていたという。小屋が営業している4月か
ら11月は、ほとんど山にいて、残りの日数を下界で過ごしていたらしい。下界にいる
ときも、いろいろなところ(どこかは内緒)に通っていて、話を聞くに、ずいぶん忙
しそうだ。いくら8年かけたといえ、どうやって大学を卒業したのか、ちょっと不思
議。
 その頃から登山や岩登りをしていて、滝谷は数え切れないぐらい登っている。今回
のお目当てルートである「ドーム中央稜」は、20回ぐらいは登ったらしい。こんなに
たくさん登った人は、きっと他にはいないはずだ。山岳ガイドも顔負けのツウである。
 17日にチャンスがやってきた。とはいっても、この日は「ヘリの日」だった。上高
地のヘリポートからヘリコプターが飛んできて、北峰頂上に食糧や燃料などの荷揚げ
品を下ろしていく。それを、小屋のそれぞれの所定位置まで運ぶ作業があるのだ。数
回しか経験したことはないが、大変な肉体労働なのである。こんな忙しい日に、のん
きにクライミングに行ってよいのだろうか? 心配だったけれど、小山さんは気持ち
よく送り出してくださったし、他の従業員やアルバイトの方々のおかげもあって、私
のクライミングが実現できた。

7時半、朝食を終えたあと、出発の準備に取りかかった。
「雨具や水どうしましょ? 小さなザックでいいですよね」と聞くと、
「雨具も水も要りませんよ。ザックはひとつ。10時のお茶の時間には帰ってきましょ
う」と足立さん。ずいぶん身軽な滝谷クライミングである。水筒もないのなら、と私
は慌てて、コップ一杯の水をゴクゴクと飲み、足取りも軽く小屋をあとにした。
大型の台風がゆっくりと日本列島に近づいている。あと4日もすれば、ここも暴風雨に
なるはずだ。その台風の影響で、東の風が吹いていた。いつもとは反対だ。これは、
ラッキー。滝谷側はめずらしく無風かもしれない。「明日は絶好の滝谷日和になるよ」
という足立さんの言葉が的中した。
滝谷は2回目だ。前回のルート自体はとても簡単だったけれど、いやらしい下降が好
きになれず、その後、滝谷を敬遠していた。しかし、北穂高小屋に通うようになって、
毎回滝谷を眺めるうちに、また行きたいと思うようになったのだ。
私は、10年以上前になる初めての滝谷クライミングを思い出しながら歩いていた。大
学で本格的(?)に登山を始めて間もない頃、クラブのOB先輩に連れられて、第二尾
根を登った。このルートはクライミングというよりも岩稜歩きのような初心者向けだっ
たけれども、初めて滝谷という独特な世界に入り込んだことを、鮮明に覚えている。
唯一クライミングらしいムーヴができる水野クラックをリードさせてもらったのも気
持ちよかった。あれは、本チャンにおける私の初めてのリード体験である。
そして、2回目は、北穂高小屋の足立さんとドーム中央稜だ。私はなんて恵まれてい
るのだろう。しばらく稜線を歩き、ドームを過ぎたあたりから滝谷側へ降りていく。
ここからは、別世界になる。比較的しっかりとした踏み跡がついている。下手に見え
る第四尾根には2パーティが取り付いているようだ。上空からはヘリコプターの音が
してきた。荷揚げのヘリがやってきたようだ。
しっかりとした残置アンカーのある個所で、1Pの懸垂下降をし、少し行くと、ドーム
の基部に到着だ。小屋から小1時間でクライミングを始めることができる。見上げる
と顕著なチムニーと上部にはチョックストーンが確認できる。傾斜があり迫力満点だ。
わくわくしてきた。
ふたりはクライミングシューズに履き替え、互いにロープを結んだ。私は、取付にあっ
た古びた残置ハーケンを3枚使ってセルフビレイを取り、足立さんは2人分のトレッ
キングシューズが入ったザックを背負って登り始めた。
 最初は大きなホールドとスタンスを拾って登り、やがてチムニーに入っていく。な
んでも、チョックストーンを越えるところが核心らしい。そう難しいわけではないの
だが、背中のザックが邪魔をすることになるって、足立さんは登る前から予言してい
た。20数回目だから、予言ではなくて、そう、私に教えてくれたのだ。その言葉どお
り、足立さんの動きがちょっと止まった。落石を避けて岩陰に隠れてビレイしている
ためによく見えない。次の瞬間に、足立さんのからだがふぃっとチムニーの外に出て
上に消えていった。どうやら抜けたようだ。「ビレイ解除」の声があった。
 次はいよいよ私の番。初めてのルートは、いつもわくわくする。どんな岩質だろう、
どんな感触だろう、どんなルートが飛び出てくるのだろう。ランニングビレイを回収
しながらチムニーに向かった。大きなトンネルだ。チョックストーンを越えると、小
さなテラスに出た。
 2P目はフェースから始まる。すぐに左側のカンテに移り、足立さんの姿は見えなく
なってしまう。やがて上部のフェースを登っている足立さんの大きなからだが見えた。
 足立さんは、がっしりとしたからだつきの方だ。いつも聞かせてくれるこれまでの
仕事のことやスキーや山登りの話から想像するに、多分、いや絶対、足立さんは、すっ
ごく頑強な身体をもっていて、運動神経がずば抜けてよいはずだ。
前回、「体重を落とさないと岩登りにはきついな」と話していた足立さんだが、今回
会って開口一番に、「11キロ落としましたよ」ときた。これを聞いて、私はますます
嬉しくなった。しかし、よくよく聞くと、特別に滝谷クライミングに向けて落とした
ようではない。どうやら、小屋の仕事が始まると、ちょっとした調整で減量できるよ
うだ。「私も減らしてきましたよ」と喉まででかかったけれど、大した量でもないし、
どうやら気付かれていないようなので、黙っていた。
 2Pはロープ半分ぐらいの短いピッチだった。
 この先は、約1P分ぐらいコンテで進んだ。これがわかりにくい。ふみ跡をつづら折
のように登っていくと、次の取付がある。
 足立さんが「いつもこんなにポンポンと登らないでしょ」と。
「ええ。取付まで迷って、ピッチの切り方に失敗しててこずって」と私は答えた。そ
れに比べ、今日の岩登りは完璧だ。取付までは、足立さんの案内ですんなり到着。ピッ
チもうまく切って、ロープの流れも万全。
「これが小屋番の岩登りですよ。休み時間にササッと登るんです」。
 3P目は、フェースから凹角を登って、またフェースに移る。これも短いピッチだ。
最後の小さなフェースには、残置スリングがある。これをつかむとA0らしい。大きな
スタンスはあるのだけれど、次の一手がないのだ。壁も立っていて、スタンスでムー
ヴを保持しにくい。ところが、ちょいと腰を入れて、ワン・ムーヴおくと、上のガバ
がつかめるのだ。こんな発見が、岩登りのおもしろさだ。
足元には蒲田川右俣谷が広がっている。緑の木々の中を流れる川がキラキラと光って
いるのがわかる。風はほとんどなく、滝谷特有の霧もない。岩もからっからに乾いて
いて、気持ちよいほどフリクションが効く。自然のなかでの岩登りが、私は大好きだ。
縦走路から少し離れると、岩だけの静寂な世界になる。自分の五感を研ぎ澄まし、か
らだの能力を存分に使って登るのが心地よい。
最終ピッチは、私がリードをさせてもらった。浮石も減って安定したピッチだった。
顕著な凹角を登り、ハーケンが連打されているクラックを眺めながら、右に巻くよう
に登ると、別のクラックがあった。人間の能力というのは、すごい。いろんな形状の
岩に出会いながら、うまく解決策を見つけて登っていくのだ。そのクラックは考える
まもなく、からだがレイバックのムーヴをとり始めた。快適だ。登り終えると、終了
点。
続いて足立さんもすいすいと登ってきた。
これで、楽しかった滝谷クライミングも終わりである。「ハーネスも全部このザック
に入れてください。昔は、ガチャガチャさせながら小屋の周りを歩くのはご法度だっ
たんです」と教えてくれた。小屋で働く人間が岩登りに出かけることを、雇い主とし
てはかなり心配していたのだろうか。これも、小屋番の岩登り流儀かもしれない。
記念撮影後、ドームの頭直下にある、足立さんのお知り合いの慰霊碑をお参りして、
小屋に戻った。すがすがしい気持ちになった。
 小屋では、アルバイトの男の子たちがお茶を飲んで休憩をしていた。私よりも一回
り以上年下の若者たちだが、みんな素直で心根が優しく、小屋の仕事に不慣れな私を
助けてくれた。入山以来、絶不調でパブロン漬けだった私の体調も、いつのまにか毒
が抜け切ったように回復していた。
ギアを片付けていると、足立さんは「西壁も継続しようって言いかかっていたんだけ
れどね」と言った。またもや、嬉しくなってしまう。ドーム西壁雲表ルート。これも
楽しそうだ。第四尾根もある。もったいないから、またの機会にとっておこう。

文 柏 澄子



大雲取谷


梅雨の最中だというのに連日30度を超す暑さ。もうやだ、暑いのは苦手なのよ。山の涼
しい風にあたりたい。かといってこの時期、近場の大して高くない山を歩いても、温風と
虫に苦しむだけ。うーん・・・・。そうだ、そうだよ、沢登りという手があった。近くて
よい沢、大雲取谷へ行こう。  というわけで今年初めての沢登りです。

