8.21.2004

小川山2本

8/21、22、今シーズン初めての小川山。
川上村の気温は午前9:00で18℃、雲の模様も見ても、どうやら早くも秋の気配か。
日があまり差さずときどきポツリ、しかしクライミングにはちょうどいいコンディションで、いつものこの時期に比べるとよく登れた気がする。
BGMはじつはないんだけど、あたまんなかでは、A.ラヴィ~ンのアンダーマイスキンががんがん鳴りまくり~。
なかなかハードだぜ、まえのよか、シビレる!

<<21日>>

●父岩
弱点主義10d
モラリスト10a
タジヤン10a(MRS.mimiRP)
登攀の唄10d (MR.mimiOS)
完璧な父10b(MR.mimiOS)
レタス畑10d(MR.mimiOS)
小川山ストーリー9

    ※小川山ストリートの右側上部ハング下に、すずめ蜂の巣あり(直径20cmでかなり活動的)

●弟岩
屋根の上のバイオリン弾き11b(MR.mimiOS)

以上、4人で(けんじ、ちゅう、MR&MRS.mimi)

<<22日>>

★マガスラ
デロリンマン11d(MR.mimiRP)
高い窓10b
可愛い女8
ウルトラセブン7(MRS.mimiOS)
小川山ショートストーリー9(MRS.mimiOS)
水曜日のシンデレラ11a
レベッカの鍵12a
カッパ8(MRS.mimiOS)

以上、(けんじ、ちょめ&sun、ボビタロ、MR&MRS.mimi)

※小川山だよりで、”小川山ショートストーリー”が撤去されたと掲示されているが、これは間違い。
ちゃんとありました。




土日に小川山で登る予定だったのですが、下記の3本だけ登って帰ってきました。
メンバー
柏スミコ、ヤスシ、タエコ
妹岩
カサブランカ、ジャックと豆の木、カシオペア軌道

妹岩へ行ったのは8年ぶりぐらい。
落石が多く、上部にパーティがいる場合は、かなり危険ですね。大きい石も落ちてきます。
ロープで落石を起こしているようなので、当人たちが気づかないこともあります。
とくに、横恋慕のあるルンゼ付近へ落ちてくるものが多かったです。
ヘルメットをかぶっているグループもいたのは、そういう理由からでしょうか。

8.13.2004

パラ8~12月一部itokisya

040813Fujimi panorama
 
Flyer:F.Ito
Para: FD_Stream
No.:313-314th 
Take off:1760m 
Landing:980m
Gain:0m
Time:20m+48m
Total:70hour03minutes
Attn:Good day.









040814Subasiri
 
Flyer:F.Ito
Para: FD_Stream
No.:315-315th 
Take off:2070m 
Landing:1000m
Gain:0m
Time:14m+14
Total:70hour31minutes
Attn:


photo by Ichikawa




041002Arai
 
Flyer:F.Ito
Para: FD_Stream
No.:333-336th 
Take off:0000m 
Landing:000m
Gain:0m
Time:0
Total:76hour50minutes
Attn:Good day.






041015-16Goryu&Ikusaka Area
 
Flyer:F.Ito
Para: FD_Stream
No.:339-342th 
Take off:0000m 
Landing:000m
Gain:0m
Time:0
Total:80hour20minutes
Attn:Good day.










041103Asagiri Tensi area
 
Flyer:F.Ito
Para: FD_Stream
No.: th 
Take off:0000m 
Landing:000m
Gain:0m
Time:0
Total:84hour
Attn:Good day.







041211Asagiri area
 
Flyer:F.Ito
Para: FD_Stream
No.: 350th 
Take off:0000m 
Landing:000m
Gain:2000m
Time:150m
Total:94hour
Attn:Good day.




8.03.2004

四川の夏休み

●行き先
中国四川省アバチベット族チャン族自治州
チョンライ山系 双橋溝
ラマチャドゥジャン(←現地名 通常は、牛心山・ニュウシンサン 4842m)
南西リッジ(仮称)
←柏スミコ、タエコ、ユカ
ポタラ峰(5428m)・北面
←ヤスシ


