3.30.2012

天神山列状火口見学


天神山イガドノ山列状火口
2012年3月29日 晴れ
member 太郎 伊藤フミヒロ記
イガドノ山山頂

トラックは青から赤へ時系列に色合いが変わっていく

天気がよいので太郎の散歩もかねて出かける。2週間前の続きで富士北西麓火口銀座へ。ふじてんスキー場に1時ころ到着。
こないだはスキーで動き回ったが、あたりはまばらな残雪なんで今日は歩き。スキー場もリフトが1本動いているだけのようだ。靴だけはテレマークブーツ。

奥の駐車場から鳴沢林道に出る。歩いてすぐ、左に上がる仕事道に出合う、ので入ってみる。しばらく行くと天神山にかかるリフト下に出る。天神山に登るのが第一関門なので搬器が外されたリフト下の雪斜面を上がる。
天神山山頂下リフト小屋から

リフトトップの小屋の裏が天神山の山頂。セーノで上がってみるが一面のクマザサの藪。見当つけてケモノ道伝いに藪を行く。太郎の背丈だと歩きやすいようだが、ヒトは大変。50mほど南に下ったところで急に前が開けて、とび降りるようにして切り開きに出ることができた。右から左へしっかりした道が延びていて、使われていないようだが仕事道のようだ。ジムニーなら走れるかも。こんな道があるとは! 今日の探索は楽勝だね、と一服。
206火口

220火口

仕事道の下の方に大きくて深い窪みが見下ろせた。これは今日の第一目標、天神山の火口だろう。火口を回り込むように下る細道を見つけてラクラク火口底に降りることができた。双子の火口で深い方は雪に埋もれている。206が雪のない浅い火口。220が雪の溜まった深い火口。206は焚き火でもしてキャンプしたい雰囲気。220は日本庭園のような風情と品がある。
220火口底を検分する太郎

あたりはカラマツの植林地帯。火口をいちおう検分してから縁に戻り、さきほどの細道をさらに先に行ってみる。精進口登山道に続いているのかもしれない。
仕事道に引き返してイガドノ山の方角に進んでみる。ひょとしてこの道はイガドノ山山頂まで続いていて、このあいだ歩いた道と同じなのかもしれない。ところどころ残雪があってラクに登っていくことができる。
315火口

315火口は細長くて傾斜のある火口だった。火口付近の残雪は堅くて氷状のところもあった。このあたり雪がないとどうだろう。積雪期の方が藪が埋もれて歩きやすいのは間違いないだろう。

仕事道が急になってササ藪に覆われてくる。がまんで登っていくとイガドノ山の直下に出ることができた。やはり、ここはこないだ反対側から登ってきたところ。イガドノ山山頂に上がってみる。ふじてんスキー場のいちばん高いところ。こないだ動いていたリフトは搬器が外され雪の斜面が広がっているだけ。レーザプロファイラ写真にあったミニ火口(369火口)が気になったのでゲレンデとは反対側の藪をかき分けてみる。虎ロープが巻きつけられた木があってそこからかんたんに小さな火口に下りることができた。雪と倒木に埋もれた可愛い火口だった。縁に登り返すとこないだ見たイガドノ山の大きな双子火口を見下ろすことができた。
ミニ火口の369


イガドノ山頂から仕事道に戻る。真下に大きな350火口が見える。深い谷のように見えるが2段になった列状火口。火口に行くのはたいへんかなと迷ったが、藪の薄いところがあってかんたんに下ることができた。火口列のなかでいちばん大きなものかもしれない。火口縁の低いところを登りかえすとすぐ仕事道にでることができた。登りでがまんしたササ藪もクリアできたわけだ。
350火口、大きすぎて写真に収まらない

登ってきたとおりに下る。このまま行けばきっと鳴沢林道に出るはず。ハナ歌交じりで下っていくと、左手に浅い沢状が現れてくる。火口1で火口谷のようだ。
造林林をたらたらと下っていくと、空き缶やビンがまとめられている小広場にでる。キャンプした後ていねいにゴミをまとめて置いていったようだ。100mも歩かずに鳴沢林道に出る。002ポイント。
駐車場に戻り5時終了。彼岸を過ぎて日が長くなった。
右の仕事道を快適に下っていくと左手にkako1が現れる

kako1を下から見上げる。浅い沢にしか見えないかも

ふじてんスキー場にお邪魔することなく、仕事道を利用すれば列状火口のほとんどを見ることができるようだ。ハイキング気分で楽しめる遊歩道。今回もだれにも会わなかった。
赤がこのあいだのトラック。青が今回のおよそ
富士山を知る見るハイキングガイド伊藤フミヒロ