 車で日原林道に入る。大ダワ林道入り口付近に駐車。林道から長沢谷に下り、対岸の大
ダワ林道に取り付く。15分ほど登り、尾根を回り込んで少ししたら左下の大雲取谷へ踏
み跡をたどる。唐松谷出合いから始めるのが本来だが、今日はショートカットしてここか
ら。9時35分入渓。下り立った沢床でまずは顔を洗う。ひんやり気持ちよい。暴力的な
日差しは谷を覆う広葉樹林に遮られ、聞こえてくるのは瀬音と鳥の声だけ。ああ生き返
る。出だしはやさしくどこを歩いてもよい。膝くらいまで濡らせばすむものを、わざと深
みを歩く。ときどき小さな段差を越えていく。水しぶきでぬれた石の周りに小さな黄色い
花が咲いている。よく見るとあちこちにある。苔の緑とあいまって美しい。こんな楽しさ
がずっと続けばいいのに・・なんて考えていると、はじめて滝らしい滝が現れる。高さ2
~3メートル、高くはないが立っている。前には深い釜。癒し系沢歩きの気分になってい
たので一瞬ビビル。釜の右から回り込み流心のやや右を登る。ホールドが少しぬめってい
るがなんてことはない。初心者にはロープを使ったほうがよいだろう。ここを過ぎると小
雲取谷出合いまでまたまた癒し系となる。小滝を懸けて入ってくる小雲取谷を過ぎるとS
字峡と呼ばれるゴルジュ帯となる。ゴルジュといっても陰気なイメージはない。小滝と釜
がいくつかあり、小滝は問題ない。釜のへつりが2カ所、いずれも右をへつる。中間で
ホールドが乏しくなる箇所に古いスリングがかかっていて助けられる。S字峡を抜けると
ナメと小滝が連続する。難しい箇所はない。左岸から芋ノ木窪、トチノキ窪が細い流れで
入ると次は8メートルの大滝だ。大滝というからには、この谷で一番大きな滝のはず。

ちょっぴり緊張して左側に取り付くが、あっさり登れてしまう。なんだか急に登攀意欲が
わいてきた、次は何だー。が、この先谷は平凡な流れになる。このやる気をどこに向けた
らいいのだ・・・。やる気充分、時間充分なので山頂まで行こうと六間谷に入る。昼食を
取りさらに細くなった流れを行く。左から何本か合わさり、右から1本入り、二股を左へ
とる。この二股は右の方が沢床が低いので本流のように見えるが左の方が大きい。流れが
きれぎれになりはじめたので水を補給する。左右の斜面の傾斜がおち沢床も高くなってく
ると、倒木に行く手をはばまれる。倒木は次々現れ、うんざり。傾斜のゆるい左岸の尾根
に上がりたくなるが、まだ小さい沢状が入ってくるので我慢する。小屋へ水を引くパイプ
が、沢を横切っている所からしばらくで雲取山荘への巻き道に出る。これを突っ切りコン
パスを合わせて山頂を目指す。鹿の糞だらけの笹の斜面をどんどん登る。小さな虫が大群
で飛んでいて口を開けて息をすると入ってきてしまう。目も満足に開けられない。早くこ
こを過ぎたいので急いで登る。汗だくだく。暑いのと虫はイヤだって言ったのに。ぱっと
樹林が切れ、草地を少しで山頂。14時。ぴったり出られてうれしい。晴れてはいるが霞
んで周囲の山はあまり見えない。最後は望まない状況になってしまったが、やはり山頂は
いい。雲取山荘、大ダワを経て約2時間で取り付き点に戻る。

レポート 黒川 春水



moss & flower
レインフォレストの森、オリンピック国立公園を行く

 4月下旬、私はテレマークスキー仲間の真壁さんとともに、オリンピック国立公園へ
 とやってきた。シアトルの西、オリンピック半島に広がるここは1981年にユネス
 コの世界遺産にも登録されており、アメリカでも人気のある国立公園のひとつだ。標
 高2428mのマウント・オリンパスから熱帯雨林を思わすレインフォレストの森、
 そして太平洋に面した海岸地域と変化に富んだ景観が多くの者を魅了する。
 今回のいちばんの目的はレインフォレストの森をめぐることだ。山麓の港町、ポー
ト・エンジェルスから国立公園へと車を走らせる。樹林帯へと入っていくと、道脇の
林床にはときどきポッ、ポッとまるで火がともるように鮮やかな黄色が目に飛び込ん
でくる。湿地帯や沢沿いの縁に生育するスカンク・キャベッジだ。4月中旬から5月
はじめ、ワシントン州では山麓の湿地に当たり前のように群生し、春の山麓に彩りを
添えている。姿形は日本の水芭蕉にそっくりだが、苞(花弁のような部分)の色が違
う。苞に日が射し込むと、黄色の蛍光ペンのような色合いとなり美しい。
 山間へと標高が上がり、国立公園のゲートが近づくに連れ、徐々に道脇の木に付着
する苔の量が増えてくる。車道上へと大きく伸びる枝からは50cm以上も垂れ下がる苔
も見られる。いよいよレインフォレストの森へと入ってきたことを実感する。
 苔のトンネルを抜け、しばらくでホー・レインフォレスト・ビジターセンターの駐
車場に到着する。シーズンオフの平日、しかも朝9時、人の気配はない。霧雨がしっ
とりとあたりを濡らしている。まずはビジターセンターに足を運ぶ。案内によれば、
このレインフォレストは年間3700mmもの多量の雨によって育まれる。海からの湿っ
た空気が森の木々をより早く生長させるそうだ。館内にはホー・レインフォレストと
標高1500mのハリケーンリッジのスプルースの年輪が展示してあるが、ここのス
プルースが2~3倍も成長が早いことがよく分かる。
 ビジターセンターを出ると、小雨が降るなか、ホール・オブ・モス(苔の殿堂)の
ショート・トレイルへと向かう。一周1.2キロほどのこの遊歩道はホー・レインフォ
レストのまさにハイライト部分を歩くコースだ。 小さな湧き水のクリークを渡って、
よく整備された遊歩道を進む。道脇にはサーモンベリーの赤紫の花がたくさん咲いて
いる。夏になるとオレンジ色のキイチゴをつけ、口に含むと甘くて美味しい。足下に
はさまざまなシダや苔が絨毯のように覆い、ところどころニリンソウのような白い花
も見られる。
 あたり一帯が緑のグラデーションに彩られたような遊歩道をしばらく行くと、ガイ
ドブックなどで見ていた全身苔だらけの木が姿を現す。苔に混じり、シダ類も着生し
ている。枝は苔の重みで弧を描くように枝先を下へと垂れ下げ、子どもの頃、アメリ
カの古いアニメで見た、深夜動き出す木のお化けそのままの姿だ。 苔の付着量がと
くに多いのはビッグリーフ・メープルだそうで、よく見ると苔の隙間から伸びた小枝
の先に小さなカエデ型の葉が芽吹いている。スプルースなどの針葉樹は広葉樹ほど苔
の付きは多くないが、真横に伸びるたくさんの枝からサルオガセなどがレースのカー
テンのようにうっすらとぶらさがっている。光が射すとグリーンのベールがかかった
ように綺麗だ。
 また、これらの針葉樹は日本の屋久杉やシラビソやコメツガなどのように倒木更新
や切株更新で木が育つ。多くの巨木が倒木の上に並ぶように幹を伸ばし、根が切り株
を包み込んで大地に這っている。ちなみに倒木更新をこちらではナース・ログ(看護
婦の丸太)と紹介していた。
 ホール・オブ・モス・トレイルのあとは2kmほどのスプルース・トレイルを歩いた。
こちらはスプルースやヘムロックなどの針葉樹が中心だ。枯れた木にはサルノコシカ
ケが多い。途中、針葉樹が倒れ開かれたエリアにはアスペン系の樹木が多く見られ、
日本同様、こちらも台風跡や伐採跡には白樺などの陽樹がいち早く成長をはじめるの
が分かる。
 涸れ沢に沿って歩いていると、途中、コロラド・ブラック・テイルド・ディアのつ
がいが姿を現す。体長は1m50cmほどの小さな鹿だ。逃げていく際、その名の通り、
黒い尻尾がよく目立つ。リスが我々の姿を見つけ、素早く幹の裏側へと逃げ隠れる。
名も知らぬ鳥がサッと飛び立った。緑豊かなレインフォレストは、多くの動物たちが
生きる太古の森の姿を今も残していた。  (松倉一夫)