(以下、ラマチャドゥジャン・チームの報告)
●日程8月2日 成田→北京→成都
8月3日 成都にて食糧買出し、BC装備をエージェントからレンタルしチェック
8月4日 4wd車2台にて 成都→リーロン(日隆)
8月5日 4wd車2台にて リーロン→BC(3800m) 12:00着 BC設営
       BC(14:00)→南西リッジ取り付き(3900m・16:00) ルート観察後下
降
8月6日 下降路偵察へ BC(7:30)→牛心山東面へ裾野を周る。頂上から落ちている壁
の基部(4500m)を観察。懸垂下降するラインを探る。
      →BC(17:00)
8月7日 ヤスシの荷揚げ手伝う 4300m地点まで
8月8日 レスト
8月9日 下部岩壁2p伸ばす
8月10日 北面観察へ向かう 雨で途中で戻る
8月11日 9日の2pを回収、ほかのラインを探り、3pフィックス
8月12日 レスト
8月13日 さらに3pフィックス
8月14日 フィックス6p終点まで荷揚げ
8月15日 レスト
8月16日 レスト
8月17日 レスト
8月18日 ラマチャドゥジャン1周 頂上からBCまでの下降路を決定
8月19日 レスト
8月20日 夕方に南西リッジ基部の岩小屋に入り、ビバーク
8月21日 6pユマーリング後、中間部の岩稜帯4p程度登る、明日のために2pフィック
ス ビバーク
8月22日 中間部岩稜帯4p程度登る、ヘッドウォールを1・5pフィックス ヘッド
ウォール基部でビバーク
8月23日 悪天のために停滞 ビバーク
8月24日 朝様子を見るが天気の回復ナシ。登ってきたラインとほぼ同じ面を下降。下部
6p分のフィックスを残し、BCにて天気回復を待つことにする。
8月25日 レスト
8月26日 レスト
8月27日 ヤスシ・カシワはポタラ峰の荷下げ 
8月28日 ラマチャドゥジャンも敗退を決め、タエコ、ユカで6p分のフィックス回収
8月29日 タエコ・ユカ→下降路にデポした食糧回収、ヤスシ・カシワ→BC撤収準備 
午後 4wd車で BC→リーロン→成都
8月30日 成都にて装備の片付け
8月31日 解散

ラダックの夏休み


   
........
 

http://briefcase.yahoo.co.jp/chimi1952
写真はここ。
8/3~12、チミと夏休みを使って北インド、カシミール地方のラダックへ行ってきた。
かつて今西(錦司)さんが「北インド辺境には旅のついでに登るのに恰好な山がいっぱいある」と何かに書いていた。
じつは20代から気になっている山がラダックからそう遠くない地点にあるんだ。
もったいぶる訳じゃないんだけど、なんとなく名前は云いたくない。こういうのって分かる?
無論、未踏じゃないけど2登の話はない。初登は1933年。2回目の試みは遭難に終わり、その後はインド側の主張する
国境上(つまり中国の主張する中国領内)、ってこともあって近づくのも大変になったんだと思う。他に記録は見たことな
いし。南峰は、岩峰なのでたぶん未踏だと思う。
この山は、82年にチョメ、吉冨さんと初登したCB14という6000ちょぼちょぼのセントラルラホールの山から指呼
できた。でも、それは思い込みかもしれない。じつは同じ方向にもう一つ伝説の山があるんだ。しかし、そのとき目にした
それは、スピティ方向で尖頂が他を圧して抜きん出ていた。そのとき僕は33だったけど、それからも気になって仕方がなかった。
�
しかし、今回はこっちにくるにしてはかなり短かい旅なんだよなあ~シクシク(笑)。レー(ラダックの中心の街)に滞在
できたのはわずか5日間だもん。急いで歩けば息は切れるしで、少ない時間を最大限に使いたくてジープ型のタクシーをフ
ルに使って、目標へのヒントを得ようと動いた。タクシー代はドライバー込みで1日30ドル程度。アメリカでレンタカー
借りるより安いかも~。
�
・ラダック山脈
�
レーはデリーの北、凡そ800K。インダス川本流右岸に佇む砂漠のオアシスといった趣の街だ。ボーイング737でデリーを
早朝飛び立ち1時間強のフライト。標高が3,400~3,500ある。容易にこれより低い土地への移動ができないから、こ
の高さまでの順応は十分にやっておかないと、ヤバイよ~。
僕らのフライトは超ラッキーなことにモンスーンの雲を突き抜けて、東にナンダデビ、西にナンガパルバットがばっちり見え
た。ナンダデビは僕の憧れのジャイアントだ。飛行機の窓に顔を押し付けているうちに、大昔、カトマンズで1ケ月ほどともに過
ごしたナンダデビ・アンソールドを思い出した。エベレスト西稜の覇者、故ウィリーの娘さんだ。彼女は当時ピースコ(平和部隊)
の仕事でカトマンズに滞在していて、僕の友人の家で僕と同様に居候していたんだ。図らずも名付け親になったその山で、彼女は亡
くなった。それは確かインド政府によってナンダデビサンクチュアリが閉鎖される直前のシーズンだったと思う。
�
レーのさらに北、カラコラム山脈にはさまれたヌブラバレーにもまだ未踏の無名峰がちらばっている。車は5600m!!もあるひ
ぇ~って高さの峠を越えた。この先、カラコラムの東端を掠めるまでの100k程度の間、西側に展開するのがラダック山脈だ。
氷河の後退は著しく、雪線は6000m前後に見える。ドライバーのトゥンダップは、一帯は、この15年、ほとんど降雪がなか
ったと云った。ヒマチャル・プラデシュの北部はモンスーンの影響をほとんど受けない乾燥地帯なんだ。
�
インナーライン越えのパーミッションは一人80Rs、毎日簡単に取得可能だ。しかも休日もOKでこれにはびっくりした。82年
にはインナーラインに接近することさえ不可能だったんだ。
デリーでもすでに気付いたことだが、インドは結構変わったよなあ。なにしろ70年代の”名物”小賢しいアンダーテーブルに頭を
悩まされることは一度もなかったし。さらになによりも、時間さえ置き去りにしてしまう伝説の”お役所仕事”は一体どこへ行って
しまったのか。(ちょっとノスタルジック~)
�
ヌブラバレーのさらに東が、いつの間にか中国が占領してしまったアクサイ・チンだ。レーがものものしい軍事施設に囲まれている
のは、直接的にはこのせいだと云われている。しかし、ここは、雲南同様、花崗岩の未登峰が多い興味深いエリアだ。だけどカメラ
に納まったのは遥かかなたに連なる砂漠のような山塊のみ。
なお、ヌブラバレーはトレッキングも盛んで、レーの街中にはそれを募集するエージェントのポスターがあちこちで見られた。
�

