12.31.2015

RIP 伊藤忠男

メラピークで
         


ヨセミテ2003年6月


ヒマラヤ1995年


ちゅうさん伊藤忠男氏はARC山岳会のリーダーだった。あまりに多面多才で彼の全体を知るのはむずかしいが、この大人が団塊世代に現れた異能であったことはまちがいないだろう。ダジャレ好きだった本人だが、いつでも「よき自分と美しい世の中」をまっすぐに追求していたはずである。

広く深いインテリジェンスと地球スケールの実行力に支えられた彼の遊び方と生き方はまたたくまに周辺に伝染していったように見える。ARCはそのうちのひとつだったと言えるだろう。私がパラグライダーの世界に入っていったのももちろん彼がいてこそのことでした。
 2000年から2005年あたりの記録投稿数を見ると、ARCの全盛はそのころだったな、と思います。その本数、内容ともに抜群であり、ちゅうさんがその時代を引っ張っていたのだと思います。

2008年ARC解散以降はカンボジアに行くことが多かった。彼が立ち上げたアンコールクライマーズネット(ACN)はかれの本領を発揮する国際的な活動になった。こどもたちのクライミングをテーマにカンボジアと日本を橋渡しするこのネットワークはたくさんの支援者を得ていまも活動している。

ちゅうさんの後半は、この活動が生きがいであるかのように情熱を注いでいた、ようにみえた。
ちゅうさんは、ただのインテリクライマーを飛び越えて人の世の希望になっていた、とでも言うのがいいのかな。

このページのおわりに転載した、「どぶねずみクロニクル」の最後にちゅうさんの熱いこころが見える気がしました。このときちゅうさん50歳目前。

  6畳1間に親子4人で暮らしていた少年時代、ボクはたいてい押入で寝ていた。そ 
の小さな空間がボクに想像力を与え、いつかはそこからどこにでも飛び立っていける 
自分を予感していた。50を目前にしてもボクは相変わらず”押入”から夢を膨らま 
せる。ヒマラヤ、アンデス、パタゴニアでのクライミングやそこで暮らす人たちとの 
語らいを思い描くだけで胸がわくわくする。
  ヒーローには程遠いにしても、走ったり泳いだり空を飛んでタフになることが、いつ
   かは誰かを、そして自分を救うことになるだろう。そして、”輝ける壁”へのクライ 
ミングを触媒にして、まだ知らない世界へ旅に出て、自分を試すのがいつでもボクの 
夢なのだ。

以下に本人が残した4本のテキストを転載します。 伊藤フミヒロ記

2015年8月の大泉の追悼会、もちろん本人はいません。この日のレポートは8月23日の横尾山にあります。
ところでちゅうさんの命日が不明、2015年ですが。
享年は65?、残念、ひとの倍も生きたひとですが。伊藤フミヒロ記

※追加
このころ毎年夏、甲斐大泉の集まりに出ていて前年の2014年も8月23日でした。
ちゅうさんも夕方にチミさんといっしょにやってきました(多分トミーなどと小川山経由)。ホスト役ですがビールを飲むこともなく異例ですがその日のうちに帰っていったと思います。本人もまわりもかなり悪いのを知っていました。本人は普通にしていましたが多く言葉を交わすことはなかった。具合が悪かってのでしょう。私は24日は茅ヶ岳に登っています。
2014年の8月茅ヶ岳のレポートの一行にちゅうさんの名前あります。



※追加
ちゅうさんが亡くなったのは2015年の8月でした。多分ガンだったのでしょう。
8月の16日にひとり光岳に登ってから遠山郷道の駅にいたとき訃報メールを見た、とそのレポートにありました。あの大泉のちゅうさんの追悼会は同じ月だったのか。

※追加 
フェイスブックにTadao Itoのアカウントで本人の投稿などが残されていました。
最後の投稿は2015年の5月11日。白馬でスキーの格好しています。
フェイスブックのmemorialized accountという形になっています。チミさんが手配りしたようです。
しつこく追加しますが、彼はリアルなインテリでした、本来的にアタマがよかったのでしょう。そうそう英語力もリアル強かったです。文体も個性的でなかなかですね。

フェイスブックのアカウント

2008年の記録

注 2008年2月のARCブログへの最後の投稿か。


カンボジア・シェムリアップ@伊藤ちゅうです。

2/21~24日に掛けて、カンボジアの最高峰、アオラル山1810mに登山遠征を行いました。
以下、簡単な報告です。

2/22、南面山麓標高250m地点から西南西尾根を経てPM2:20に登頂しました。
初登ではないですが、ここへ足跡を記した最初の日本人になったと思います。

一帯は1980年代後半にヘンサムリン政権に追われたクメールルージュが敗走し追いつめられた辺りです。
現在はカンボジア環境省が統括管理する野性保護地域(Wild Sanctuary)として指定されています。
登山に限らず入域には面倒な手続きと準備が必要でした。
また、虎、象、熊、鹿、山犬、山猫などなどの棲息地でもあります。
関係省庁より地雷と不発弾の曖昧なワーニングも受けましたが信じるに足る資料、情報は遂に確認できませんでした。