THE NATION'S CHRISTMAS TREE

 アメリカ・カリフォルニア州のセコイア&キングス・キャニオン国立公園には2
本の有名なジャイアント・セコイアの巨木がある。一つがTHE GENERAL SHERMAN
TREE(シャーマン将軍の木)と呼ばれる世界一大きい木だ。
 そして、もうひとつがGENERAL GRANT TREE(グラント将軍の木)だ。別名、THE
NATION'S CHRISTMAS TREE(アメリカのクリスマスツリー)という。クリスマスシー
ズンが始まる12月上旬、周辺の人たちはこの木の下に集まり、クリスマスを祝うと
いう。私も雪のシーズンに見てみたいと、12月23、24日に訪れたことがある。
 その日、私は日本で友人が録音してくれたレゲー調のクリスマスソングばかり集
めたカセットテープをレンタカーのステレオから鳴らしながら、THE NATION'S
CHRISTMAS TREEの駐車場へと向かった。道はうっすらと雪があるものの、走るのに
支障があるほどではない。山腹も真っ白というほどではない。
 午後3時過ぎに駐車場に到着。周囲の木々の枝の雪はすべて落ちてしまっている
。あまり、クリスマスらしさは感じない。それでも、車から外に一歩踏み出すと巨
木が放つ濃密な森の匂いが満ちている。
 私は三脚にカメラをセットして、THE NATION'S CHRISTMAS TREEへと向かった。駐
車場を出てすぐに根株がむき出しになった倒木がある。大地に横たわった姿を間近
に見ると、ジャイアント・セコイアがいかに大きいかが分かる。木のそばに立つと
、まるで壁のようで反対側はまるっきり見えない。
 よく整備されたトレールを進むと、木々の間から突然、姿を現した。大きい。そ
して、きれいだ。3年前の夏に一度訪れていたが、改めてその姿に惚れ直す。根本
の周囲は32.8m、根本の直径は12.3m、高さ81.5mだ。大きさでこそ、THE
GENERAL SHERMAN TREEには及ばないが、その枝振りの美しさはこの森で一番だ。
 CHRISTMAS TREEの正面のベンチには、一組の老夫婦がいた。二人が「メリー・ク
リスマス」と手をあげにこやかに微笑む。ワインとサンドイッチ、果物が置かれ、
本当にクリスマスを祝いにきたことが伺える。しばらくすると、二人はCHRISTMAS
TREEの前で、ただ時の過ぎるのを願うように抱き合っていた。老夫婦の目には独り
ぼっちの私はどんなふうに映ったのだろうか。異国から来たカメラマン、それとも
ロンリー・ピープル……。
 正面からの姿を何カットかカメラに収めると、私はTHE NATION'S CHRISTMAS
TREEの周囲を柵沿いにぐるりと一周した。一番美しい姿が望める箇所に、三脚を据
えると、太陽光線の具合を確かめながら、しばらく見惚れていた。積雪は少ないと
はいえ、立ち止まっていると、徐々に足下から体が冷えてくる。ザックのなかから
チョコレートやリンゴなどを出して、かじりながら時を過ごす。少し見る位置を変
えて、また見上げる。時計を見ると、いつの間にか2時間が過ぎていた。
 私はもう一度ぐるりとまわり、その全体像を目に焼き付け、車へと戻った。
������������������������������������������(松倉一夫)



豊かな森と滝でヒーリング


doryunotaki

 白神山地、屋久島、八ヶ岳など森が豊かな山は、水流もまた豊富だ。そんな渓流沿
いを歩いていると、なぜあんなに気持ちがいいのだろうか? とくに滝のそばは明ら
かに空気が違う。清浄さを感じる。

 まず、考えられるのが森林浴効果だ。滝の多くは周囲を樹木に囲まれており、フィ
トンチッドが満ちている。沢音も心を癒す要因だ。渓流のせせらぎをスペクトル解析
すると、1/fゆらぎという音が出ているというが、これは脳にリラックス感を与え
るα波を多く出させる音だ。

 目にも優しい。さまざまな色があふれている都会からやってきた者にとって、水流
や苔むした岩、樹木など自然の色は目の疲れを癒してくれる。森の滋味が滲み出した
清流は飲んでも美味しい。まさに滝の回りは五感すべてを潤す環境が整っている。
 滝が気持ちいいもう一つ理由にマイナスイオンがある。最近、空気清浄機やエアコ
ン、飲料水など、さまざまな分野で謳われているが、自然界でもっともマイナスイオ
ンが多いのが滝壺の側なのだ。測定場所によっても違うが、都会の空気中と滝壺(高
さ10m)で比べた場合、滝壺のほうが50倍以上もマイナスイオンが多かったという調
査結果もある。

 では、マイナスイオンとは何か。簡単にいえばマイナスの電気を帯びたごく小さな
微粒子だ。プラスの電気を帯びていればプラスイオンということになる。これらのイ
オンは空気中では窒素や酸素、炭酸ガス、水素などが混ざり合って浮遊している。
 これらのイオンは人間にはどんな影響を与えるのか。血液中にプラスイオンが多く
なると血液が酸性化し細胞の新陳代謝が低下し、逆にマイナスイオンが多くなると血
液は弱アルカリ性になり新陳代謝を活発化させるという。

 マイナスイオンは「空気のビタミン」ともいわれ、イライラを抑え精神を安定させ
たり、疲労感の軽減や老廃物の排出などを高め、人間本来の自然治癒力を高める働き
があるという。なるほど、マイナスイオンが満ちた滝壺が気持ちがいいわけだ。
 次の週末、心と体を癒しに豊かな森と滝を見に行こう。 
                                                      (空木恵佑)


バンザイする岳岱のマザーツリー

 原生林を歩いていると、どの木がその周辺で一番太く大きいか、枝振りが見事か探
してしまう。その付近の森の大元となったマザーツリーがどれなのかと見回し、そし
て、樹皮に触れ、幹に寄りかかり、彼女のこれまでを心に巡らす。
 
植物は人間と違って子だくさんだ。年に何千、何万という種子を周囲にこぼす。そ
のうちの大方は動物などの食料になり、大半は運良く芽生えても、十分な日差しを受
けずに枯れてしまう。だから、マザーツリーは自分の子を残すために、毎年毎年倒れ
るまでたくさんの種子を大地へと送り続ける。そして、徐々に純林をつくっていく。
その典型がブナの森と言ってもいい。
 
東北の山は亜高山帯を除くと、放っておけばすべてブナの森となってしまうと言わ
れる。それはブナが日陰でも育つことができる陰樹であるからだ。たまたま芽生えた
大地が他の木の陰であっても、いつかその木が寿命や嵐に負けて倒れたときに、大き
く枝を伸ばそうと待っているわけだ。もちろん、大きく育てぬうちに終わる幼樹がた
くさんある。
 
白神山地が豊かなブナ林に覆われているのは、ここが原生の森を残しているからだ。
長い年月をかけ、日を十分に受けないと育てない他の樹種を凌駕して、ブナが分布を
どんどん広げていったわけだ。そして、そんなブナの中にも、今、そして将来の白神
をつくっていく母なるブナ、マザーツリーがある。
 
今から5年ほど前、そのうちの一本、岳岱のマザーツリーを見に行った。当時は今
ほどガイドブックなども出回っておらず、その姿形は知らなかった。岳岱には素晴ら
しいブナの巨木がある、と何かの書でで読み、白神山登山の際に立ち寄ったのだ。
 そして出会ったのが「バンザイするブナ」だった。それは私が勝手に名付けたもの
だが、一目見たとき、そう感じた。空に向かってバンザイをしていると……。
 
最近は「400年ブナ」と言われ、白神のブナのシンボルになっている木だ。樹
高26m、幹周4m85cm。幹にはたくさんコブがあり、一面を苔が覆っている。明らか
に他のブナとは威光が違う。
 
しかし、そのバンザイするブナも今は片腕を下ろしてしまったという。数年前の台
風で一番下の太い枝が裂け落ちてしまったと、あるホームページで見た。このままで
は岳岱のシンボルのブナの樹勢が落ちることは必至で、何らかの対策を講じるようだ
が、はじめあるものはいつか倒れる。
 
バンザイするブナも片腕を下ろしたときに、そろそろ次の世代の子どもたちにバト
ンタッチする時期を迎えたということではないか。もし近い将来、このマザーツリー
が倒れたとしても、確かに次の森を後世に残した。彼女にしたら、それだけで「バン
ザイ」だ。機会あれば、彼女がどんな形で最後を迎えようとしているのか、倒れる前
にもう一度足を運びたいと思っている。              (松倉一夫)



カスケイドのスキー


5月連休の前に男3人でスキーに行った。最若手のまっちゃん、カメラおやじ亀
吉、そして私。30ー40歳代のけして若くはないグループ。どこへ行ったかと
いうと、アメリカである。アメリカの山といえば、ロッキー山脈が有名だが、今
回訪ねたのはカスケイドの山である。それってどこ? と必ず聞き返されるほど
知られていない山脈かもしれない。が、マウントレニアと言えば、知っている、
という人もいよう。まさに知る人ぞ知るアメリカの名山であるが、それがこのカ
スケイドの代表選手。われわれはそのレニアを滑ったのである。えへん。そのほ
かの山にも行ったのだがとにかくそのレニア山の話し。

ロッキー山脈がおおむね北アメリカ大陸のコンチネンタルディバイドつまり大陸
分水嶺となっているのだが、カスケイド山脈はもひとつ西海岸寄り、カナダから
カリフォルニアに向かって並ぶ大きな山脈である。富士山のような独立峰がいく
つもあって、それらを取り持つように、ピークとピークの間に山なみが並ぶ。ち
なみに,カリフォルニアに入ると、この山なみはシエラ山脈と名前をかえる。
連休前の旅は空いていてよい。飛行機のチケットも安いしいうことなし。3人と
も自由業という名の不自由な商売をしているのだが、こんなときは便利だ。うま
く日程が合わせられて行きは全員一緒。

シアトルがこの旅の基点になる。レンタカーを借りて意気揚々とスタートしたと
いいたいところだが、そのレンタカーがかなり高価なものだった。中年らしく旅
を快適にしようと、大型の4輪駆動のものを借りたのだが、フルインシュランス
とかいう、万全で最高の保険をつけたところあっといまに予算オーバー、さらに
このワシントン州の高額な消費税などを加えると定価の倍の値段になってしまっ
たのだ。アメリカのレンタカーは安いというイメージがあったが、今回は別。そ
のうえ円安傾向で、旅行者にはタイミングの悪い時期でもあった。