�
※なぞの山
�
・ザンスカル山脈
�
ザンスカル山脈は、北端がレーの100kほど西から始まって南東のスピティ北部につながる、地図で見て右下がりの山脈だ。概ね
、6000mを越えるいくつものピークを連ねていて、一部を除いて、探検の要素の濃いエリアだ。ストック・カンリは例外的にポピ
ュラーで、IMFの許可が不要だと聞いた。この山は、ピラミダルで美しい。レーの街からよく見えて、旧王宮とともにレーのシンボル
的な存在か。
さらにラダック最大のゴンパ、Hemisゴンパ裏手(南)の巨大な堆積岩の壁の奥に、カン・ユセ(約6400m)が、ストック・カン
リからまるで大天井~槍といったたおやかながらぴりっとした稜線を描いて連なっている。この山は少し前までは目立たない良い山だった
が、いまではストック・カンリ同様に、大変ポピュラーになった。しかし、やはりその山容はなかなかシブイ。
�
スリナガルからレーに連絡している舗装路はさらにインダス川に沿って上流(東)へ向かい、Hemisを過ぎたあたりからインダスを離
れて南へ向きを変える。この道はバララチャラを越え、CB山群を掠めてロータンパスから、やがてマナリへ抜ける。CB14の遠征後、
余力があれば、この道をたどって、レーへ出てみたいと当時チョメと話した憶えがある。しかし、これは許可が出なかった。
現在では、政治的な状況ではなくて、純粋に道路事情から、7、8、9月(降雪のない時季)に限ってマナリ~レー間を定期バスが走ってい
る!! こりゃすごいぜ、まじで・・5000以上の峠を、少なく見積もっても3回は越えるんだ。
�
ザンスカル山脈を全山縦走して、チャンバやスピティに至るトレッキングも行われているようだ。しかし、途中には集落どころかバッティも
わずかで、かなりハードだろうなあ~。
なお、ストック・カンリとカン・ユセの登山も、夏の間、レーのエージェントが参加者を募っている。概ね往復10日ほどの日程で組まれてい
た。だけど、高所順応トレを事前にちゃんとやっておかないと、この日程じゃアブナイね、きっと。両峰とも、ノーマルルートを採る限りは、
高い技術は不要と、トポにコメントされている。(そうは見えないんだけどなあ)
�


※Tiksayにマニ車から、カンユセを遠望
�
・その他の山々
�
もちろん今回はここまでは動けなったけど、知ってる範囲をちょっとメモっておく。
ザンスカルの北側の起点の南がキシュトワールで、ここには7000m峰のヌン、クンや、D.スコット、C.ボニントンが登ったブラマー、
シックルムーンなど、目を引く山が連なっている。
また、スピティはラダックから凡そ150k南に位置する渓谷で、ここはモンスーンの影響を少し受ける。ゴンパが点在していて、ここもまた
チベット文化の影響が濃い。
スピティへの遠征の起点はマナリだ。ラダックと違って、夏はときどき雨も降り変化がある。標高が2000mで、緑と花とリンゴに埋まった
美しい街だ。日本人女性が初めてヒマラヤのピークに足を印したことで有名なデオティバは、マナリからわずか3日のキャラバンで取り付ける
。高さの割りに(6001m)山容は立派な良い山だ。CB14への遠征のとき、高所順応トレの仕上げをこの山のBC周辺でやった。スピテ
ィの山はここを西端にしてさらに東へ、ガンゴトリを分ける分水嶺までいくつかの印象的なピークを連ねている。79年に豊田山岳会が登った
バラシグリ氷河のホワイトセールは名前の通り際立って美しい。だが、CB14から見えていた北壁は真っ黒で、これは未踏だろう。
�
・レーのひとたち
�
ダライラマがかつて平和公園なる理想郷を提唱したことがあったが、そのミニチュア・モデルがここだったのではないか。ふとそう思った。
それは例えば、ヘレナ・ノーバーグ・ホッジがその著書”懐かしい未来”であげた西洋世界が経験した唯一の”モデル”に立ち向かうものとし
て。
レーの現在の人口は35000と聞いた。手持ちの本は98年版で15000とある。ラダックは、カシミールに括られているが、カシミール
は回教徒が集中している州でパキスタンへの併合を望むひとが多いという。ここはチベット文化圏とはいっても、もともとは回教徒の国だった
。人々は11世紀以来熱心な仏教徒にはなったが、チベットの仏教徒とは厳密には異なっていて、ラダッキーはラダッキー。で、やはり独立を望
んでいる、なんて、マクロな本の聞き?かじりだが、そんな複雑な気配は街のあちこちで感じた。
だって、おもしろいんだ。タクシーの運ちゃんでも、こんな話をしだすと止まらない。顔はチベッタンなんだけど、それをいうと、バカ云っちゃ
いけねえ!、って勢いで否定すんだよね。
ラダッキーとチベットを追われたチベッタン、それに、インドからの独立を望むモスリム、さらにヒンドゥスタニが、それぞれの民族衣装で同じ
学校に通い、同じ会社で働いている。道路工事のおっさんたちの顔立ち、服装をみても、このかき混ぜたみたいな感じが、ものすごく象徴的だ。
さまざまな問題は、当然あるんだろうけど、それでもそれなりにお互いの”違い”を尊重して、ともに平和に暮らしている。
ストック・ゴンパに飾られていたガンジーの写真はなかなか良かった。僕たちは、混沌としてはいても様々な”違い”を受け入れるこの国の懐
の大きさ深さを思った。隣の大国はそうではなかったし。僕らの国はさらに救いようがないけど。褪せた写真の中で、やせ細ったガンジーがラ
ダッキーの帽子を被りラダッキーに囲まれて屈託なく笑っていた。シビレたなあ~、これ。
�
・アクセスとか
�
今回の旅は時間がなかったので、難しそうな手配を、予めインド人の友だち、Sinha(セナと発音する)さんに頼んだ。特に、デリー~レー間の
エアチケットは、現地でなければまずブッキングできないと聞いていたので、これは正解だった。(無論、旅行社のツアーだって問題ないと思
う)彼は、CB14遠征のときに現地での手配を頼んだJyant(ジャンタ)さんの大学の後輩で、この15年ほど、個人で観光ガイドをやって
いた。日本語は読み書きも含めてバッチリ。(因みにジャンタさんは元気でムンバイにいる)
最近、デリーに立派なオフィスを構えて、旅行社をスタートしたばかりだ。気さくで、かつ巧みな距離を置く細心さが持ち味かな。
ツアーではなくて、アドバイスやちょっとした手伝いがあれば、基本的には自力でインドを旅できる、といった風なひとに、自信を持って薦
められるね。
インドはそうやって旅をしないとダメでしょう~!、っていうのが彼の口癖だし。因みに彼へ支払うお手伝い料は一覧表になっていて、まあ
、わずかだ。
�
デリーでの滞在は、彼が最近始めた民宿スマイル・イン(B&B)を使った。
インドとしてはちょっと高いが(一人一泊2500円)、清潔で、奥さんの作ってくれる朝ごはんもおいしい。
みなさんも機会があったら使ってみてください。
�
セナさんのサイト → http://www.cwo.zaq.ne.jp/sinha/
�
なお、伝統的な?スリナガル経由レー行の定期バスは、カシミール独立運動の影響で運行停止中だった。ただし、ミニバスのチャータ便はある。
�
・寄り道
�
帰りに数時間だが、カトマンズに寄った。
ニマ・ファミリィの近況です。
�
ペンバとテンジン・ドマの正式な結婚式が、ナムチェで6/3~6までの4日間、壮大に延々と行われた。
ソルトレークの友人、リチャードは、フルに付き合ったとか(かわいそぉ~)。
DVDで見ると、彼はバテタア~って顔とうなだれた姿勢で、健気にシェルパダンスやってたよ。
内輪だけど・・笑える。
僕らはペンバの知らせから7/3~6と勘違い。お陰でこの苦行を免れた。
�
2月に米国永住権を受けたニマとフルマヤ。二人はシアトルに住むツェリン(娘)の家にいて、フルマヤはベビーシッター、ニマは大工・
・・になっちゃった。驚き!
ナムチェのダンフェは、ザンブ(相変わらず100k超級!らしい)がやってる。
ルクラのダンフェは誰かに貸しているそうだ。インターナショナルフットレストも同様。
ニマは、僕が寄る、というので、帰米を待っていてくれた。
�
因みにソルゥの無線基地局がマオイストに破壊され、従って、ナムチェの電話、インターネットは現在使えなくなっているとのこと。
�
ギャルは、ニューヨーク在住のネワール人と昨年10月に結婚、本格的?な大工で生計を立てている。クィーンズに住む。
�
末っ子のテンジンはタメル入口の洒落たコーヒーshop(夜はバーになる)で働いている(名称失念)。一時期のギャルみたいなすごい体
になっていた。
�
ペンバは4月にトータルフライトが2000Hを越えた。
現在、エア・ダイナスティ専属のヘリ・パイロット。
病院関係(レスキュ、薬品、医師、遺体等の搬送)、観光客のレスキュ関係がほとんどとのこと。
娘のツェリンは、ラジンパットのBoardingSchole生。(超かわいい~)
�


※ペンバとテンジン・ドマ、アン・ツエリン(娘)
�
下の写真は、パサン・ラムー記念財団が作ったカトマンズ初の本格的なクライミングジム。
ナトラパット(リングロード北、シオプリ山側)にある。屋外だがちゃんと屋根がついている。
�
使用料はギヤレンタル込み込みで800Rs。ギヤ持込で200Rs。
ビレイはスタッフに頼める。
��※2004/8/12現在、1Rs=¥2くらい

なお、ペンバの話では、ドゥリケルにナガルジュン(バラジュ)より良い岩場が開拓されたとのこと。(未見)
�


�
おしまい

8.01.2004

北八つ天狗岳雷

2004年8月?調査中

クロカワハルミです。
北八・天狗岳より戻りました。下山中、すさまじい雷雨に会いました。
本沢温泉より下で、もうすぐ稲子湯という樹林の中でしたから
心配なかったのですが、雷が大の苦手という女性が座り込んでなかな
か歩いてくれずに、予定より遅くなってしまいました。参りました。

7.25.2004

古賀志の岩場

ごぶさた! ちゅうけんで~す。
今日は7/25、日曜日。

小川ほど遠くでないところで涼しいところってことで、ずっと前から気になっていた日光東照宮裏の外山
(とやま)、屏風岩へ。
ここは、柴田さんの開拓したエリアで、エロイカは有名
その他が、5.9が6本くらいあって、あとがいきなり、5.11になっちゃうってのがおもしろい。

期待度満杯だったけど、なんと、全面びしょびしょ。中には流れてるフェースまであってガックシ。
だめだこりゃ・・・ってことで、仕方なく、帰り道オンルートで、古賀志へ。

100年前に那須でボッカの帰りによく寄った岩場。
いまでは、上空をパラがハエみたいにわんわん飛び交っていて、気が散っちゃうなあ~~。
当時はⅣ+A1の世界だったけど、すっかり変貌していて、いまではたくさんのステンハンガーが燦然と
配置されている。

★付きを数本登ったところでお約束の雷雨となり、今回もまたぐしょぬれ~。

・リバースクライミング5.9 けんじOS
・新人クラック5.8 ちゅうOS
・猫またPert15.9 ちゅうOS
・ドライアイスセンセーション5.10a、けんじ、山テン 超ハードな10aらしいぞぉ
・無名フェース10c ちゅうOS ムーズを見つけるまでにあがりそう~だったけど、なんとか

以上

7.24.2004

富士山フライト成功

富士山フライト成功
040724Mt.Fuji
 
Flyer:F.Ito
Para: Up Bougie
No.:307th 
Take off:Top ofMt.Fuji
Gain:80m
Time:39m
Total:69h21m
Attn:Good days













↑スバシリ下山道まうえ3760m(最高到達ポイント)からトラックと頂上を見る

↑宝永山上から

↑吉田登山道7合目から
 
Flyer:F.Ito
Para: Up Bougie
No.:307th 
Take off:3680m 
Gain:80m
Time:39m
Total:69h21m
Attn:Good day



↑12時富士宮5合スタート、4時35分頂上。日の出4時45分。安定した西風3m

↑吉田大沢フォローなのでスバシリ下山口となりに移動。稜線は大混雑なので50mほど下がる

↑スープエアのランドニーズハーネス

↑もうガスが湧きはじめた

↑風が入ってきた

↑溶岩板の上で開くも引っかかりがおおくさらに10m下のガラ場に移動。7時前テイクオフ

↑デジカメ寒さでバッテリー働かず。撮影できた唯一の空撮ショット。まわして3760mまでトップアウト。お釜がよく見えました。
  

以下はパラグライダーの専門誌「クロカン」誌に掲載したテキストです。


富士山フライトレポート
伊藤フミヒロ

040724Mt.Fuji

Flyer:F.Ito
Para: Up Bougie
No.:307th
Take off:3680m 
Gain:80m
Time:39m
Total:69h21m
Attn:Good day


  山のてっぺんにパラグライダーを持ち上げて、下山の方法として飛び降りる、というのは20数年前パラグライダーが誕生したときのスタイルだが、これは今でも脈脈と生きている伝統だと思う。フライヤーは、世界中のどこぞの山へ登り、どこの頂きからからどこへ飛び降りようと基本的に自由なのである。ボアバンはエベレストから飛んでいる。高橋和之はチョオユーから、アイガーから飛んでいる。人が鳥になる、強い想像力が夢を現実のものとしたのである。