山全体が、”カフカ少年”が迷い込んだ森のようにとても不思議でしたが、頂上はそれを越えて、奇怪でした。
どこもかしこも太く背の高い樹林に埋まっていて、頂上にあってもまた景色どころか空も殆ど見えません。

GPSの高度計が最高点を示す地点に1944年にフランス人が敷いたと信じられている岩の台座がありました。
そこに奇妙な表情の小さな仏陀が座っています。それが頂上を示すサインでした。

でもホントにそこが一番高いのかどうか、僕には遂に実感できませんでした。
(それを同定した技術と年代から軍隊の所業を連想しますけれど)
僕は、いつまでも麓でうろうろしているような思いにとらわれていたのです。

ふつう山の頂上で僕たちが受ける様々な恩恵、達成感とか大きな空とか絶景とか、とかとか、一切無し。皆無です。
もっとも僕らが敬虔な仏教徒だったらずいぶんと違った思いを抱いたかも知れないけれど。

それでも、この登山は、面白かった、です、とても。
なぜか?
それは、見知らぬ土地へ出掛けて、良く分からない山に登る。様々な脅威があって、どうなるのか分からない。
そういう不確実さが登山の真髄だし、それが、僕たちのアオラル登山には厳然とあったからです。

記録の詳細は後日Web上(たぶん)でお知らせできると思います。
ではでは、とりあえず登頂の報告とお礼まで。

2007年の記録
カテゴリ:2007の記録
カンボジアは今が一年のうちで一番快適です。体の弱い僕でもこの季節だけはなんとかなりそう~。
白馬の夏よか涼しく小川の夏よりは暑い。ってところですね。なんか棲息域のネタバレですけど。
この前が5月まででしたので、それ以降、夏+秋の山(&山like)の報告です。

・2007/5/15  プノン・ベイ・サンボー偵察+カンポット(テンプルケーブルロック)でクライミング(CA)
・2007/6/3 チエの七柱ボルダ/FirstStone(5.11-)開拓(CA)
・2007/6/25頃 中国/雲南/梅里雪山弔い巡礼行
 
印象メモ2点。1:チベット人の家の壁の写真、2:日本人隊員名がゴリゴリ削られた梅里雪山遭難碑

・2007/7/8 チエの七柱ボルダ/ジャングルブック(5.7)設定(カム#1~#2各1)(CA)
・2007/7/21 ノーモアモンクスロック(CA)
・2007/8/8 奥裾花川流域・中西山(1740m)

夏の一時帰国で登りました。
栂海新道を歩こうとしましたが台風と完璧にバッチングでした。で、手近か、かつ行ったこと無い山に変更。
ところがひとっこひとりいない超穴場で、クマの足跡爪痕みっけてびびりまくりでした。
低い藪山だけれど、それなり怖い。
写真は雨の合間に撮った雨飾方面。中央のピークは大渚山かな。

・2007/8/11   ファルトレク:陣馬山下→明王峠→影信山→小仏→高尾山口(2H40M)
・2007/8/16   ボコダキから小川に変更(tomiと。スラブが怖い)
・2007/8/18  小川山
新人のポテト、チミの幼友達ナオコさんとガマルート。これも久々。
因みにナオコさんは、ダグスコット来日時の通訳さんなのでした。

・2007/8/20 広沢寺(けんじ先生と。午後だけ。涼しくてラッキ~)
・2007/9/14  バッタンバン/プノン・サンパゥのクラッグ偵察(CA)
・2007/10/11 プノン・アウラル第一回偵察(CA) 
カンボジア最高峰です。ドイツ隊が2005年に登っていますが2人殺されている模様。ひぇ!
現在地元の方とジョイントで登る計画(2008年3月予定)で準備中。

・2007/10/13 ノーモアモンクスロック(CA)
・2007/11/10 チエの七柱ボルダ/Barrier(5.11+)他4本の新ルート開拓(CA)
・2007/11/17 チエの七柱ボルダ/WhiteSnake(5.10)開拓(CA)
・2007/12/8 チエの七柱ボルダ/チエ岩大掃除(CA)

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CA:カンボジアでのクライミングです。
詳細は僕のプライベートサイトをご覧ください。
→ http://www.amy.hi-ho.ne.jp/spc_chu/html/canbodia_slow_life_index.html

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ではでは、みなさんもたまには山のレポート送ってね。
来年はいよいよ赤いちゃんちゃんこ。わっははv^^

登山も国際感覚を問われる時代です。
ではでは、また。お元気で。良いお年を!楽しいクリスマスを!