ま、しょうがないか。

これでどんな事故がおきてもまず大丈夫。

安心安心。

3人はうなだれながら、高級な新型フォードを操ってゆっくりとレニア山へ向か
ったのだった。
4月というのはこのあたり、ワシントン州あたりは雨が多いのだという。その評
判のとおり、空は黒雲が流れ大粒の雨までやってきた。レニア山はシアトルから
100キロもない。その秀麗な姿が見えるはずなのだが今は無理。タコマ市のあ
たりでアメリカ最大の山道具チェーン店reiに寄って、情報と装備若干をととの
える。タコマ市で思い出したのだが、レニア山はこのあたりにたくさん住んでい
る日系人からはタコマ富士という名前で親しまれているという話しは有名だ。戦
前から横浜とシアトルを結ぶ定期航路があってこのワシントン州は日系人が多い
のである。大気圏コースといわれるようなのだが、日本に一番近いアメリカ合衆
国本土の都市はシアトルなのである。だから氷川丸などの船がひんぱんに行き来
したのであった。国を離れた日系一世の方たちは1年中白く輝くレニア山をみて
富士山を思い、国を思ったのである。

いきなりレニア山に登ってスキーというのはたいへんだから、その前に近隣のス
キー場で足ならしというプランだった。まずレニア山の東山麓の スキー場をた
ずねる。がすでにスキー場は終わっていた。この4月中旬の時期、日本でもスキ
ー場はだいたい閉まっているものなのである。そういえば、タコマのあたりでは
桜が満開だった、

季節感は日本とそれほど変わらないようだ。事前調査が不十分だからこんなふう
に当てが外れるのだが、3人は、ましょうがないか、とめげることはない。スキ
ーをひとなでしてから、再びドライブモードにはいる。

reiのおじさん店員の情報では、この東山麓からぐるりと南に下って、レニア山
の南登山口に達せられるということであったが、それは間違いであった。道路は
閉鎖されていた。これは日本で得た情報のほうが正しかったようである。先の峠
にはまだ雪が残っているのかもしれない。いまごろでも雪が降ることもあるのだ
ろう。

標高1500メートルのパラダイスの南登山口へは、もういちど北に戻り、西山
麓まわりで行かなければならない。

桜やヤマブキ、スミレなどが咲き乱れる山麓の細道をくねくねと行く。点在する
開拓牧場が絵葉書のよう。

おれの知っている砂漠だらけのアメリカの田舎とはぜんぜん違うね、ここ。北海
道か山形県という感じかな。と亀吉。

ほんとうに緑がみずみずしい。

アメリカ人が一番住みたい町はシアトルらしいよ。緑と海がいいらしんだ。

でもシアトルは天気が悪いせいか自殺者がアメリカでいちばん多いんだ。

まことしやかな車内の会話である。
ワシントンととなりのオレゴン州は林業が盛んである。これは本当。ときどき巨
大な丸太を山のように積んだトラックと行きかう。

再び車内の会話。
そういえばビッグフットという山男がでてくるハリウッド映画があったな。

死んだジョン・キャンディがでてるやつだ。

あんなに太っていると早死にするよな。
大迷惑というロードムービーがキャんディの最高傑作だな。

相棒のなんとかマーチンは相変わらず面白いね。

ユーガットメイルにでてくる大きな本屋の下にあったのはスターバックスコーヒ
ーだよね。あれはシアトルかな。

ちゃうちゃう。ニューヨーク。シアトルがでてくるのは「めぐり会えたら」。

本当のタイトルはスリープレス イン シアトル。

スターバックスコーヒーはシアトルに本店があるんだよね。山から降りたら行っ
てみよう。

シアトル3大名物は、スターバッックスとマリナーズとボーイング社なんだ。

そうこうするうちに田舎道をはずれ、探していたモテルがでてくる。日が暮れて
きているというのになかなかモテルが見つからなかったのだ。

このモテルで今日はいいんじゃないの。

町の名前はイーートンビル。モテルの名前はミルビレッジ。
国立公園のゲイトの近くにあるというのにオフシーズンのせいか宿代は安かっ
た。
レニア山の廻りをぐるりとしたのに、今日は本体をみることはできなかった。
小さな町、レストランは選択の余地もなかった。アメリカンレストランで肉など
食す。町をぶらついてミルビレッジモテルの意味がわかった。水車小屋の村とい
う名前は、この村にかつて製材所があったところからきていたのである。レニア
山麓から切り出した大木を、水車や蒸気を動力として製材していたのであろう。
まっ赤に錆びたレールが延びる森林鉄道がまだ残っていて、バーに改造された客
車や蒸気機関車などが町外れに並んでいた。

レニア山のスキーの話しであった。
翌朝、山がかすかに見えるようだった。さっそくフォードを登山口へと走らせ
る。国立公園の入り口で入園料をはらい、パラダイスという名前の登山口へは針
葉樹のもりのなかをくねくねと登る。

雪の壁に囲まれた駐車場につく。天気はいまいち。ピークは見えないがレニアの
山肌が凄味をみせる。氷河のある山は迫力がちがう。スキーヤーやスノーボーダ
ー、登山客などが三々五々。ここにはビジターセンターや宿泊施設などがある。
さっそくシールをつけて、見えないピークに向かって登りはじめる。いくつもの
スキートレイルがあって適当にあとを追う。

ピークを目指すといっても、スキーで頂上へいくことはできない。上部には絶壁
もあるのである。パラダイスが標高1500メートル、頂上は4200。日帰り
で登れる山ではない。今日は足ならし。1時間ほど登ったところでガスと風がで
てきたのでたっぷりと休み、いっきに下る。快適なスキーイングであった。

 なにはともあれ、レニア山の巨大なカラダに触ってひと滑りしてきた。足慣らし
としては充分、と満足な夕食をとる3人であった。とはいえ、われわれはいまだ
その完全な姿を見ていない。もっと近くでレニア山を見たい。ほんとうの事をい
うと、3人には頂上へ登るつもりはないのである。初めからロープやテントなど
その用意をしてきていない。この時季頂上アタックは相当厳しいものがあること
を知っているから。それでも中間地点くらいまでは登って降りてきたい。それが
今回の本音だ。その目標はミュアパス。避難小屋のあるハイキャンプだ。明日は
晴れるだろうか。
あけて翌朝。モテルの庭からみるとレニア山が朝日に輝いている。意外と小さく
見える。期待感が大きかった分そうなるのだろうか。早速出発。
フォードが峠を超えるといきなり眼前いっぱいにレニア山が現れた。氷河が凄い
迫力だ。今日はかなり上までいけそうだ。パラダイスの駐車場はスキーヤーや登
山者でいっぱいだった。
天気もいいし、ミュアパスまでは大丈夫そうだから、各自のペースで行こうよ。
と僕。

行ける所までいってそこで待ってるよ。と亀吉。

ぼくはいい所があったらそこで写真をとります。のんびりいきます。とまっちゃん。

この言動は3人のいつものパターンである。
先行する登山者のトレイルがあってそれを追う。ミュアパスまで行きたい。一個
所急なところがあったが、ステップがあってそれを利用してなんとか登る。亀吉、
まっちゃんは、もうずーっと後ろに点のように見える。思ったよりも長かった。
ミュアパスの避難小屋が見えてからも遠かった。結局4時間かかった。先行の登
山者が小屋のなかにいるようだったが、あいさつして、外でひとやすみ。
見上げるとレニアに続く岩峰がそびえる。ここから先はスキーではちょと無理だ。
きょうここまで上がってきたのは先行の彼と僕だけのようだ。

シールを外して滑り出す。滑りやすい雪質だ。だれも見ている人はいない。だれ
を待つこともないからマイペースでどんどん飛ばす。
あっという間に仲間のいるところに到着。

どこまで行ったの?

ミュアパス、と答える。

やったね。

遠征隊ならとにかく成功ということじゃん。
なんのことだかよう分からんが、いちおう目標は達したかのようだ。
このあたりから見ても周囲の山々は眼下に広がっている。
ワシントン州でいちばん高い山にいるという実感がわく。
3人で思い思いのシュプールを描きながら駐車場に戻った。
結局ミルビレッジモテルには3泊したことになる。
毎朝コーヒーをもらいにロビーに行くと、おばさんが、コーヒーにチョコレート

シロップをいれるといいよ、といってわたしてくれる。

今日も泊まるかい。

イエス。という会話が続くのだが、これも明日でおしまい。
このあともカスケイドの山旅はまだまだ続くのだが、とりあえず、以上レニア編
のレポート。

旅の終わり、シアトルで、くだんのスターバックコーヒー店にいってコーヒーを
頼んだら、ちょうどモテルでもらったコーヒーと同じ味のものがでてきた。アメ
リカ人は、チョコレートシロップをいれた甘いコーヒーが好きなのかもしれない。


