2.28.2022

北田啓郎大兄 RIP


●北田さん追悼1 山と溪谷誌からの依頼で以下書きました。伊藤文博 2022年2月

貴公子のテレマーク

北田さんがスキーツアー中に倒れて亡くなったのは1月25日。尾瀬戸倉から大行山へ登る途中でした。原因は内因的(心臓発作)なものだったそうです。
同行した二人(カラファテ社の中根さん、荒山さん)によると、
13時ころ、少し後ろを歩いていた北田さんが見えないので戻ってみると雪の上に倒れていた。意識がなく呼吸もないようだった。心肺蘇生しながらヘリコプターを呼び、14時30分には病院へ搬送されいったが、その後、回復することはなかった、とのことです。山中の突然死でした。

北田さんは1949年盛岡の生まれ、育ったのは埼玉県の浦和です。兄の紘一さんの山好きにひかれて中学生のころからふるさと岩手の山に登りました。スキーで雪山にもよくいったと言います。

学習院大仏文科を出て登山用品の業界に入ります。
山熱が高じてカリブークラブ(山スキーチーム)を仲間と結成、内外の雪山にでかけます。80年のマッキンレー山頂からの滑降は一大イベントでした、ヨーロッパアルプスのハイルートへは何度かでかけています。

本人いわく「テレマークスキーに開眼したのは82年、転機でした」。84年に有志と日本テレマークスキー協会を設立して普及に努めます。その後の人気イベント「てれまくり」も北田さんが始めたものです。
90年代はテレマークの修行にコロラドロッキー山脈に4年連続でかけました。コロラドのあとカリフォルニアのシエラネバダ山脈へ2シーズン行っています。98年の仲間とのハイシェラルート完走は北田さん自作自演ツアーの傑作といえるでしょう。マッキンレー滑降とこのハイシェラのツアーは日本人の記録として誇れるものです。

ほかに、北田さんはたくさんのスキーツアーの本を書いています。スキービデオの出演も多いので動画を見られた方も多いでしょう。
もうひとつ北田さんがやった仕事があります。89年日本初の「テレマークとクライミング用品の店・カラファテ」を創業したことです。今もつづく都内目白にあるお店はよく知られています。

いつもにこやかでやさしい北田さんですが、仲間との山行では違う表情もあります。
雪の山については独自の美意識があり、登る山、ルート、滑るラインなどこだわりの多い人だった印象があります。「北田スタイル」があり、山に関してはシリアスだったと言えます。
北田さんのあのきれいで上品な滑り、まさに「貴公子のテレマーク」がもう見られないと思うとほんとうに残念です。

伊藤文博 パウダーガイド社代表、元ヤマケイ誌編集長


 山と溪谷2022年3月号 


●松倉さん撮影編集ビデオ 

北田さんをしのぶ

https://youtu.be/Q9We51RZu_8

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北アルプス立山11月 撮影川崎博


●THE SIERRA HIGH ROUTE

シエラハイルート走破行

北田啓郎

 

 
シェラでの北田さん 写真は真壁さん


北田啓郎 文
 
期間:1998/4/25-4/30
パーティ:ベンジャミン バーディ、マット バーディ、糸尾希沙、真壁章一
          伊藤裕之、渡辺賢二、溝部克実、北田啓郎

日本に記録的な少雪をもたらしたエルニーニョは、カリフォルニアでは季節はずれの
大雪を降らせていた。4月半ばを過ぎてから、ハイルートもかなりの雪が積もったと
の連絡が入り、雪崩や、重いシエラセメントのラッセルなど、前途は多難そうだ。日
本チームはサンフランシスコでいつものようにフォードの15人乗りフルサイズバンを
借り、ヨセミテ経由でフレズノに向かう。本当はタホスキー場あたりで足慣らしをし
てからフレズノに向かう予定だったが、あわただしすぎるスケジュールなので、まず
はヨセミテ観光でお茶を濁すこととなった。ヨセミテは予想外に天気が悪く、気温も
低い。ヨセミテフォールの下にはまだ多量の雪が残っていた。

ハイルート走破の第一関門は、いかに入山下山の足を確保するかである。僕たちのと
った方法はいくつかある中で最も贅沢な方法だ。
まず2台の車で下山口のウルバートンまで行き、バンをデポしてくる。次にフレズノ
から軽飛行機で東へシエラを飛び越える。最後に入山口までは現地のバンサービスで
運んでもらう、というわけだ。飛行機代は1機$800、1人頭にして$180、日本の新
幹線や高速料金と比べ高い気はしない。
飛行機は双発のパイパー機2台。主翼のエンジンルームにスキーとストックがすっぽ
り入るのがとても便利だ。飛行機オタクのニシが珍しい小型機を見つけて興奮しなが
らシャッターを切りまくる。空港は宿にしたホリデイイン・フレズノエアーポートの
すぐ脇にあり、移動には理想的だ。

前夜は酔っ払いながら各自パッキングに努力する。徹底軽量化を自負する糸尾記者の
ザックが意外にも重いことがわかると、土壇場で酒を減らしたりしている。最も若手
のナベちゃんのザックが最も小さく、溝部氏から一言があったり、今回は皆いつにな
く重さにナーバスである。真壁氏、ベンさんは体力に自信があるのか、結構でかいザ
ックである。
シアトルから夜遅くにマットさんが到着。仕事が忙しそうで、ホテルに来てからどた
ばたと装備を点検している。マットの荷物は一番でかく、その中にはこれからお世話
になる貴重な装備がぎっしり詰まっていたのだが。

4月25日、出発の日、6:30起床。ホテルの甘すぎるドーナツとコーヒーで朝食を済ま
せ、ベンさんの車で3回に分けて荷物を運ぶ。パイロットは日本にも来たことがある
という退役軍人だ。
9:30、いよいよフライトである。飛行高度は4、5千メートルくらいか、登山者がいれ
ば見えるくらいにまじかに稜線を越えてゆく。先行した機とは少しルートが違うのか
、機体は見えない。僕の機はいちどエアーポケットに入り、シートベルトをしていた
にもかかわらずおもいきり天井に頭を打付けてしまった。
着陸地は、昨年も通ったインディペンデンス。シエラクレストを越えると、機体はお
おきく北に旋回し、はるか下方に箱庭のように見える滑走路をめがけて、高度を下げ
ていく。シエラ山脈の東と西では、景色がまったく違う。こちら側は、乾燥しきった
砂漠地帯、インディペンデンスはその中のオアシスである。
待ち構えていたバンサービスのトラックに荷物を移し、すぐに出発。すぐに埃もうも
うの砂漠の中の、ジープ路らしきを進む。
入山口はシムスクリークだが、地図で確認するとかなり山の近くまで入ってくれたよ
うだ。辺りはガラガラヘビでも出てきそうな砂漠で、トラックが2台デポしてある。
ここで最初のトラブル発生。真壁さんのストックがないのだ。共同で荷物の積み下ろ
しを繰り返したから、車か飛行機かに置き忘れたに違いない。車は行ってしまったの
でもはや戻る方法はない。ストックがなければ歩けない、真壁さんの頭の中は真っ白
になったに違いない。