ちゅう


”輝ける壁”と、どぶねずみクロニクル
伊藤忠男

 
  マニリンドウの祭、ネパール、ターメで、7月

 ボクらの時代の神話。
 アラビアのロレンス、ブ-ルにテレイ、ブッチとサンダンス..といきたいところ 
だが、神話の起源はそれよりもずっと前だ。
 マンガのイガグリくんと、テレビ創成期の月光仮面あたり。
  彼らは子供の頃ボクの心に永いあいだ英雄として君臨していた。

  30にさしかかったときに、リチャード・ドナーの手でリメイクされた新生スーパ 
ーマンにさえわくわくしちゃったのだから、もうすぐ50に手の届きそうないまも、 
この手の幼児性はあまり変わっていないかも知れない。

 26のときにネパール、インド、パキスタンとふらついていたが、丁度デリーにい 
たときに、ブルース・リーの「燃えよドラゴン」が公開された。公開された日に主演 
している当人が死んでしまったというので、街ではすごい評判だった。
  3日間毎日、暗闇を蚤の飛び交うシアターに通って夢中になってしまった。このヒ 
ーロ-は超能力もないし、妙なウェアーをまとっているわけでもない。鍛え上げた生 
身だけで敵に立ち向って行くところが鮮烈だった。
  ついでにいうとフリ-クライミングも彼に倣って生まれた...じゃないかなあ? 


 ボクの人生観の底に棲むヒーローは、弱いひと困っているひとの側に身を置きたい 
という、ボクの無邪気で独りよがりな気高さを負っているらしいのだ。 もっとも1 
0代の大半と20代のはじめを殆ど長距離ランナ-として過ごしたから 、早いうち 
から自分が相当地味に、つまりヒ-ロ-には程遠いレベルに生まれたことが分かって 
もいた。陸上は極端に層の厚い世界で、下にも上にもきりがない数のランナ-が目の 
色変えて速く強くなろうとしていた。だから、それまで叩き込まれていた何にでも” 
勝敗”を持ち出すような価値観には、ちょっとうんざりしていたのだ。



     私は自分の名前が呼ばれてから登りだすのでなく、自分が登りたいと思う 
          ときに登りたいのです.....ウオルフガング・ギュリッヒ



>>> 76年 ネパ-ル・ヒマラヤ氷河観測隊 >>>


写真
左上:76ネパール、ハージュン氷河観測基地。アウフシュナイダーゆかりの地。
右下:82年インドCB14峰下部氷壁。
左下:89年ペルー、ピラミデ南壁で


 2年後にちょっとしたきっかけから、文部省が若い探検好きの科学者たちをバック 
アップして実現した「ネパール・ヒマラヤ氷河観測隊」に参加することになった。ク 
ンブで懐かしいシェルパたちに再会すると”科学者になったのか?”と口を揃えて冷 
やかされたが、ボクがメンバーに選ばれたのは計測機械や発電機などのメンテナンス 
ができる技能を買われたからだった。

 ボクの任期は3月から11月にかけてのモンスーン季だったが、7月に4400m 
のハージュン観測所で熱と嘔吐に襲われ何日も身動きのできない状態になってしまっ 
た。本気で命の危険を感じたが、気遣うメンバーと土地の人たちの善意に守られて1 
ケ月後にカトマンズに降りた。
  11月に狙っていたルーウェンゾリもだめになったとナイロビにいる相棒に電報で 
知らせた。
  ”例の肝炎になっちゃったんだよ、オレも”
 念願だった美しい山の中で過ごした日々よりも、ボクに救いの手を差し伸べてくれ 
た土地の人たちのことが忘れられなかった。

  で、第三世界でひとの役に立つ仕事をするのはボクの夢の一つになった。

  入院していた間にカトマンズの本屋で手に入れたP.ボ-ドマンとJ.タスカ-の 
チャンガバン西壁(‘76)の記録「シャイニング・マウンテン」を読んだ。英語は 
赤点ばっかりだったのできつかったが、おもしろくてぐいぐい引き込まれた。チャン 
ガバンは輝ける山なのだが、ボクはこれを“輝ける壁”と訳して読み続けた。ボ-ド 
マンの眼差しが、みすぼらしい北インドの街路から、“輝ける壁”、そしてそれに立 
ち向かうちっぽけな自分たちのこころのありようにまで広がっていたのがことに印象 
に残った。


    
     先立つものは何といっても体力です、体を鍛えるのは諸君の意思の力です 

                                                
...伊藤邦幸 




>>>  82年 CB14/インドヒマラヤ >>>

 チミ-(妻)が肝炎後症候群の悪夢からボクを救い出してくれた翌年(79年)、 
好運にもカトマンズで半年間自分の専門職に従事できる機会があった。
そして82年、”輝ける壁”っていいなあっと、ちょっと本気になりはじめていた。 
その夏、3人の仲間とインド北部、ヒマチャル・プラデシュの未踏峰CB14という 
6000ちょぼちょぼの山へ出かけた。事前に調べられた情報もちょぼちょぼで、そ 
の割に自動車の走れる道路から近く、探検の要素と便利さが混じって、かつ岩と氷を 
辿るクライミングが主体で、オトクヨウってところだろうか。しかもグレードは”ク 
ライミング”誌の人気シリーズに倣っていえば、テン・アンド・アンダー。もっとも 
、この頃はまだデシマル・グレードってなかったな、ボクの周りには。