おっと力が入ってしまった。  ぼくもある日、空を飛んでみたいと思いパラのスクールに入れてもらった。パイロット証をゲットしたのは1年半の後、スクールでは、その年齢にしては異例のスピード出世、とおだてられた。それはさておき、パイロット証を手にして、当初の動機がふつふつと胸にわいてきた。そう、富士山の頂上から飛んでみたい、という願いだ。僕は山好きなんで、富士山は何度も登っている。毎年春にはスキーで滑り降りたりスノーボードでも下っている。こんどはパラだ。

 ●富士山2000mからのフライト  富士山の山腹をよく飛んでいるパラのグループがあることは知っていた。いつだったか、5月の連休に、須走7合目へスキーにいったとき、パラが数機、目の下をふわふわと飛んでいるのを目撃してうらやましいとおもったものだ。インターネットで検索するとサンデーパラスクールという名前が浮上してきた。富士山の中腹のあちこちを飛んでい

る記録も発表されていた。  早速門をたたいて仲間に入れていただく。グループのリーダーというかスクールの校長先生は中村さんというプロのフライヤーだった。仕事というよりも半分趣味で空を飛んでいるように見えた。 「このあたりはよく飛んでいるよ」とのことだった。「富士山頂から、飛べないことはないと思うけど、うちの仲間ではまだ飛んだ者はいないんだ」とも

教えてくれた。  秋のある日、富士山の中腹からのフライトにトライする。須走登山口の5合目に上がる。標高2000メートル、ここまで車で上がることができる。夏のハイシーズンには登山者でにぎわうところだが今は閑古鳥の世界。日本晴れの日である。新しいクラブの先輩二人と、パラザックを背負って駐車場から歩く。一帯は溶岩が砂礫化した山肌が広がる。どこからでも飛び立つことができそうだ。山飛びである。  眼下には山中湖や須走の町、遠くには丹沢や

箱根、伊豆、相模湾に浮かぶ大島も見える。このエリアのベテラン二人のやりように従って場所を選び、飛ぶ用意をする。
  ちょうどよい風が入ってきて、二人が順番にきれいに離陸する。ぼくも遅れないようにすぐテイクオフ。目的地は1000メートル下、距離5キロ、前方の霞の彼方にそれらしき広場がみえる。途中でサーマルを拾い10分ほどソアリングを楽しむ。先行機と
同じように目的の広場に舞い降りたのは離陸してから30分ほど。やったね、と握手を交わす。

 僕の初めての富士山フライトは成功したのである。今回は標高2000メートルから1000メートルまで。富士山頂から飛ぶのなら、あと1700メートルほど上から飛べばよいということだ。可能性のない話ではない。

 ●作戦  富士山に冬がやってくるのは早かった。とはいえ雪がきてもこのあたりは大雪にはならない。11月には2度ほど、御殿場登山口近くの練習場と呼ばれるところで飛んでみた。12月から2月までは富士山は雪の中、3月に入ると南面の御殿場登山口は雪解けが早く、2回ほど飛ぶことができた。神々しいまでの姿を見せる富士山を眺めながらのフライトは感激だった。

 5月に入って、冬の間に考えていた計画を実行に移すことにした。離陸する場所を徐徐に上げて頂上に近づけていくプランだ。途中まで登って途中からフライトすることを繰り返せば、フライトの練習にもなるだろうし、地形や風も分かる。体力増強のトレーニングにもなるはずだ。富士山頂上まで重荷を背負って登るのもこの作戦の重要なポイントなのである。  富士山は山腹

にいくつもの寄生火山をもっている。有名なのが宝永山、小富士、二子山などだ。雪がとけた5月からそれぞれのピークから飛ぶことにした。そして最終のプランが富士山頂からのフライト、という計画である。
 以下経過を記します。


 ●経過
 5月30日 二子山フライト  

二子山(二ツ塚)兄山からフライト。1400mからm1930までの登りだったがザックが重く背負いごこちも悪くきつかった。頂上につくと西風が強くガスも湧いてきた。ひどくならないうちにと慌てて飛び出したが、ガスの中に入りまったくのホワイトアウト。GPSを見ながら方向を修正したがうまくいかず、目的地とは遠く離れた河原に不時着。

  6月5日 2800mからのフライト  須走登山口朝7時出発。全装備を担いで800mほどブルトーザ道を登る。  いままであまりに装備が重かったので、いくつかの道具を軽量のものにかえた。ハーネスとザックをより軽くて使い心地のよいものに買い換え、グライダーはDHV1の山岳フライト用を用意した。緊急パラシュートは3キロもある。これは状況によって持つ持たないを判断することにした。そのほかヘルメットやウエアなど細かい用具もグラム単位で軽量化を試みた。

無駄を省くことで20キロ以上あった荷物を16キロくらいまで減量することができた。

  3時間ほどで標高2800mに達する。風の様子をみて11時前に離陸。高く上がることはなかったが安定した風の中1700m地点に着地。夏の富士山は日の出とともに上昇風が湧きあがり乱気流が発生する。同時にガスもでてくる。富士山を飛ぶのなら日の出後の1時間くらい、大気が安定して視界が利くときに行うのがよいと判断する。