しかし、神は真壁さんを見放さなかった。マットさんが出発前に悩んだ末、予備のス
トックを持ってきていたのだ。
                            ***
ひとずつ準備が出来たものから歩き出す。山の上は雲がかかっているが、頭上は砂
漠の青空である。サボテンなどを踏みながら雪のない山路を歩く。徹底軽量化をはか
ったザックだが、一週間分の食料とスキーまで担ぐと、25キロぐらいあるかもしれな
い。クリークを離れ急傾斜をジグザグに登ると、やがて雪が現れ、スキーをはく。27
30mのシムスサドルにでると、目の前にMt.ウィリアムソン(4313m)が聳え立つ
。確かアメリカ本土で第2の高峰である。その右肩はるかに、明日越えるはずの第一
の難関、シェファードパスが望まれる。ここから幕営予定地のマホガニーフラットま
では予想外に長く、一度シェファードクリークに向かってかなり高度を下げ、再び登
りかえさねばならなかった。
                             ***
2日目は、シエラクレストと呼ばれる主稜線を越える難行が待っている。シェファー
ドパス、3600mである。
アンビルキャンプ手前の急斜面でロープを使用する。岩の迷路となっているモレーン
帯を苦労して抜けると、パスに続く急斜面が立ちはだかる。といっても最大傾斜40度
くらいだろうか、アイゼンピッケルを使用すれば難しいわけではない。しかし荷物の
重さと高度になれていない身には結構つらい。コンディションの良い者といまいちの
者の差は大きく出る。
真壁さんが最初から絶好調である。他を寄せ付けない速さで登ってゆく。糸尾記者は
半分ぐらいまでシール登高しきわどいバランスでアイゼンに履き替えている。マット
、ベン、ナベ、北田、ヒロあたりはまあまあの調子だが、溝部氏とニシが大きく遅れ
ている。溝部氏の昨年のあの馬力は何処へ行ったのだろう。ニシはまあこんなものだ
ろう。
登りきると広大な雪の砂漠のような地形が現れた。カーンリバーまでほぼ平坦か少し
下り。シールを剥がし、一人遅れているニシの姿を、はるか後方に確認しながらキッ
クアンドグライドで快調に先を目指す。少しでも下り傾斜だとスキーはほんとに楽だ
日が西に傾くなか、クラストがはじまった斜面をひとくだりすると、池のほとりに平
らな第2日目のキャンプサイトが見つかった。雪を掘り氷を割ると、うまい具合に水
が現れた。いつものように小型水浄化器で汲み上げる作業をする。まわりは樹林帯で
、日本でいえば黒部の源流でキャンプしている感じだろうか。陽が落ちるとあたりは
急速に冷え込んでくる。そんな中ベンとマットは最後まで外で夕食をとる。温度感覚
はアメリカ人と日本人ではかなり差があるようだ。
                            ***
三日目は第2の難関マイルストーンのコル(3900m)を越え、トリプルディバイドピー
ク下までの予定で出発する。ここからがハイルートの核心部である。シエラクレスト
の西、シエラのど真ん中にはしるグレートウェスタンディバイドをたどるからだ。1
、 2日前に通過したらしいシュプールがあり、気楽な気分で出発したが、地図をよく
見なかったのが災いし、かなり進んでから、一本南の谷に入り込んでいることがわか
った。周囲の景色は素晴らしく、このまま進んでも方向的にはよいのだが、たぶん最
後のつめが急で苦労するだろう。マイルストーンクリークとこの谷を隔てている尾根
の弱点を探し、そこを越え、正規ルートに出れないか偵察をする。尾根上に出ると、
反対側はかなり急ながけになっていた。アメリカの地図は、等高線のみで、日本のよ
うに岩記号がないので、行ってみないとスキーが使えるかどうかわからないのだ。

結局、マット隊は尾根を忠実に数百メートル下り、結構な急斜面をスキーで下降し、
トラバース気味にマイルストーンクリークの上部へ出るルートをとる。北田と記者、
ニシの3名は、尾根の手前のよい斜面をスキーでどんどん下り岩場のきれたところか
らマイルストーンクリークに回り込んだ。登り返しがけっこう長かった。正規のルー
トに出た時は、かなり時間が経っていた。今日中にマイルストーンのコルを越えたか
ったが、何か緊張の尾が切れた感じで、コルのかなり手前の池のわきで3日目のキャ
ンプとなった。
雲一つない晴天が続き、風もない心地よい春の午後、周囲の景色も申し分ない。休養
のタイミングとしては良い決定だろう。惰眠をむさぼる者、装備やふやけた足の虫干
しをする者、お茶にする者、さまざまだ。元気が余っている若手のナベとベンがスキ
ーを始めた。荷物がないと気持ちよさそうだ。ナベが目の前の岩に挟まれた少クリフ
に挑戦しようとしたが、土壇場でチキン状態になってしまった。MSRストーブの通を
自任するニシのXGKがこの日不調になった。あれこれいじっても直らない。お湯も作
れないで困っていると、マットがそのでかいザックの中から、なんとスペアのコンロ
を出してきた。マットは寡黙な男だが、実に頼りになる。
                             ***

4日目。今日こそ核心のグレートウェスタンディバイドをぬけ、ハイルートの後半部
に入ろうと、勇んで出発する。東面に向くマイルストーンクリークは早くから陽が差
し、アンダー1枚で歩いても寒くない。ナべがオーバーパンツを脱ぎ、パンツスケス
ケのアンダータイツ姿で歩き、顰蹙を買っている。

コル手前までに2ピッチ、傾斜がきつくなる手前でアイゼんにはきかえ、急な雪面を
トラバースする。コル自体は狭い岩尾根で、反対側はマイルストーンボウル。出だし
は40度くらいの急傾斜である。
ザックが重いので、とても華麗なテレマークターというわけにはいかない。慎重にデ
ブリを避けトラバースし、途中から気持ちよくターンをきめる。あまり下りすぎない
ようにし、トラバースに入る。稜線の下の急なカールの側壁をひたすら斜滑降する。
その先コルビーリッジを越える場所を探し、再び迷ってしまう。比較的上部の急な雪
面をアイゼン登高するか、岩場を下方まで回り込みスキーで越えられそうな弱点を探
すか、意見が分かれた。結局かなり下までスキーで下る案を試みたが、回り込んだ先
が岩壁で越えられそうにないことがわかり、昨日に続きまたまたシールで谷を登り直
す。リッジを越えられず、この日も核心手前で時間切れとなり、3300m地点でキャン
プにする。ハイルート手強し、といった感じだが、天気がよいので、悲観した意見は
出ない。明日こそ、である。
この辺りは熊の新しい足跡がたくさんあり、食料はまとめて木の上に吊るした。
                                ***

5日目。東に面した谷なので、早くから陽が差し、尾根の上部も輝いている。コルビ
ーリッジの乗っ越しは見た目ほど悪くなかった。 尾根上の出たところは約3650mの
地点。広い尾根で、ここからスキーが使えそうだ。スキーを付ける。少し下ってから
、再びえんえんとカールの側壁をトラバースである。はるかかなたに見えたトリプル
ディバイドピークがどんどん近づく。山容とそのこなし方にようやく慣れてきたせい
か、今日は行動が順調だ。 

トリプルディバイドパスまではシールで達する。反対側は岩交じりの急斜面。偵察の
結果スキーで滑降可能と判断し、岩の間で慎重にスキーを履き、思い切ってジャンプ
ターンで1回転する。雪は硬いが、エッジは効き、2,3回転するうちに傾斜も落ち
てくる。すぐ下がグレイシャーレーク。ようやくグレートウェスタンディバイドの山
場を越したので、ここで行動食を食べながら今日の行動予定を話し合う。予定より1
日遅れているのと、天候が崩れた時のこの先の行動を考えへ、今日は頑張ってロンリ
ーレイクまで足を伸ばすことに決定する。
ライオンレイクのコル下へ降りるのは、アメリカチームは岩場の下の急斜面をスキー
で回り込み、日本チームは岩場の上から岩交じりの急斜面をアイゼンで下った。ニシ
が不安定な雪を踏み外し、危うく谷へ転落しそうになり、一同肝を冷やす場面があっ
た。  
行く手にはクラウドキャニオン上部のとてつもなくでかいカールが広がっている。1:
30、巨大な二つのカールをトラバースしなければ、今日のキャンプ地はない。クラウ
ドキャニオンはシールでひたすら歩き、カッパーマインパスはアイゼンで登る。デッ
ドマンキャニオン側は急だがスキーで下れそうだ。トラバース気味にひとりひとりス
キーを滑らせて行くが、最後のほうは上層の雪が落とされて固いクラスト面が露出し
、谷底へ落とされそうなトラバースであった。

