2.23.2017

富士山ろくのスキー(お宝写真みっけ)

富士山ろくのスキー
古い写真発見


2017年2月22日
member yume kei taro、伊藤記

2月22日
yumeちゃん(6歳)と2日目、2回目のスキー。富士山ろくのイエッティへ行く。ゲレンデは0℃くらいの陽気でときどき雪が舞う。
足慣らしのあとリフトに乗って5~6回滑る。スピード上達で昼過ぎには一人で上から下まで失敗なしで滑りおりることができるようになった。リフトが1000mほどだから5~6㎞滑ったことになる。リフトに乗るのは初めてだったが手をつなぐだけで上手に乗り降りできた。

レストランのカベに古い写真が展示されていて、今は、バックカントリーエリアとなっている(なにもない)太郎坊の御殿場スキー場、そのかつての様子を知ることができた。

展示のタイトルは、日本スキー発祥の地。太郎坊でオーストリアのクラッセルが初スキーしたのは1910年のこと。太郎坊とイエッティスキー場は富士山中腹とはいえ、4~5㎞離れていて別の場所だが、富士山のスキーエリアということではいっしょと言えるかもしれない。太郎坊のゲレンデは宝永山の噴火のスコリア砂漠帯を利用した天恵のもの、クラッセルの日本初スキーの地の記念碑は大石茶屋の下、バス停の脇にあるが、イエッティにも似たようなものが立てられていて苦笑。
昭和初期の太郎坊のスキー場

往事の太郎坊のスキーヤー

富士山御殿場口登山道の旧1合目あたりが太郎坊。
御殿場市営スキー場のリフトが記載された古い地理院地図
太郎坊のスキー場写真は、昭和初期のモノクロのものと昭和61年のカラーものがあった。

モノクロの写真には、往年の装備をしたスキーヤーや歩いて登る様子、馬そり、ゲレンデ食堂や宿などが見られる。
当時、太郎坊までのバスがあるわけもなく、スキーヤーは御殿場から歩いてやってきたのだろう。日帰りではきついからここの山小屋を利用した人も多いはず。それにしても、道楽ものの遊びとはいえ昔の人の「スキーしたい熱」は今をしのぐものがあるように思える。

当時、旧東海道線御殿場駅から陸上自衛隊基地のある滝が原までは6㎞ほど、なんらかの公共交通機関があったかもしれない。なんといっても滝が原は明治時代からの日本陸軍の基地、今は進駐軍(アメリカ海兵隊)のCAMP FUJIと道をはさんで向かいあっている(西丸震哉氏は学生時代にここで軍事訓練を受けたそう)。

滝が原からは旧御殿場口登山道を歩いて太郎坊までは、7kmほど。そのころのスキーヤーは汽車で御殿場駅まで来て、駅から13km、3~4時間かけて平気で太郎坊にやってきたのだろう。昔の積雪期富士登山の定石ルートでもあったはず。
御殿場市営スキー場昭和61年。ゲレンデだった場所がよくわかる。
静岡県民に限らずなつかしーと思うヒトは多いはず

カラーの写真は御殿場市営スキー場として開設されたころのもので、にぎやかなゲレンデ風景とリフトの大行列がわかる。御殿場市営スキー場は1975年の開設で、双子山(二つ塚)の斜面にリフト1本とロープトウなどがあった。
当時は、今の大石茶屋あたりがゲレンデ食堂になっていたらしい。いつだったか双子山(二つ塚)スキーのときに中腹でリフト跡のコンクリートのカケラを見つけたことがあった。

御殿場市営スキー場は雪不足のことが多く、雪崩に何度か襲われたこともあって1990年に閉鎖されたという。太郎坊の上の御殿場登山口バス終点の大駐車場はそのころの名残りだろう。雪崩は富士山特有の液状雪崩(スラッシュ雪崩、雪代とも)で、御殿場市営スキー場はその通り道にあったようだ。
登山史に残る1972年3月の富士山大量遭難はまさにこの御殿場登山道沿いで起きていて20数人の死者のうち半数ほどが雪崩によるものだったという。数年前、山スキーの折りに偶然、新田次郎の碑文が印されたその遭難碑を見つけたことがある。今でも探せば見つかるはず、あるいはブッシュに埋もれているか。
ちなみに、
富士山スカイラインの御殿場登山口入口にあるトンネルは雪崩シェードで、スラッシュ雪崩の通り道に作られたもの。

はなしのついでに、
太郎坊というのは、大天狗の名前のはず。富士山スカイラインから御殿場登山口へ少し入ったところの地名、もとは神社や山小屋があったのだろう。ちなみに次郎坊という地名が御殿場口登山道の大石茶屋の先にある。太郎坊は富士山レーダーを建てるときに基地となったところで、その後も測候所の補給基地として機能していた。いまでも廃屋がそのあたりに残っている。近くには、往年の英国航空機墜落の慰霊碑もある。