 登頂のあとBCで夜たき火を囲みながらマナリで雇った60を越えるコック、チャ 
ンドーと僅かに通じるネパール語と稚拙な英単語を駆使してやや突っ込んだ話をした 

 印・パ戦争で家族とバラバラになってみんな行方は分からないという。セントラル 
・ラホールは帰属の曖昧な部分を少なからず抱えているから、マナリは人種の坩堝だ 
。ここにいれば各地からやってくる登山者、巡礼者、難民たちを通じて、生きている 
自分のことが家族の誰かに伝わるかも知れない、っていうのだ。ボクは日本にいるま 
だ1才にもならないボクの娘のことを思い浮かべると言葉を失った。
  チャンドーの顔に刻まれたたくさんの皺はいまも脳裏に焼き付いている。

 なんだかボクは、山登りがうまくても困ってるひとを助けられないようじゃだめだ 
と思った。


    クライミングがそういうことに寄与できるかどうかというのは、僕がいつも 
        心に掛けている点だ.....ダグ・スコット



>>> 89年 ペル-、ボリビア>>>



写真
右:89年ボリビア、ワイトポトシ6079m頂上よりチチカカ湖方。
左:89年ペルー、ヤンザヌコBCにて。サダンディーファンが見える


 85年の春に父が逝き、その秋に山仲間のミケを失った。ネパ-ルで彼女が乗り合 
わせたタクシ-がスンコシ(河)へ150mダイブしてしまったのだ。

  89年に出かけたアンデスでは2つの雪に覆われたピ-クにミケの写真を埋めた。 
しかし、肝心の目標だったペルーのピラミデ南壁はコンディションが悪かったことと 
、それをものともしないほどのチカラのないことに気付いたので、取り付いてすぐに 
降りてしまった。
  つい最近この壁がアメリカ人とスコットランド人のペアに登られた。ボクの記憶で 
は多分80年のD.レンショー以来の成功だろう。コンディションは大半がミックス 
でTD++というから70年代のように安定したフルートを辿ればイタダキって訳じ 
ゃなかったということだ。
 クライミングにも理に適った背伸びは必要だが、制御と慎重さを侮る訳にはいかな 
い。ピラミデはそれまでボクにとっての”輝ける壁”だったが、不遜な背伸びに気付 
くとその輝きは失われた。

 高所順応のトレーニングを始めるときから貧しいが精悍で屈強なインディオ、ファ 
ンをテント・キーパーに雇った。ネパ-ルのシェルパと同じに、彼らもまた野生の高 
所で強かに生きていく術を持った誇り高い人々だ。山の中にまで泥棒の横行するアン 
デスではテント・キーパーは必須だと土地のひとにアドバイスされたのだ。だがファ 
ンの能力はテント・キ-パ-を遥かに超えていた。
  目標の登山が終わってボリビアへ移動する前の晩に彼を食事に招待したが、家族が 
待っているのでと、紳士然とした礼儀正しさで辞退された。つばひろの帽子をちょっ 
とつまんで、もっと岩の出ていない良い時季にまたピラミデへ行きましょうといい、 
4才の可愛らしい娘をひょいと肩に乗せ、スク-タ-抜きの月光仮面みたいに消えた 


  山はだめだったが、タフでダンディ-なファンのお陰で気分は上々だった。

 

     すばらしい日だったよ、相棒....レイ・ジャーダイン



>>> 90年 奇跡?! >>>

  90年に奇跡が起きた。10クラスさえめったに良いスタイルでものにできなかっ 
たボクがある日小川で名うての11bをオンサイトしたのだ。”遊びなんだから”と 
訳知り顔でコンペを勧めるひとまで出現したのは、古典的だがグリコのオマケ。これ 
が20代だったら(もう40さ)こっから破竹の勢い、ってことにもなったかもしれ 
ないが、ある日登り慣れた10のド・スラブを落ちて奇跡も一緒にオチタ。
  しかし、しょげるより、つかの間でもモウケ~と思うことにした。
  その道の猛者がかく語りき。11bなど奇跡でもなんでもないと、な。ついでに、 
一流のクライマ-は風邪ひきやすいんだと。ばっかみてえ(失礼!)。
  クライミングがうまくても風邪ばっかりひいてるような体じゃ困る。
  ついでに言うと、足がちゃんと2本あるうちはフルマラソンを3時間程度で駆け抜 
けられないような根性無しの自分はゴメンだし、水泳だってもっとうまくなんなきゃ 
我慢できない。そうでなければ他人どころか自分自身の面倒さえあやしいぞ...ん?。 

        自分全体を成長させ、能力の一部でそのル-トを登れるようになりたい
                                           ...平山裕示
   


写真
右:小川山、私のルート、ジェイコブラダー。
左:91年ヨセミテ、ジョジョ5.10bをリードする私


 とにかく、ツキはあっけなく落ちた。

  しかしその年、めげずに奇跡の余勢を駆って、比較的ポピュラ-な壁に2人の仲間 
とオリジナル・ル-トを設定した。その壁にはもう何本もル-トがあるから”開拓” 
とは呼べないかもしれない。
 シ-ズンの終わり、11月のうそ寒い日を選んで堂々とハンマ-を振るった。数回の 
リハ-サルのあと吹雪の中でリ-ドした。ル-トは、ネパ-ルで逝ったミケへのレク 
イエムとしたが、ボルトをトップダウンで打った余韻がそれ以前のものに累積してい 
までもある。