デッドマンキャニオンは半分までシールなしで滑れたので時間が稼げた。特徴あるフ
ィンパスをスキーのままで乗り越すと、今度は先ほどまでと逆の方角に開いたカール
に出る。その真ん中がロンリーレイクだろう。もちろん今は雪の下だ。
低い樹木が出てき、山場は越えたことを実感する。トラバースばかりでうんざりして
いたが、ここはキャンプサイトまでいっきに滑れそうである。一人二人とスキーを下
に向け、思い思いのシュプールを描く。雪質は柔らかめのコーン。最高の気分だ。17
時、陽はまだ十分に標高3200mのキャンプサイトを照らし、風もなく、空には長閑な
お天気雲が並んでいる。
これで5日を無事消化、残るは2日だ。ぼちぼち余りそうな食糧を整理するものも出て
、気分は一路下界とビールへ飛んでいる。前半やや不調だったニシと溝部氏は調子を
戻し、代わって伊藤記者が胃炎で調子をおとしている。絶好調は真壁氏とマット、そ
の他はまあまあの調子だ。
マットがしぶとく水の湧き出ているところを発見したので、炊事はぐんと楽になった
。大きな岩の下を、耳を澄ませると確かにちょろちょろ水の流れる音がする。浄水器
の管を隙間に落とし、ポンピングするとおいしそうな水がボトルに溜まっていく。ポ
ンピングをボトル3本もやるとさすがに腕がパンプしてくる。ニシと二人で鼻水凍ら
せながら、皆のボトルに水を溜めるのに30分以上かかってしまった。それにしても、
春のシエラでは小型浄水機は必携品だ。僕の使用しているなはスイートウォーター・
ガーディアンというモデル。コロラド製だ。ポンプがテコの利用で使いやすい。
                           ***
6日目。今日の予定はペアーレイクハット周辺まで。基本的に下りだから気分はるん
るんだ。いよいよ高山地帯を離れる日だ。さびしくもあり、うれしくもある。
下り気味のトラバースからテーブルランズに登るが、谷を隔てた南側は、グレートウ
ェスタンディバイドの高峰が重なるように連なり、眺望は並外れたものだ。
ペアーレイクハットへ導かれる谷に入るまで、かなり複雑な地形のためルートを探す
のに苦労したが、ルートがはっきりすれば、後は速い。マットを先頭に緑が増えてき
た広い谷をぐんぐん滑り下る。
雪の腐った急斜面に思い思いのシュプールを描くと、小屋である。ペアーレイクハッ
トはレインジャーの小屋で、一般の宿泊はない。周りをアルプス風の岩峰に囲まれた
瀟洒な山小屋だ。
小屋を過ぎると樹林帯だ。最終キャンプの場所はこの辺に予定していたが、皆の足は
下へ向いたまま。このまま後数時間下れば、ハイルートの旅は完成するのだと考える
と、ここで泊るという主張にほとんど説得力はなかった。
 雪の腐った樹林帯をわれわれはひたすら下りつづける。苔むしたセコイアの樹林は
 結構長かったが、結果、2日分を1日で滑り降りてしまう。
16:35、一人の落伍者もなく9名はウルバートンの駐車場に残した懐かしいフォードの
前に滑り込んだ。
シエラハイルート、シエラバックカントリーツアーの最終目標と言われるコースに、
好天に恵まれ、僕たちはまんまと成功した。(北田啓郎、1999/1/11)

上、Rock & Snow誌掲載記事より
 
ハイシェラほかのレポート
 http://www.pguide.jp/chronicle2/hisierra.html


●コロラドのスキーについて

コロラドのテレマーカー

北田啓郎 文
PHOTO BY K-ITO
 
 
心地よい春風に、スプルースやパイン、ファーなどの針葉樹の木々の香りがまじっている。見
上げる空は、いつも変わらぬコバルトブルー。ここはコロラドロッキー。標高 四000メート
ル以上のピークがいくつも連なる巨大な山塊だ。

 春になると、この空気、この匂い、そしてこの空の色にさそわれて、アメリカの東や西から
ここにやってくるスキーヤーは多い。北米大陸を貫くロッキー山脈のなかでも緯度の低いこの
あたりは、比較的、気候温暖、地形もマイルドで、山のスキーを楽しむにはもってこい。

 いくつものトレイルがあって、基地となる山小屋も充実している。そして特筆すべきは、彼
らが使っているスキーがすべて、テレマークスキーだということ。伝統と環境がしからしむと
ころとはいえ、これほど、徹底しているのも面白い。

 テレマークが自分の足のようになっている地元っ子にまじって、長い休暇を楽しむ都会人も
目立つ。なかにはすっかりこの辺りに魅せられて住み着いてしまったテレマーカーも多いよう
だ。

 年に一度のコロラドへのスキーの旅を何度か続けているうちに友達になってしまったテレマ
ーカーも一人や二人ではないが、ここ数年、いつも僕らの旅につきあってくれる二人の移住組
のテレマーカーのことを話したい。
 ドンとローラがその二人だ。

 ドン・シュタフチェク、四十六歳。ミズーリ州生まれ。山に憧れスキーをやりたくてコロラ
ドへやってきた。八○年代の初め、テレマークスキーがアメリカで盛り上がったその時期に、
テレマークの洗礼をうけた。アルペンスキーが大好き立った彼だが、コロラドのバックカント
リーを自由自在に歩き滑りまくるには、テレマークこそ、自分にぴたったりのスキーだ、と思
ったのだ。テレマークは、軽い、速い、そして足になじんだ革靴の心地よさがとてもよい。

 ドンの滑りは凄い。軽登山靴ほどの浅いブーツをはいて、八十リットルの大型パックを背負
ったまま、深雪に細い美しいシュプールを返いてゆく。彼は現在、アスペンとベイルを結ぶテ
ンスマウンテン・ハット・トゥ・ハットツアーを中心に活動するパラゴンガイド社の一員であ
る。 
 ローラ・グリーンは、ドンについてアシスタントガイドをしているもの静かな女性だ。彼女
もまた、山とスキーが大好きで、コロラドに移り住んでしまったひとり。ふだんは、コロラド
でもっとも標高の高いラブランドパススキー場でパトロールの仕事をしている。このスキー場
では、彼女だけがテレマークでパトロールすることが許されているのだ。

 この二人と僕らを巡り会わせてくれたベン・バーディのことも話したい。ベンは以前日本で
仕事をしていた。奥さんは日本人だ。ニューヨーク生まれの彼は、学生時代、ユタのスキー場
で働き、そこでテレマークスキーをマスターした。彼の滑りには、腰掛けるような独特なユタ
スタイルが残っている。ベンもいつか、夏はカヤック、冬はテレマークのガイドを仕事とした
いと考えている。

 ドンもベンも陽気だ。行動中はいつもなにかしら喋りつづけ、ジョークを連発し合っている
。黙々と登る、ということは、コロラドスタイルにはないのである。四月だというのに、北面
にはパフパフのパウダー。何度もアスペンの林を登り、何度もパインの森をスラロームする。
夕暮れになるまでけして引き上げるると言わないのも、コロラドのパウダーフリークのルール
だということを知った。