富士山のスキー

富士山には何度も登っている。日本一高い山のてっぺんに立つのは
いつでも気持ちのいいことである。
12月、冬山登山の訓練で佐藤小屋から歩き出して、8合目で一泊、頂上にたったこと
もある。春は5月、スキーを担いで登った。雪のない時期は何度も。夏休みの最盛期に
長蛇の列に交わって頂上を目ざしたこともあったなあ。その時は夜中だというのに登り
ルートが大渋滞になっていて、とぼとぼ歩く内に睡魔に襲われ道を外れた薮のなかで
ビバークとなったことを覚えている。それでも翌朝ピークに達し、雲海から上がるご来光
をみたときの感動は忘れられない。
どうして、なんども富士山の登るのか,というと、日本一の山に季節ごとに訪れてみたい
という気持ちがまずあるのだけれども、それ以外にもトレーニングのため,
という理由もあるのです。日本最高峰のこの山は、頂きに至り、そこに滞在する(テント
をもっていって1日2日過ごす)ことで、登山用語でいうところの高所順応が可能になる
のである。
4000メートル以上の山(当然外国の山ということになる)に行こうというのなら、事前に
富士山に登っておくと、現地での登山活動がたいへんスムースになる、という定説があ
って、そのために富士山を目指すひとは多いのである。
実際、私もヒマラヤやアルプスの登山に行く時には必ず1週間ほどまえにこの山の登る
ようにしている。ある夏、スイスへ飛び、グリンデルワルト村に到着。翌日いきなり400
0メートルの山に登ったことがあったが、それは富士山の霊験があらたかだったからだ
と思っている。
チベット旅行に行く前にもここでメンバーが集まって高所順応をしたことがあった。ラサ
市に入ったその夜、みんなでビールで乾杯していたら、案内の人が、こんなすごい人た
ちは初めてだと驚いていた。ラサ市は3800メートルほどの高地にあるから、旅行者は
普通頭痛薬をポケットにしのばせおそるおそる飛行機から降り立つのである。人によっ
てはいきなり高山病のなってしまうこともあって、そんなときは戻りの便で退去すること
になるもの珍しくない。ガイドブックにも到着早々の飲酒は厳禁と書かれている。それ
が、いきなりわれわれがビールパーティを始めたから、驚かれたわけだ。このときも勝
因は事前の富士山登山であった。
おっと、富士山に登らなければならない。5月第3週、ズミの木の花が満開の日。望遠
鏡で富士吉田の登山ルートをのぞくと、いるわいるわ、登山者が列をなして頂上を目ざ
しているのが見える。昼過ぎになると頂上から吉田大沢の大雪渓をびゅんびゅんと滑り
くだるスキーヤーが望遠鏡の視野のなかに入ってきた。シュプールやまきあげる雪煙
まではっきりと見える。コーフンした。
こんな風にして遠くから眺めるのは初めてだったのである。思い切って野鳥観察用のフ
ィールドスコープを買ってよかった、と満足感にひったてはいたが、それと同時に、なん
とか雪が消えないうちに私も頂上から滑ってみたい、という気持ちがもくもくと湧いてい
たのである。
来週末はひとりでも登ろう、と誓ったのだが、うまいことに亀吉さんから電話があって、
次の土曜日いっしょに行こうということになった。
5月第四週の土曜日。天気はまずまず。眺める富士山は、先週にくらべると雪のスカー
トがずいぶん短くなっている。
朝6時過ぎに小屋をでた。車でスバルラインをあがり5合目の駐車場に達し装備を整え
る。周囲には同じく富士山を目指す人たちが数十人はいるように見受けられる。スキー
やスノーボードを背負っているひとも多い。
風がとても強く、朝いちばんの心意気はかなり崩れてはいるが、行ける所まで行こうと、
周囲のみなさんと歩調を合わせて歩きはじめる。周囲の老若男女にこの強風にめげる
気配は感じられない。中には牛歩にがまんできずハイペースでわれわれを追い抜いて
行くひともいる。経験から、この山はとにかくゆっくり登るのが必勝法、と信じているから、
あくまでゆっくり登る。亀吉さんもベテランだから挑発にのるようなことはない。マイペー
スで登っていく。無念無想の数時間がすぎ行程半ば、頂きも間近に望めるようになって
きた。幸い風は収まる気配こそないが、これ以上激しくなることもない。日も差してきて
けっこうな登頂日和になってきたようだ。
道端にテントが転がっていて、その先のやぶの中に寝袋が転がっている。今日の風に
飛ばされたものとみえる。下りの時にピックアップできるように雪渓のわきに移動、目に
つきやすいところに置いておく。
おおよそ1万歩ほど歩いたころに頂上直下にたっする。
ぼくは退屈な登りが続く時はなんとなく歩数を数えながら登るくせがあるから、一万歩
などと具体的なことが言えるのです。富士吉田口、別名河口湖コースは5合目駐車場
が標高2300メートル、頂上外輪山が3600メートルだから、標高差1300メートル、大
人の足で1万歩です。頂上直下の鳥居をくぐるころには10歩登っては休み、また10歩、
と情け無い状態になるのだが、周囲を見渡せばみなさんも同じような状態なのである。
富士山登山はいつでもほんとうに辛いとつくづく思う。とにかくトレーニングのできる山
なのです。朝方、勢い良く歩きだしていた若者たちも、結局、われわれの前後を休み休
み登っていて大差なし。
わたしの信じる富士山登山のコツは外れていないな、とひとりかってに思うのであった。
頂上には12時45分に着いた。5時間かかったわけである。
年々時間がかかるようになっている気がするのだが、自分の年を考えると、それも致し
方なしか。
頂上でお茶を飲んだり、展望を楽しんだりして1時間ほどすごす。風はときどき強く吹く
のだが、休む場所をよく選べば、風の通り道の死角があって、そこなら日差しをあびる
とぽかぽかしてくるのである。春霞で全体にもうろうとしてはいるけれど展望は悪くない。
薄着をした白人の青年が登ってきてデジカメを亀吉さんに差し出して写真をとってくれと
言っている。何カットかとってあげると、頭をさげてから、さっさと下っていてしまった。外
人登山客の多い山でもある。
2時前にスキーをつけて吉田大沢を下り始める。頂上にいた他のスキーヤーやスノー
ボーダーたちも三々五々腰をあげて、滑降体勢に入ったから、大沢はにぎやかになっ
た。
富士山は遠くからみるとのっぺらぼうに見えるが、その現場にいると山あり谷あり岩壁
ありと起伏と表情に飛んでいる。吉田大沢というのは大きい。その幅は300メートルは
あるだろうか。残雪の時季には幅300メートル、斜度30度の巨大な滑り台が2、3キロ
にわたって出現するのである。日本一大きいスキーゲレンデかもしれない。
みなさん思い思いのシュプールで下っていく。陽気がよいので雪質はざらめで快適であ
る。転倒しても滑落する心配はないからみんな楽しそうに滑っている。いっきに行ってし
まうひともいれば少しずつ高度を下げているひともいる。なにしろ一時間の登った分が
スキーなら2分もかからないのだから、普通の人なら、もったいない、という感情が湧い
てあたりまえなのである。巨大な吉田大沢の滑り台をスキーヤーやボーダーが豆粒の
ように転がっていくのを見るのは痛快でもある。
亀吉さんは愛用のカメラをとりだして撮影に余念がない。途中、登りに拾った寝袋を回
収する。
雪渓の終わりは2500メートルくらいだった。1100メートルの高度を子供がチョコレー
トをかじるように大切にすべって、結局1時間かかった。火山砂混じりのガラ場をくだり、
さらに小1時間歩いて駐車場に戻った。
顔が思った以上に灼けていて、髪の毛には砂が交ざり、耳の穴などはざらざらで、今日
の富士山の気象状況を忠実に反映したわれわれの風貌であった。


余談だが富士山では拾いものが多い。3月にスキーにいったときは新品のピッケルを
拾った。6月にトレーニングに行った時はお金と外人登録証のはいった財布をひろった。
ピッケルはだれが落としたものか、遭難者のもので無ければよいのだが。財布は警察
に届けたが、数ヶ月たっったころ在日のアメリカ人から、野球帽やチョコレートなどアメリ
カングッズがいっぱい入った段ボールが送られてきたのには驚いた。今回収容した寝
袋はどこからか連絡があるだろうか。
(後日談 寝袋は一月ほどまえ9合目から滑落死した遭難者のものと判明した)


世界一の巨木、シャーマン・ツリー

松倉一夫(作家)



 針葉樹の深い緑の森に、赤茶けた、とてつ

もなく太い丸太ん棒が、地からニョキニョキ

と生えていた。世界一の巨木、ジャイアント

・セコイアに出会った最初の印象だ。サンフ

ランシスコから車で約6時間、シエラネバダ

山脈の懐にこの森はある。1890年にセコ

イア国立公園として指定され、以来、巨木の

保護がなされてきた。

 平均寿命3000年といわれるジャイアン

ト・セコイアは、いまから1億年前、地球上

の樹木がずっと大きかったころの巨木群の最

後の生き残りだといわれている。なかでも1

879年にJ・ウォルバートンによって発見

された「ザ・ジェネラル・シャーマン・ツリ

ー」は世界最大の生物といわれ、他を圧倒す

る。根株直径11.1m、樹高83.3m、幹の重さ

推定1385トンの巨体は、まさに太古の姿

を思わせる。シャーマンという名もいかにも

神が宿る木といった感じだ。ただ、この名は

シャーマン将軍にちなんで付けられたもので、

呪術師のシャーマンとは関係がない。

 大きさにもまして驚かされるのは樹齢だ。

堆定2300~2700年、古代エジプト末

期の第23王朝(能元前818~715年)の

ころに発芽したことになる。世界各地で大き

な転機を迎えようというころだ。日本は縄文

末期、ギリシャではアテネ・アクロポリスの

古代建築が栄華を誇っていた。

 長い年月を経たジャイアント・セコイアは、

一様に独特の樹形を示しはじめる。幹がどん

どん太くなっていく一方で、枝は細いままだ。

といっても直径は約2mあり、日本では十分

に巨木といえる。幹の太さは根元から樹冠間

際まであまり変わらない。幼児の絵に出てき

そうなユーモラスな姿だ。細い枝は左右に開

いた腕を直角に折り曲げたように天に向かっ

て伸びている。あれほどの樹高があれば、他

の木に邪魔されることもないだろうに、それ

でも少しでも太陽に近づこうとしている。

 また、ある程度の大きさになると、少なか

らず、どこかしら樹皮を焦がしている。これ

までに幾多の山火事を経験してきているのだ。

身を焦がしながらも生き続けられたのは、彼

らの厚く強い樹皮による。厚さ約60cmになる

樹皮はたくさんのタンニンを含んでおり、内

部まで火を通さないのだ。ジャイアントセコ

イアにとって、山火事はむしろ歓迎すべきも

のだ。他の樹種の燃えかすによって有機肥料

でき、害虫や腐朽菌がいなくなる。

 山火事で焼け野原になったあとは子孫を残

すチャンスでもある。ジャイアントセコイア

の松かさは火を受けたときに初めて開く。他

の邪魔者がいなくなったところで、固く閉じ

ていた松かさの中の種を大地へとこぼす。

 こうしてみてくると、この世界最大の巨木

は、世界一、幸運続きの人生を送ってきたと

もいえる。雷に打たれず、身を焼きつくして

しまうほどの大火にも見舞われず、そして、

人間に切られることもなかったわけだから。

 今後どれくらい生きつづけるのだろうか?

