2.28.2022

北田啓郎大兄 RIP


●北田さん追悼1 山と溪谷誌からの依頼で以下書きました。伊藤文博 2022年2月

貴公子のテレマーク

北田さんがスキーツアー中に倒れて亡くなったのは1月25日。尾瀬戸倉から大行山へ登る途中でした。原因は内因的(心臓発作)なものだったそうです。
同行した二人(カラファテ社の中根さん、荒山さん)によると、
13時ころ、少し後ろを歩いていた北田さんが見えないので戻ってみると雪の上に倒れていた。意識がなく呼吸もないようだった。心肺蘇生しながらヘリコプターを呼び、14時30分には病院へ搬送されいったが、その後、回復することはなかった、とのことです。山中の突然死でした。

北田さんは1949年盛岡の生まれ、育ったのは埼玉県の浦和です。兄の紘一さんの山好きにひかれて中学生のころからふるさと岩手の山に登りました。スキーで雪山にもよくいったと言います。

学習院大仏文科を出て登山用品の業界に入ります。
山熱が高じてカリブークラブ(山スキーチーム)を仲間と結成、内外の雪山にでかけます。80年のマッキンレー山頂からの滑降は一大イベントでした、ヨーロッパアルプスのハイルートへは何度かでかけています。

本人いわく「テレマークスキーに開眼したのは82年、転機でした」。84年に有志と日本テレマークスキー協会を設立して普及に努めます。その後の人気イベント「てれまくり」も北田さんが始めたものです。
90年代はテレマークの修行にコロラドロッキー山脈に4年連続でかけました。コロラドのあとカリフォルニアのシエラネバダ山脈へ2シーズン行っています。98年の仲間とのハイシェラルート完走は北田さん自作自演ツアーの傑作といえるでしょう。マッキンレー滑降とこのハイシェラのツアーは日本人の記録として誇れるものです。

ほかに、北田さんはたくさんのスキーツアーの本を書いています。スキービデオの出演も多いので動画を見られた方も多いでしょう。
もうひとつ北田さんがやった仕事があります。89年日本初の「テレマークとクライミング用品の店・カラファテ」を創業したことです。今もつづく都内目白にあるお店はよく知られています。

いつもにこやかでやさしい北田さんですが、仲間との山行では違う表情もあります。
雪の山については独自の美意識があり、登る山、ルート、滑るラインなどこだわりの多い人だった印象があります。「北田スタイル」があり、山に関してはシリアスだったと言えます。
北田さんのあのきれいで上品な滑り、まさに「貴公子のテレマーク」がもう見られないと思うとほんとうに残念です。

伊藤文博 パウダーガイド社代表、元ヤマケイ誌編集長


 山と溪谷2022年3月号 


●松倉さん撮影編集ビデオ 

北田さんをしのぶ

https://youtu.be/Q9We51RZu_8

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北アルプス立山11月 撮影川崎博


●THE SIERRA HIGH ROUTE

シエラハイルート走破行

北田啓郎

 

 
シェラでの北田さん 写真は真壁さん


北田啓郎 文
 
期間:1998/4/25-4/30
パーティ:ベンジャミン バーディ、マット バーディ、糸尾希沙、真壁章一
          伊藤裕之、渡辺賢二、溝部克実、北田啓郎

日本に記録的な少雪をもたらしたエルニーニョは、カリフォルニアでは季節はずれの
大雪を降らせていた。4月半ばを過ぎてから、ハイルートもかなりの雪が積もったと
の連絡が入り、雪崩や、重いシエラセメントのラッセルなど、前途は多難そうだ。日
本チームはサンフランシスコでいつものようにフォードの15人乗りフルサイズバンを
借り、ヨセミテ経由でフレズノに向かう。本当はタホスキー場あたりで足慣らしをし
てからフレズノに向かう予定だったが、あわただしすぎるスケジュールなので、まず
はヨセミテ観光でお茶を濁すこととなった。ヨセミテは予想外に天気が悪く、気温も
低い。ヨセミテフォールの下にはまだ多量の雪が残っていた。