 テレマークスキーはコロラドの大自然と、そのなかで遊ぶパウダーフリークたちが育てた、
もっとも痛快な雪山の遊び道具といえるだろう。近くて安くなったアメリカへの旅路、仲間と
春の山スキーを楽しみにコロラドへでかけるというプランも今や難しいことではない。

上  powder guide 誌の掲載記事より

● 以下、北田さんが登場するスキーのレポートいくつか

ハイシェラ完走 伊藤文博のレポ

ハイシエラ完走前年のレポート

タイオガパスのレポート

アスペンからジャクソンへ

国内 大戸沢岳のレポート

 北田さんが好きだった会津駒のレポート

北田さんの最後の山、大行山の2月

●パソコンのアルバムから

大戸沢岳5月

立山11月

会津駒5月

ニセコのハイクローツで

余市岳

会津駒でのスキー動画 1




会津駒ヶ岳での動画 2


●北田さん追悼2 伊藤文博

Tajニュース(日本テレマークスキー協会報)の依頼で以下書きました。2022年3月。公開6月1日。北田さんのビジネストリップ以外の私の知るかぎりの海外スキー旅です。テレマーク時代の旅にはどれも一緒に行きました。以下本文。

北田さんの海外スキー旅

盛岡生まれを誇りにしていた北田さんですが育ったのは浦和です。山へは兄紘一さんと中学生から、スキーは18歳からといいますからやや遅咲きかもしれません。

その後、北田兄弟のモーレツな雪山修行があったようです。国内の雪山を総なめ?にしたかのような北田さんですが、ここでは海外の山行のこと。


1979年に高田光政氏らとアルプスオートルート(スイス側)、82年にはフランスルートを走破しています。間の80年には、なんとマッキンリーを滑っています。成蹊大チーム(磯野剛太隊長)でメンバー全員登頂、そして全員滑降という輝いている記録です。このころイケイケの北田さんですがカリブークラブを結成したのもこの時期。北田さんらしく、やたらに緩いしばりの集まりです。以上はアルペンスキー(山スキー)での記録です。


82年に突然テレマークに開眼します。以降アルペンスキーにもどることはありませんでした。しばらくTAJの活動で忙しかったのですが、90年代からは本場アメリカでのテレマーク修行にでかけます。


92年4月ユタ州ワサッチ山脈。93〜95年、3年連続でコロラドロッキーの探索、テンスマウンテンルート完走。

97年4月にはカリフォルニア州のシエラネバダ山脈へ。翌年にそなえてソリとテント泊のツアーでした。

98年4月、念願のシエラハイルート完走。日本人初記録。

2000年3月ワイオミング州グランドティトンツアー。


以上、すべてメンバーはカリブークラブとその仲間、全員テレマークで参加しています。企画はすべて北田さん。よい頭脳があってこその成果といえるでしょう。

とくに98年のツアーは避難小屋もエスケープルートもないシエラの高山を5日間で抜けるというスピード山行でした。

99年の「rock & snow」春号のレポートで北田さんはこう結んでいます。

「シエラハイルート。シエラバックカントリーの最終目標といわれるコースを、天候に恵まれ、僕たちはまんまと成功した!」

テレマークの貴公子、北田さんの品のいい笑顔がうかんでくるようです。

伊藤文博

追加1

スキーや山を大いに語った北田さんですがそれ以外のことについては静かな人でした。あまりよそから見えない好き嫌いがあって、食事やクルマ、そしてふだんの振る舞い、すべてにこだわりのある人のようでした。どれもが上品志向です。読書家であったことは彼の文章をみれば自明ですね。静かなインテリ。そんなあんなが人をひきつけたのでしょう。


追加2

あるとき山でサングラスをいただきました。スミスの替えレンズ付きのもので今も愛用しています。「マトリックス」ぽいデザインで「オレには似合わないから」と言っていましたが、人にやたらモノをあげていたら成り立たない商売をしていたはずなので感謝しております。ありがとう北田さん!

伊藤文博

Tajニュース2022年春号掲載。追加分は編集からの求めで補いました。

https://www.ski-taj.org/news/data/TAJnews2022.pdf

ニュース2022年春号は以下でみられます。

日本テレマークスキー協会

https://www.ski-taj.org/



 




大行山スキー 片品村の富士見峠近く

大行山 尾瀬の富士見峠近くにある。夏道はないようです

雪が多くてよかったけれど頂上までは届かなかったですー


2022年2月24〜26日

member itokisya記


上段と下段 1570m広場あたり

上段はミッフィーの片品スキー場
下段は大行山での3点

予定ルート

実際のルート


2月24日 木曜日 くもり

未明にでて関越道を北へ走ります。赤城高原で休んでから沼田経由片品村戸倉スキー場へ。

駐車場の入り口に山に登る人のクルマは5000円とあります。無料と聞いていたのですが。


9時過ぎにスタート。標高は1050mほど。大行山山頂は1780m。

スキー場の人がでてきて山なら5000円とのこと、戻ってからスキー場滑ります、と伝えました。

5000円もはらいたくなければ第4ペアリフトを利用して林道の先にでるといいかな

あれが大行山らしい


笠科川支流沿いの林道(富士見峠林道)を行きますが、昨日(天皇誕生日)のトラックが残っていてそれを追います。3人くらいか。トラックは林道からそれてスノーブリッジで沢をわたり山に登ります。滑ったあともあり昨日のチームは往復したようです。尾根上に出るとあとは南尾根を登るだけ。


とはいえかなりの急登、高度を上げるとトラックは風に飛ばされ消えてしまいます。

予定どおり12時過ぎまで登りましたが、きれいなオープンスペースが広がるところ、1570m,で終了とします。ここでのんびり、今日はだれもいない静かな山です。山頂までは高差200mですが直線距離で1000mもあります。


雪が少ないとヤブ山かもしれない

1570mあたりで広場がある


12時半に滑降スタート。

オープンスペースは少なく、林間を下ります。斜滑降を多用、雪が少ない年だとヤブスキーになるのかもしれませんが今日はふかふか。やすみやすみ1時間半ほどでスキー場に戻りました。

北田さんが倒れた山はどんなかな、とおもってきましたがおおよそわかりました。


食堂で休んでから、ひと滑りしようかと思いましたが、チケエット売り場はクローズになっていました。このスキー場のキャッチコピーは、戸倉は空いてる、だそうですからたいへんなのかもしれません。


鎌田の竹やの前の片品道の駅で休みます。となりには寄居山温泉ほっこり湯もあって快適なところです。施設も新しくてきれい。


2月25日 金曜日 晴れ

尾瀬片品道の駅から10分ほどで片品スキー場。ここで1日ゲレンデスキー。とはいえ午前午後2時間ずつ。雪はよいですが全ルートほとんど圧雪されています。スキーの上手なお年寄りが目立ちます。

スキー場と同系の高原ホテルにチェックイン。古くて広くて清潔な宿です。スキー場もホテルもミッフィーだらけなのが面白いですね。


26日は、朝いちで帰路に。片品道も関越道も下りは大混雑。土曜日のスキー客のようです。

そのうち登るつもりの子持山の登山口を見てから、渋川から関越道、昼過ぎに東京に戻りました。

●おまけ

伊藤記者かたる

北田啓郎さんは尾瀬がきらいだったようです。

何度か聞いた話ですが、80年代、テレマークスキー協会のツアーで団体で尾瀬に入ったことがあったそう。参加者のひとりが足をねんざするか折るかしたそうで、山小屋に面倒をかけた?らしい。 小屋の有名なおばばがでてきて「テレマークスキーで尾瀬にこないでくれ」と面とむかって言われたとか。

「あそこはひどいよ、いらい尾瀬にはスキーにいかないことにしている」たしかそんな風に言っていました。詳細とほんとのところはよくわかりませぬ。


別の話ですが、いまはどうかわかりませんが、長蔵小屋は冬季に小屋をあけて自主的に参加者を募りスキーツアーをやっていた時期がありました。やはり80年代の話でヤマケイ誌にも情報が載っていました。

積雪期も小屋を開きたい事情があったのでしょう。

仕事仲間の神長さんと話して、それを取材に行こうということになり参加申し込みしました。カメラマンはだれだっただろう?