  天文学的な時系でいえばいつかは砂礫になるのだろうが、ボルトとそれを打ち込ん 
だこと自体がそのときまでその岩に印されていることを思うと、ときに滅入ったりする
。誰かがル-ト開拓は創造的な行為だとまことしやかに言っていたが、こんなレトリッ 
クは当たり前過ぎて何の意味もない。創造性や舌を巻くような技術、行動は、ふつ
うの暮らしのなかでだっていくらでも見つけられるし、極端な例をあげれば、最も邪悪
な殺人兵器の開発や理不尽な土木工事にさえ含まれているんだ。

 プリ・ボルトのルート作りにケチをつけるなんてとんでもない。単に良いル-トを作
る自信がないだけなのかもしれない。自信がないんなら、ボトムアップとかナチュ・プ
ロのル-トを引けばと思うが、まだあるかもしれない空白部を探ったり可能性を考え
ているだけで残っている人生の大半が過ぎてしまいそうで怖い。松本人志流の”ウン
コちゃん”みたいなル-トはいやだし。...悩む。

  それに、第一ボクはまだ、ときには誰かが引いた5.9にさえてこずることがある
のだ。


    いまさら5.9なんてなんの価値もない...飯山健治
        ガーン、ショック..イイモン、ガンバルゾオ(例外的筆者割り込み)
    誰でも5.10程度は愉しんで登れるようになりますね...鈴木英貴
        ホントゥ?..カナア?(例外的筆者割り込み)



>>> 91年 USA >>>

  91年の秋、以前から打診しておいた大事な取引先に1ケ月の不在を通知して、二 
人の仲間とおもちゃ箱をあさるような旅に出た。サンフランシスコでビュイックのト 
ランクにクライミング・ギヤ、キャンプ・ギヤ、それに空を飛ぶ夢の道具、パラグラ 
イダ-まで詰めてしまった。
  ヨセミテの素晴らしいクラック・クライミングは、北インドを旅するみたいにスリ 
ルと発見に満ちていた。でもワクワクするような冒険心や達成感と引き換えに腕、肘 
、膝は血だらけでボロボロ。グレ-シャ-ポイントとトウオラミで冗談みたいにチン 
ケなパラ(殆どグラハン)をやったあとオレゴンへ向かい、Mt.フッドからのパラ 
・フライトを狙ったが強風で中止。
  南に少し戻ってスミス・ロックへ。スミスではまだクライミングを始めて間もない 
トミィが5.9,5.10レベルながら、取り付くル-トすべてをランナウトをものと
  もせずオンサイトした。
  しかし、彼女はこの旅のあと、”これって、おもしろいのお?”という衝撃的な名 
言を残してあっという間に足を洗ってしまった。因みにこのセリフで少なくともどう 
でもいいようなクライマ-のハシクレ野郎が2人自滅しかけた。

  スミスからワシントン州シアトルを通ってさらに北上。国境を超えカナダ、バガブ 
-を目指した。目指したが、その入り口で、なんだか魔が差して2000mくらいの 
スウェンシ-というヤブヤマに捕まった。成熟と快適度NO.1の国だかなんだかし 
らないが、退屈で死にそうなカナダで、さらに、なあんにもないフェアモントでひと 
の絶えたキャンプ場に5日間も意地になって張り付き、季節風が弱まったわずかなチ 
ャンスを掴んでビッグなフライトに成功した。でも頂上から見えていた、バガブ-の 
尖った岩峰がうらめしい。おもちゃ箱の中身はまだたっぷり残っていたが、時間切れ 
の立て札が目の前に立ち塞がってしまった。

  しかし、世界はボクを魅了して止まない。


      たとえば、未開の地へ出かけていって、適当な岩を見つけてクライミン 
      グするといったようなことです.....イボン・ショイナード



>>> 94年 邂逅  >>>


写真
左上:92年ネパール、ペリチェで。タウツェベースよりフライと。 
左下:92年ネパール、ディック・バスと。
右:94年メララからのフライト

  91年USAから帰国した翌日深夜。もっとも敬愛する”昭和一桁”の友人清水さ 
んが長く辛い闘病生活からいきなり解放され、逝ってしまった。”あきらめるな”と 
いうアンタッチャブルのショ-ン.コネリ-とそっくりな台詞と、”弥陀の請願不思議.. 
.”といういまだに訳の分からない嘆異抄の一節をボクに残して。

 翌92年にネパ-ルのナムチェからひとりの若者、ペンバ・シェルパがボクの家に 
やってきた。彼は20年来の友人ニマ・シェルパの長男で、将来へのあしがかりに日 
本語学校への留学を選んだのだ。彼の世話を引き受けたボクは、清水さんの遺志も引 
継いで、”日本”のアジア系外国人への不当な扱いとわずかな間だが、向き合った。 
しかし、日本語学校を卒業後、写植印刷の技術を身に付けたいという彼の希望は、
どこまでも不透明なこの国の”入国管理”によって断たれた。こうして彼はやむなく
93年春に母国ネパ-ルへ戻った。