ハイルート走破の第一関門は、いかに入山下山の足を確保するかである。僕たちのと
った方法はいくつかある中で最も贅沢な方法だ。
まず2台の車で下山口のウルバートンまで行き、バンをデポしてくる。次にフレズノ
から軽飛行機で東へシエラを飛び越える。最後に入山口までは現地のバンサービスで
運んでもらう、というわけだ。飛行機代は1機$800、1人頭にして$180、日本の新
幹線や高速料金と比べ高い気はしない。
飛行機は双発のパイパー機2台。主翼のエンジンルームにスキーとストックがすっぽ
り入るのがとても便利だ。飛行機オタクのニシが珍しい小型機を見つけて興奮しなが
らシャッターを切りまくる。空港は宿にしたホリデイイン・フレズノエアーポートの
すぐ脇にあり、移動には理想的だ。

前夜は酔っ払いながら各自パッキングに努力する。徹底軽量化を自負する糸尾記者の
ザックが意外にも重いことがわかると、土壇場で酒を減らしたりしている。最も若手
のナベちゃんのザックが最も小さく、溝部氏から一言があったり、今回は皆いつにな
く重さにナーバスである。真壁氏、ベンさんは体力に自信があるのか、結構でかいザ
ックである。
シアトルから夜遅くにマットさんが到着。仕事が忙しそうで、ホテルに来てからどた
ばたと装備を点検している。マットの荷物は一番でかく、その中にはこれからお世話
になる貴重な装備がぎっしり詰まっていたのだが。

4月25日、出発の日、6:30起床。ホテルの甘すぎるドーナツとコーヒーで朝食を済ま
せ、ベンさんの車で3回に分けて荷物を運ぶ。パイロットは日本にも来たことがある
という退役軍人だ。
9:30、いよいよフライトである。飛行高度は4、5千メートルくらいか、登山者がいれ
ば見えるくらいにまじかに稜線を越えてゆく。先行した機とは少しルートが違うのか
、機体は見えない。僕の機はいちどエアーポケットに入り、シートベルトをしていた
にもかかわらずおもいきり天井に頭を打付けてしまった。
着陸地は、昨年も通ったインディペンデンス。シエラクレストを越えると、機体はお
おきく北に旋回し、はるか下方に箱庭のように見える滑走路をめがけて、高度を下げ
ていく。シエラ山脈の東と西では、景色がまったく違う。こちら側は、乾燥しきった
砂漠地帯、インディペンデンスはその中のオアシスである。
待ち構えていたバンサービスのトラックに荷物を移し、すぐに出発。すぐに埃もうも
うの砂漠の中の、ジープ路らしきを進む。
入山口はシムスクリークだが、地図で確認するとかなり山の近くまで入ってくれたよ
うだ。辺りはガラガラヘビでも出てきそうな砂漠で、トラックが2台デポしてある。
ここで最初のトラブル発生。真壁さんのストックがないのだ。共同で荷物の積み下ろ
しを繰り返したから、車か飛行機かに置き忘れたに違いない。車は行ってしまったの
でもはや戻る方法はない。ストックがなければ歩けない、真壁さんの頭の中は真っ白
になったに違いない。