雪の長蔵小屋に入り泊まって、翌日は好天。ほかの参加者とともにガイドに連れられて、燧岳まで登りました。ガイドも客も何人もいたのですが、小屋のおばさんや若いスタッフもいてにぎやかでした。天気のよい日の燧岳ツアーはうまいこと成功して、これは印象に残っています。写真もどこかにあります。

積雪期の尾瀬の山行は、奥山だけにちょっとレベルが高く、山小屋が開いていないとけっこう本格的なものになります。冬も開けるという奇特な小屋のおかげで楽しめたのでよかったのですが、もしそんなお気楽な企画があれば鬼の首でもとるように参加してみるのがいいのではないでしょうか。私もまた参加してみたいものです。

2.19.2022

房総の九十九里浜の方へ

大多喜、御宿、大東崎、など初めて

2022年2月15〜16日

member 太郎、ケイ、itokisya記

月の砂漠像


2月15日 火曜日 晴れくもり

アクアラインで東京湾をくぐって木更津へ向かいます、圏央道で大多喜。小江戸といわれているらしい。お城と城下町をみてから御宿の海辺へ移動します。月の砂漠像をみました。立派な記念館もあって中高年が目立ちました。ここがとりあえずの目的地でした。


大東崎は意外とさびれたところで風景が秀逸でした。オリンピックサーフィン会場の釣が崎海岸で名人の技などみて、白子の桜公園へ。河津桜はまだつぼみでした、今年の冬は寒い。

九十九里浜と後ろの平野は広々してますが今は寒々な感じです。長大な蓮沼公園をみてからデュカーレ九十九里ホテルにイン。今回は太郎もいっしょの部屋。それもあって変わったところへやってました。

大多喜城

大東崎


真冬の外房はもちろんオフシーズンです。海辺には殺風景なところもあってどこか東南アジアの町に似ている気がしました。外房は過疎地もあって、空き地空き家も多く限界ニュータウンと言われるところもあるようです。

夏は海の客がふえて賑やかになるのでしょう。街道沿いのホテルや食堂なども夏向きの造りや対応のような気がしました。


2月16日 水曜日 晴れ

圏央道で房総半島を大胆に横断して馬来田(うまくた)道の駅。ここでで野菜を仕入れ、アクアラインうみほたるでひとやすみして昼過ぎには都内に入りました。


2.01.2022

中の大倉尾根と赤面山尾根

那須のスキートリップ

2022年1月28〜29日

member カシワ ハネダ 伊藤フミヒロ記



1月28日 金曜日 晴れ

早起きして東北道へ。那須のハネダ家からハネダ車でマウントジーンズスキー場へ移動。10時ころカシワさんと合流しました。やくにたつドイツ車です。


ゴンドラ2本分滑ってから旧ゲレンデにトラバース。麓は日がさしていますがこのあたりは寒々しています。ツアー気分とパウダースノーを味わいました。

マウントジーンズの北側にある廃止ゲレンデが見えますが侵入ルートは不明。

ランチのあとゴンドラ2本滑って終了です。

毎度のフロラシオンホテルへ移動。25日に北田御大が逝ってしまったのでこんなあんなの話がでました。








1月29日 土曜日 晴れ

旧白河高原スキー場へ移動。福島県側の除雪は素晴らしく数台の駐車スペースがあり数台が先着していました。標高1100mくらい。10時にスタート。旧ゲレンデ脇を直登します。先行のトレールがあるので楽でした。

スキー場トップからさらに森林帯を登って1550mまで、12時前。赤面山頂は1700mですがここからでも昨日の中の大倉尾根や朝日岳、茶臼岳などよく見えます。眼下の黒川は栃木と福島県境でむこうが関東、こちらが東北というカンジですね。

のんびりしてから滑走。旧ゲレンデに入り、傾斜のゆるい迂回コースを快適に滑って中間地点まで。そこから登りルートにトラバースして戻りました。が中間地点からはそのまま下ったほうがよいでしょう。2時前終了。ほかの車はなくわれわれが最終下山でした。



カシワさんはヒマラヤ8000mサミッターで登山家です。元気でスキーも上手。あとで気が付きましたが、30年の知り合いですが、いっしょに山に登ったのは初めてのような気がします。遊びも仕事も含めて。そんなこともあるのかな。

湯本の鹿の湯でカラダをあたため、ハネダ家でコヒーをいただいてから帰京しました。


北田啓郎さんのおもひで動画。マツクラさんが作りました。
以下。


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1.15.2022

近藤和美さん。高本信子さんのことも

ヒマラヤの写真をみていたらなんだか二人の名前が浮かんだ

1990年代ですが、ヤマケイ社に真面目に務めていたころ、私のデスクの前あたりによくすわっていた人がいました。近藤和美さんと高本信子さんでした。

二人とも登山家で編集のしごともできる人だったので、「岩と雪」や特別号「山岳年鑑」のフリーランス編集者として毎年定期的にやってきていたのです。二人とも楽しい人で私もよく雑談やムダ話をしていました。

直接の仕事のやりとりはありません。山にいっしょに行くわけでももなく飲み屋に行くこともなく、毎日顔をあわせるのでいちおう同僚のような雰囲気だったかもしれません。

近藤さんは日本勤労者山岳連盟の遠征隊でそのころすでにソ連だかロシア、中国方面の高山によく登っていた気鋭だったようです。そのごますますエスカレートして日本を代表する高名なヒマラヤ登山家・遠征隊隊長になりましたが、そのころは活躍始動のころだったのでしょう。

登山歴をみるとまるで鬼のようですが、ふだんは穏やかな方で品のいい紳士でした。あるころから近藤さんの記録と実力がまわりにも知られるようになって「近藤さん凄いですね」と話がおよぶと「いやいや、まそんなもんですよ」と謙遜なのか自慢なのかわからないようなニコニコ顔でこたえてくれたとおもいます。

下の記事にもありますが、小柄で、すでに中高年の域に入っているのに、めっぽう山に強かったという奇跡の人だったようです。そんなセレブ登山家が目の前にいるのに気が付かなかったわたしはぼんくらでした。今80歳だそうですがまだまだ元気に山に登っているようですね。


高本さんは女流登山家としてたくさん記録をもっていて交友も広かった人です。日本山岳会の主要メンバーだったのかな。やさしくて親切な人という印象が一番強いのですが、最後の記事にあるようにインドの山旅で事故にあいなくなりました。青山の自宅の葬儀に参列しましたが、たいへんなお嬢さんだったことをしりました。たくさんの人が訪れていておどろきました。

ちょっとヒマラヤのことを考えていたところ二人の名前が浮かんできましたのでネットで調べてみたというわけです。なつかしい。

しかしそれにしても近藤さんの記録は人間離れしていて恐ろしいくらいですね。8000m峰登頂数では日本で2番めとか。遅咲きの登山家としても有名らしい。世界でも珍しいのではないでしょうか。