200年、300年、もっともっと生きるか

もしれない。ただ、いくら国立公園として保

護されても安心はできない。これからの一番

の敵は人間なのだ。一目見ようと集まってく

る人々により、根元が踏み固められると木は

弱っていく。ジャイアント・セコイアの根は

浅く広く張っているため、踏圧に弱いのだ。

いまは、それを防ぐためにシャーマンツリー

の回りを木の柵がぐるりと囲んでいる。しか

し、人々は彼に触れようと柵を乗り越え走り

寄る。

 森には所々、根こそぎ倒れた巨木がある。

この木もいずれ、長い歴史にピリオドを打つ

ときがやってくる。寿命を全うさせてあげる

には、離れた位置からそっと見守るのがいい

のかもしれない。      



富士山パラグライダーフライト
040724Mt.Fuji

Flyer:F.Ito
Para: Up Bougie
No.:307th
Take off:3680m 
Gain:80m
Time:39m
Total:69h21m
Attn:Good day

寄生火山と富士山からのフライト

  念願のパイロット証をゲットしたのは1年半の後、正確に言うと、パラグライダースクールに入校してから17カ月かかっていた。スクールでは、その年齢にしては異例のスピード出世、とおだてられた。それほどこの期間、パラグライダーに集中したのも確かだった。これで世界中どこのパラグライダーエリアに行っても大いばりで飛ぶことができる、と喜んだのは言うまでもない。

  スキーなどと異なり、パラグライダー場では、そこで空を飛ぼうとすると、この人は安全に飛行できる技術を持っています、と証明するものが必要とされる。それがパイロット証である。技術未熟の人が無闇に飛んで失敗してケガでもされたら困るからである。スキーの失敗なら転んだだけですむかもしれないが、空を飛ぶのに失敗すると致命的な事態になることが多いからだろう。

  パイロット証がないと空を飛ぶことができないか、というと実はそういうわけでもない。そのような証明書が必要とされるのは管理されたパラグライダー場だけのことで、他人に迷惑をかけたり、他所の土地に勝手に入り込んだりしない限り、基本的に世界中どこをどう飛ぼうが構わないのがパラグライダーのよいところでもあるのだ。法律的には飛行中のパラグライダーは空中の浮遊物と定義されているらしい。法律的解釈では、ま、ゴミのようなものなのだ。  山のてっぺんにパラグライダーを持ち上げて、下山の方法として飛び降りる、というのは、20年ほど前、パラグライダーが誕生したときのスタイルだが、これは今でも脈脈と生きている伝統で、世界中のどこぞの山からどこへ飛び降りようと自由なのである。ボアバンは世界最高峰エベレストから飛んでいる。高橋和之はチョオユーから、アイガーから飛んでいる。人が鳥になる、強い想像力が夢を現実のものとしたのである。

  おっと力が入ってしまった。それはさておき、パイロット証を手にして、パラグライダーを始めた当初の動機がふつふつと胸にわいてきた。そう、富士山の頂上から飛んでみたい、という願いだ。スキーでも滑り降りた、スノーボードでも下った。こんどはパラだ。  富士山の山腹を練習場のようにして飛んでいるパラグライダーのグループがあることは知っていた。いつだったか、5月の連休に、須走登山道の7合目までスキーにいったとき、パラグライダーが数機、目の下をふわふわと飛んでいるのを目撃している。

 インターネットで調べてみると、サンデーパラグライダースクールという名前が浮上してきた。御殿場登山口や須走登山口のあたりを飛んでいる記録が発表されていた。

  早速門をたたいて仲間に入れていただく。グループのリーダーというかスクールの校長先生は中村さんという同じくらいの年頃のプロのフライヤーだった。仕事というよりも半分趣味で空を飛んでいるように見えた。 「このあたりはよく飛んでいるよ」とのことだった。「富士山頂から、飛べないことはないと思うけど、うちの仲間ではまだ飛んだ者はいないんだ」とも教えてくれた。  秋のある日、富士山の中腹からのフライトにトライする。須走登山口の5合目に上がる。標高2000メートル、ここまで車で上がることができる。夏のハイシーズンには登山者でにぎわうところだが今は閑古鳥の世界。それにしてもよく晴れた、日本晴れのよき日である。新しいクラブの先輩二人と、パラグライダーを入れた大きなザックを背負って駐車場からしばし歩く。一帯は溶岩が砂礫化した山肌が広がる。溶岩砂でできた砂漠のようなところだから、樹木などはない。どこからでもパラグライダーで飛び立つことができる。

  眼下には山中湖や須走の町、遠くには丹沢や箱根、伊豆、相模湾に浮かぶ大島も見える。このエリアのベテラン二人のやりように従って場所を選び、飛ぶ用意をする。二人はもう何度かこの富士山の2000m地点からのフライトを経験しているのだ。  ちょうどよい風が入ってきて、二人が順番にきれいに離陸する。ぼくも遅れないようにすぐテイクオフ。数歩歩くだけでふわりと機体が上がり、ぼくは青い空の中に上っていく。先行する二つの機体も青空に鮮やかな赤と白の機体を開いている。目的地は1000メートル下、距離5キロ、前方の霞の彼方にそれらしき広場がみえる。

  風を切る音だけが聞こえる。動力を持たないパラグライダーだが、空気をはらんだ翼が空中を走ると大きな風の音を発する。時速は30キロから40キロにも達する。顔に当たる風は快いというよりも、痛いくらいだ。先行する2機の行くままに従う。足元には富士山の広い樹海が広がり、不思議なことに高層湿原のような広がりも見える。水の流れのない大きな峡谷が延びている。ヘアピンカーブを繰り返す自動車道の上を行く。車がおもちゃのように見える。

  大きな河原の上にさしかかったとき突然下から熱風が上がてきてあおられるような突き上げがある。パラグライダーは大きくゆれて上昇を始める。それにあわせるように左手のコントロールを大きく引き、体を左側に傾ける。パラグライダーはゆっくりと左に旋回しながら上昇していく。そのままにしているとグライダーはひとまわり、ふたまわりと旋回を繰り返すことになる。360度ターン。おおきなループを描きながらどんどん上昇していくのだ。トンビと同じ、トンビ化である。先行の2機も同じことをやっている。パラグライダーから見る視界は広くて素晴らしい。左から右へパノラマが大きく移動する。その中に富士山そのものが入りこんでくる。巨体である。こんな大きな山だとは思わなかった。旋回を続ける。このまま回しつづけてどんどん上がっていったらどうなってしまうんだろう。

  10分ほど360度ターンを繰り返す。目の回る空中の散歩である。さすがの熱上昇風も勢いが衰え機体は除除に降下を始める。先行機と同じように目的の広場に舞い降りたのは離陸してから1時間ほど。やったね、と先達と握手を交わす。僕の初めての富士山フライトは成功したのである。今回は標高2000メートルから1000メートルまで。富士山頂から飛ぶのなら、あと1700メートルほど上から飛べばよいということだ。可能性のない話ではない。

  富士山に冬がやってくるのは早かった。とはいえ雪がきてもこのあたりは大雪にはならない。11月には2度ほど、御殿場登山口1700メートルくらいのところで飛んでみた。あたり一面の雪景色のなかでのフライトは新鮮なものだった。  12月から2月までは富士山は雪の中に閉ざされたが、3月に入ると南面の御殿場登山口は雪解けが早く、練習場と呼ばれる1500m付近で3月と4月、2回ほど飛ぶことができた。神々しいまでの霊峰を眺めながらのフライトは感激だった。  5月に入って、冬の間に考えていた計画を実行に移すことにした。

  離陸する場所を除除に上げて頂上に近づけていくプランだ。途中まで登って途中からフライトすることを繰り返せば、フライトの練習にもなるだろうし、地形や風の様子もわかる。登りの体力増強のトレーニングにもなるはずだ。富士山頂上まで重荷を背負って登るのもこの作戦の重要なポイントなのである。

  トライは何度になるかわからない。自分のスケジュールで動くことになるから人はあてにできない。登りも下りも一人で行動するのがよいだろう。。すべて自力でやることにした。  富士山は生きている火山だが、山腹にいくつもの寄生火山をもっている。有名なのが宝永山、小富士、二子山などだ。雪がとけた5月からそれぞれのピークから飛んでみる計画をたてた。  以下山頂フライトまでの経過を記す。  