 6月5日 小富士フライト
 上と同じ日の午後。小富士からのフライト。須走登山口からハイキングでいける小富士は景色がよくハイカーがときどきやってくる。頂上から50メートルほど降りたところに絶好の離陸場を発見。午後、風がよくなったのでフライト。右手のグランドキャニオンという名所からすばらしい風が吹き上がってきて30分ほどリッジのソアリングを楽しむ。その後標高1000m目的地に向かうが高度が足りず、1300m地点にある大きな河原に不時着。

  6月16日 宝永山上からのフライト  

 全装備を持って富士山頂に登ってみることにする。富士宮口5合目登山口を5時にでる。もっと早くでたかったのだが起きられなかったのだ。頂上には4時間半でついた。予定通り登ることができたので一安心。西の風が7、8メートルくらい。あわよくば頂上からフライトとも思っていたがちょっと無理。お釜の周りを歩いて離陸地点を物色する。うろうろしているうちに風が強くなってガスも濃くなってきたので下山する。のんびり下って御殿場口コースの3000メートルまで下ったところで様子をみる。ちょうど宝永山の上部の山小屋の脇。御殿場口の駐車場がガスの切れ間から見えたので、飛ぶことにする。せーの、で出たが、いきなり上昇気流に持ち上げられ雲の中に入る。降下の操作をするが強い上昇風にあおられあたふた。ようやく雲中飛行から離脱して宝永山脇を飛んで右に左に大きく振りながら1800m地点の砂漠帯にランディングすることができた。日が高くなってからのフライトは乱気流にであう可能性が高いことを改めてしる。口の中がからからに乾いたフライトだった。

  7月4日 夜行登山  

インターネットの富士山頂の定時観測や韓国発の高層天気図がとても役にたつ。今年は風の強い日が多いようだ。梅雨明けが早く太平洋高気圧も強いのだが、高気圧が日本列島の東側にあって、高気圧のヘリの部分の強い西風がちょうど富士山のあたりに吹き込んでいる。頂上の風速は15mから25mという日が多いようだ。

  富士山頂上からフライトするとなると、日の出前に頂上に着かなければならない。そのためには夜行登山がいいと考える。7月に入って山開きとなって恒例の富士山の大混雑が始まっている。  夜行登山のリハーサルを行う。深夜12時に富士宮口5合目出発。団体登山の行列といっしょに登って5時過ぎの日の出ぎりぎりに頂上へ着くことができた。眠い、眠い。案の定西風が強く、また頂上付近は大混雑。頂上の賑わいを眺めながら大休憩をとって、離陸地点を探しに白山岳まででかける。スキーで何度か下った吉田大沢が離陸するにはよい地形に見える。この日は持ち上げた装備をそっくりそのまま背負って下山。御殿場コースから、いままで一度も歩いたことのない宝永山経由富士の宮5合目口コースを歩いてみる。

  7月17日 3200mにトライ

 前前回宝永山脇の3000mから離陸したのでこんどはもっと上からのフライトにトライ。須走口5合目を明け方6時に出発。ブルトーザ道を登り以前フライトした2800m地点を越えてさらに300m、3200m地点まで登る。この日は西風が強く、富士山を両側から回ってきた風が東面のこのあたりでぶつかりあうのか、乱れた風の流れになっている。2時間ほど様子をみてからあきらめて

歩いて下ることにする。2200mまで下るといくらか風が穏やかになったようにおもえる。そこからフライト。下からいつものように中村校長が見ている。フライトは単独だが、車の回送や緊急時のことなどサポートがあるのはうれしい。無線からのアドバイスも大助かりだ。30分ほどふわりふわりして1700mの御殿場登山口の駐車場近くに着陸

 ●富士山頂から飛ぶ

  7月24日 三度目の頂上へ  

クラブのホームページ上のやりとりで、中村校長が、今週末はいいんじゃないか、とアドバイスをくれる。富士山の気象を何年も見ている権威である。じゃ、行ってみるか、と車を富士の宮5合目へと走らせる。このところ富士山の頂上の風向きは西で、風速は20メートルというような日が続いている。

 仮眠してから出たかったが時間がなく、夜中の12時にそのまま歩き出す。3度目の頂上トライだ。ここのところ何度か重荷を担いで富士山をうろうろしているので重さはあまり気にならなくなった。いままでと異なり夜風は穏やか、今日は飛べるか? ちょと眠いけれど、頂上に着いたら飛ぶのだと思うと気合が入る。夜が白んできて、日の出前の5時には富士宮口の頂上直下の鳥居をくぐった。

  天気は悪くない。風は1、2メートルといままでとは異なる信じられない微風。絶好のようだが、やはり風向きが悪い。西風なのである。

  あいかわらず登山者は多い。そのままお釜ルートを須走口の方へとすすむ。ご来光をその場のみんなと一緒に眺めてから吉田登山口頂上鳥居へ。渋谷ハチ公前のような混雑である。添乗員のラウドスピーカーがうるさい。早々に前回下見した吉田大沢の入り口へと向かう。もうあたりはすっかり明るくなって、夏山の朝の日差しが注いでいる。せわしい気分になる。  吉田大沢は西風が吹き降ろしていた。フォローだ。障害物がないせいか西風がお釜の上を抜けてそのままここに吹き降ろしているのだ。