しかし、神は真壁さんを見放さなかった。マットさんが出発前に悩んだ末、予備のス
トックを持ってきていたのだ。
                            ***
ひとずつ準備が出来たものから歩き出す。山の上は雲がかかっているが、頭上は砂
漠の青空である。サボテンなどを踏みながら雪のない山路を歩く。徹底軽量化をはか
ったザックだが、一週間分の食料とスキーまで担ぐと、25キロぐらいあるかもしれな
い。クリークを離れ急傾斜をジグザグに登ると、やがて雪が現れ、スキーをはく。27
30mのシムスサドルにでると、目の前にMt.ウィリアムソン(4313m)が聳え立つ
。確かアメリカ本土で第2の高峰である。その右肩はるかに、明日越えるはずの第一
の難関、シェファードパスが望まれる。ここから幕営予定地のマホガニーフラットま
では予想外に長く、一度シェファードクリークに向かってかなり高度を下げ、再び登
りかえさねばならなかった。
                             ***
2日目は、シエラクレストと呼ばれる主稜線を越える難行が待っている。シェファー
ドパス、3600mである。
アンビルキャンプ手前の急斜面でロープを使用する。岩の迷路となっているモレーン
帯を苦労して抜けると、パスに続く急斜面が立ちはだかる。といっても最大傾斜40度
くらいだろうか、アイゼンピッケルを使用すれば難しいわけではない。しかし荷物の
重さと高度になれていない身には結構つらい。コンディションの良い者といまいちの
者の差は大きく出る。
真壁さんが最初から絶好調である。他を寄せ付けない速さで登ってゆく。糸尾記者は
半分ぐらいまでシール登高しきわどいバランスでアイゼンに履き替えている。マット
、ベン、ナベ、北田、ヒロあたりはまあまあの調子だが、溝部氏とニシが大きく遅れ
ている。溝部氏の昨年のあの馬力は何処へ行ったのだろう。ニシはまあこんなものだ
ろう。
登りきると広大な雪の砂漠のような地形が現れた。カーンリバーまでほぼ平坦か少し
下り。シールを剥がし、一人遅れているニシの姿を、はるか後方に確認しながらキッ
クアンドグライドで快調に先を目指す。少しでも下り傾斜だとスキーはほんとに楽だ
日が西に傾くなか、クラストがはじまった斜面をひとくだりすると、池のほとりに平
らな第2日目のキャンプサイトが見つかった。雪を掘り氷を割ると、うまい具合に水
が現れた。いつものように小型水浄化器で汲み上げる作業をする。まわりは樹林帯で
、日本でいえば黒部の源流でキャンプしている感じだろうか。陽が落ちるとあたりは
急速に冷え込んでくる。そんな中ベンとマットは最後まで外で夕食をとる。温度感覚
はアメリカ人と日本人ではかなり差があるようだ。
                            ***
三日目は第2の難関マイルストーンのコル(3900m)を越え、トリプルディバイドピー
ク下までの予定で出発する。ここからがハイルートの核心部である。シエラクレスト
の西、シエラのど真ん中にはしるグレートウェスタンディバイドをたどるからだ。1
、 2日前に通過したらしいシュプールがあり、気楽な気分で出発したが、地図をよく
見なかったのが災いし、かなり進んでから、一本南の谷に入り込んでいることがわか
った。周囲の景色は素晴らしく、このまま進んでも方向的にはよいのだが、たぶん最
後のつめが急で苦労するだろう。マイルストーンクリークとこの谷を隔てている尾根
の弱点を探し、そこを越え、正規ルートに出れないか偵察をする。尾根上に出ると、
反対側はかなり急ながけになっていた。アメリカの地図は、等高線のみで、日本のよ
うに岩記号がないので、行ってみないとスキーが使えるかどうかわからないのだ。

結局、マット隊は尾根を忠実に数百メートル下り、結構な急斜面をスキーで下降し、
トラバース気味にマイルストーンクリークの上部へ出るルートをとる。北田と記者、
ニシの3名は、尾根の手前のよい斜面をスキーでどんどん下り岩場のきれたところか
らマイルストーンクリークに回り込んだ。登り返しがけっこう長かった。正規のルー
トに出た時は、かなり時間が経っていた。今日中にマイルストーンのコルを越えたか
ったが、何か緊張の尾が切れた感じで、コルのかなり手前の池のわきで3日目のキャ
ンプとなった。
雲一つない晴天が続き、風もない心地よい春の午後、周囲の景色も申し分ない。休養
のタイミングとしては良い決定だろう。惰眠をむさぼる者、装備やふやけた足の虫干
しをする者、お茶にする者、さまざまだ。元気が余っている若手のナベとベンがスキ
ーを始めた。荷物がないと気持ちよさそうだ。ナベが目の前の岩に挟まれた少クリフ
に挑戦しようとしたが、土壇場でチキン状態になってしまった。MSRストーブの通を
自任するニシのXGKがこの日不調になった。あれこれいじっても直らない。お湯も作
れないで困っていると、マットがそのでかいザックの中から、なんとスペアのコンロ
を出してきた。マットは寡黙な男だが、実に頼りになる。
                             ***

