5.14.2012

富士山スキー


富士宮口スキー
2012年5月12日
member 伊藤フミヒロ
天気 晴れ
水が塚公園から南面。宝永火口も滑れそう



 ウォルター・ウエストンは、明治時代にヨーロッパのスポーツ登山を日本に伝えた英国人として知られる。近代アルピニズムを自ら実践しながら日本の山を海外に紹介した人だ。槍ヶ岳や白馬岳、北岳などたくさんの高峰に登っていて「日本アルプスの父」と呼ばれる。日本と日本人のことが大好きで3度に渡って日本に長期滞在した。日本での登山の全容は2冊の著書に著されていて「チョー面白い」本としてファンが多い。そのあたりのことは誰でも知っていることだが、「日本アルプスの父」がいちばんたくさん登った日本の山は、実は富士山だったというと「そうなの?」と驚く人も多いだろう。彼は都合6回富士山頂に立っている。他に宝永山への登山を含めると7回だ。
 
 一回目は1890年(明治23年)の夏に登っている。このときの印象はあまりよくない。「暑くて人が多く」てイヤだったらしい。昨今の富士登山と同じだ。2回目は1892年の5月で、今の御殿場ルートを上り下りしている。太郎坊の小屋から日帰り往復して「面白かった」と書いている。この登山は積雪期の富士山初登頂だったと英国山岳会に報告している。自慢でもあったのだろうが、それ以前に雪の富士山に登った人間の記録はなかったわけだから多分そうなのだろう。平安時代から連綿と続く富士の登拝登山は開山時期が決まっているから、好んで雪の富士に挑む修験者や変人はいなかったはずだ。
 このときウエストンは若干31歳。マッターホルンに2回も登っているアルピニストだから、残雪の富士山くらいはどうってこともなかったのかも。健脚の人だったからスピード登山だったにちがいない。

 この積雪期初登頂に気をよくして翌年の5月も2人の岳友と別のルートで富士山に登っている。この山行報告は「日本アルプス 登山と探検」に詳しい。5月15日に大宮(今の富士宮)から村山浅間神社を経て登拝道を辿り大樅の小屋(標高1700m)へ。10坪もない小屋で囲炉裏の煙に閉口しながら一夜を過ごす(この小屋跡は現存している)。翌日は嵐がやってきて停滞。5月17日朝7時にスタート。ポーターも引き連れて村山古道を登る。標高2400m、今の5合目で積雪登山となるが、弱気のポーターを励ましながらさくさくと登ったらしい。
 剣ヶ峰に立ったのは1時45分。山頂からの絶景に神を讃える詩篇を口ずさむウエストンだが、箱根方面を眺めているうちに温泉に浸かりたい気分に変わったようだ。ポーターを帰らせ、英国人3人だけで御殿場への下山ルートを取る。無事に太郎坊まで下ったところで、一心に祈りをささげる隠者と出会う。「純潔と克己」を求めて座っているという修験者?に感動しながらも別れを告げ、午後10時、ようやく御殿場着、宿と風呂をゲット。翌日は乙女峠を越えて箱根宮ノ下の温泉に辿りついている。さらに2日の後に東海道線国府津駅から神戸への汽車に乗っている。
 この山行にはオマケがあって、富士宮に下山しなかったウエストンらは富士山で嵐にあって遭難したと新聞(日本の)に報じられる。開山時期のご禁制を破った罰、気の毒に、と。
 
 ウエストンの本を読んでいると、アルピニストであり、なりわいは神父であった彼は、よく知られる後年の気難しそうな(あるいは好々爺風の)肖像とは別の、かなりお茶目でイケイケの青年だった、のではと私には感じられるのだ。ちなみにウエストンの写真は後年のものが多く日本アルプスを駆け回っていた30代のものがないのが残念(私が見たイケイケなウエストンを彷彿とさせる写真は、妙義のひしや旅館の前でエミリー夫人とともに撮影された1枚で、映画のインディージョーンズのような雰囲気を感じさせるもの。撮影時期は不明)。



 ウエストンに遅れること120余年、2012年5月12日朝7時。富士山スカイラインをドライブして標高2400mの富士宮口5合目に立つ。確かにこの時期、2400mから上は残雪の山肌となっていて、今日もたくさんの登山者やスキーヤーが山頂を目ざそうとしている。富士の自然の暦に大きな変わりはないようだ。
 
 標高2500m6合目までは夏と同じで緩い坂道を30分ほど。2軒の山小屋があってここから山頂へとジグザグの急登が始まる。村山古道を登ってきたウエストンらがこの6合目に達したときに、ポーターたちがぐずりだす。外国人が雪の富士山山頂を本当に目ざすとは思っていなかったようだ。ひとりは帰し、結局、2人のポーターを連れて行くことにする。2人は元気者でこのあととくに問題はなかったようだ。