伊藤文博記 2022年3月記


https://blog.goo.ne.jp/repu/e/855c0f930a0ab4d3b2ca07e533699b16

より拝借


高所登山家、近藤和美さん

2009年11月30日 | 山のいろいろ


11月28~29日に千葉市で開かれた労山全国登山集会で、登山家近藤和美(かずよし)さんにお会いしました。

近藤さんは日本を代表する高所登山家で、世界の8000m峰に挑戦を続けています。


登頂を果たしたのは次の8座です

 シシャパンマ中央峰(8027m) 1994年 無酸素登頂

 ダウラギリ(8167m) 1995年 無酸素登頂

 チョモランマ(8848m) 1998年 登頂

 ナンガパルバット(8126m) 1999年 無酸素登頂

 ブロードピーク(8047m) 2000年 無酸素登頂

 K2(8611m) 2000年 無酸素登頂

 ガッシャーブルム2峰(8035m)  2003年 無酸素登頂

 マナスル(8163m) 2009年 登頂


山頂まで至らなかったものとしても、以下のものに挑戦していらっしゃいます。

 ローツェ(8516m) 1997年

 ガッシャーブルム1峰(8068m) 2005年

 マカルー(8463m) 2008年


他にも6000m以上の山に60回以上登った経験(アコンカグアなど)をお持ちです。

「ヤマケイ登山学校:冬山」(山と渓谷社)や「谷川岳」(昭文社)などの著者でもあります。


私は実際にお会いするまで、「鉄の男」というイメージを持っていました。

しかし実際の近藤さんは、小柄で優しい笑顔が似合う方


驚いたのは、手と足の指20本は完璧にそろっています! 高所登山ではしばしば凍傷で指を失くしてしまうので、これはオドロキでした。

実際に指に触らせていただきましたが、柔らかい指でしたよ~


どうして高所に強いのかお尋ねしたところ、「自分でも理由はわからないけど強い」とのことでした。


http://blog.livedoor.jp/buntak2/archives/51620733.html


より拝借


20080827近藤和美マカルー登頂報告会


タイトル20080827マカルー報告02近藤


 今春、マカルー峰(8463m)に登頂した労山隊の報告があるという近藤さんからの連絡を受け、登頂者:橋本久さんに久しぶり(1998年のマカルー以来)に会えるのではないか?と僅かばかりの期待を持って、東京飯田橋の労山事務所へ出かけてみた。

 仕事を早めに終え、上野・秋葉原まわりで飯田橋へ。そこから徒歩10分ほどで事務所に到着。早めに集まっていた人たちへ、アンデスのフォルクローレの楽器演奏をしていた。

 近藤さんに挨拶したが、「盛岡からは来ないよ!?」の一言で、橋本さんは現れないことを確認。頂上へのルート取りが一番の関心事になる。


 今日は、正式には 労山全国連盟メディア局:主催の「登山時報第1回文化講演会」-新しい読者を増やすための交流と講演の集い-で、

講師:近藤和美さん(2008全国連盟八千m峰登山隊・隊長)

演目:「世界第5位の難峰マカルーに登頂」

と言うものであった。


 よって、東京近郊の「登山時報」購読者が集まったもので、期待していた隊員や現役のクライマーが集まるというものではなかった。

 しかし、98年に埼玉と同時期に登山していた岩手の山童子隊の橋本さんが登頂したというので、関心大であった。


 まず、近藤隊長から今回の遠征の経緯が話され、スライドを上映しながら遠征隊の様子を話された。只、アタックに関しては「橋本・波多野2氏」が登頂者の為、二人の話を聞いた隊長の報告だった。


1.労山8000m挑戦からマカルーまで

 94年、労山隊として初めて8000m峰に挑戦した。最初は、シシャパンマに挑戦し中央峰(8008m)に登頂。

 以来、08年まで15年間、計12回の遠征があり、8000m峰11座に登頂。

 今年08年は、チベットのチョーオユーとシシャパンマの2座連続登頂を目指した。メンバーは橋本氏以外は、シシャパンマ、チョーオユーなら大丈夫と見て参加。

 しかし、北京オリンピックの聖火リレーの関係から、チョモランマは入山禁止。(それもチベット側のみならずネパール側も一時禁止となった。)チョモランマ近くのチョーオユーは、シシャパンマ登頂後にすれば登れるのでは?、と取り敢えず3/18と3/24に出発。

 まずは予定通り、ランタン谷のヤラピーク(5520m)で高度順応登山。折角だからとゴザインクンドへも立ち寄ったという。ヤラピークの下4700mのヤラカルカにBCを設置し、3日間滞在し2回登頂して順応終了。

 4/8カトマンズに返って来るもチベット情勢は好転せず、転進を考える。

 ①前回、7500mまで行っているマナスル、

 ②今春、15隊入るという情報のあるマカルー

のどちらか?という選択肢。

 ①は、隊長も記憶が鮮明で登頂を逃したピークなので再挑戦しやすい。

 ②は、隊員の橋本氏が10年前に登頂を試み、目前で断念した山。事前に資料を持ってくるように指示してあった。また、めったに15隊も入山しない山なので、登頂のチャンス。橋本氏の雪辱戦ともなる。

 他の隊員にとっては厳しいかも知れないが・・・「隊長の判断にまかせる」という橋本隊員以下の隊員の言葉で、「マカルー」に転進することに決定。


 幸い今回利用している「ボチボチトレック」(福岡の渡刈氏?が出資、グルン族の○○がオーナー)では、今春3つの8000m峰を扱っている。

①マナスルの倉岡隊、②マカルーのスペイン隊、③同じくマカルーになった労山隊で、スペイン隊の隊長:エマニエル?氏は、何度かBCで一緒になっていて友好的。隊員の河合氏がスペイン語が話せ、好条件。


2.カトマンズからマカルー登頂まで

 4/18隊荷2.4tと共にツムリンタールへ移動。隊員は飛行機。隊荷は陸路。ここから荷物をジープに積み替えて、ボーテパスまで運び、そこからキャラバン開始。2回の大きな上り下りを経て、

 4/27、チャゴ氷河末端のBC(5700m)に到着。前回山童子隊のABCだったところ(現在のBCになっている)。統計によると計23パーティが集結していたという。


<<行動日誌>>

 4/30 仮C1(6350m:98のC1)往復。

 5/7 C1(6650m:98のC2)泊

 5/8-9 全員が7100m-7300mへ往復。

 5/13 C2(7550m:マカルー・ラの上部)到着。

 5/18 橋本・波多野アタック開始のためBC出発。

 5/20 最終C3(7850m)に入り、21:30アタック開始。

 5/21 5:40登頂成功。後BC帰着。2次隊はC2入りを目指したが断念。その後天気が崩れる。

 5/26 BC撤収。ヤンレ・カルカ(3500m)まで降りる。

 5/29 ヤンレカルカよりヘリにてカトマンズ到着。(天候待ち1日)

 6/2 帰国

 

<<ルート等の状況など>>

・最終キャンプ(C3=通常のC4)は、北西稜上の7850m。テント3張りがやっと張れる広さ。張り捨てられていたテントを借用。

・夜9:30(21:30)スタートは早すぎたが、この時期の天気が不安定で、昼前から崩れていたので、崩れる前に安全圏に下山したかった為、早い出発を選ぶ。幸い、ルートを知っているサーダーが先行したため、難しいガリー入口も素早く発見。最後は夜明けを待って山頂を踏む。


・C3から雪壁のユマーリング。酸素流量毎分2.5L。最初の1時間は、5-6ピッチのユマーリング。

・FIXが無くなってからは、クレバス帯を避けるために雪田を大きく右に回り込みながら登る。モナカ雪。

・頂上へ抜けるルンゼは、頂上直下のルンゼ(98年失敗)ではなく、はるか下方の、頂上の岩稜帯から発生している左上方のルンゼを目指す。

・クレバス帯を3時間程かけて登り、ルンゼ末端にあるFIXロープを見つけて、それを登る。

・FIXは5-6ピッチ。上部稜線に近づくと無くなる。

・上部ほど岩の露出が多く、雪も不安定。

・やっと岩場を登りきると、目前に頂上が確認出来る。1時間ほど待つ。

・最後の登攀=狭い雪稜をFIXを頼りに3ピッチ、100mほどトラバースして到着。

・C1~C2間は、20ピッチ以上のFIX。(98年とはルートが違う。)

                 <<以上橋本氏の報告より>>


3.他

・隊員7人中、登頂者2名はどうだったか?