4日目。今日こそ核心のグレートウェスタンディバイドをぬけ、ハイルートの後半部
に入ろうと、勇んで出発する。東面に向くマイルストーンクリークは早くから陽が差
し、アンダー1枚で歩いても寒くない。ナべがオーバーパンツを脱ぎ、パンツスケス
ケのアンダータイツ姿で歩き、顰蹙を買っている。

コル手前までに2ピッチ、傾斜がきつくなる手前でアイゼんにはきかえ、急な雪面を
トラバースする。コル自体は狭い岩尾根で、反対側はマイルストーンボウル。出だし
は40度くらいの急傾斜である。
ザックが重いので、とても華麗なテレマークターというわけにはいかない。慎重にデ
ブリを避けトラバースし、途中から気持ちよくターンをきめる。あまり下りすぎない
ようにし、トラバースに入る。稜線の下の急なカールの側壁をひたすら斜滑降する。
その先コルビーリッジを越える場所を探し、再び迷ってしまう。比較的上部の急な雪
面をアイゼン登高するか、岩場を下方まで回り込みスキーで越えられそうな弱点を探
すか、意見が分かれた。結局かなり下までスキーで下る案を試みたが、回り込んだ先
が岩壁で越えられそうにないことがわかり、昨日に続きまたまたシールで谷を登り直
す。リッジを越えられず、この日も核心手前で時間切れとなり、3300m地点でキャン
プにする。ハイルート手強し、といった感じだが、天気がよいので、悲観した意見は
出ない。明日こそ、である。
この辺りは熊の新しい足跡がたくさんあり、食料はまとめて木の上に吊るした。
                                ***

5日目。東に面した谷なので、早くから陽が差し、尾根の上部も輝いている。コルビ
ーリッジの乗っ越しは見た目ほど悪くなかった。 尾根上の出たところは約3650mの
地点。広い尾根で、ここからスキーが使えそうだ。スキーを付ける。少し下ってから
、再びえんえんとカールの側壁をトラバースである。はるかかなたに見えたトリプル
ディバイドピークがどんどん近づく。山容とそのこなし方にようやく慣れてきたせい
か、今日は行動が順調だ。 

トリプルディバイドパスまではシールで達する。反対側は岩交じりの急斜面。偵察の
結果スキーで滑降可能と判断し、岩の間で慎重にスキーを履き、思い切ってジャンプ
ターンで1回転する。雪は硬いが、エッジは効き、2,3回転するうちに傾斜も落ち
てくる。すぐ下がグレイシャーレーク。ようやくグレートウェスタンディバイドの山
場を越したので、ここで行動食を食べながら今日の行動予定を話し合う。予定より1
日遅れているのと、天候が崩れた時のこの先の行動を考えへ、今日は頑張ってロンリ
ーレイクまで足を伸ばすことに決定する。
ライオンレイクのコル下へ降りるのは、アメリカチームは岩場の下の急斜面をスキー
で回り込み、日本チームは岩場の上から岩交じりの急斜面をアイゼンで下った。ニシ
が不安定な雪を踏み外し、危うく谷へ転落しそうになり、一同肝を冷やす場面があっ
た。  
行く手にはクラウドキャニオン上部のとてつもなくでかいカールが広がっている。1:
30、巨大な二つのカールをトラバースしなければ、今日のキャンプ地はない。クラウ
ドキャニオンはシールでひたすら歩き、カッパーマインパスはアイゼンで登る。デッ
ドマンキャニオン側は急だがスキーで下れそうだ。トラバース気味にひとりひとりス
キーを滑らせて行くが、最後のほうは上層の雪が落とされて固いクラスト面が露出し
、谷底へ落とされそうなトラバースであった。