5月30日 

  二子山(二ツ塚)兄山からフライト。1400mからm1930までの登りだったがザックが重く背負いごこちも悪くきつかった。頂上につくと西風が強くガスも湧いてきた。ひどくならないうちにと慌てて飛び出したが、ガスの中に入りまったくのホワイトアウト。GPSを見ながら方向を修正したがうまくいかず、目的地とは遠く離れた河原に不時着。霧の中のフライトは危ないということを身をもって体験した。

  6月5日  

須走登山口朝7時出発。全装備を担いで800mほどブルトーザ道を登る。
  いままであまりに装備が重かったので、いくつかの道具を軽量のものにかえた。ハーネスとザックをより軽くて使い心地のよいものに買い換え、グライダー本体は山岳フライト用の軽量で安全性の高い設計のものを用意した。緊急時用の予備パラシュートは3キロもある。これは状況によって持つ持たないを判断することにした。そのほかヘルメットやウエアなど細かい用具もグラム単位で軽量化を試みた。無駄を省くことで20キロ以上あった荷物を16キロくらいまで減量することができた。

 3時間ほどで標高2800mに達する。風の様子をみて11時前に離陸。高く上がることはなかったが安定した風の中1700m地点に着地。夏の富士山は日の出とともに上昇風が湧きあがり乱気流が発生する。同時にガスもでてくる。富士山を飛ぶのなら日の出後の1時間くらい、大気が安定して視界が利くときに行うのがよいと判断する。

  6月5日  

 上と同じ日の午後。小富士からのフライト。須走登山口からハイキングでいける小富士は景色がよくハイカーがときどきやってくる。ここも寄生火山である。山腹は無樹林で遠くからみるとスキー場のようだ。頂上からのフライトは難しいが50メートルほど降りたところに絶好の離陸場を発見。午後、風がよくなったのでそこからフライト。右手下の谷、グランドキャニオンという名所からすばらしい風が吹き上がってきて30分ほど空中浮遊を楽しむ。その後標高1000mの目的地に向かうが高度が足りず、1300m地点にある大きな河原に不時着する。

  6月16日  

 全装備を持って富士山頂に登ってみることにする。富士宮口5合目登山口を5時にでる。もっと早くでたかったのだが起きられなかったのだ。頂上には4時間半でついた。予定通り登ることができたので一安心。西の風が7、8メートルくらい。あわよくば頂上からフライトとも思っていたがちょっと無理。お釜の周りを歩いて離陸地点を物色する。うろうろしているうちに風が強くなってガスも濃くなってきたので下山する。のんびり下って御殿場口コースの3000メートルまで下ったところで様子をみる。ちょうど宝永山の上部の山小屋の脇。御殿場口の駐車場がガスの切れ間から見えたので、飛ぶことにする。せーの、で出たが、いきなり上昇気流に持ち上げられ雲の中に入る。降下の操作をするが強い上昇風にあおられあたふた。ようやく雲中飛行から離脱して宝永山脇を飛んで右に左に大きく振りながら1800m地点の砂漠帯にランディングすることができた。日がでてからのフライトは乱気流に出くわす可能性が高いことを改めて知る。口の中がからからに乾いたフライトだった。

 7月4日  

インターネットの富士山頂の定時観測や韓国発の高層天気図がとても役にたつ。今年は風の強い日が多いようだ。梅雨明けが早く太平洋高気圧も強いのだが、高気圧が日本列島の東側にあって、ヘリの部分の強い西風がちょうど富士山のあたりに吹き込んでいる。頂上の風速は15mから25mという日が多いようだ。

  富士山頂上からフライトするとなると、日の出前に頂上に着かなければならない。そのためには夜行登山がいいと考える。7月に入って山開きとなって恒例の富士山の大混雑が始まっている。  夜行登山のリハーサルを行う。深夜12時に富士宮口5合目出発。団体登山の行列といっしょに登って5時過ぎの日の出ぎりぎりに頂上へ着くことができた。眠い、眠い。案の定西風が強く、また頂上付近は大混雑。頂上の賑わいを眺めながら大休憩をとって、離陸地点を探しに白山岳まででかける。スキーで何度か下った吉田大沢が離陸するにはよい地形に見える。この日は持ち上げた装備をそっくりそのまま背負って下山。御殿場コースから、いままで一度も歩いたことのない宝永山経由富士の宮5合目口コースを歩いてみる。宝永火口を歩いてみて富士山は本当にいろいろな面をもっていることに驚く。富士山は素晴らしい山だ。ここを飛べることがうれしい。

 7月17日  

 前前回宝永山脇の3000mから離陸したのでこんどはもっと上からのフライトにトライ。須走口5合目を6時に出発。ブルトーザ道を登り以前フライトした2800m地点を越えてさらに300m、3200m地点まで登る。この日は西風が強く、富士山を両側から回ってきた風が東面のこのあたりでぶつかりあうのか、乱れた風の流れになっている。2時間ほど様子をみてからあきらめて歩いて下ることにする。2200mまで下るといくらか風が穏やかになったようにおもえる。そこからフライト。下からい

つものように中村校長が見ている。フライトは単独だが、車の回送や緊急時のことなどサポートがあるのはうれしい。無線からのアドバイスも大助かりだ。30分ほどふわりふわりして1700mの御殿場登山口の駐車場近くに着陸。  そしてついに頂上フライトの日がやってきた。以下経過を記します。

 7月24日  

クラブのホームページ上のやりとりで、中村校長が、今週末はいいんじゃないか、とアドバイスをくれる。富士山の気象を何年も見ている権威である。じゃ、行ってみるか、と車を富士の宮5合目へと走らせる。このところ富士山の頂上の風向きは西で、風速は20メートルというような日が続いている。  仮眠してから出たかったが時間がなく、夜中の12時にそのまま歩き出す。3度目の頂上トライだ。ここのところ何度か重荷を担いで富士山をうろうろしているので重さはあまり気にならなくなった。いままでと異なり夜風は穏やか、今日は飛べるか? ちょと眠いけれど、頂上に着いたら飛ぶのだと思うと気合が入る。夜が白んできて、日の出前の5時には富士宮口の頂上直下の鳥居をくぐった。

  天気は悪くない。風は1、2メートルといままでとは異なる信じられないような微風。絶好のようだが、やはり風向きが悪い。西風なのである。

  あいかわらず登山者は多い。そのままお釜ルートを須走口の方へとすすむ。ご来光をその場のみんなと一緒に眺めてから吉田登山口頂上鳥居へ。渋谷ハチ公前のような混雑である。添乗員のラウドスピーカーがうるさい。早々に前回下見した吉田大沢の入り口へと向かう。もうあたりはすっかり明るくなって、夏山の朝の日差しが注いでいる。せわしい気分になる。  吉田大沢は西風が吹き降ろしていた。フォローだ。障害物がないせいか西風がお釜の上を抜けてそのままここに吹き降ろしているのだ。パラグライダーはフォロー、つまり追い風だと離陸することはできない。

  仕方がない。来た道を戻る。再びにぎやかな小屋前をぬけて、一方通行の下山路となっている須走側をのぞいてみる。お釜のふちの岩壁が西風を防いでくれているのか、風は悪くない。グライダーを広げるスペースもあるのだが、ご来光を拝んで、さあ下山、という人たちの行列が目の下に続いている。こんなところでパラグライダーをひろげたら黒山の見物客が出現することは明らかだ。

 もうちょと先へと歩をすすめる。お釜のふちの登山道はやはり登山者が行き交っているので、適当なところからガラ場をひとくだりすることにする。登山道から見えるような見えないようなところ、溶岩の岩盤がかさぶたのようになっている滑り台状スロープを発見。ここにザックをおろす。真下を見下ろすと遥か向こうに須走口の駐車場がみえる。ということは、この足元の下、標高2800m、3200mまではこれまでのトライで登ってきているというわけだ。そのあたりはよく知っている!

 ガスが湧いてきた。あわててパラグライダーを広げて装備をととのえる。日が出てから1時間以上もたっているのでガスがわき、風も上がってきている。ガスはうれしくないが、この風は離陸するためには必要な風だ。

 準備ができた。だれも見ていない。いや、上のお釜のふちを歩く登山者何人かが気がついているようだ。風がほどよく吹いたときにグライダーを立ち上げなければならない。ここならと思った溶岩の岩盤の上だったが間違いだった。岩に埋めこまれた小石にグライダーのラインがひっかかるのだ。2度3度トライするがグライダーを上げることができない。無理をするとラインが切れてしまいそうなのだ。  途方にくれる。この場所はあきらめ、グライダーを手元に手繰り寄せてもう少し下ることにする。グライダーをひきづるようにして20メートルほど下ったガラ場の上にもう一回広げる。離陸するには最悪の場所だがほかにいいところは見あたらない。

  いい風が入ってきた。一度軽くグライダーを身の丈くらいまで上げてみる。ラインがひっかっかることなくうまく上がった。チャンス。そのままそーっと落し、次に風が入ってきたところでいっきに立ち上げる。うまくいった。

  風がよかったのだろう。一二歩歩いただけで体がぐーっと持ち上げられ、グライダーといっしょに空中に飛び出していた。出てしまえばこちらのもの。いつもと同じだ。上昇気流があがってきているのだろう。グライダーが前に進むと同時にぐんぐんと上がっていく。隣の尾根を越えたと思った瞬間、ぐーん、とグライダーが持ち上げられた。目の下には先ほども見た須走下山道を下る登山者の行列がみえる。わー、という歓声が聞こえたようだ。突然頭の上にパラグライダーが現れたのだから驚きの声かもしれない。