  仕方がない。来た道を戻る。再びにぎやかな小屋前をぬけて、一方通行の下山路となっている須走側をのぞいてみる。お釜のふちの岩壁が西風を防いでくれているのか、風は悪くない。グライダーを広げるスペースもあるのだが、ご来光を拝んで、さあ下山、という人たちの行列が目の下に続いている。こんなところでパラグライダーをひろげたら黒山の見物客が出現することは明らかだ。

  もうちょと先へと歩をすすめる。お釜のふちの登山道はやはり登山者が行き交っているので、適当なところからガラ場をひとくだりすることにする。登山道から見えるような見えないようなところ、溶岩の岩盤が滑り台のようになっているスロープを発見。ここにザックをおろす。真下を見下ろすと遥か向こうに須走口の駐車場がみえる。ということは、この足元の下、標高2800m、3200mまではこれまでのトライで登ってきているというわけだ。そのあたりはよく知っている!

 ガスが湧いてきた。あわててパラグライダーを広げて装備をととのえる。日が出てから1時間以上もたっているのでガスがわき、風も上がってきている。ガスはうれしくないが、この風は離陸するためには必要な風だ。

 準備ができた。だれも見ていない。いや、上のお釜のふちを歩く登山者何人かが気がついているようだ。風がほどよく吹いたときにグライダーを立ち上げなければならない。ここならと思った溶岩の岩盤の上だったが間違いだった。岩に埋めこまれた小石にラインがひっかかるのだ。2,3回トライするが、うまく上げられない。埋められた小石はまったく動くことがないのでラインが切れてしまいそうだ。

  途方にくれる…。気をとりなおして、グライダーを手繰り寄せてもう少し下ることにする。グライダーをひきづるようにして20メートルほど下ったガラ場の上にもう一回広げる。離陸するには最悪の場所だがほかにいいところは見あたらない。

  いい風が入ってきた。一度軽く上げてみる。ラインがひっかっかることなくうまく上がった。チャンス。そのままそーっと落し、次に風が入ってきたところでいっきに上げる。うまくいった。  風がよかったのだろう。一二歩歩いただけで体がぐーっと持ち上げられ、空中に飛び出していた。出てしまえばこちらのもの。いつもと同じだ。グライダーが前に進むと同時にぐんぐんと上がっていく。隣の尾根を越えたと思った瞬間、ぐーん、とグライダーが持ち上げられた。

目の下には先ほども見た須走下山道を下る登山者の行列がみえる。わー、という歓声が聞こえたようだった。突然頭の上にパラグライダーが現れたのだから驚きの声かもしれない。

  大気はさほど危険のようには思えなかった。回して回してグライダーを上昇させる。お釜のヘリの高さまであっという間に上がる。お釜の中が見える。レーダードームが外された測候所も見える。登山者はもうアリのように小さい。スタートするのが遅れたせいで、逆にサーマルに当たることになった。多分日の出直後にでていたらひたすら下降するフライトになっていたんだろう。片翼がバサッと潰れる。ひやひや。富士山の乱気流は耳にタコができるほど聞かされている。車に置いてきた緊急用パラシュートのことも思い出す。これが忠告と、ひたすら富士山頂からの離脱をめざす。

 標高3000メートルまで降りてきてひと安心。今度はできるだけ遠くへ、長い時間飛んでいたいものだと、あれこれ操作するが、グライダーは高度を下げるばかり。目の前には西風が温まった空気に当たってできたのだろう。屏風のような雲の壁が数キロにわたって麓に向かって延びている。そこに入りこまないように南西へ南西へと進むが、強い西風が顔に当たるのがわかる。やが

てグライダーが前に進まない状態になりいっきに高度が下がりそのまま地面に降り立った。標高2200m地点、宝永山の作った砂漠エリアの真ん中だった。不思議なことに頂上ではそよ風ほどの西風だったのに、ここではグライダーが飛ばされるほどの強風になっていたのだ。

  離陸6時55分。着陸7時30分。わずか35分の飛行。パラグライダーを始めてから307回目のフライトだった。  軽量化を試みる段階で、ヨーロッパの多くのメーカーが山岳フライト用グライダーを作っている事を知った。またビバークフライト用という言葉を使う有名ハーネスメーカーもあった(そこの山用パラザックにはピッケルとアイゼンを収納するストラップがついているのだ!)。そしてそれらの製品は、たしかに使えるギアだった。山飛びがパラの伝統的なスタイルであることをメーカーが理解しているからだろう。なによりも多くのフライヤーがそれらを求めているというヨーロッパのパラ人口の多様さに感心するべきかもしれない。

 写真やgpsデータもあります。 ホームページを参照いただければ幸いです。 http://www.edico.jp/arc/arcchronicle04/para04/para04.html