してみると、太郎坊のあたりは、天狗の住み家、富士山登山口、日本スキー発祥の地、旧御殿場スキー場、雪崩遭難、飛行機の落ちたところ、、、などがあって、ちょっとした名所と言えるのではないか。

さてイエッティスキー場のこの日。午後、ほどほどのところでスキーを切り上げて山を下ることにする。御殿場まで下ると日が射してきた。山北のサクラの湯と鉄道公園に寄ってひとやすみしてから、帰京。

こどもの上達はすごい。
リフトに乗れるようになればあとはうまくなる一方

御殿場線山北駅前の鉄道公園、サクラの湯のとなり。
これが旧東海道線の山道をお助け丸で引っ張っていたという。
動態保存されていてときどき走る!
丹那トンネルの開通で新東海道線が熱海経由に変わったのは昭和9年だという。
それまで山北駅は東海道線の最難関区間の機関区として重要な基地だった、とウイキぺでぃあ

雑談1
イエッティスキー場は2001年からの呼称でそれ以前は日本ランドスキー場と言った。日本ランドHOWスキー場という名称もあった富士急行の系列。1971年のオープンで、そういえばskier誌などで取材していた覚えがある。日本でいちばんオープンするのが早い人工雪のスキー場、というのがウリで10月中旬から滑ることができる。


寄生火山の真ん中にある日本ランド(古い地理院地図)
イエッティスキー場よりもやや南側にリフト(ゲレンデ)があったようだ

日本ランドという名が消えている(最新の地理院地図)


雑談2 2024年7月追加

話が長くなりますが、英国海外航空(Boac)機が富士山上空で空中分解、南面の太郎坊あたりに墜落したのはそれほど昔の話ではないです(1966年、やはり昔か)。以下ウイキ。

英国海外航空機空中分解事故は、1966年(昭和41年)3月5日に英国海外航空(BOAC、現ブリティッシュ・エアウェイズ)のボーイング707型機が富士山付近の上空で乱気流に巻き込まれ空中分解し墜落した航空事故である。

この1966年は日本では飛行機事故があいついだ年だそうで、以下ウイキからのデータばかりで恐縮です。

全日空羽田沖墜落事故 - 羽田沖、2月4日。
カナダ太平洋航空機墜落事故 - 羽田空港、3月4日。
BOAC機墜落事故 - 富士山麓、3月5日。
日本航空羽田空港墜落事故 - 羽田空港、8月26日。
全日空松山沖墜落事故 - 松山沖、11月13日。

もうひとつ羽田でおきた有名な墜落事故があります。これは記憶に残っています。精神病の機長が起こした逆噴射事件でこれは1982年のことで昔というよりもこないだのことです。以下以下ウイキ。

日本航空350便墜落事故(は、1982年(昭和57年)2月9日(火曜日)に日本航空のダグラス DC-8-61型機が羽田空港沖に墜落した航空事故である。350便は福岡空港発・東京国際空港行定期便で、乗員乗客174人中24人が死亡、149人が負傷した。
「日航羽田沖墜落事故 [2]」・「日航逆噴射事故[3]」などと呼ばれている。

羽田発の日航ジャンボ機123便の墜落事故は1985年です。これは日本中が驚きました。以下ウイキ。いまでも日航では350便と123便は欠番となっているらしいです。

日本航空123便墜落事故は、1985年(昭和60年)8月12日(月曜日)、日本航空123便(ボーイング747SR-100型機)が操縦不能に陥り、群馬県多野郡上野村の高天原山山中ヘ墜落した航空事故。日航ジャンボ機墜落事故とも言われる。
520人の死者を出し、日本の民間航空史上最悪の事故であると共に、単独機としては世界最悪の航空事故となっている。

今年(2024年正月)羽田で起きた日航機と海上保安庁機との衝突事故は、海上保安庁機は被災者がでたものの日航機は奇跡的に全員脱出というドラマチックな展開で世界的な話題になりました。全焼直前ぎりぎりセーフ、あぶなかったです。
以下ウイキ
羽田空港地上衝突事故は、2024年(令和6年)1月2日、羽田空港に着陸した日本航空(JAL)516便と、離陸のため待機していた海上保安庁(海保)の航空機が滑走路上で衝突した航空事故である。日本国内においては2009年のフェデックス80便着陸失敗事故以来、およそ15年2ヶ月、日本航空においては1985年の日本航空123便墜落事故以来、およそ38年5ヶ月ぶりの機体全損事故となる。また、日本航空側には死傷者は出ていないものの、海保側は死者を出しており、日本航空が死亡事故に関わったのも、1985年の日本航空123便墜落事故以来である。