・5700mのBCは、50歳代には疲れが取れない。(世界一高いBC)

・労山の8000m登頂峰は11座。残るは、チョーオユー(2009年春)、カンチェンジュンガ、アンナプルナのみだが、難しいところが残っている。



◆久しぶりの報告会に参加。それもマカルーだったので興味しんしんであったが、残念ながら登頂者の話が聞けず残念。写真も数枚しかなく、詳しく確認できなかった。

 今年はチョモランマやエベレストからの転進組が大挙してマカルーに押しかけたようで、計23隊(パーティ)がマカルーをねらったという。それも殆どが北西稜。

 報告にもあるように、頂上まで殆どFIXロープが張り巡らされたようだ。

 10年前のマカルーを思い出すと、隔世の感がする。



ウイキペディアより


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%97%A4%E5%92%8C%E7%BE%8E_(%E7%99%BB%E5%B1%B1%E5%AE%B6)


近藤 和美

(こんどう かずよし)

生誕 1941年11月22日(80歳)

愛知県名古屋市

国籍 日本の旗 日本

職業 山岳ガイド

著名な実績 8000メートル峰9座登頂

受賞 スノーレオパード賞(1989)[1]


概要

1941年11月22日、愛知県名古屋市に生まれる。17歳で上京就職、1976年に17年間勤めた会社を退職。日本勤労者山岳連盟で「山と仲間」編集長を務めたのち、1984年よりフリーランサーとなり、山岳雑誌、山岳書籍の編集に従事、1987年登山ガイドとして独立。山と高原地図(昭文社)「谷川岳」の調査執筆を長年請け負った。


1972年31歳より海外登山をはじめ、42歳で7000m峰初登頂、1989年旧ソ連邦に属する7,000m峰5峰(イスモイルソモニ,ポベーダ,レーニン,ハンテングリ,コルジェネフスカ)を完登した者に贈られるスノーレオパード賞を獲得した[1]。


1992年50歳で8000m峰初登頂(ダウラギリ)、その後も8000m峰に挑戦し続け、2011年69歳でローツェに登頂し、8000m峰9座に登頂(うち5座無酸素登頂)した。たいへん遅咲きの登山家である。8000メートル峰9座登頂は、名塚秀二、田辺治、山田昇と共に、全14座達成の竹内洋岳に次ぐ日本人2位の記録[2][3]。


日本勤労者山岳連盟海外委員、日本ヒマラヤ協会会員、日本山岳協会国際部海外常任委員、パミール中央アジア研究会理事。


エピソード

1989年8月、近藤和美を含む日本勤労者山岳連盟隊はハン・テングリへ遠征を行っていた。この遠征は高所登山の経験者養成の目的も兼ねていた。参加者の1人の北沢真一は講師役として、ハン・テングリを数度登頂していたが、8月14日、下山中に滑落死してしまう。翌年、ハン・テングリの6,400m付近に慰霊碑が設置された。『世界の名峰グレートサミッツ』「ハン・テングリ」の回の制作に携わっていた貫田宗男がこの慰霊碑を知り、近藤和美に取材を行った。この慰霊碑は平出和也によって撮影され、北沢真一のエピソードと共に、2013年1月に放映された番組において取り上げられた[4]。


経歴

1941年11月22日 - 愛知県名古屋市に生まれる。

1986年8月3日 - イスモイル・ソモニ峰(7,495m/タジキスタン)登頂。

1986年8月 - コルジェネフスカ峰(7,105m/タジキスタン)登頂。

1986年 - レーニン峰(7,134m/タジキスタン)登頂。

1989年 - ハン・テングリ(7,010m/キルギス)登頂。

1989年 - ポベーダ山(7,439m/キルギス)登頂。

1989年 - スノーレオパード賞獲得(同年に日本人として初獲得した小西浩文に引き続き日本人2人目)。

1992年9月20日 - チョ・オユー(8,201m/チベット)無酸素登頂。(木本哲,八橋秀樹等11名)

1995年10月6日 - ダウラギリ(8,167m/ネパール)無酸素登頂。(林孝治,桑原巌,成崎公生,澤田実,武田澄人等8名)

1997年5月10日 - リスム(未踏峰/7,050m/チベット)初登頂。

1998年5月22日 - エベレスト(8,848m/ネパール)登頂。(倉橋秀都,佐藤賢,永田幸一,坂本正治,橋本久,矢野利明,川原慶紀8名)

1999年7月29日 - ナンガ・パルバット(8,126m/パキスタン)無酸素登頂。(倉橋秀都,清野嘉樹等5名)

2000年7月30日 - ブロードピーク(8,051m/パキスタン)無酸素登頂。(倉橋秀都,矢野利明,松本政英4名)

2003年8月1日 - ガッシャーブルムII峰(8,034m/パキスタン)無酸素登頂。(橋本久,飯塚公知,上野幸人4名)

2006年10月26日 - ナンパイゴスム[南峰](未踏峰/7,240m/ネパール)初登頂[5]

2009年5月19日 - マナスル(8,163m/ネパール)登頂[6]。

2010年5月17日 - シシャパンマ(8,027m/チベット)登頂。シシャパンマ最年長登頂更新(68歳176日)[7]。

2010年11月3日 - チュルー最東峰(6,038m/ネパール)登頂。

2010年11月8日 - チュルー南東峰(6,429m/ネパール)登頂。

2011年5月20日 - ローツェ(8,516m/ネパール)登頂[8]。

著書

雨宮節・宮下正次・近藤和美著「記録 魅惑の氷壁」(1979/8,ユニ出版)

小宮昌平・近藤和美編「山 生きる・学ぶ・探る」(1986/2,大月書店) ISBN 978-4272610051

近藤和美調査執筆「谷川岳・苗場山・武尊岳 1994 山と高原地図28」(1994/1,昭文社)

近藤和美調査執筆「谷川岳・苗場山・武尊山 1996 山と高原地図28」(1996/1,昭文社) ISBN 978-4398750280

近藤和美著「冬山」(1996/12,山と渓谷社) ISBN 978-4635041805

近藤和美調査執筆「谷川岳・苗場山・武尊山 2001 山と高原地図16」(2001/1,昭文社) ISBN 978-4398752284

近藤和美調査執筆「谷川岳・苗場山・武尊山 2004 山と高原地図16」(2004/9,昭文社) ISBN 978-4398754165

近藤和美・高橋修調査執筆「谷川岳・苗場山・武尊山 2006 山と高原地図16」(2006/1,昭文社) ISBN 978-4398754165


高本信子さんのこと

以下 日本山岳会のページから拝借


https://jac1.or.jp/images/media/rokusoukai/ryokuso-No161.pdf


~《寄稿/投稿》~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

私が敬愛する長老(その5)

関塚 貞亨

敬愛する長老たちは、ある方から『山岳』に投稿して広く会員に読んでもらうように提案があっ

て、33人を書いたのだが、長すぎるという指摘もあり5人を削り、28人を『山岳』に投稿した。

採用されれば『山岳』に載るので、削減した5人を緑爽会の会報に掲載してもらうことにしまし(村

山雅美氏は160号に掲載済みにつき今号では4人)