デッドマンキャニオンは半分までシールなしで滑れたので時間が稼げた。特徴あるフ
ィンパスをスキーのままで乗り越すと、今度は先ほどまでと逆の方角に開いたカール
に出る。その真ん中がロンリーレイクだろう。もちろん今は雪の下だ。
低い樹木が出てき、山場は越えたことを実感する。トラバースばかりでうんざりして
いたが、ここはキャンプサイトまでいっきに滑れそうである。一人二人とスキーを下
に向け、思い思いのシュプールを描く。雪質は柔らかめのコーン。最高の気分だ。17
時、陽はまだ十分に標高3200mのキャンプサイトを照らし、風もなく、空には長閑な
お天気雲が並んでいる。
これで5日を無事消化、残るは2日だ。ぼちぼち余りそうな食糧を整理するものも出て
、気分は一路下界とビールへ飛んでいる。前半やや不調だったニシと溝部氏は調子を
戻し、代わって伊藤記者が胃炎で調子をおとしている。絶好調は真壁氏とマット、そ
の他はまあまあの調子だ。
マットがしぶとく水の湧き出ているところを発見したので、炊事はぐんと楽になった
。大きな岩の下を、耳を澄ませると確かにちょろちょろ水の流れる音がする。浄水器
の管を隙間に落とし、ポンピングするとおいしそうな水がボトルに溜まっていく。ポ
ンピングをボトル3本もやるとさすがに腕がパンプしてくる。ニシと二人で鼻水凍ら
せながら、皆のボトルに水を溜めるのに30分以上かかってしまった。それにしても、
春のシエラでは小型浄水機は必携品だ。僕の使用しているなはスイートウォーター・
ガーディアンというモデル。コロラド製だ。ポンプがテコの利用で使いやすい。
                           ***
6日目。今日の予定はペアーレイクハット周辺まで。基本的に下りだから気分はるん
るんだ。いよいよ高山地帯を離れる日だ。さびしくもあり、うれしくもある。
下り気味のトラバースからテーブルランズに登るが、谷を隔てた南側は、グレートウ
ェスタンディバイドの高峰が重なるように連なり、眺望は並外れたものだ。
ペアーレイクハットへ導かれる谷に入るまで、かなり複雑な地形のためルートを探す
のに苦労したが、ルートがはっきりすれば、後は速い。マットを先頭に緑が増えてき
た広い谷をぐんぐん滑り下る。
雪の腐った急斜面に思い思いのシュプールを描くと、小屋である。ペアーレイクハッ
トはレインジャーの小屋で、一般の宿泊はない。周りをアルプス風の岩峰に囲まれた
瀟洒な山小屋だ。
小屋を過ぎると樹林帯だ。最終キャンプの場所はこの辺に予定していたが、皆の足は
下へ向いたまま。このまま後数時間下れば、ハイルートの旅は完成するのだと考える
と、ここで泊るという主張にほとんど説得力はなかった。
 雪の腐った樹林帯をわれわれはひたすら下りつづける。苔むしたセコイアの樹林は
 結構長かったが、結果、2日分を1日で滑り降りてしまう。
16:35、一人の落伍者もなく9名はウルバートンの駐車場に残した懐かしいフォードの
前に滑り込んだ。
シエラハイルート、シエラバックカントリーツアーの最終目標と言われるコースに、
好天に恵まれ、僕たちはまんまと成功した。(北田啓郎、1999/1/11)