 94年モンス-ン。
 希望を捨てないタフなペンバとその婚約者テンジン、ボクの二人の娘、それにチミ 
-、そしてあの天才”これっておもしろいのお?”のトミィでボクたちはクンブを歩 
いた。ブル-ポピ-の咲くゴ-キョからタンボチェへ廻った。この地方最大のゴンパ 
の裏手、北に張り出した尾根の針葉樹に囲まれて、ニマとボクと何人かの仲間で作っ 
た清水さんとミケのレリ-フが並んでいる。雨に潤んだシャクナゲの林越しにモンス 
-ンの雲がわずかに切れてアマダブラムがのぞいている。ボクは二人の遺したものに 
思いを巡らせた。


     So Far、So Good.....ブライアン・アダムス


>>> 95年 押し入れで見る夢、そして、再生 >>>

 翌年春、子供の頃からの憧れだったボストンマラソンに出場。季節外れの寒さとコ-
  スの起伏にしてやられ、ボロボロになってしまったが3時間38分でゴール。
その夏、新しい希望を抱いて渡米していたペンバとヨセミテで再会。ネパ-ルでは想 
像もできない恵まれた環境のクライミングに彼も夢中になった。彼はこのあとテキサ 
スでパイロット訓練校に入り、ヘリコプタ-の職業パイロットを目指すことになった。

 その秋、久しぶりのヒマラヤ遠征。若い仲間に誘われてネパ-ルのメラピ-クに出 
かけた。ひとりはスノボ、ふたりがスキ-を使う、それならボクはパラグライダ-、 
ということになった。スノボとスキ-は首尾良くピ-クからの滑降をものにしたが、 
ボクはコンディショニングに失敗し、最高点からのフライトを逸した。

 10年前には考えられなかったペ-スで、アメリカ、ヨ-ロッパ、ヒマラヤへ出か 
けられるようになった。経済的に豊かになったのは明らかだ。96年にはペンバとソ 
ルトレ-クシティ-近郊や、日本の仲間も加えて、ジョシュアツリ-でもクライミン 
グしたし、ヨ-ロッパ・アルプスでのパラグライディングも実現できた。
 世界は目まぐるしく変化し、想像のなかにありつづけることで冒険的だったことが 
、あまりに手軽に実現するためにある種の戸惑いが生まれた。
 冒険と豊かな生き方の相克、あるいは相関。

 
   新しい時代には新しいルールが必要だが、演じるゲームは同じである
                                      
                               ...アラン・ラウス

 また、トミィが名字を変えて(結婚したみたいだ)クライミングの世界に戻ってきた
。別人のようにヘタクソになってしまったが、皮肉なことにクライミングがとてもお 
もしろいと感じるようになったという。”天才”だった頃にはみせたことのない輝く 
ような笑顔で、やさしいル-トからもう一度やり直し始めた。
 すばらしい。じつにすばらしい。

 当たり前だが天才にだけ豊かさがもたらされるって訳じゃない。76で他界した年の
 離れたある友人は、”人生は夢”だと言い残した。清水さん、それに飛躍するがもっ 
とずっと前に生きた織田信長も、世阿弥の”夢/幻”にこだわった。
 人生が夢なら、誰のどんな夢にだって価値がある、とボクは思う。
 クライミングはその最高位に必ずしも”競技”があるという訳ではない。他人と比 
べたり競ったりする世界とは別の基準で計らなければならないような意味もそこには 
ある。


   自分の命を文字通り手中に握り、自分の運命の主人公になること
                ...クリス・ボニントン

 6畳1間に親子4人で暮らしていた少年時代、ボクはたいてい押入で寝ていた。そ 
の小さな空間がボクに想像力を与え、いつかはそこからどこにでも飛び立っていける 
自分を予感していた。50を目前にしてもボクは相変わらず”押入”から夢を膨らま 
せる。ヒマラヤ、アンデス、パタゴニアでのクライミングやそこで暮らす人たちとの 
語らいを思い描くだけで胸がわくわくする。
  ヒーローには程遠いにしても、走ったり泳いだり空を飛んでタフになることが、いつ
   かは誰かを、そして自分を救うことになるだろう。そして、”輝ける壁”へのクライ 
ミングを触媒にして、まだ知らない世界へ旅に出て、自分を試すのがいつでもボクの 
夢なのだ。

-----------------------------97年夏 記-

山飛びのススメ

伊藤忠男


 左からCHU FLYING PERICHE,KHMBU.NEPAL. 
TOMY FLYING  BUGABOO,BC,CANADA AND YOSEMITE,CAL,USA.
 