小山真人博士の研究
富士山延暦噴火についてのまとめ
小山(1998)噴火堆積物と古記録からみた延暦十九~二十一年(800~802)富士山噴火―古代東海道は富士山の北麓を通っていたか―(火山,43,349-371)からの抜粋.
富士火山の延暦噴火について,噴火堆積物と古記録両面からの検討をおこない,その規模や様相の解明をこころみた.また,延暦噴火による古代東海道の変遷問題について議論した.得られた知見を以下に述べる.
1.北東斜面に西小富士噴火割れ目をみいだし,そこを起源とするSb-aテフラの分布を明らかにした.富士山北東麓を広くおおう鷹丸尾溶岩と檜丸尾第2溶岩は,西小富士噴火割れ目を流出源とするように見える.西小富士噴火割れ目は延暦二十一年(802)の噴火記録に対応すると考えられる.また,北西斜面の天神山―伊賀殿山噴火割れ目も,延暦噴火の際の火口である可能性がつよい.
2.「宮下文書」の延暦噴火記事には,明らかな地質学的誤りや大幅な誇張があるが,地質学的事実と矛盾しない部分もある.注意を要する史料ではあるが,少なくともその噴火・古地理記事にかんしては口碑伝承や消滅文書中にあった真実の断片を拾っている箇所があると考えられるため,今後もその内容を検討する価値があると考える.
3.延暦噴火前の東海道が富士山の北麓を通っていたとする「宮下文書」の記事は,噴火堆積物の分布や古地理から判断すれば,むしろ自然である.しかし,歴史地理学的側面から考えると,北麓通過説には不利な点が多い.おそらく古代東海道は延暦噴火前も富士山南麓にあって,延暦噴火時に降灰やラハールの被害が出た御殿場付近の街道の使用を,被害の拡大を恐れて一時的に停止したというのが真相であろう.

火山学・自然地理学・歴史地理学のいずれの見地からみても大きな矛盾なく古代東海道の移設問題を説明する仮説として,以下のものを考えた.
もともと古代東海道の主道は,従来の歴史地理学的な常識の通り,富士山南麓から東麓を通過していた.また,御殿場付近から分岐して甲斐国府に向かう街道が,延暦噴火前には山中湖西岸を通っていた.この山中湖西岸の街道は,延暦噴火によって鷹丸尾溶岩・檜丸尾第2溶岩の下に埋もれてしまった.また,東海道の支道として利用されていた街道が富士山西麓をまわって〓{戈+戈+りっとう}ノ湖のわきを通り,北麓に通じていた.この支道が,やはり延暦噴火の際に天神山―伊賀殿山噴火割れ目から流出した溶岩流に埋もれてしまった.そして,東海道の主道が通っていた御殿場付近にもSb-aのスコリアが薄く降り積もった.また,大雨によって火砕物が洗い出され,ラハールが御殿場付近の谷筋を頻繁に襲ったかもしれない.
先に述べたように古代の駅路は緊急連絡用の道路であったから,少しでも交通の安全に問題があれば経路を変更する必要があったであろう.延暦噴火は,甲斐国へ至る街道を不通にさせ,さらには相模国への重要分岐点にあたる御殿場付近にも脅威を与え始めたのである.甲斐国府へは東山道を経るという手段があるが,相模国への経路に対しては何らかの手を打つ必要が生じた.
つまり,『日本紀略』の問題の記述「廃相模国足柄路,開筥荷途,以富士焼碎石塞道也」は,相模国に至る主街道ぞいの被害がさらに広がることを恐れて,降灰やラハールの被害が出始めた御殿場付近の街道の使用を一時的に停止した(そして,噴火が止んだのを見て,翌年復旧させた)とみるのが自然ではなかろうか.この場合,箱根越えの道についても,すでに存在していた支道を転用した可能性がつよいだろう.
すでに見てきたように,「宮下文書」の記述には,地質学的事実として認められる事件の伝承を拾ったと思われる部分もあるが,大幅な誇張や明らかな誤りもふくまれている.よって,東海道の経路や変遷を語る部分にも誇張があるとみるのが自然である.「宮下文書」中の延暦噴火による富士山北麓の東海道の被災記事は,御殿場付近から甲斐国府に至っていた街道や富士山北西麓を通っていた支道の被災の伝承を,大幅に誇張して伝えているのであろう.