上、Rock & Snow誌掲載記事より
 
ハイシェラほかのレポート
 http://www.pguide.jp/chronicle2/hisierra.html


●コロラドのスキーについて

コロラドのテレマーカー

北田啓郎 文
PHOTO BY K-ITO
 
 
心地よい春風に、スプルースやパイン、ファーなどの針葉樹の木々の香りがまじっている。見
上げる空は、いつも変わらぬコバルトブルー。ここはコロラドロッキー。標高 四000メート
ル以上のピークがいくつも連なる巨大な山塊だ。

 春になると、この空気、この匂い、そしてこの空の色にさそわれて、アメリカの東や西から
ここにやってくるスキーヤーは多い。北米大陸を貫くロッキー山脈のなかでも緯度の低いこの
あたりは、比較的、気候温暖、地形もマイルドで、山のスキーを楽しむにはもってこい。

 いくつものトレイルがあって、基地となる山小屋も充実している。そして特筆すべきは、彼
らが使っているスキーがすべて、テレマークスキーだということ。伝統と環境がしからしむと
ころとはいえ、これほど、徹底しているのも面白い。

 テレマークが自分の足のようになっている地元っ子にまじって、長い休暇を楽しむ都会人も
目立つ。なかにはすっかりこの辺りに魅せられて住み着いてしまったテレマーカーも多いよう
だ。

 年に一度のコロラドへのスキーの旅を何度か続けているうちに友達になってしまったテレマ
ーカーも一人や二人ではないが、ここ数年、いつも僕らの旅につきあってくれる二人の移住組
のテレマーカーのことを話したい。
 ドンとローラがその二人だ。

 ドン・シュタフチェク、四十六歳。ミズーリ州生まれ。山に憧れスキーをやりたくてコロラ
ドへやってきた。八○年代の初め、テレマークスキーがアメリカで盛り上がったその時期に、
テレマークの洗礼をうけた。アルペンスキーが大好き立った彼だが、コロラドのバックカント
リーを自由自在に歩き滑りまくるには、テレマークこそ、自分にぴたったりのスキーだ、と思
ったのだ。テレマークは、軽い、速い、そして足になじんだ革靴の心地よさがとてもよい。

 ドンの滑りは凄い。軽登山靴ほどの浅いブーツをはいて、八十リットルの大型パックを背負
ったまま、深雪に細い美しいシュプールを返いてゆく。彼は現在、アスペンとベイルを結ぶテ
ンスマウンテン・ハット・トゥ・ハットツアーを中心に活動するパラゴンガイド社の一員であ
る。 
 ローラ・グリーンは、ドンについてアシスタントガイドをしているもの静かな女性だ。彼女
もまた、山とスキーが大好きで、コロラドに移り住んでしまったひとり。ふだんは、コロラド
でもっとも標高の高いラブランドパススキー場でパトロールの仕事をしている。このスキー場
では、彼女だけがテレマークでパトロールすることが許されているのだ。

 この二人と僕らを巡り会わせてくれたベン・バーディのことも話したい。ベンは以前日本で
仕事をしていた。奥さんは日本人だ。ニューヨーク生まれの彼は、学生時代、ユタのスキー場
で働き、そこでテレマークスキーをマスターした。彼の滑りには、腰掛けるような独特なユタ
スタイルが残っている。ベンもいつか、夏はカヤック、冬はテレマークのガイドを仕事とした
いと考えている。

 ドンもベンも陽気だ。行動中はいつもなにかしら喋りつづけ、ジョークを連発し合っている
。黙々と登る、ということは、コロラドスタイルにはないのである。四月だというのに、北面
にはパフパフのパウダー。何度もアスペンの林を登り、何度もパインの森をスラロームする。
夕暮れになるまでけして引き上げるると言わないのも、コロラドのパウダーフリークのルール
だということを知った。

 テレマークスキーはコロラドの大自然と、そのなかで遊ぶパウダーフリークたちが育てた、
もっとも痛快な雪山の遊び道具といえるだろう。近くて安くなったアメリカへの旅路、仲間と
春の山スキーを楽しみにコロラドへでかけるというプランも今や難しいことではない。