 今、頭上を見ると、平成の登山者は雪の少ない夏道伝いに登る人が多いようだ。ポーターは草鞋を使っていたそうだがウエストンらは登山靴を履いていたにちがいない。彼らもできるだけ雪の少ない尾根を登ったのだろう。

 標高3000mを越えればその先すべてが雪の大斜面になる。今日は陽気がよいので雪面はやわらかい。先行者のステップが続いているのでそれを階段のように辿ればよいので楽勝だ。

 山頂近くになると傾斜が増して雪もだんだん堅くなってくる。9合目から上になるとアイゼンを付ける人が多くなる。ピッケルも必需品だ。ウエストンらはどうしたのだろう。ピッケルを持った写真があるくらいだから、それでステップを切りながら登ったのだろう。ポーターは草鞋だったというから昔の人は偉い。アイゼンは持っていたのだろうか。ウエストンの報告の中では、自分の登山行為については意外と淡白で、2400mから剣ヶ峰山頂までは2~3行で済ませている。そのかわりに山頂からの展望の叙述は詳細だ。北アルプス、南アルプスはもちろん、自分の登った山、未登の山、富士周辺の小さな山まで呼びかけることのできる細かい知識を持っていたようだ。

 9合5勺でアイゼンを付ける。ゼイゼイと登ってようやく1時に富士宮口山頂。コースタイムを比べるだけでもウエストンたちの足が速いのがわかる。貧しい登山装備をものともせずに、駆け上るように登っているように思える。

 今日は剣ヶ峰に立つことは割愛してここでのんびり休憩しよう。今年は残雪が豊富で山頂浅間神社の鳥居は頭が出ているだけ。こんな年も珍しい。風もなく絶好の春山。辺りには十数人の登山者がのんびりしている。現代の登山者は安泰だ。だれでも登れるという事前情報があり、たくさんの人といっしょに山頂を目ざせるから。山頂では携帯電話が通じピンポイントな天気予報も知ることができる。

 前年、前人未踏の積雪期初登頂を遂げたウエストンにとっては、3度目の富士登山は余裕だったに違いないが、人跡まれな巨峰を自由自在に闊歩する精神と能力は並み大抵のものではないだろう。山頂で思いついた御殿場への下山も余裕と好奇心の表れといえそうだ。

 ウエストンが日本の山をこれほど熱心に歩き回ったのには時代の空気もあったのではないか。19世紀後半から20世紀初めにかけては、アルプスで未踏峰が多く登られヒマラヤに向かうアルピニストが出てきている。イギリスを筆頭にヨーロッパではアフリカや北極、南極の探検が注目を集めている時代でもある。博学で好奇心旺盛な若きウエストンがそういう雰囲気に疎かったはずはないから、自分もまたその前衛のひとりと考えていたとしても不思議ではない。彼の最初の著作のタイトルにはそんな気分が現われている。「日本アルプス 登山と探検」。日本アルプスの峰峰はウエストンにとってはまさに宝の山だったのだろう。富士山にまだ積雪期の登山記録がないことを知って彼は小躍りして喜んだに違いないのだ。

 それはともかく、ウエストンが自分の生業を疎かにしていると思われるほど山が好きだったことは事実である。ウエストンの研究家田畑真一さんは「登山家、ときどき神父」と彼を評している(注)。そして日本の山と日本人を熱愛していたことも彼の著作から明らかなことだ。


 2時前。往路を下ることにする。持ち上げたスキーを使っての下山だ。9合目までは雪が堅いので慎重に下る。あとはラクラクで滑走。新6合目の小屋まで滑りこんでさらに駐車場上まで滑走することができた。4時前に終了。雪の富士山はブーツが砂だらけにならないのがうれしい。


(田畑真一著の「知られざるウエストン」には、彼の上司が本国に「休暇をたくさん取る人だ」と告げ口していることが書かれている)



富士宮口山頂。雪多い
朝いちで東京出。乾いた道を富士宮5合目まで上がる。7時スタート。スキーヤーや登山家が40~50人くらい見える。筋斗雲の峰岸チームもいて今週から富士山ガイドだという。ボードでガイドするようだ。さすが。7合目からアイゼンをつける。2800mあたりで夏道ルートを外れて滑降ルートを逆登りする。冷えていたので上まで上がれるか心配だったが、日が上がるとともにだんだん雪がやわらかくなってきた。1時に富士宮山頂。
山頂部は雪が多く、鳥居がほとんど埋まっている。20~30人くらいが登ってきたかんじ。剣が峰にもヒトが見える。マジックマウンテンのワクツさんなどに会う。2時前に山頂から滑り出し。9合目までは雪が堅く無理しない。あとはラクラクで滑走。新6合目の小屋まで滑りこんでさらに駐車場上まで。4時前に終了。ブーツが砂だらけにならないのがうれしい。
山頂直下もまっ白