 
 Hi,ここは、鹿島槍の主稜線で布引を南寄りに少し下がったあたり。西風がちょっ
 と強いので様子見といったところ。暇なのでダイナブックで遊んじゃおう。...ケケ
 ケ


 ”山飛び”なんて、お勧めできません..おおーっと、開くなりこれはないか。...
.しっかし、あぶねえもんなあ、第一ひとに勧められてやるもんじゃないぜ。うーん、迷
ってる間にしっかり回線代払わしちゃってるから、ま、とにかくそれ指向のひとに役
立ちそうな話を書いてみますけど、私だってこの世界の第一人者どころか、河原の礫み
たいな平凡人間ですから、どうでしょうかね。

 私はこういうこと絡みで飯食ってる訳じゃないすから、誰もやんなくても別に困らない
んですよ、というよりか、じつはあまりやって欲しくないくらいだ(だって、ピークで
機体を広げる奴がうじゃうじゃしてきたら、たまらんぜ...と思ってしまうくらいこ
の世界は広がる可能性があるんだな)。

 マイノリティーにこそ”市民クライマー”としての居場所を見いだしている私には、マ
イナー山スポーツの担い手たち(例えばパラの専門誌やフリークライミング協会、TA
Jの機関誌などの書き手、書かられ手(?))が共通して醸し出す”メジャーになりた
い志向”みたいな現象(あのもっと流行らせたいってヤツよ)は分からない訳じゃあり
ませんが、大変陳腐にも思えます。ヤベエ、やっぱりこれじゃ、勧めるどころじゃなく
なっちゃったぜ。

 もとえ;クールにいきましょうか。じつはパラはクライマーがやるのが一番いいと思い
ますヨ。もともとアルプスのクライマーが開拓した分野ですから当然といえば当然。従
って、その起源も”山飛び”です。

 どこのエリアで飛んでも海風を使うエリアを別にすれば”山飛び”にはちがいないので
すが、現在では登山にパラを持ち込んだとき”山飛び”と言います。


 フライト技術そのものに”山飛び”固有のものはありませんが、たいていフライト・プ
ランは一切のシュミレーションなしで実行されます。つまりオンサイト(初見)!!。

 この概念は、はっきりいって現在のパラの世界では異端です。パラの神髄と目されるX
Cフライトでさえ、殆どのパイロットが事前に組み立てたプランに沿って地上で踏査確
認を行いますし、フライト自体も人間の生活圏の上空からそう離れずに行われ、地上か
らのサポートさえフェアな手段の範囲と考えられています。

 クライミングの価値観の根幹を成す”初見”や”ノンサポート”という概念は、他のス
ポーツでは見たことも聞いたこともありません。従って、登山(当然クライミングを含
む)技術や登山倫理を身につけていないひとにとっては、テイクオフする地点(頂上も
しくはその近辺)までたどり着くすべと、初見でフライトに立ち向かうこと、さらに生
活圏へ脱出する能力(ときには、氷河のまっただ中に降りなければならなかった、とい
うこともありますからね)が特別に必要とされます。これってクライマーならそう手こ
ずらずに受け入れられることばかりでしょう。道具への依存度が高いことと、体育的な
動作が殆どない面に抵抗があるかな、ことに生っ粋のフリ-クライマ-だと。

 しかし、スキ-やボ-ドと同じに道具を使いこなす面白さってのも悪くないよ、諸君。
言っとくけんど、頭はめっちゃ使うぜ。こらこら頭突きじゃねっての。もっともご先祖
さまが猿と信じ込んでる(わしのは鳥なの)カチカチ派にはちっときついかもね。ん?

 なぬ、どう面白いかって?! そうか、そいつを書いてなかった。じつはわざと書か
なかったんだけどね。でもやっぱり書かないことにします。飛んでみるのが一番。ひとた
び足下に展開する光景を目にすれば、机上で面白さを論じることになんの意味もないこと
に、すぐ気付いていただけると思いますからね。行動派のみなさんならよくお分かりでし
ょう。

 さらにクライミングに”空”を組み合わせた胸の踊るようなプランがよぎったとしたら、
KISYAの恐ろしいダラリンビレイ極刑から私が解放される日も近い(これ、楽屋ギ
ャグ)。

やれやれ、ぼちぼち風も安定してきたと思ったら雲低が下がってきちゃったよ。残雪が
多くてそれでなくても接地逆転層でフォロ-なんだし、やっぱ今日はだめだにゃあ。ダ
イナブックのバッテリ-もやばくなったし、帰ろ、 トホホ、徒歩で下る、なんつって。
(KIMデスロー囚人:chu 記)

2010年8月甲斐大泉の安田別邸で恒例の集会、正面奥がちゅうさん、このころバリバリ

モンベル展示会で、左から川崎博カメ、辰野勇会長、ちゅうさん、2010年7月



メラピークで飛ぶ

メラの4人組
ジョシュア・ツリーのちゅうさん。
あのころからもう10年、20年、30年もたっているのか、とあらためて驚きます。
うーん、人生は短いかも

2024年10月 伊藤フミヒロ 語る
ちゅうさんのこと。

1995年のヒマラヤメラピークのクラブメンバー4人での遠征がarcクラブ初期の大きなイベントで、それ以前もあとも国内クライミングやスキーが主な活動でした。あんまりクラブとして集団で行くということはなかったです。個人山行の集まりでした。
ちゅうさんとどこで知り合ったか覚えていませんが多分小川山でしょう。おたがい40歳前半でしょうが、それ以前の活動はほとんど知りません。ネパールに長くいたこと、海外登山の経験が豊富だったこと、など。彼のレポート、「ドブネズミクロニクル」が参考になります。