  大気はさほど危険のようには思えなかった。360度ターンを続けてグライダーを上昇させる。お釜のヘリの高さまであっという間に上がる。お釜の中が見える。レーダードームの外された測候所も見える。登山者はもうアリのように小さい。スタートするのが遅れたせいで、逆に上昇気流に当たることになった。多分日の出直後にでていたらひたすら下降するだけのフライトになったことだろう。  頂上に近づき過ぎたせいか、グライダーの片方の翼がバサッと潰れる。ひやひや。富士山の乱気流は耳にタコができるほど聞かされている。軽量化のため置いてきた緊急用パラシュートのことも思い出す。これが忠告と、ひたすら富士山頂からの離脱をめざす。

  標高3000メートルまで降りてきてひと安心。今度はできるだけ遠くへ、長い時間飛んでいたいものだと、あれこれ操作するが、グライダーは高度を下げるばかり。目の前には西風が温まった空気に当たってできたのだろう。屏風のような雲の壁が数キロにわたって麓に向かって延びている。そこに入りこまないように南西へ南西へと進むが、強い西風が顔に当たるのがわかる。やがてグライダーが前に進まない状態になりいっきに高度が下がりそのまま地面に降り立った。標高2200m地点、宝永山の作った砂漠エリアの真ん中だった。不思議なことに頂上ではそよ風ほどの西風だったのに、ここではグライダーが飛ばされるほどの強風になっていたのだ。

  離陸6時55分。着陸7時30分。わずか35分の飛行。パラグライダーを始めてから307回目のフライト。強い西風の中、10分ほどだろうか、ぼくは着地したそのままの姿勢で座りこんでいた。


伊藤フミヒロ著
「登ってわかる富士山の魅力」しょうぶんしゃ新書に掲載した記事のまま。


富士山初スピードパラ(世界記録)

2008/05/18

富士山頂からスピードパラグライダーで飛びました。
伊藤フミヒロ

パラワールド誌の記事と
山と渓谷誌の記事を転載します。


パラワールドの記事
テキストのみ

スピードパラで高高度も
アリなのか…!

ここ数年話題になっているスピー
ドパラ。日本では木島平と栂池のス
キー場で体験したり教わったりする
ことができます。ぼくも1月のある
日、木島平でスピードパラの試乗会
があるとういうので、のこのこ出かけ
たクチです。
その日見たのは、木島平山頂から
のフライトでした。スピードパラとい
うのは雪の斜面上をそこそこ飛んだ
り滑ったりするものと思っていたの
で、高高度のフライトには驚きまし
た。飛んでみせてくれたのはファルホ
ーク社の岡さんと、木島平スタッフの
根津さん。2回転も見せてくれまし
た。スピードが速いのにもに驚きまし
たが「落ち具合」がすごいのにもびっ
くりしました。
体験して面白かった
ので、木島平にはその後
も2回ほど行ってスピー
ドパラの練習をするこ
とができました。清水校
長が何度も言ったのは、

スピードパラはパラグライダーで
す。体重移動のできないパラグライ
ダーです」ということでした。

山飛びにトライ

ヨーロッパアルプスの連中は当然の
ように山で飛んでいて、そんな動画
がたくさんネットに流れています(ア
イガー山の映像はすごい!)。ぼくも
春になったら富士山から飛んで(滑っ
て)みよう、と思いました。以前、夏の
富士山頂からふつうのパラで飛んだ
ことがありましたが、それに比べたら
スピードパラは雪の急斜面上の低高
度滑空。「楽勝」という予測ができま
した。
3月に富士山腹の寄生火山であ
る二子山へ行ってみました。昔、御殿
場市民スキー場があったところ。そ
の日は風もよく数回練習すること
ができました。面白かったです! 
山スキーヤーの人たちが「スゲー!」
と驚いていました。
翌々週は二子山のもっと上にある
宝永山に登りました。ガスが出てい
ましたが、そこそこの視界。いつも通
りグライダーを広げ、スタートしたの
ですが、あれー?開かない? その
ままグライダーを引きずって滑落。
スタ沈です。今までの練習で滅多に
失敗したことがなく、スピードパラは
勢いよく出れば必ず開く、という自
信が崩れました。フォロー
気味で2回目も失敗、3
回目はうまくいき、飛べる
ところまで一気にフライト
して降りました。クロスは
難しいのでフロントで出る
のですが、雪の斜面で風が

あると手助けなしのテイクオフ
はやっかいです。アイガー山頂で
スタ沈したら即死なんだろう
な、ふと思いました。
4月になって、山は春スキー
のシーズンです。木曽の御嶽山
へスキー仲間と出かけました。
山頂は3067m。山頂下か
ら霧にかすむ一の池へ飛んでみ
ました。短いフライトのあと、ガ
スが切れるのを待って森林限界
まで飛んだり滑ったりしまし
た。快適でした。
4月末は、北アルプスの立山
へいきました。ここも風とガスに
悩まされましたが、雷鳥沢と一
の越からフライト&スキーがで
きました。いい気分でした。
一連のトライで、「山は天気
が悪い、天気がよくても風があ
る」という当たり前のことを確
認することができました。


いよいよ富士山へ

5月に入って連休後半は、い
よいよ富士山。4日と6日が比

較的好天でしたので、南面の富士宮
ルートを山頂まで登りましたが、2
日とも山頂部は「山は天気が悪い、
天気がよくても風がある」というこ
とを再認識しただけで、山頂でグラ
ハンのようなことをしてお茶を濁し
ました。スピードパラができなくても
スキーで下れるので、面白くないこ
とはない、のです。
翌週末は天気悪く、東京の大雨
は富士山では大雪になったようで
す。
次の好天は1
6日でした。北面の吉
田口を登る予定でしたが、天気予報

の「南風でしょう」につられて3度目
の南面の富士宮ルートを友人といっ
しょに登りました。新雪でまぶしい
富士山でしたが、3400mまで登
ったところで、北と南がぐちゃぐちゃ
の強風に出会い登高意欲をそがれ、
撤退、スキーで楽しく下りました。
地上の天気予報は富士山頂には通
じない、ということなのでしょう。
翌1
7日は、一人で北面の吉田口ル
ートを登りました。山頂はガスと風、
冴えない風景で、吉田大沢をスキー
でさっさと下ることにしました。標
高3100mのあたりでなんとな

く風が収まる気配が
あったので、とりあえ
ずパラを開いて、スキ
ーヤーが降りてくる
のを待ち伏せ。山頂
で二言三言交わした
人がやってきたので、
「グライダーのここん
とこをつまんでてく
れませんか」とお願
い。1回目はちょっと
無理して出ましたが
失敗。グライダーが前
にかぶって失敗したの
は、いままで100本ほど飛んで初
めてのこと。2回目は、短いフライト
ができましたがこれも失敗フライト
でした。
そして、5月1
8日。やっとうまくい
きました。この日は前からスキー仲
間と吉田大沢を滑ろうというプラン
があったので、スバルライン終点で待
ち合わせしました。5人が予定どお
り集まり7時スタート。吉田口山頂
には2時着。
山頂でみんな「…?」キツネつま
れ状態。登っている間は怪しい風が吹

いたりすることもあったのに、今はほ
とんど無風です。
「奇跡!」「チャンスチャンス!」と
休憩もなしで、走るようにお鉢ルー
トをトラバースして吉田大沢トップ
へ。富士山頂剣ヶ峰は3776m、
ここは3710m、富士山のお鉢の
縁、「なんちゃて頂上」ですが、ここし
か出るところはなさそうです。


やったね大成功!

早速パラを広げて準備。つるつる
の雪面だから誰かに持っていてもら
わないとグライダーがするすると落
ちてきてしまう。サポート隊の今回
のもっとも重要な任務がグライダー
をつまんでいること。
相変わらずあたりは静か。弱いフ
ォローが収まるのを待って、「せーの」
でスタート。
あっ、という間に浮きあがって、あ
とはいつものとおり。あまり高く上
がると怖いので右左に振って高度を
下げます。写真を撮るために何回か
に区切って下る約束があったので
500mほど下ったところで着雪。


やったね!という感じで
す。
2回目のフライトは、フ
ォローが入ってきて、無理
やり出ましたが、失敗、滑
落してすぐ止める。吹き
降ろしが収まりそうにない
のでスキーでしばらく下りました。
2800m地点、岩壁の下で風
を避けて再びスタート、何十秒間の
フライトで高度を下げ、2500m
付近で岩が出てきたため雪の上に
着地しました。
吉田大沢は標高差1400m、
長さ4㎞ほどの一枚バーンで日本一
の滑り台と言われています。スキーパ
ラには最適なスロープで、風向きさ
えよければ安全な「滑・空」が楽しめ
ます。
山飛びの感想は、と聞かれれば
「キモチイー
♪」というとこ
ろでしょうか。
エリアを離れ
てクロカントリ
ップにでかける
のが新鮮なよ
うに、スキー場
ではなく、高い
山をスピードパラで
飛ばすのは実にいい
気分です。富士山
だけでなく、日本
の山にはいい雪のス
ロープがたくさんあ
りますから、これか
らたくさんの人が
スピードパラで楽し
まれるだろうと想
像しています。
投稿者 itokisya 時刻: 18.5