上  powder guide 誌の掲載記事より

● 以下、北田さんが登場するスキーのレポートいくつか

ハイシェラ完走 伊藤文博のレポ

ハイシエラ完走前年のレポート

タイオガパスのレポート

アスペンからジャクソンへ

国内 大戸沢岳のレポート

 北田さんが好きだった会津駒のレポート

北田さんの最後の山、大行山の2月

●パソコンのアルバムから

大戸沢岳5月

立山11月

会津駒5月

ニセコのハイクローツで

余市岳

会津駒でのスキー動画 1




会津駒ヶ岳での動画 2


●北田さん追悼2 伊藤文博

Tajニュース(日本テレマークスキー協会報)の依頼で以下書きました。2022年3月。公開6月1日。北田さんのビジネストリップ以外の私の知るかぎりの海外スキー旅です。テレマーク時代の旅にはどれも一緒に行きました。以下本文。

北田さんの海外スキー旅

盛岡生まれを誇りにしていた北田さんですが育ったのは浦和です。山へは兄紘一さんと中学生から、スキーは18歳からといいますからやや遅咲きかもしれません。

その後、北田兄弟のモーレツな雪山修行があったようです。国内の雪山を総なめ?にしたかのような北田さんですが、ここでは海外の山行のこと。


1979年に高田光政氏らとアルプスオートルート(スイス側)、82年にはフランスルートを走破しています。間の80年には、なんとマッキンリーを滑っています。成蹊大チーム(磯野剛太隊長)でメンバー全員登頂、そして全員滑降という輝いている記録です。このころイケイケの北田さんですがカリブークラブを結成したのもこの時期。北田さんらしく、やたらに緩いしばりの集まりです。以上はアルペンスキー(山スキー)での記録です。


82年に突然テレマークに開眼します。以降アルペンスキーにもどることはありませんでした。しばらくTAJの活動で忙しかったのですが、90年代からは本場アメリカでのテレマーク修行にでかけます。


92年4月ユタ州ワサッチ山脈。93〜95年、3年連続でコロラドロッキーの探索、テンスマウンテンルート完走。

97年4月にはカリフォルニア州のシエラネバダ山脈へ。翌年にそなえてソリとテント泊のツアーでした。

98年4月、念願のシエラハイルート完走。日本人初記録。

2000年3月ワイオミング州グランドティトンツアー。


以上、すべてメンバーはカリブークラブとその仲間、全員テレマークで参加しています。企画はすべて北田さん。よい頭脳があってこその成果といえるでしょう。

とくに98年のツアーは避難小屋もエスケープルートもないシエラの高山を5日間で抜けるというスピード山行でした。

99年の「rock & snow」春号のレポートで北田さんはこう結んでいます。

「シエラハイルート。シエラバックカントリーの最終目標といわれるコースを、天候に恵まれ、僕たちはまんまと成功した!」

テレマークの貴公子、北田さんの品のいい笑顔がうかんでくるようです。

伊藤文博

追加1

スキーや山を大いに語った北田さんですがそれ以外のことについては静かな人でした。あまりよそから見えない好き嫌いがあって、食事やクルマ、そしてふだんの振る舞い、すべてにこだわりのある人のようでした。どれもが上品志向です。読書家であったことは彼の文章をみれば自明ですね。静かなインテリ。そんなあんなが人をひきつけたのでしょう。


追加2

あるとき山でサングラスをいただきました。スミスの替えレンズ付きのもので今も愛用しています。「マトリックス」ぽいデザインで「オレには似合わないから」と言っていましたが、人にやたらモノをあげていたら成り立たない商売をしていたはずなので感謝しております。ありがとう北田さん!

伊藤文博

Tajニュース2022年春号掲載。追加分は編集からの求めで補いました。

https://www.ski-taj.org/news/data/TAJnews2022.pdf

ニュース2022年春号は以下でみられます。

日本テレマークスキー協会

https://www.ski-taj.org/