気前のいい人で東芝のダイナブックなど小型パソコンを2度ほどもらったことがあります。人をけなさない、ほめ上手の人でしたね。育ちがいいのでしょう。

かれの専門職はいまだ不明ですが、こんど誰かに聞いてみましょう。建築家、配管などのプロ、ITに強くてプログラマーみたいなこともやっていたはず。清水さんという人格者の事務所にいたらしい。自分でspcという会社を持っていました。なんの会社だったんだろう? 本をよく読む人のようです。書いたものを見ればわかりますね。
ヤマケイのロクスノなどの雑誌に連載したものがたくさんあります。

クラブでは、森光さんと2000年と2003年ヨセミテに行っています。ワシントンコラム南面、1度目は敗退、2度目に登っています。

本人は2005年の9月に足を骨折していますが、翌年にはクライミングに復帰しているようです。

2006年ころからはカンボジアに行くことが多くなりました。チミさんがもともと海外協力隊(国際協力機構JICA)で、足場があったのだと思いますが本人にもカンボジアにクライミングを広めるという思いがふつふつと湧いてきたのでしょう。それがアンコールクライマーズネット(acn)になります。

ちなみにチミさんはもともと学校の先生だったと聞きました。そのご海外協力隊で活躍していて天皇陛下に2回もお会いしていると聞きました。協力隊の有名人ですね。

2007年はほとんどカンボジアにいたようす。正月と春と夏休みに帰国してクライミングなどしています。

arcクラブはそのころは解消したとおもいます。

2008年の2月に念願だったカンボジア高峰のアオラル山に登頂しています。知られていない山でめったに登る人はいない、日本人では初めてらしい。カンボジアでの記録は本人のブログにあったようですがいまは見れません。その後ちゅうさんからクラブへの報告はありません。


アオラル山のレポートがクラブに寄せられた最後の記録になりますが、
アンコールクライマーズネット(acn)のホームページやフェイスブックを見ればカンボジアでのその後のちゅうさんの活動がもっと分かるとおもいます。

2009年から2014年の5年間はアンコールクライマーズネット(acn)でいそがしくしてたのでしょう。甲斐大泉集会のほかはほとんど会うことはなかったとおもいます。

2014年8月の大泉安田別邸での恒例の集会で仲間が集まりました。具合がわるそうで病院に行くとか、でその日に帰りました。この日以降はちゅうさんに会ったことがないとおもいます。ファイスブックの終わりの方はもう少しあれこれやりたいなというかんじもしますが、それはヒトの決めることではないようです。


私が知っていると思うのは40台から50台のかがやいている頃です。私の想像では、チミさんというベストな連れ合いがいてあれこれ自由な活躍ができたのでは、と思いますがどうか。お子さんたちも海外協力隊かなんかで優秀な方でした。

ちゅうさんに感謝しなければならないのは、彼の友達とも知り合え、クライミングをともにできたことです。彼の山の友人には宝もののような人が何人もいました。
ありがとう。

補足
ちゅうさんのFBを見ると2010年くらいから始めているようです。
積極的にポストしているのは2012年からでACNのロゴ入りでカンボジアのクライミングや人工壁での活動が報告されています。現地の若者にちょー親しまれているのがわかります。ほかにも佐久の浅井さんとか日本人のサポーターがたくさんいるようです。ACNはNPO法人かなにか公的なものになっています。
2008年のアオラル山から2012年までは、情報がちょっとありませんがカンボジアと日本を行ったり来たりしていたのでしょう。
そのあたりはACNのホームページをみればわかるかもしれません。

FBをみていて、なんだか具合が悪そうだなと思ったのは2014年からで、正月に乗った飛行機でエコノミー症候群になって入院したとあります。
そのころでもランやハイキング、スキーなどしていますが、だんだん顔色が悪くなっています。なんだか不調、のメッセージもあります。

このころはもう東京に戻っているようです。2015年ゴールデンウイークころ短期間カンボジアに行ったようですが、投稿も減ります。2015年5月11日ポストで白馬でスキーで滑っている写真がのっています。
最後の投稿は2015年6月19日でカンボジアで行われるロータスカップのポスターを掲載しています。
2015年8月になくなったとおもいます。

FBにあったちゅうさんのかっこいい紹介と写真を転載します。


ACN’s founder, Tadao Ito (aka Chu), 
had been climbing since free climbing was introduced in Japan. A mountaineer with extensive experience, Chu held a record of the first summit ascent in the Himalayas. His mountaineering achievements included: first ascent to CB14 (6079m) via East Buttress in India, South-West face of Piramide (5885m) in Peru, Mt. Wayna Potosi (6082m) by North-East ridge, paragliding from Mt. Mera Peak (6753m, Nepal), El Capitan Nose, South face of Washington column of Yosemite Valley, and Prince of Darkness of Red Rocks in the USA. Chu was also a member of the Glaciological Expedition of Nepal 1976 (GEN), which had him crossing several passes above 5000m, and roughing it out over the monsoon period at 4000-4500m.