山岳会の佳人

◎高本信子(1941年~1992年)

私が入会したときの推薦者は折井健一さんで、山研委員長をしていたので私も委員になった。そ

の時の担当理事が高本さんだった。山岳会に入って初めて晩餐会に出たときに山姥のような人は一

人もいなくて、友禅の訪問着やサリー姿の婦人方がみな優雅な人たちだったのには驚いた記憶があ

るが、初めて身近に接した高本さんも優雅な佳人で雑誌「岩と雪」の編集をしている方だと他の人

から聞いた。

山研の理事を二年で務められた後は婦人懇談会の担当理事になり、印度ケダルナートのドーム登

頂計画の隊長なった。女子の登攀隊の中にはサミッターがサポートした隊員への感謝を忘れて反感

を買い、ばらばらになって解散する隊の例も知っているが、高本さんの隊は皆仲良しで帰国後も交

際が続いた。不幸にもインドに旅行中、乗用車に大きな岩が直撃して亡くなられた。『山岳』第8

8年に追悼記を書いた大久保晴美さんも2018年に亡くなられた。

ドームに遠征する前に私の描いた霞沢岳の絵を気に入って所望され、高本さんからは、これから

登るドームの額入りの写真を頂いた。亡くなられた後、私は音痴だが琵琶湖周航の歌の一節「仏の

み手に抱かれて…」を歌いご冥福を祈った。

1.09.2022

北八ヶ岳縞枯山 初めて登った

 諏訪のスキートリップ 3


2022年1月5日
member 伊藤フミヒロ記


instagramに載せたパナグラム作品4点

1月5日 水曜日 晴れ
この日は寒いです。ホテル前の朝の気温はマイナス12度ほど。ビーナスラインでスズラン峠を越えて蓼科方面に下ります。雪道ですが凍結はありません。
9時半のピラタスロープウエーで山頂駅(坪庭2232m)に上がります。
ロープウエー山頂駅から横岳
         

これが縞枯れ山
         
好天で樹氷がきれい。スキーを担いで少し登った先から縞枯山荘前まで滑り込みます。そこからシールをつけて雨池峠は10分ほど。
ここが北八ツの主稜線上で、縞枯山へは一直線の上りになります。後半はモーレツな急登。ですが、しっかり踏み跡があってたどるのはラクラクです。途中でスキーはデポ。


山頂(2403m)は細く長く平らで、10分ほど進むと展望台にでます。素晴らしい景色が開けます。
向かいに茶臼山が間近か、麦草ヒュッテが見えます。その向こうは八ヶ岳南部の山。縞枯れ山に登ったので八ヶ岳のピークはほとんど立ったことになると思います。

下りは早い、往路を戻って、スキー場を滑って下り、13時終了。縞枯山方面で出会ったのは数人でした、
中央道は空いていて夕方に東京に戻りました。

雨池峠

縞枯山荘

冷えてますが無風快晴



1.08.2022

霧ヶ峰周回スキー

諏訪のスキートリップ 2

2022年1月4日
member 伊藤フミヒロ記

1月4日 火曜日 晴れくもり
インスタグラム掲載のパノラグラム作品2点

なつかしい沢渡スキー場

車山乗越目ざして帰る



諏訪湖畔、朝の気温は0度と暖かすぎます。上川沿いの通勤バイパスを走り、茅野からビーナスラインで車山スキー場へ。白樺湖から上は雪道です。

リフト3回分の券を買って、1本あしならし。もう一度スキー場トップ(車山山頂1925m)に上がります。11時半、車山北面を車山肩へトラバース。ここは雪崩もあるところ、小さな谷も入っているので下り過ぎはだめ。あたりにだれもいません。

ルートを選べば車山肩までらくらく滑り込めます。廃屋のような肩の小屋があって陰でひとやすみ(NAS肩の小屋とあっていっときはスポーツクラブが持っていたらしい、写真撮影のポイントです)。
車山北面を滑る

車山の肩から八島湿原方面

肩の小ピークは旧沢渡スキー場のトップで好斜面が広がりますが、だれもいません。シュプールもなし。快適なパウダースキーイングでゲレンデ食堂(1650m)まで滑ることができました。あたり人気はありませんが、以前はリフトがあってそれなりににぎやかなところでした。

12時、近くのヒュッテジャベルにトラバース。建物は昔のままですがやっていないよう。でも人は住んでいる模様です。
ここからシールをつけて車山乗越(1830m)まで登り返します。ムダに登らないように斜に進みますが、ラッセルもあって疲れました。

1時間以上かかって車山乗越、車山スキー場のサイドを滑って14時30分に終了。スキー場サイドにもパウダーラインがあり楽しめました。

毎度の白樺湖畔パイプのけむりにイン。このホテルは快適です。

車山肩にある山小屋

旧沢渡スキー場

ヒュッテジャベル

車山乗越に戻ってきた
omake 
このあたり3つの宿の因縁

●車山の肩の小屋のこと

蓼科の「カフェ 午後の森」blogから

Unknown (@てっけん)
2020-07-03 14:06:48
霧ケ峰のNAS肩の小屋、今から30年ちょっと前だと思いますが宿泊しました。
当時私は小学生で、スポーツクラブNASのスイミング教室に通っており、そのキャンプイベントでした。
基本は麓にあったシャレーNASというペンション風宿舎に泊まり、数組に分かれて夜にNAS肩の小屋に泊まりに行きました。
中略
懐かしいです。

2020-07-03 21:34:45
@てっけんさん、すごいコメントをいただきましてありがとうございます。今でも写真のモデルのように霧ヶ峰の草原に貴婦人のように立つNAS肩の小屋。時空を超えたような彼女の物語を聞かせていただいて感激です。昨日もコバイケイソウ咲く草原に立つ彼女の写真を撮ってきたところです。内幸町の銀行の所有になった話は、ころぼっくるひゅって創設者の手塚宗求さんから聞きました。
肩の小屋

●それから、ヒュッテジャベルはまだ営業している!

いまはコロナで休業らしい。風雪に耐えた建物は紀念物かも、、、。
ここは高橋達郎さんというおじさんが有名でした。霧ヶ峰や入笠山にある古いロマンチックな山小屋はここの後輩にあたるとか。文章を書いたり絵を描いたり、音楽好きの人でもあって…。30年くらいまえに泊まったことがありました。部屋はいまでも狭い和室みたい。そのころ沢渡スキー場も健在だった。
ホームページおもしろい。酒飲みには不向きみたい、残念。(いときしゃのコメント)。
http://www.javelle-kirigamine.com/



●それから、ホテルハイジ休館について。

蓼科の「カフェ 午後の森」blogから

蓼科湖近くの東伏見宮家経営のホテルハイジが取り壊され、
別のホテルができることを知り、
ロビーの暖炉の重厚なたたずまいと
夜の食事にご当主が、「あるじです」とご挨拶に来られたのを懐かしく思い出す。

ハイジのツイッターから

@Hotel_Heidi
ホテルハイジは閉館いたしました。
長年お見守りくださった皆様に心より感謝申し上げます。
この度、ホテルハイジは『Hotel de L'Alpage』として生まれ変わる運びとなりましたのでご報告させていただきます。
FacebookやInstagramにて最新の情報を発信しておりますので宜しければチェックしてみて下さ
長野県茅野市蓼科高原1-1

はー、宮家の末裔とは知らなかった。たしか洋食夕飯のとき、オーナーが挨拶にいらして、あるじでございます、と言ったかとおもう。もともと敷地は宮家の別荘だったよう。(いときしゃコメント)